奈良の探訪

記事の更新。 リコメ遅れてて申し訳ないです。 <m(__)m>

奈良県の寺社

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≪ご由緒≫
 一般に京終天神社、紅梅殿神社、平城坐飛鳥神社と呼び、事代主神、加夜奈流美命・宇須多
岐比女命・不足留比女命・菅原道真を祀る。
 平城遷都に際し、高市郡明日香村の真神ヶ原鎮座の飛鳥神社を、平城京の左京四条の地に
奉遷して国家鎮護の霊社としたことが最初であるが、現在地に遷座されたのは応安二年(1369)
である。
 本殿は文政九年(1826)春日大社の末社水谷神社の旧殿だったというが、この時菅原道真を
増祀して祭神五座となった。
 例祭は十月十日。
 境内社の宗像神社に市杵島姫命を祀るが、元花園高台寺境内に鎮座していた社で、大国主神社
の祭神は大国主命・蛭子命で、もと禅定院境内に鎮座していた。この外大国主命を祀る金刀比羅
神社はもと小塔院境内に鎮座していたのを当社境内に奉祀した。
                                         −奈良県史(神社)より−
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 時には小雨が降る中、京終・ならまちを散策。
 
 途中飛鳥神社に立ち寄ってみました。
 
 境内はきれいに整備されており、神様にお参りをしてふと、おみくじの販売機に目をやると。。。。。
 
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 コイン投入口に書いてある数字は。。。。。。。『10円』(^O^)/
 
 えっ!100円の間違いじゃないの?
 
 と半信半疑、10円を入れてみると。
 
 出た〜(^O^)/
 
 飛鳥神社のおみくじは10円なんですー(^O^)/
 
 
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 開けてみると。。。。。
 
 これまた驚き〜🎶  大吉や〜  (^O^)/(^O^)/(^O^)/
 
 もうテンションあがりまくり。
 
 とても幸せな気分になれました。
 
 内容も、うんうん。。。。。。    いいことばかり♪
 
 
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 持ち帰ろうかな。  とも思ったけど、この運勢叶えてほしくて、きっちり結んできましたよ〜。
 
 
 
 
 ■所在地  奈良県奈良市北京終町45
 ■訪問日  2014年1月26日(日)

世尊寺

 
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 世尊寺(せそんじ)は、奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院である。
 古くは比蘇寺(ひそでら)と呼ばれ大規模な伽藍を構えていたが、現在の世尊寺は江戸時代に整備
縮小して再興されたもの。かつての寺域は、1927年(昭和2年)4月8日に「比曽寺跡」として、国の史
跡に指定されている。聖徳太子霊第7番。
 
                                                    Wikipediaより転載
 
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 この日は彼岸花がきれいにしていました。
 
 彼岸花の記事はこちら ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/a02221370209/66740719.html
 
 
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 ≪歴史≫
 古くは、吉野寺、比蘇(比曽)寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれ、聖徳太子が建立した48か寺の
一つと伝えられている。同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)
には存在していたようである。 奈良時代には、吉野寺比曽山寺と呼ばれ、後述する現光寺の由来と
なった仏像が安置された。また著名な僧侶・神叡が住み、20年間三蔵を学んで自然智を得たという。
 平安時代には宇多上皇や藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後
は衰退した。 鎌倉時代に入り、1279年(弘安2年)に金峰山から春豪聖人が比蘇寺に移り、再興に
努めた。また西大寺を復興した叡尊の留錫により真言律宗となっている。さらに1337年(南朝:延元
2年、北朝:建武4年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺」と命名され、勅願寺
となっている。
 その後、再び衰退し荒廃するが、江戸時代に入って、伽藍を整備縮小し禅宗寺院として、霊鷲山・
世尊寺と改め復興し、現在に至る。
 
                                                Wikipediaより転載
 
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≪文化財≫
木造十一面観音立像 - 奈良県指定有形文化財(彫刻) 現光寺縁起絵巻 比曾寺跡 - 国の史跡
 
 
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 江戸時代には、松尾芭蕉が訪れて、句を残しています。
       「世にさかる 花にも念佛 まうしけり」
 
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≪現存する東塔≫
 比蘇寺には東塔と西塔があったが、そのうち東塔の三重の塔は、1594年(文禄3年)豊臣秀吉に
よって伏見城に移され、さらに1601年(慶長6年)に徳川家康によって近江の園城寺(三井寺)に
移建され、現在も残っている。なお、西塔は戦乱により焼失している。
 
                                                     Wikipediaより転載
 
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 世尊寺の境内に神社が。。。。。
 
 
 
 
■撮影日  2013年9月23日(月)
■所在地  吉野郡大淀町上比曾762

お賽銭の語呂合わせ

 先日お伊勢さん参りをした時の事。
 
 
 バスガイドさんからお賽銭の語呂合わせについてお話があって、ちょっと
興味がわいちゃいまして。。。。。   調べてみました。
 
 
 皆さんよくご縁がありますようにって、5円玉をお賽銭にする人が多いです
よね。
 
 
 私もたいがい5円が多いです。
 
 
 ○ 1円・・・・・ 縁がありますように。
 
 ○ 5円・・・・・ ご縁がありますように。
 
 × 9円・・・・・ 食えん。    これダメね!
 
