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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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      幻想の源氏と平氏 第一部
 
 間違った歴史学のとらえ方
 江戸時代系図屋が作った「清和源氏」


以前、教科書裁判の論争が烈しい時期があったが、その当時、東京新聞で、日教組書記長と自民党文教族議員の対談がのっていて、
 「『日本書紀』や『古事記』には日本人の心のふるさとがあり、それらは祖先たちが如何に考え、信仰したかを教えてくれる。それを非科学的だというのはおかしい」とか、
 「史実には人間の信念、信仰も含まれる。国民的心情を教えるのに目くじらを立てる事はないだろう。天皇制が続いてきた、というのは古代からの人々に受け継がれてきた国民的心情、
信念がささえになっているのだ。その意味で天孫降臨も史実といえる」
 
といった発言が散見され、日教組書記長はただ煙にまかれていた。日本民族が空から舞い降りてきたという説を大真面目で肯定するこの男の脳味噌は毛ガニ並みである。
さすがこうした論法を敢えてする政治家というのは、えらいものだと読んで驚かされたが、
気になるのはその「史実」というものの把握の仕方である。これまで一般の通念では、
 「史実とは、歴史事実の短縮された呼称」のつもりでいたが、こうなると信念とか信仰までが加入してきて、これでは史実ではなくなって「史情」とか単に「史念」に変っていってしまう。
そして歴史教育は単なる情操教育になる。
 といってこれは氏だけでなくT教科書調査官あたりは、既に堂々と、「史実とロマンは、混合しても一向に差支えない」とその所信をはっきり発表している。
 しかしロマンという言葉は甘く響くから、目から入ったり耳からくるのでは、あまりぴんともこないが、歴史と結びつけられては、
 「悲しき恋の物語」「おおロマンの花咲く南の国」といったムードのものではなくなるのである。
 これは言葉の魔術で、フィクションつまり作話とされている物語、神話をさすのだろう。となると、歴史的事実と歴史的作為のフィクションを一緒にしてよいとは、
どういうことなのだろうかと迷わされる。                                             
YAHOOやそのほかの歴史関係のブログでも、こうした考えが蔓延していて全く低級で読むに堪えないものが多い。

 なにしろ戦前までの日本の歴史学は、江戸時代の系図屋用歴史考現学、そして茶器販売用宣伝カタログ歴史の感だった。
処が、それを明治二十五年になって重野安繹、星野恒、田中義成、久米邦武ら先覚者が、これではならじとばかり、
 「史学会」とよぶ研究団体を作った。が、明治末から大正にかけ華族が、「学士会院賞」の選考権を握ると、渡辺世祐らはまた逆行し、勲位を貰うため毛利公爵や蜂須賀子爵の御用歴史屋となった。
 三上参次らは軍部御用を拝し国民精神復興歴史屋となり、黒板勝美らと共に、眼にみえぬベストセラーで毎年莫大な印税が定期的に入る教科書歴史に携ったのである。
 つまり歴史とは、学者にとって名誉と儲るものとしてのみ利用され存在したのを、戦後ようやく故高柳光寿らを主とする良心的な学徒によって、
「歴史とはそれによって利潤を追求するものではなく、民族の所産として、真実とは何であるかを、あくまで解明追究するものだ」
 と、昭和三十五年頃からその考究がなされだした。しかしパスカルが、その「パンセ」で、
「真実をつきとめようとする者は、虚偽によって権勢や名誉を保っている者や、そうした詐りをまことしやかに教わって、そう信じこんでいる頑迷な徒から、
さながら蛇蝎視され排斥されるものであることを覚悟せねばなるまい」
 と、いったごとく、高柳氏にしても、その労作『戦国戦記』など八巻の内で、死後にも半分しか世にでていない有様なのである。
つまり、こうした真実の解明が、せっかくまだ芽を出しかけたばかりの処で、早くも、
「真実などどうでもよろしい。ロマンでもフィクションでも一向に差支えないのだ」となってしまっては困るのである。
さてここにこの問題を挙げたのは、歴史教科書に、
 桓武帝−葛原親王―高見王−高望―清盛
 清和帝ー貞純親王―源頼光−頼綱ー頼朝

