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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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勇敢だった日本原住民
姫、神、女将(おかみ)

 日本原住民群と外来軍(中国や朝鮮)との壮列な戦いには、きまって女将が現れ、見せしめに殺されているのは日本古代史には散見される。
この慣習が後には戦国期になっても女性を人質にとり磔にするようになるのである。
 北上山系の最北にあたる姫神山が、その頂上に、現代でも「姫大明神」を祀っているという事は、「山の神」として麓の人々の信仰を今もあつめ拝まれるのは、
岩手に追いこまれた日本原住民たちが、果敢な女将に率いられて、ここまで落ちのびたものの、外来者坂上田村麻呂らの鉄剣や鉄矛をもった部隊に包囲をうけて、ついに玉砕した名残りからきているもののようです。
なにしろ鎌倉時代以降は河村秀清か北条氏の追討を避けるため玉山と姓をかえて姫神山の中へ逃げこみ、後にいう処の「玉山真言修験」の山岳密教になったのも、やはり調べてみればそれなりの訳があるようです。
 しかし、その時々の権力が歴史を勝手に変えてしまうし、おかみの歴史が定説化してしまうからして、
(坂上田村麻呂が岩手山に住む大武丸以下の悪者を退治し、彼と共に反乱した蝦夷をも殺して平定して砦を築いた山を霊場とし、田村麻呂が去った後は山頂に女将として討死した姫大明神を祀り、
徳川綱吉の神仏混合令が発布されてからは、十一面観音が東光の仏像として、麓の人々の仏教化をした)
と今ではされていますが、外来の討伐者、つまり自分らの先祖を滅ぼした者を讃えるように仕向けられたネブタ祭りのごとき憐れさを、この姫神山にも感じさせられます。


日本原住民たちが外来者軍と激戦した岩手中央部の、徳丹、志和の北東に位置する姫神が明治五年の神仏分離令、修験道廃止によって、今ではすっかりさびれていますが、この7世紀から8世紀にかけて最後まで抵抗した勇敢な日本原住民の中で、女将が討死したとき姫神山で玉砕した者らの他は、よってやむなく降服した。

だから彼らを収容したのが現在の閉伊郡なのである。当時は、体制に反抗して、まつろわぬ原住民を夷と呼んでいたから、閉夷郡であるし、まだ抵抗する者らを追いつめていって、反乱を封じ込めるために築いたバリケードが、一戸、二戸、から九戸まであった地名が今に残っている。
そして、抵抗むなしく、逃げるところがなく、その先は太平洋なので止む無く降参した者たちは奴隷となってしまったのである。

抜歯された縄文人は武装解除だった
抜歯の風習は何だったのか

遺跡が発掘され、縄文人骨に前歯や犬歯を欠いたのが発見されるや「檜山節考」的発想から、食物の少なかった時代故、食物を多くとらないように、との思考が定説化している。
だが、縄文石器時代になる迄は、人間の武器たるや、咬みつく武器が歯だったのが本当。
以前、名古屋市耶穂陸上競技場内の大曲輪貝塚で六千年前の縄文前期の完全人骨が発掘された。これは昭和五十五年八月三十日に公開されました。明治時代に水戸の大洗神社境内で、やはり左右上下の犬歯や臼歯が抜かれた頭蓋骨の山が発掘され、これはみなインドネシアよりの到来人のもの、と当時は発表されました。
 ニューギニア、フィリピンには今も抜歯の風習があり、吾国での信州の姨捨伝説では、「年寄りは僅かしかない食物を多くとらぬように、己が歯を抜いたものだ」とされてもいます。
 しかし縄文時代の前期は、まだ石斧や石槍も行きわたっていなかったのです。つまり当時の日本の縄文人は犬みたいに食いついてゆき相手を仆すのが攻撃武器だったのです。

ですから食いつき合いの戦いで負けて捕虜になって奴隷となった者が、武装解除として歯を抜かれたと思惟できます。
 日本の歴史書でとくように、歯をもいでも食欲は減ずるものではなく、歯がなくたって呑みこんでも腹中に入ります。
やがて石斧や尖った石を縛りつけた槍が広まった縄文中期からは、歯が武器ではなくなったので抜歯がなくなったのでしょう。
なにしろアラブのペルシャ湾からの黒潮も、日本列島沿岸へ流れ着いて、愛知県海部郡の、当時は文字通り、島だった津島へも流れつき押し寄せてきていました。
 
