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八釣で、蝋梅の撮影の時に見つけた「八釣マキト4号墳」。
残念なことに、この古墳は移設されたものです。
詳しくは、見ずらいかもしれませんが、一番最後の写真をご覧ください。
【1号墳】
径約18mの円墳 片袖式横穴式の石室:全長6.05m、玄室長3.55m・幅1.6m、羨道長約2.5m・幅1.1m 出土遺物:土器類、装身具、武器類、馬具 築造年代:6世紀中頃 【2号墳】 玄室長3.3m、6世紀後半の築造 この古墳は墳丘があり、目立ったせいか破壊が激しく、現在は消滅しています 【3号墳】 玄室長2m、右片袖式の石室が有りました、7世紀初頭の築造 この古墳も消滅しています 【4号墳】 0.75×0.55mの小竪穴系石室です、7世紀前半の築造 3号墳の側に有った何ともかわいい石室です 中にしっかり棺台と思われる石がある大きさからして、再葬墓のようです ■2014年2月23日(日) |
奈良県の古墳
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吉備内親王(きびないしんのう、生年不詳(686年頃か?) - 神亀6年2月12日(729年3月16日) )は、草壁皇子と元明天皇の次女。元正天皇、文武天皇の姉妹。長屋王の妃。長屋王の変で自殺に 追い込まれた。 吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。和銅8年(715年)2月25日に、 息子達が皇孫待遇になる。同年、元号が霊亀となった後に三品に叙される。神亀元年(724年)2月 4日に二品に叙される。 しかし、神亀6年(729年)2月、長屋王の使用人であった漆部造君足と中臣宮処連東人の密告に より、長屋王が国を傾けるため「左道」を行ったとして、彼は自刃に追い込まれた。吉備内親王も 、3人の息子達と共に縊死した。彼女は長屋王と同じく、生駒山に埋葬された。 当時皇太子基王が急死し、自らも病弱であった聖武天皇に万が一の事があれば、天皇の叔母にあ たる内親王やその子供達の皇位継承の可能性もあったと考えられる。天皇が根拠のない密告を信じ て政府首班の長屋王を死に追い込んだ背景には、皇位を巡る天皇の疑心暗鬼があったとする説もあ る。 【フリー百科事典『ウィキペディア』より転載】 平群駅の北約700mの所に吉備内親王の墓が、その隣には、夫の長屋王の墓が並んでいます。この 2つの古墳は、江戸時代の伝承にもとづき治定されたようです。 両者は天武天皇の孫で、皇位継承権を持つ有力皇族でしたが、神亀6年(729)2月、藤原氏の 陰謀により、夫人と子供4人が共に自害し、生駒山に葬られたと「続日本記」に記録されています。 撮影日 2010年3月28日(日)
所在地 生駒郡平群町梨本 |
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長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、 奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する 藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した人物です。 【長屋王の政権】 長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、 霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心と なり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻 としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。 霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が死去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜら れ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に没 すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議 の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後 長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正 二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄 せていたといわれている。 当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。また養老3年(719年) には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文 人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王 の漢詩が計3首収められている。 【フリー百科事典『ウィキペディアより転記】 【長屋王の変】 このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、 舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武 天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露にな ってきた。 神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道 を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が 長屋王の邸宅を包囲[1]し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳 夫王らを縊り殺させ服毒自殺した[2]。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。 聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。政治的な対立もさる ことながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然 、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であっ たことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。 