 といった系図入りで、いわゆる桓武平氏と清和源氏を、「武士の起源」という課目によって、教えるようになったからである。
 おそらく意企としては、日本人というのは元はみな天皇さまから出ているのであるから、一億一心精神を一つになし、お国に尽さればならぬのだという教育目的であろう。
 もちろんこれに対して何らの異存はない。早大水野教授らの手によって、崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の三つの皇統がはっきり明示されている今日。
のち王朝交替によって反体制的になったとしても、日本原住系の騎馬民族の裔は崇神さまの系列だし、海洋民族は仁徳さまの流れであるからして、
継体王朝の世の中になって山獄や孤島へ逃避したとしても、この日本に住む人間はみな、三つの王朝系のいずれかに属しているのだから、われら日本人が、みな天皇さまの民である点においては、これははっきりと肯定し得るものである。
 が、今は親のため娘が身売りするのが、孝行や美談とされた単純な時代ではない。なのに、
こうした説得の仕方では今の世ではたして通用するものだろうか。漠然とした押しつけ主義でなく、
もっと筋道をたてて納得できるようにしなくては無理ではなかろうか。
 いくら声を大にして、日本を大家族主義みたいな見立てをしても、現代のような核家庭時代つまり、家族制度の崩壊の世の中で、こんな古めかしい時代錯誤の論法は逆効果でしかない。
 私は日本人として日本を愛するがゆえに、
 「史実はあくまでも史実であるべきだし、子供相手の教科書だからといって、フィクション=ロマンとごちゃまぜにして、作りものの史実など押しっけてはならない」と想う。
 というのは敗戦後七十年以上たっては、この、「清和源氏」と「桓武平氏」の呼称は、もはや幻想そのもの、でしかない事がはっきりしているからである。
なにしろ戦後の国史学者たちの手によって、
 「醍醐帝に召された源唱の娘周子が生み奉った高明が、安和の変で九州へ流罪された時、源姓を名のらせられたから、しいて天皇の姓をつけるものなら、醍醐源氏というべきであろう。
しかし醍醐帝より四代前の清和帝の方が治政上みるべきものが多かったり、また後に、後醍醐帝と武家の確執や南北朝問題もあって、その御名では混合しやすいから、江戸時代の系図屋と呼ばれた者達が、桓武平氏に対抗する呼称とし、洒落のめして、(姓わ源氏)とばかり、語呂合せのように清和源氏の新語を作ったものであるらしい、
 との説や、また安和の変で藤原氏について助かった摂津多田の源満仲が神社へあげた願文から、源頼信が石清水八幡にあげた告文に、
 (陽成帝の子の元平王の裔)であると書かれた点からも、やはり清和源氏というのは後年の仮称にすぎず源氏は陽成系であるという研究も発表されている。
実際はもっと古いものなのである。では本当は何なのかということになる。
   源氏の本当のところは何なのか
 また俗にいう近江源氏なるものも、
「近江の百姓源内加筆のたつところから、江戸初期に、各大名や旗本の求めに応じ多額の礼をとって、贋系図を作製する際、
ついでに自分の出自をも誇大宣伝するために舞文曲筆して創作した称号が所謂近江源氏なのである」ことは、既に江戸時代からすっぱぬかれ、
明治四十四年刊の、『史籍雑纂』にも詳しく収録されている。
 では本当は源氏とは何かといえば、彼らは、
 新人物往来社刊『旗指物』の中の、佐々木四郎高綱の紙旗に大書されてあるごとく、「蜂起」(はちおこし)が正しいのである。
 蜂とは八で、のちに鉢などの当て字もされるが、中国系の藤原氏が日本へ入ってきた時に、彼らに比べれば文化の低い国民である原住民を蔑んで、
今でいうならパアーであるといった侮りから、イ、アル、サン、スウ、ウー、リュー、チー、パーのパーつまり八をあてたという説もあるし、
また中国には「亀八」「忘八」の蔑称もあるが、日本原住系はこれに負けずに、八の字をもって、
「八は末広がりで縁起が良い」などともしている。いわゆる源氏の民とは、みなこれゆえ、梶原源太の旗などは、後の秀吉と同じことで○に八の一字きりである。
この八の民族が多く住む愛知県の名古屋市は堂々と〇に八の市章にしているぐらいのものである。
 さて、この旗を伝えてきた滋賀県野洲郡島泉の吉村家は、江戸初期からの建物というので明治十年天皇御巡駕の節に御休所にもなったが、
特別保護建造物の指定もあるのである。さてその吉村家は、旧幕時代は四十三力村の大庄屋で、さかのぼると天正十年(一五八二)の頃までは、
 「野洲政所」の名があって弾正を名のり、人皇二十二代雄略天皇陵を領有していて、冠婚葬祭にはその従える部落の者らに、
 「八木」つまり白米を配布した記録か残されてある。
 さて、百姓をしている者らが、米を祝いに貰うということは有りえない。
だから、吉本や古田の苗氏集団や、その先祖とされる佐々木四郎高綱は非農耕民族、ということになる。
そして、『記紀』『三代実録』『延喜式』のいずれをみても吉村家を主とするつまり源氏とは遊牧部族ということになる。
「高鷲原」「高草原」の地名が、古くはこの地方野洲郡の名称となって居る。
 今は誤字当て字を厳しくいうが、昔は、「豊葦原」「高蒲原」の文字も、風土記の類では用いる。神主がノリトの中でのたまう、
「タマガハラ」も文字の原語はこれらしい。
 そして遊牧民族はあくまで非農耕で、原を開拓して農地にする等という事は明治まで絶対になかったものである。
 つまり豊葦原瑞穂の国といっても、葦原が瑞穂になる筈はなかったから、これは性質を異にする別個の併称で、遊牧民族の豊かな草原と、農耕民による瑞穂地帯の意味二つの併称になる。
 これは後に日本では、「たみ百姓」と非農民と農民と分けて並べるよう、二つの民族のいたことを物語っているものでもある。
 さてこうなると、いわゆる源氏なるものは、俗説のごとく九世紀の醍醐帝や清和帝の頃に臣下へ下った農耕系の末孫ではなく、それ等とはまったく、異質のものでなくては理屈が合わぬ。
それに、「遊牧民族」といえばタタール人を連想するが、江上波夫説の騎馬民族の構想を借りると、崇神帝の頃に渡来した彼らは、瑞穂には関係なく野生の木の実を食し、
弓矢で狩猟していたことになる。つまり既存勢力だった久米兵団を追い払って、それらに取って代って、「日本軍団」として登場した集団ということになる。
そして彼らはツングースタタール系ばかりでなく北鮮系も居たらしいが、やがて又も政変が起き、もろくも敗れ、印度のカースト制の輸入によるものか、被征服民族として次第に、
「賎民」という立場に追い落されてしまう。そして追われた彼らがそうした流浪の民になって関東から中部地方に群居していたのは「愧併記」に詳しく書かれている。
 だから、馬に跨り弓をひき恰好はよいが、「日本武士団」とはまだこの時点では、認めようもない。
 その内に七一〇年の和銅三年になると、大宝律令で国家権力が強化され、「青丹よし奈良の都は咲く花の……」で知られる平城京が出来上る。しかし、「ナラ」というのは、朝鮮語の「国」の意味だというが、
当時の朝鮮は馬韓、辰韓、弁韓と三分されていた後だったので、そのせいなのか、そして日本列島全部がかって彼らの植民地だったからか、そこまでは判らないが、
「備前、備中、備後」「越前、越中、越後」といった具合に、ここに日本列島の地名の三分化が始まる。極端な場合は関東地方のごとく、朝鮮語で国名が三つになっているケースすらもある。
 

