zinstaの真実・虚実・史実・事実

平和を考え伝えるという観点から、聞いた話、知られざる戦争の話を書きます。
Fさんの話し。(とてもやさしい先生でした。個人情報のため、詳細は割愛)
 昭和16年(1941)12月8日の開戦後まもなく当時アメリカの植民地下であったフィリピンに上陸した。(多分12月22日・フィリピンリンガエン湾・部隊は第48師団/第47連隊?)初めての戦争だった。当時その頃のベテランは日中戦争も多少経験していたが、初陣だった。上陸用舟艇の中ではとてつもなく緊張していた。もちろん死は覚悟の上だが聞くと見るとでは当然大違い。実弾の通る音がする。
 まもなく浜辺に取りついて、船から飛び出した。しかし、遮蔽物が何もない。砂浜に伏せるしかなかった。なんとそこはアメリカ兵の銃座の近くで、こちらに向け発砲している兵が目にとれて分かる距離だった。分隊長は突撃命令。そうするしか他に手段はなさそうに思えた。正直「もう死ぬのか。」と思ったが、隊長は自分に対する命令で敵を狙えという。そんなに狙撃は上手い方ではないが、丁度見える格好の位置だったのでたまたまそうなったのだ。
 銃を構え、敵兵に照準を合せると知らないせいか、妙に落ち着いてしまった。そして立て続けに撃った。といっても歩兵三八銃では撃鉄も一回一回起こすので、連射という意味ではない。すると敵兵が二人ほど倒れた。いや、少なくともそう見えた。一人は肩近くに当たったように見えた。自分ののが当たったのだろうか?辺りに発砲している兵はいなかったので、多分そうだろう。それを契機に突撃が始まり、陣地は占領された。といっても自分の部隊は別方向に行ったので、その様子を見ることは無かったが、倒れた兵士のことは気になって仕方がなかった。
 死んだのだろうか?殺したのだろうか?兵隊になった以上、そういったことは当たり前だし、鬼畜米英の教育を受けたとはいえ、何か胸を締めつけるものを感じた。はっきりと敵兵を間近に見たのも、敵に銃を撃ったのも後にも先にもこれが一回きりだった。その後はジャングルの中での戦闘が主だったが、はっきり敵兵を見たことはない。
 当時のフィリピンの総司令官だったマッカーサーがを島から撤退する時に「I shall return」と言った言葉は有名だが、それが実行に移された時から、後は山中を逃げ回るだけだった。

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父の戦争-原爆3

 司令部に行くと、その後、広島から次々に情報が入って来ていた。壊滅状態らしい。一般の兵隊はその頃はまだ「何が起きたんだ?」と言っていたが、父ら関係者は「新型爆弾、原子爆弾だな。いよいよ使ったか。」と青ざめた顔で諦めにも似た心境に陥っていた。しばらくすると一般にも新型爆弾だという認識は拡がったみたいだが、そういった情報は漏れたのか、いやあれほどの破壊力が伝わるうちに自然とそうなったと言った方が近いかも知れない。
 潜水学校からも救援隊が何艘も海路広島に向かっていった。父は留守隊だったらしく、幸か不幸か放射能を少ししか浴びなかったと言う。大竹は広島からさほど遠く離れていない。だから当然の如く、全く影響は無かったとは言い切れない。しかし、当時風は西から東へと吹いていた。従って放射能の影響は西より東側が大きかったのではないかと思う。ただ、父や母は「お前が病気になったのもその影響かも知れない。」と言っていたが、それは万にひとつもないと私は断言できる。自分の病気のことは、原因や症状・後遺症など徹底的に調べ上げたので、下手な医者より詳しいと自負している。もちろん原爆の影響を擁護している訳でも何でもない。事実誤認はあってはならないことなので。
 話、飛んじゃったが、被害者達が連れて来られたその惨状はここに書くまでもないことだろう。母も近くの小学校に避難してきた被害者の人たちを目の当たりにしたみたいだが、それはそれは筆舌に尽くしがたいl惨憺たる状況でずっと頭から離れないと言っていた。
 別の話だが、私が小学校の頃は施設に入っていたが、そこでの遠足の時の話し。同行した父が同じ父兄の方と話しをしていた。奇遇な話しで、その原爆の日、同じ潜水学校のその方もおられて(一度も会わなかったらしい)、その救援隊に参加されたそうだ、くしくも下の名前も同じ「清太郎」だった。その方の話によると、その悲惨さはこの世の地獄だった、建物は全て無くなり、港には川から流れてきた者も含め、無数の死者、生き残りもまじり漂っていて、阿鼻叫喚の様だった。その中から生き残りの方達を潜水艦に引き上げ、一杯になったら大竹へと繰り返し搬送したそうだ。その方はさすがに放射能の影響を受け、その施設の頃の時点でかなり体調は思わしくなかったらしい。
 言わずと知れた、この人類最初の馬鹿げた仕業。それでもそれを繰り返そうとしている。金の生まれるところに群がる族には何ともないことだろうな。人の手で止められない、愚かな物を今も動かそうとしている・・

