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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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石破茂に見える「イ」姓列の考察。

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自民党の安倍一強が続いている。色々批判もあるがこう長く続いた政権も珍しく、次期総裁総理の候補者は鳴りを潜めているのが現状。
名前が挙がっている岸田文雄政調会長と石破茂氏が居る。2019年7月14日の街頭演説で安倍首相は、岸田氏を後継指名したともとれる発言をして、今後憶測を呼びそうである。
いずれがなるにしても全く期待はできないが、ここでは彼の姓「石破」の「イ」姓について考察してみたい。

 たとえば石破氏が公約の柱に掲げた「地方創生」。石破氏は経済再生を最優先課題に挙げ、その核が地方創生だという。
 石破氏は第二次安倍改造内閣で初代の地方創生担当大臣を務めた。国会議員票を固めた安倍首相に対抗して2012年の総裁選の再現を狙って地方票を取り込みたいという思惑があったのかもしれないが、
自分が担当大臣のときにめぼしい成果はあげられなかった地方創生を、今さらアジェンダに持ち出してくるところに石破氏の政治センスの無さが表れている。
 
そもそも地方創生というコンセプトは本当に成り立つのだろうか。もっと本質的な問い掛けをするなら、地方というのは創生できるものなのだろうか。
田中角栄元首相が「国土の均衡ある発展」というビジョンを掲げた時代は、地方に開発の波が押し寄せた。
 ただし、それは地方が自ら呼び込んだ開発ではなく、成長期の日本が稼ぎまくって中央に集まった富を、税金で吸い上げて地方に回したにすぎない。
中央のおこぼれにあずかっただけで、つまり分配論である。
 「創生」には「はじめて作り上げる」とか「一から生み出す」という意味がある。地方創生というからには、最終的には地方が自律的に生きられなければ意味がない。
という事は、地方が「政令」ではなくアメリカのように独自の法律が作れるようにしなければならない。
よく地方自治という言葉が使われるが、日本は「自治省」という役所が霞が関に在って、地方自治が出来ないようになっている。
だから石破氏が、安倍総理と対立軸を鮮明に出すなら、東京一極集中の「大きな政府」ではなく、道州制の導入を掲げるべきである。
さて、このイの付く姓で有名なのは石原慎太郎氏だが、彼も結局、青嵐会から東京都知事を経て何もできなかった。
このイ姓の特色について以下に考察してみましょう。
イイとあかんの姓
関東では否定的に「イカン・イケマセン」という言葉が、関西に行くと「アカン・アキシマヘン」と変わる。
だから箱根を境に東の「イ」は西の「ア」と同じになる。しかし静岡以西となると「イはいい(良い)」と云わぬばかりに、
「ポーラ化粧品がセールス販売で初めて大成功したのは、イの付く姓を持つ伊藤、伊丹、五木、石川、井上といったのを選抜して、
各地の所長にしたからである」
 といった「成功者列伝」の本がある。たしかに石原、井吉、伊沢といったイのつく姓の人はソツがないのが多い。
高度成長期の日本で、いわゆる大会社の会長や社長はソニーを初めこの発音の人たちが多かった事実が在る。なにしろ昔は人口がすくなく、
 「イ部落」の者はイーさんだけだったのが、やがて人口が増えてくると、イだけでは区別できなくなってきて、そのため、
 「イの田」とか「イの川」「イの山」となり、当て字が岩ならば、それが明治以降は、「岩田、岩川、岩山」となり、井戸でもある所なら「井田、井川、井山」となって、イの姓が人々についた。
 かっては「夷(イ)異(イ)つまり大陸占領人と異なる、日本原住民の意味」とも呼ばれていたせいか、心の中では力強くむくれて、(なにくそツ)と思っても、
顔には出さず二コニコしてみせては、あたりさわりのないようにして、「ハイ、ハイ」とか「ヘエヘエ」と如才なくやって巧く立ち回ったので、誰からも警戒されず、
 「人あたりの良いやつ」と便利がられたゆえ、何処へも進出でき、次第に立身出世したものらしい。
 「石川ノマロ」とか「井沢ノマロ」の名が六世紀頃から身分は従五位下ぐらいだが、国介つまり現地の県副知事として、で六国史の中には散見されるようになり、
昔から要領が良かったようだ。
 まあそれだけの伝統精神というか血統があるゆえ、世渡りが巧いのもイ姓のもつ強味であろう。
 デパートの松坂屋のごとく、「伊藤屋」の暖簾で三百年の歴史をもつ店もあるほどで商売上手なのも多い。
だが口がうまいのに親切らしいわと、女の子にも、よくもてるという特性もあるから、欠点は、女で身を誤ることである。
 女性の場合も、その利点を活用して水商売などしている人には、各地に成功者が非常に多い。因みにバーやスナックのママに姓のイニシャルだけを聞いてみれば、これが良く当たるのに驚く。
 イ列の姓の特徴はなにか