つまり東京と共に埼玉も「武蔵」の名で一緒になっているが、そこの入間郡日高町など昔は、高麗郡高麗村とよばれ高麗神社があり、
 『国造本紀』によれば、いまの東京都の連中は、「胸刺国造」とよばれて多摩郡八王子日野の大国魂 神社を祖神として団結した。それに対し埼玉側が、「武蔵国造」の名で大宮氷川神社を祀って対抗していた。
 この「ムネサシ」 「ムサシ」というのは、
「宗城」「主城」の意味で、ムは、「仰せをムネとする」の意の主とか重いの意で、サシの方は、戦国用語の、
「旗さし物」とか「さしたる手柄」などとも云うごとく、これも特にといった重要な意味で共にこれらは朝鮮語から出ている。また馬のことを、
「コマ」というのもその名残りだし、ポックリの木履から転じた駒下駄がそうだし、「小姓」の名称を「こま使い」としたのもそれだが、これは後には、女のことに変っている。
 さて東京、埼玉の宗城、主城に対して、関東西部の神奈川県は「真城(さねさし)国造」を名乗って三分していた。
 これは自分の方こそ本物だというのであるらしく、前述もしたが、「さねさし相模の小野にもゆる火の、ほなかに立ちて呼びし君はも」と、 弟橘姫作と伝わる古歌の枕言葉にもある。神奈川県は、高座郡か、コクリ郡内転化とされているが、大磯の海岸に面しては高麗山があり、今では高来と字を小えた高麗神社もあるし、源氏の祈願所といわれた武道の神の、「箱根権現」や「伊豆山権現」も、かつては真城の祖神だったそうである。
 つまり、頼朝が幕府を釜利谷別所の山中にひらき、「鎌倉」と命名したのも朝鮮語の、「ホーム」を意味する高句麗系古語からで、今も東北で子供が雪をかためて穴倉のようなものを作って、
 「カマクラ」とよぶのもこれであるし、また源氏の武将が戦運を占って、出陣の門出にお椀に箸をのせて行う呪いを、今も、「こっくりさん」といい伝えているのも、
 (コウクリ)つまり高句麗の神霊を、よんで守護して貰うことからの転化した風習なのであろう。
 