 × 10円・・・・・ 遠縁。     これも縁が遠のくっていうことでよくないようですね。
 
 ○ 12円・・・・・ 十二分に縁がありますように。
 
 ○ 15円・・・・・ 十分ご縁がありますように。
 
 ○ 25円・・・・・ 二重にご縁がありますように。 重ね重ねご縁がありますように。
 
 ○ 45円・・・・・ 終始ご縁がありますように。
 
 ○ 50円・・・・・ 10倍のご縁がありますように。
 
 × 65円・・・・・ ろくなご縁がない。
 
 ○ 115円・・・・・ いいご縁がありますように。
 
 ○ 415円・・・・・ よいご縁がありますように。
 
 ○ 485円・・・・・ 四方八方からご縁がありまうように。
 
 × 500円・・・・・ これ以上の効果(硬貨)がない。
 
 ○ 2951円・・・・・ 福来い。
 
 ○ 11104円・・・・・ いい年。
 
 
他に5円玉だけでの語呂合わせもあります。
 
 ○ 5円・・・・・ ご縁がありますように。
 
 ○ 5円x2枚・・・・・ 重ね重ねご縁がありますように。
 
 ○ 5円x3枚・・・・・ 十分にご縁がありますように。
 
 ○ 5円x4枚・・・・・ よいご縁がありますように。
 
 ○ 5円x5枚・・・・・ 二重にご縁がありますように。
 
 ○ 5円x6枚・・・・・ 安定と調和のとれたご縁がありますように。
              (「6」という数字が使われる「六角形」には、安定と調和をもたらす意味があります。)
 △ 5円x7枚・・・・・ ○ 再三ご縁がありまうように。 (「3」と「5」で!)
              × 散々なご縁になります。
 ○ 5円x8枚・・・・・ 末広にご縁がありますように。
 
 ○ 5円x9枚・・・・・ 終始ご縁がありますように。(「4」と「5」を合わせて。)
 
 ○ 5円x10枚・・・・・ 10倍のご縁がありますように。
 
 まだまだあるのですが、これ以上5円玉でお賽銭をする人もいないでしょうから。。。
 
 
 
 結構お賽銭箱を覗くと10円玉をよく見かけますが、遠縁ということで
せっかくのお賽銭、いつも5円玉を持ち歩きましょう。(^O^)/
 
 あと神社では、『二礼二拍手一礼」。
 
 お参りの際は、手水舎で手と口を清める。
 
 参道の中央は歩かない。
 
 など、ちょっとしたルールを知っていると、参拝も気持ちの良いものに
なりますよー(^O^)/
 
 
 

法華寺

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 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、1999年に同宗を離脱し、光明宗と称する。
 
歴史は、
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745年)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平16年6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。
法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」及び「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。
発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、平成11年(1999年)、創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
 
                                  【フリー科学辞典】ウィキペディアより抜粋
 
 
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鐘楼(重要文化財)
鬼瓦に慶長7年(1602年)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。ただし、本堂と同様に、前身建物のものとみられる古い部材も混在している。二層建てとし、上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」であるが、上層に縁や高欄を設けない、珍しい形式とする。
 
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本堂(重要文化財)
寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。慶長6年(1601年)、豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。堂内厨子に本尊十一面観音像を安置する。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に慶長6年の銘があり、当時は「講堂」と呼ばれていたことがわかる。前述の慶長元年(1596年)の地震の復興事業として建てられたもので、再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が再利用されている。部材に残る痕跡から復元される前身建物は、1棟が鎌倉時代、もう1棟が室町時代の建物で、前者が旧金堂、後者が旧講堂にあたると推定されている
 
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・ から風呂(重要有形民俗文化財)
 
        光明皇后が千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂であるが、現存の建物は江戸時代の         明和3年(1766年)のものである。建造物としてではなく、民俗文化財として国の指定を受けている。
 
 
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■撮影日  2013年3月24日(日)

當麻寺 奥の院

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≪由来≫
 
 當麻寺塔頭奥院は、浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立された寺で、最初は往生院と呼ばれていました。知恩院第十二代誓阿普観上人が知恩院の御本尊として安置されていた法然上人像
(重文)を後光厳天皇の勅許を得て応安三年(1370)当地に還座して建立した寺で、以来、浄土宗の大和本山として多くの人々の信仰を集め今日まで護持継承されて来た名刹です。 本堂(重文)、大方丈(重文)、楼門(重文)、阿弥陀堂、庫裡等、今に残る伽藍に往古の宗教活動の偉大さがうかがわれます。
 
                                                當麻寺HPより転載
 
 
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■撮影日  2013年1月12日(土)

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