 石川五右衛門、釜ゆでの真相
 続いて、イキシチニミヰのイニシアルを頭につける姓の歴史的展開をしてゆくのには、(この相互関連性は後で例をひいて解明するが)さきに、
代表のイの音を追いつづけてみると、どうしてもすぐ念頭に浮ぶのは、「イガ者」として知られた、伊賀がまっ先にひっかかる。これは、<古事記伝>や<地誌提要>によれば、
 「この国は、伊賀津姫の有たり。孝霊帝のとき、伊賀国をたて、のち国府を阿拝(あわ)におく」とある。
 さて伊賀者といえば、すぐ忍術を連想するが、もちろんああした荒唐無稽なものは、はっきりとフィクションである。なにもこの地方に製鉄業が盛んであったわけではなく、
映画やテレビで見せるように、鉄製の撒きびしといった武器を、あんなにパッパと投げたら大変なことである。今でさえ日本には鉄鉱脈がなく外国から原鉱や屑鉄を輸入して製鉄しているくらいだから、
その当時の鉄製の穴あきビタ銭を一文、または一銭というが、これとて、<安斎随筆>によると、天正十七年の豊臣秀吉の発令にも、「乱妨狼藉の輩、盗みは一銭以上斬罪」とあるし、
江戸時代の<髪結職由緒書>では、「藤七郎が徳川家康の髪を結っていたから、慶長八年に家康が江戸入府すると、呼ばれて開業せしも、料金一銭なるをもって、世に一銭職とこれをいう」とあるほどである。
 

いまの時価に換算すれば、小さな鉄銭一つが慶長期で五百円、天正期では千円にも当たる。これでは、忍びの者が懐から出してパッパッと敵に投げつける物は、大きさからみて銭の四倍はあるから、
一個三千円。五十も投げたら十五万円ものの浪費となる。
 だから、もし忍びの者の彼らが存在していたにしても、そんなに気前よく放れるわけはない。では本当のところはなにかというと、丹波と並んで名産だった伊賀の山栗の皮をまいたのである。

 素足や藁のわらじしかはいていなかった当時の敵は、栗の外殻の棘に剌されて苦しめられたのが実状で、現代のベトコン兵が竹串を地面に植えつけ、米兵が靴の下敷にスチール板を入れて防ぐのと同じであろう。
 では何故、「忍び」というかとなると、イキシチニ系の住民には、昭和ではミス日本代表になった、伊東絹子とか歌手の伊東ゆかり、いしだあゆみ、が居る。
現代でも石田ゆり子、石原さとみ、井上真央、伊藤千晃、飯倉まりえなどがタレントとして活躍している。
昔も、美少女や美少年が多いので、狙われ拐され、諸国に売り飛ばされた者が多く、「忍ぶ草、伊賀の山河を恋しがり」の名句があるごとく、薄倖の彼らが忍び堪えたことからでているらしい。


(注)この句は、日本原住民の事を大陸勢力は「草」と蔑称していたから、「帰れる筈もない、奴隷共が故郷を恋しがって」という優越句なのである。
クダラ美人とか朝鮮美人とも、これまでも言われるが、西のイ姓には、きわめて美女が多いようである。
そこでイキシチニのつく姓が、全国に散らばっているのも、この理由によるものであるという説もある。
 さて、イ列のつく姓をもつ者は、我慢強くて仕事の相棒によし結婚の伴侶によし、おまけに美貌だという反面、非常に神経質で頑固だともいえる。
 豊臣政権の時に、大泥棒として扱われ六条河原で釜ゆでにされたイガの国の石川五右衛門にしろ、真相は宗教問題ではなかったかと思える。
転向すればもちろん助命されたであろう。なにしろ千鳥の香炉を盗んだくらいで、公開処刑というのはあまりに大げさすぎると思うし、「忍術などというのは荒唐無稽」にすぎないから、
時の国家権力者秀吉の寝所へ忍びこんで、殺そうとし仁というのも眉唾ものだからである。
桜田門事件は食いものの恨み