 日本三代実録による考察

 (タタール騎士団来日に続いて、六五八年四月の阿倍比羅夫船師らの百八十隻を率いての東航)といった具合に、何処からきたか判らぬ集団をもってして、それを武士団の発生とはしえまいし、また、承和十五年(八四八)二月の、「太政官符」にあるごとき、
 「上総の国より伝令かけつけて奏上す。俘囚丸子つむじら叛すると。よって討伐の勅符を五国に下し賜る」といった場合の、反乱軍や討伐隊も、やはり日本武士団の元祖とはいえぬだろう。
 何故ならば、その二十二年後の貞観十二年(八七〇)になっても、そのレジスタンスはやまず、十二月二日付で、上総国司に出された官符には、「中国に散居し居る夷種の者共は、なおその謀叛の野心をすてず、華風になじまず、民家や寺院に焼打ちをかけ財物を掠めるは怪しがらん」とでているからである。
 今でこそ日本で「中国地方」といえば、                             
 「多治比」のある広島を中心にした山陽道だけだが、九世紀の頃は「千葉県の房総半島までが、中国の地方」だったという点において引っ掛りを覚えるからである。
 そして、「華風になじまず」の字句は、単に言葉のあやかも知れないが、どうしても、「中華の国風に馴染まず」ともとれるから、それにも奇異な感じがするせいである。
 これは、世にいう清和源氏の元祖とされている清和天皇の御治世の出来事で『三代実録』の巻十八の部分摘出だが、その官符の二十日前の十三囗には、はっきりと、
 「筑後の権史生で正七位の上の位をもつ佐伯宿禰真継なる者、朝鮮新羅国と連絡のこと露見す。よって九州監督庁である大宰少弐従五位下の藤原朝臣元利葛侶に命令し、
新羅国王と謀りごとを通じ国家に害を与えんとせし真継の身柄を逮捕させ、検非違使へ利敵罪として送らせた」旨の記載がある。
 だからしてこれをみると、清和帝の御代には、はっきりと朝鮮は敵国であって、既に、その時点で、
 「みなもと」を自称して白衣をまとい白旗をたてる部族が、関東地方から静岡受知滋賀に群居し各地のカラ(韓)神さまを祖神とし反体制の側で争っていた既成事実は、
いわゆる、「源氏」なるものが清和帝以前から存在していたことを意味し、源氏と清和帝とが俗説のごとく血統的には無関係だった証拠にもなってくるのである。
 だから次の清和帝の第一子陽成帝の代に変った途端の无慶元年(八七七)正月十四日の官符の条の記録には、これまた、
 「堯舜禹三聖、皆揖譲之君也」といった中国風そのままの表現がなされ、ついで翌十五日、
 「牧童火を放って北野を焼く。火は山嶺に及ぶ。炎燎乱れさかんなり。退治すべくんばあらず、よって六府の官人に命じ火を消し、牧童の群れを追捕す」の記載すら出ている。
 が、牧童といってもこれは西部劇のカウボーイではなく、「放牧民族つまり非農耕系の輩」の意で、清和陽成の支配体制下では、もはや相い入れない者となってしまった朝鮮系の者たちが、
今日なら火焔瓶でも投げる処を、北野に放火し京都を襲撃しようとしたのだろう。
 しかし風向きが逆になってしまって、山の方へ燃えひろがったから失敗し、その一味が六府にまたがっていたゆえ、藤原氏によって各地で一斉検挙されたことの、これは記述であるらしい。
 つまり清和、陽成、光孝ご三代の、『三代実録』を仔細にみる限りにおいては、
 「駒にまたがり高麗神を拝し、白衣をつけたり白旗をたてて進撃する武士団が、北鮮並びにタタール系が日本へ渡来した騎馬民族の後世における騎士団としての姿であり、
その民族が非農耕で遊牧民族だったからして、その後も明治六年まで彼らは、決して鋤鍬は握らなかった」という真実を理解することができる。
よく武士が浪人して帰農するといった小説があるが、彼らは工商が山へ入って木こりゃ猟師にはなっても、百姓は絶対にしなかった厳然たる事実は、ここに因していたのである。                                        
 明治六年まで[新地]または川向うとよばれていた隅田川以北は掃部宿から北手住へかけて草原で田畑が全然なかったのも、弾左衛門地で、一切の農耕を彼らはしなかった所為によ
そして弾左衛門は今では非人頭といった見方をされているが、頼朝と菜摘み御前の間に生れた頼兼の子孫である。
だからして故三田村鳶魚の随筆にも、「おはんこそは源頼朝公の直系でごわさんか」と益満休之助にくどかれ薩摩に味方するよう説かれた話があるのでも判り得るが、つまりこれ迄の、
 「戦国時代は農閑期に兵をだした。何故かとなれば百姓を兵に集めねばならなかった」
 とする従来の史観は誤りで、仏教側は百姓を戦場にだしたが、いわゆる武士はたとえ失業しても、各地の弾圧、弾正、太夫の支配下に入り田畑を耕やさなかった事実もこれで納得できるものと想う。
 さて光孝帝が崩ぜられ、第七皇子定省親王が「宇多天皇」として、御即位遊ばされて二年目の寛平元年(八八九)に、
 「五月十三日、桓武天皇曾孫高望王らに、平朝臣の姓を賜う」と、のち源氏と対抗する平氏の姓が初めて生れることになる。
 この後、二百年たって双方は正面衝突する事になるのだが、その成立において、(源氏とは騎馬民族の裔で、その徒は牧童、各地の長吏は牧宰)とよばれていた点から、(彼ら源氏の民が、支配体制の華風になじまぬ被占領系暴徒であった)と、もしするならば、
 「平氏とは、みなもとの浮浪の民を規制するために、新しく姓を賜った今日の機動隊」みたいな感じがしないでもない。