 取りあえす、父の話はここで終りしておこう。思いだすことがあったらまた書くことにします。

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父の戦争-原爆-2

 それは8月6日の朝・・・・父の話し
 その日は朝から潜水学校の教室で教鞭をとっていた。1時間目が始まったばかりだった。天気は良かった。が、突然、窓に閃光が走った。まさにフラッシュを何百個も焚いた感じで一瞬目がくらんで見えなくなった。顔を覆ってしばらくしてかすかに見えるようになると、生徒も同じように顔を覆って抱え込むようにしているのが見て取れた。何事か爆弾か?でも音もしない。みな、ざわついているので落ち着かせ、取りあえず体制をかがめさせ待機するように指示した。そしてその瞬間、ド〜ンという長い音とともに窓がバリバリと激しく揺れた。やはり何かの爆発だ。でも光と音との時間差がありすぎる、近くではない。しかし、あの光の凄さはなんだ。
 程なく空襲警報が鳴りだした。「防空壕へ退避!」と命令し教室を出た。校庭をしんがりで駆けていると、東の空にでっかいキノコ雲が上がっていた。やはり何かの大爆発だ。でも何だろう?呉の軍港の火薬庫か何か爆発したか?そんなことはない。何故か、それは爆発音が断続的ではないからだ。火薬庫だと次々に爆発が起きる。見ているキノコ雲は一発の大爆発だ。そんなでかい爆発?・・・・
 頭にふとよぎった。えっ、まさかあの・・原子爆弾。ついにアメリカが先にやったか。これはもう負けだな・・・・

 父は防空壕にも入らず、ただ、キノコ雲をぼう然と見ているだけだった。父は知っていた。原子爆弾の事を。一応の最先端の技術を勉強し、実践していた父は、半年ほど前に秘密裏に行われた会議に出ていた。父は士官学校も出ていないので、一般軍人の最高位である准士官(少尉の下)だったが、潜水学校の部隊の数人の中に技術員として、特別に呼ばれていた。その中で語られた事、それは原子爆弾の存在だった。日本でも研究され、アメリカはすでに開発実践段階に入っているということを。そしてその爆弾は一都市を壊滅させるほどの威力もあるということも。もちろん箝口令は敷かれ、同僚にも話す事はなかったらしいが、背筋が凍る思いがしたらしい。
 原子理論は少しはかじる程度で見ていたらしいが、そこで現実的になっていたとは想像もしなかっただろう。どっちが先だろうが、もしもそれが完成し実行・・とのその時の疑念も、そのキノコ雲ではっきりとした現実になってしまったのだ。・・・

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父の戦争-原爆-1

 父は終戦の年は広島の大竹にいた。その時は母と結婚し、すでに2月に生まれた長男(私の7歳離れた兄)も一緒に下宿していたらしい。母との結婚は昭和19年で新婚生活は佐世保で、そしてその後、技術畑の父は大竹の潜水学校に配属されていたので一緒に大竹に行ったのです。魚雷に関する教員になっていて、専門技術を教える立場になっていた。終戦まで命を永らえた事は技術員としての腕を買われ、内地にいられた事もあったと父は良く口にしていた。もちろんある意味不謹慎な言い方かもしれないとも言っていたが・・
 ここで、大竹で一緒に生活していた母の逸話を少し。父は海軍で食べた料理の事をしきりに話していた。今も良く話題に登る「海軍カレー」、田舎者にとってはハイカラな食べ物、気に入るのも無理は無い。今は亡き母が作ったカレーもポテトサラダも私は好きだったが、父はその両方とも好物であっても母の作ったものは満足はしていなかった。よほど海軍のものは上手かったのか、母にしては残念な事だが。しかし母の手作りのそばだけはしきりに褒めて何杯も食べていたのから、それで母は救われてはいたのだろう。父はその他に「ナマコ」も大好物のひとつだったらしく、帰ってきてはその話をしていたが、母はその「ナマコ」の姿すら見ては無かった、父ももちろん現物は見ていなかった。ある時、隣に住んでいた漁師のおじさんが父のナマコ好きを知っていて、バケツに入れて2〜3匹ほど持って来たらしい。母はそれを見るやその容貌にびっくりし、すぐにお釜のフタをした。そのおじさんは笑いながら「初めて見たんかいの。そりゃ驚ろくはのう。でもだんなさん、好きなんやろうから自分でこさえる事はできるやろう。」と言って帰っていった。さて、父は帰って来て、その話を聞き「俺も知らんよ。どれどれ見せてみろ。」そういってフタを取った瞬間、父は飛び上がるほどビックリし、すぐにフタをして気持ち悪がったらしい。以来、ナマコは父の好物より消え、姿や言葉さえどこかに消し去ったみたい。その話は後年の笑い話だ。私は大学の時、「ナマコ酢」とやらを下宿で初めて食べたが、容貌にふさわしくないほど美味に思えたのだが。ただ、好物ではない。
 話を戦中に戻して、ここからは父の話し。教員としての仕事はもちろん座学がほとんどだが、ある時は訓練用の潜水艦などで艦長もどきのこともしていて、気分は良かった。命令ひとつで艦を操ることは、やはり海軍軍人としては誇りだった。連日の空襲の合間を抜いてはそういった訓練も行われていた。いよいよ戦争もただならぬ状況にはなっていて、特攻の作戦もその頃伝えられ、感覚のない覚悟も決めさせられていた・・・