王の没後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立 するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。王を自殺に追い込んだ祟り ではないかと噂されたという[4]。なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王 のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。子虫は長屋 王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっ ている。なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。『続日本紀』に「誣告」と記載 されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられた ことが公然の事実となっていたと想定されている。 【フリー百科事典『ウィキペディアより転記】 平群駅の北約500mの所に長屋王の墓が、また長屋王の墓の隣には、夫人の吉備内親王の墓が並ん でいます。この2つの古墳は、江戸時代の伝承にもとづき治定されたようです。 両者は天武天皇の孫で、皇位継承権を持つ有力皇族でしたが、神亀6年(729)2月、藤原氏の 陰謀により、夫人と子供4人が共に自害し、生駒山に葬られたと「続日本記」に記録されています。 撮影日 2010年3月28日(日)
所在地 生駒郡平群町梨本 |
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≪史跡 新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)≫ 新沢千塚とは、標高約210mの貝吹山から西・北方に舌(ぜつ)状に広がる低丘陵上に立地 する約600基の古墳群をいう。この古墳群の最大の特徴は、群集(ぐんしゅう)形成時期が5 世紀後半(約1,500年前)を中心とすることで、他の古墳群よりほぼ半世紀も早く最盛期を迎えて いる。このことは埋葬方法にも現れており、ほとんどが木製の棺を用いたもので、横穴式石室を 採用するものは全地域で18基という少なさである。 「史跡 新沢千塚古墳群」とは、そのうち丘陵北端部、県道戸毛−久米線をはさむ通称千塚山 地区に立地する約350基の古墳を指す。4世紀代には既に古墳の築造が見られるものの数は少 なく、群形成は5世紀前半からである。6世紀前半に西の曽我(そが)川に面した丘陵西端に2 基の横穴式石室・前方後円墳が築かれる頃を最盛期とし、6世紀後半まで、約150年間続く。 分布密度は非常に高く、しかも前方後円形・前方後方形・帆立貝形・方形・長方形という特殊 で比較的規模の大きい古墳を中心として、小規模墳とともに一定の範囲内に小集団を形成するこ とを特色とする。各集団ごとにみると、墳形の組合せに各々特色があり、盛衰時期にも微妙な差 がみられる。 中核の古墳の被葬者はもちろん、小規模墳においても貴重な副葬品をもつことが知られている。 (橿原市教育委員会 案内板より)
日本を代表をする群集墳 。 土饅頭の円墳が約600基もあるんですよ。
新沢千塚古墳群は、欽明天皇以下の飛鳥の古墳が造られるよりも前、4世紀の後半から6世紀の後半に掛けて、約200年間で連続的に造られ、飛鳥の南で桧隈(現在の檜前)辺りを本拠とした 渡来系の東漢氏か、または、大伴氏の葬送地と言われ、第126号(22×16mの長方形)墳の木棺に 納められていた副葬品は、ほとんど舶来品で、遠くサマルカンド辺りで作られたガラス碗も有り、 丘を越えた所の橿原市「千塚資料館」に現在も展示されています。 の長方形の墳丘に木棺が収められていて、その棺の中からガラス椀と皿、四神らしき動物を描いた 漆盤、青銅製の鏡、金製の耳飾、金・銀製指輪、金銅製帯金具、金製方形板(冠飾り)など朝鮮半 島や中国大陸、中近東との関連を伺わせる品物が出土した。 この古墳群のように、古墳が密集して分布するものは群集墳と呼ばれる。新沢千塚古墳群は、群 集墳としては大規模で、良好に保存されているため学術的にも貴重な一群として史跡に指定された。 もう1ヶ月も前のネタでございます。 ちょうど人事異動と桜のシーズンがはじまり、埋もれていたネタでございます。 この日は、ポカポカ陽気で異動での環境変化で疲れ出した頃。。。 あまりの天気のよさで、千塚古墳のベンチで昼寝をしてしまったのを覚えています。 この日はじめて、啄木鳥をみました。 コツコツコツと鳴る方を見上げると、啄木鳥が。。。 標準レンズしか持っていなかったので、ちいさな画像ですが。。。。 ■撮影日 2009年3月18日(水)
■所在地 橿原市北越智町 川西町 ■機材 EOS-40D EF-S 17-85mm F4-5.6 IS USM |

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□名称 中尾山古墳 □所在地 明日香村大字平田字中尾山 □面積 987平方メートル □指定年月日 昭和2年4月8日 □備考 上平田と下平田集落中間の丘陵上に立地し、高松塚古墳の所在する丘陵よりをひだてた北側丘陵にあたる。『大和志』に、「檜前安古岡ノ上陵文武天皇在平田村西俗呼中尾石墓」と記載されているように文武陵と考えられたこともあり、石墓の名にふさわしく、見事に礫石で墳丘が築成されていたようである。 墳丘は、直径約22メートル、高さ3.2メートル程度の円墳で、これらの封土の周辺には、現在でも塊石が散乱しているのに気が付く。 明治14年頃、茸石や大きな石材は庭石や建築用道路石垣などの用材として、売却破壊された由であるが、当初は墳丘基底部に直径45センチ以上の大石を立て並べ、墳丘中段にも同様に囲繞した石があり、その間を小児頭大の河原石で敷き詰めた状態に置かれていた。 そして、これらの立て並べた石は整斉された積み方で、破壊の際も容易に動かず、最初の一個を抜き取ってはじめて他の石を取る事を得たと伝えられている。従来の古墳墳丘表面の茸石や貼石の類よりも、新羅王墓などにみられる外護石的な要素の加味された用法が看取される。 【明日香村公式HPより抜粋】 文武天皇の古墳の可能性が高い古墳。 もし天皇陵なら、唯一目の前で触れる事のできる天皇陵となります。高松塚古墳の入り口付近にもあるにかかわらず、観光客はいませんね。
整備もあまりされてなく、もし文武天皇の墓だったら宮内庁さんどうされるのでしょうね。 |