 というのは、なにしろ源氏が謀叛を企るたび出動しているのが、その後の彼らだったからである。
 とはいうものの平氏を、日本武士団のカテゴリーに入れるべきか否か迷わされもする。というのは、安芸宮島厳島神社宝物毆に納まっている平家の人たちの佩用刀なるものが、いわゆる剣でもなく日本刀でもなく、前述のごとく、
 「ストレー」と今はよばれる棒刀で、「ヤガタン」とよばれる三日月型刀と同じもので、これは旧トルコの特殊武器だし、また宝物になっている平家の楽器は、
今日でも同型の色彩あざやかな物を、ベイルートの土産品屋で観光客相手に売っているからである。
 また、源平合戦でみられる一騎打ちというのは、それまでの日本や朝鮮にはなかった戦闘方式で、あれはトーナメントとよばれるサラセン独特の勝抜き闘争方式のもので、
ヨーロッパでも十字軍遠征によって初めてもたらされたものである。
 というのも、元寇のとき、もう北条時代になっていたが、日本軍は、やあやあ遠がらん者は音にてもきけ」と、
 源平合戦のように、それぞれ一騎がけで敵に掛っていった。処が元軍にしろ先陣として攻めこんできた朝鮮軍にしろ一対一の戦法は向うにはなかったので、遠慮会釈なく包囲してきて、わが軍の先鋒はみな袋叩きに殺されてしまったのでも、この戦法がまったく東洋的でなかったのは判り得る。
        
       足を洗わせるの意味
 絵巻物などで勇ましく一騎討ちをするのが描かれていてもそれが東洋的ではなく、中近東のサラセン戦法であるとするならば、日本武士団の原点は、いずれによるのかと云うことになってくる。
 『万葉集』の防人は、隊長は官の側でも、その兵は、俘囚の民ゆえ、これをもって一丸の武士団とは見られぬから、やはり八世紀の挙国一致体制の頃まで下って考えねばならぬのかも知れぬ。
 