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 父の話し続き・・・
 甲板には。艦長(司令官)以下、上士官(参謀も含む?)4名ほど。父と同僚1名。そして件の5名の二十歳前後の若き予科練?兵。何が始まるのか。その兵たちの顔を見るとただならぬ雰囲気は十分伝わってくる。自分らもすごく緊張していた。
 艦長の話が始まった。その骨子は「今、日本は存亡の危機に瀕している。それを救うのは君たちだ。日本国民全員のために一命を賭して尽くして欲しい。それは決して無駄にはならない。子々孫々まで伝え残るであろう。・・・」とどこかで聞いたようなこういう時の決まり文句。彼らは人間魚雷に乗る特攻隊員だったのだ。しかし、異様な雰囲気とはいえ、その時はまったく予想だにしなかった艦長のことば。実際に目の前で聞くと、背中に冷たいものが流れた。体も本当に固まってしまった。艦長の話はまだ続いていたが、その兵たちの表情は生気を完全に失っていた。時節は初夏の頃、寒くもないのに唇は紫色になり、体は小刻みに震えているようにみえた。
 それはそうであろう。父はその時すでに30歳、軍人歴も長くベテランの領域に入っている。ある意味死への覚悟はできているし、実際そういう目にもあってきている。それでも死への恐怖は持っている。彼らはどう見ても二十歳前後、いかに自分から志願した事とはいえ、実際にその覚悟を改めて聞かされると現実味が増してきて、恐怖におののくのは無理からぬ事である。しかも、志願といってもそうせざるを得ない状況に追い込まれているのだ。また、その当時の若者は戦闘機乗りを一番に目指しているのに、秘匿された作戦とはいえ、まさか密室の魚雷の中で操縦をし、身体ごと体当たりするとは思ってもいなかったことだろう。そこには戦争の格好良さなど無い。彼らの心情を思いやると涙がこぼれそうになり、それを堪えるのも彼らに対する礼儀だと自分に言い聞かせながら、時間が経つのを待っていた。同情とはいえない、現実を目の当たりにして別な意味でまさに戦争の残酷さを思い知らされたのだ。
 最後に彼らは司令官より別れの杯を受け、帰っていったが、氷のように直立不動で敬礼をしたまま見送る自分たちは、その無力さやむなしさをいやというほど感じた。
 実際には、彼らはここから各部隊に行き、潜水艦に乗って戦闘区域に行き出撃するのだが、肝心な命令伝達はこういった司令船で行われるのが常だった。それ以来、そんなシーンに出くわしたした事は無いが、その日のことを自分に納得させるのに随分時間もかかり、結局、無感覚にならざるを得ない状況に知らずになっていく、その事すら気がつかない自分になっていた・・・・
 父はそれから2ヶ月も経たないうちに特攻命令を受けたようだが、すでに無感覚になってしまっていたそうだ。その内容は、潜水艦で太平洋を渡り、アメリカ本土に近づき魚雷や砲(潜水艦の甲板に艤装された小砲)で攻撃するというまさに馬鹿げた作戦だったらしいが、それすらただの死への旅立ちぐらいにしか思えなかったらしい。程なく終戦を迎え、実行には移されずに済んだが、命が助かった事への安堵感と死への覚悟とのギャップが激しく、終戦後しばらくは酒を飲みまくり、「アメリカ兵が来たら一兵でも殺す」「鹿児島に帰り桜島の火口に腹をかっさばいて飛び込む」などと喚き散らし、回りを困らせたと母が良く話していた。
 アホな話だと思うが、当時の日本国民は誰しも少なからず、こんな感覚であったことだろう。特に特攻隊員は。それもこれも戦争のなせる技なのだろう。

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