今の長島温泉あたりも、昔は一の江、二の江とよばれていたように、ずっと海岸地帯でした。
 ですからミクロネシアやポリネシアから廻ってくる黒潮も名古屋へはきていたから「塩尻」とか「アマジリ」と呼ばれ、八の民(海洋渡来系民族)のタウンの平家部落として名古屋の市章は○に八なのであります。
 日本人の先祖は北京原人より進化したのが日本列島へ渡来したと、大陸と結びつけたがるのが定説ですが、西南方面の抜歯を武装解除とする人種がいたのは、古代海人族とよばれる者共らしい。
昔の東北は金の一大産地だった

 岩手県玉山の姫神山周辺にあり、北条時代には、紫波郡の彦部大巻城河村一族が砦にしていて、その抜け穴ではなかったかと呼ばれるのがあり、「おしらさま」が祀られている。
これは蝦夷穴とよばれる横穴があり、付近の田畑からは石器時代人が使い始めた貝殻模様のある土器が今も見つかります。
関沢のと同じような着せかえの布で古色蒼然とした男女一対になった「おしらさま」が祀られ、太い方を「ひいさま」といい、これは原住民の女神だと想われる。
 昔は東北は金の産地で、山金が多く転がっていた場所で、日戸長峰の乙女石から「久七ほっぽ」あたりは金脈がむきだしで光っていて、乙女姫が宰領して久七にくだかせて、兄の「金売吉次」とよばれていたのへ送っていたそうであります。南部から津軽は山金だらけでしたから、中国の命令でその黄金を奪うためにクダラ部隊が、アメリカのゴールドラッシュみたいに押しかけてきて、次々と原住民たちは追われ追われ、逃げ惑ったのです。


 蝦夷穴というのは、追いつめられた日本原住民達が女上位の部族ゆえ、姫を女将として奉じ匿れていた洞穴ではないでしょうか。
山金を中国へ送るのに邪魔をするのではないかと洞穴の中の男女は曳きずり出され、女はよってたかって嬲りものにされ、男共は殺されたのです。その悲しい伝説がこけしとして残っているのである。
伝説と民話の不思議
 郷土史家によって収録される各地の伝承民話の類は、江戸時代では一向宗本願寺の説教節から出たもので、信長殺しは光秀でもないのに、そうだと教えこまれたものが多い。
 坂東八ケ国の荒地が、追いこんだ日本原住民たちによって必死に耕され、耕地に一変しだすと、それを取り上げ儲けようと藤原一族に眼をつけられ東北へ送りこまれていた。
やがて露出金鉱を奪わせにクダラ人を傭兵として派遣し、花城(中華城)のタウンへ戻ってくると、すぐまた命令し彼らに原住民追い出し策をとらせました。

(アメリカで騎馬民族のインデアンを種属別に居留地へ追いこみ、トウモロコシのコーン畑を作らせ耕地になり定着しだすと、砦から黄色いリボンの騎兵隊が攻めてきて、女子供のキャンプまで焼き払って追いたてる)といった状態と同じで、武力で東北へ彼らが追われたのを、日本史では天慶の乱と言います。

「鬼古里」(きこり)と当て字するのは、
平安時代に追われ逃げ匿れ通した者らを言うのですが、山中でする事もなく木を切っていたゆえ、木こりとか山がつ(山中で捕った動物をガツガツ食べるので)ともいいます。
が彼らの事を、進駐してきた仏教側は略して、「鬼」とよんだようす。
それゆえ東北へ廻ってきた一遍上人の、お説教からの民話では、

 「坂上田村麻呂は立烏帽子女神の加護をうけて、岩屋の鬼どもを退治しましたから、田村麻呂の男らしさに魅せられてしまい、その岩手山をはさんで、立烏帽子の早地峰山と姫神山の女神が恋を争った」
といった他愛もない話までが、まことしやかに伝承されているのです。

また弘法大師の真言伝承となりますと、「法力で栗のイガがみな吹っ飛び、明神山で人々を悩ませていた大蛇も、大師さまの御利益に恐れをなし火炎を吐きつ逃げ去りました」とあります。
これではメルヘンであっても、とても伝承民話とは言えない。まさか、攻められ殺されたインデアンの子孫が、カスター将軍を神様扱いにして拝むものでしょうか。
となるとアメリカインデアンより程度が劣ることになります。なににしろ藤原時代の公家の日記類などは、自分たちは豪いさまで、己らの体制に都合よく書かれ、旧日本軍の大本営発表みたいなもので、信頼など出来るものではないのです。


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