すると、その考察的立場では、「太政官奏してこれを決める。官吏の員数を大巾に減らし、弓馬に堪えうる者は武に当らしめよ」と、
七八〇年三月十六日官符で編成された軍団で、その八年後の七月に、              
 「征東将軍紀古佐美」の指揮下に入って東部へ進撃した五万の軍団を、その出所も東海道東山道と きわめて明白だから、これぞ日本武士団の元祖とみるむきもあろう。しかし、
 「強い」のをたて前とするならば、この五万の兵団は平泉まで攻めこんだが、白旗党の女ゲリラに徹底的に叩かれ、首を取られる代りに、男の別の首をもがれるなどして惨敗。
と書くと奇異に思われるだろうが、当時の日本原住民の女たちは強く、大陸軍の男どもの一物をちょん切ったのてある。
慌てた男どもは、それまではフリチンだったのが、この時代から局所防御用にフンドシをするようになったのである。
だからこの褌という字は、衣編に軍と書く和声漢字の第一号にもなった。翌年九月に、這々のていで逃げ戻ってきているから、あまりにも弱すぎて駄目かも知れない。
 さて、そこで次の七九〇年には、占領軍将校用の、「革甲二千領を諸国に命じて製作せしめ」という事になり、あけて七九一年正月、
 「百済王俊哲、坂上田村麻呂(父当麻呂は百済人)に東海道軍の閲兵をさせ、弓矢甲胄の不足を補わせ、兵糧十二万石を用意のうえ進発」という国家総動員の大作戦にエスカレートした。

 五万で三年前に完敗してきたから、すくなくとも十万以上は送ったものと想える。そして、「夷を制するに夷をもってす」
 の諺があるが、東北に追われていたのは北方系だから、それを南鮮糸の百済人に討たせたのかも知れない。が、この結果、今はヘドロで有名な当時の清見潟に当る、
田子の浦まで攻めこんでいた非圧迫原住民共を、撃破してこれを東北地区へ追いこみ、どうにか今度は勝ち、一時は疎開していた山背国の天険長岡から、七九四年には新都平安京、いまの京へ移ろこともできた。
 が、この都市計画に当り使用されたのは、東北から連行されてきた捕虜の群れである。
 現在のナホトカやハバロフスクは、旧ソ連軍が日本軍捕虜を使って作った都市だが、京都もそれとやはり同じことであるらしい。
 金達寿氏は自分が朝鮮人だから、どうしても東大寺を建てた良弁僧正から延暦寺を作った最澄や、行基上人まで、みな朝鮮人だというが、まだこの時点においては、朝鮮系は、
 「平野四神」などお守りする神様派であった。
 今でも神主や禰宜さんは白衣をきるが、あれも彼らの白衣の伝統によるようである。
 さて平安京や延暦寺をたてる為に連れてこられた捕虜は、その後どうなったかというと、酷使で半分位は死んだろうが、生き残った者は洗脳され、足を洗わされたものらしい。
 
今でもヤクザなどは仲間から抜けることを、足を洗うとか足抜きというが、その頃被征服民の原住民はみな裸足だった。
 といって足を洗って清めたから履物をはけるようになった、というのではなく、履物を作らして貰う方に廻された。百姓が余暇にワラジを作ったように今では誤られているが、繩はよったが足につける物を百姓はこしらえていない。
 下駄の歯入れ靴直しを今でも営む人々の地方かあるが、駒下駄、草履や靴作りは後世まで彼らの限定の職業と定められていたのである。
 東京でも前に彈左衛門新地たった花川戸から聖天町へかけては、そうした問屋が今も軒を並べているが、これも昔からの伝統なのである。

 ついでに附記すれば中国地方や九州では、「彼らが転宗して、西方極楽浄土の仏教徒になることを、八(鉢)ひらき」というが、
それより東では足洗村とか、東京の大田区にあるような洗足の地名で残っていたり、「出郷」とか、愛知県などでは、白旗や白衣を棄てる意味から、「転白」とよび、この字を換えたのか今では、「天白川」などの名に変ってなっている。
 もちろん武家の側からゆけば、伝統として、
「白」というのは誇りであって、なんらそれを恥しがることもないので、源氏を呼称する徳川家などは、ご一新まで秋風のたつ旧暦の八月一日には、神君家康公が、小田原から江戸入りする時に、
白布をまとい白旗をたてて、当時は白の地帯であった江戸へ入府した故事来歴を尊び、
 「八朔」と袮して江戸城では将軍以下奥女中も白服をつけ、吉原の女郎もこの日は祝って白衣をきたくらいのものである。





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