 石川五右衛門よりは後世だが、同様にこれまた頑固で殺された有名人がいる。
『花の生涯』というので、脚光を浴びた井伊大老である。
 イのつくこの人の最期は、まだ百数十年しかたっていないのに、まるっきり作り変えられてしまい、
「水戸派は尊王攘夷のため、井伊の方は新日本開国のため、ともに愛国精神の衝突で、桜田門外で白雪を紅く染めた」と、今の時点ではもっともらしく説明されている。
 しかしこれは『侍ニッポン』を書いた群司次郎正や舟橋聖一が悪いのではなくクーデターの仲間に薩人有村治左衛門が入っていたせいであろう。
 明治七年一月十五日に鍛冶橋御門に東京警視庁が創立され、有村の幼友達の川路正之進が、警察権力を握った途端、(亡友有村のために、遺族への下賜金とか故人への贈位問題もあったろうが)
 「喰いものの怨みおそろし桜田門」「もう御免、牛と梅との、食当り」「大老の首を、すき焼うまかろう」
 といった絵草紙類を邏卒に集めさせ、すっかり焼き払って根絶させてしまったからである。
 そして同年夏に『桜田門壮挙録』が出版され、いかに井伊大老が悪党であったかを強調し、安政の大獄に憤激した志士が明治維新のために蹶起した趣旨が宣伝された。
 そこで水戸人も廃藩置県後で、もはや殿様への忠義も失せかけていたし、当時としては勤皇説の方がカッコウがいいから同調したまでのことにすぎない。
これも日本史の救われない一面で、権力の圧迫により、歴史があっさり歪曲されてしまって伝わった一つの事例といえよう。この真相たるや、
<水戸藩党争始末>の<<老公と大老の不和>>の章にも、「老公牛肉を好み給いければ、年々寒中に彦根より献ずる事なりしに、直弼家督後は、これを献ぜず。
老公が何卒贈られるべしと再三催促するも、彦根侯きかず。

老公は江州の近江牛は格別なれば、我等が為にのみにてもと懇願されるも、牛を殺し肉を送る事を国禁になしたればと、
お頼みごと相成り申さず。其後もたって何度も御頼みあり、されど更に承知せざりしかば老公極めて憎み給い」と、
 まるで近江牛の宣伝みたいだが、殿中で直接に頼んで、断わられて老公は恥までかかされたゆえという。もともと天保から弘化までの水戸藩の<那珂湊出入帖>には、
「彦根献上牛肉入荷、小梅柎百荷出荷」といった記載があり、井伊から牛肉を送って貰った返礼に、その舟に水戸名産の小梅を出していたのが、これでも判る。
 さて、この水戸老公の牛肉好きは、「女色のため、すき者として補精に喰べた」という説もある。が、実際は若年の肺結核から薬喰いに始めたものらしい。さて、
「君、恥かしめられれば、臣これに死す」というモラルが水戸学であるからして、水戸斉昭の薬であるところの牛肉をとめられ、その上侮辱を与えてよこすとは、何事かということに家来にはなったのであろう。
 まだ万延元年の頃は勤王などといったところで、天朝さまからは一文も貰っていないが、水戸の殿様には親代々その家臣は扶持を貰っている。


そこで現実問題として、殿さまの憎んでいる相手を倒せば、今でいえばサラリーマンとしての出世の機会である。
だからしてこのとき桜田門へ押しかけた連中は、禄高二百石止りで、あとは同心見習や手代、それに、郷士といった軽輩の連中ばかりである。
 さて井伊大老の方は、何故、そんなに強硬に断わったかというと、掃部頭(御所の清掃係長の意味)と名のる点でも明白な原住民の家系で、出身の遠州井伊谷は、
<熊野速玉社文書>によれば、造営料所になるまでその一帯は、特殊区域の原住系の別所である。
 さて当時水戸城三の丸の弘道館で、水戸光圀以来すすめられてきた水戸学派の内の結城党の面々は、
 「別所に隔離されし者は鳥獣の皮はぎなどなすゆえ屠殺をなし獣血によって穢れているものである」といった説を立てていたからして、これに反感をもち、埋れ木の小宅から、
本家の兄の跡をつぎ近江彦根藩主になると、井伊大老はそのお返しに牛肉輸出を禁じ、「喰い物の恨みおそろし桜田門」となったようである。
 つまりイキシチニのつく姓は直情径行型であり、信念をもった者がその血統だから、当時としては、「御三家」とよばれた水戸斉昭に対しても、敢然として刃向って押しこめにし、
やがては自分が暗殺されてしまうのだが、それまでは、「敏腕家」として認められる才人型である。
 もちろん現代では暗殺など誡多にないから、この型の人はなんといってもいわゆる立身出世のタイプの最たるものであろう。
 もちろん努力はいるであろうが、なにしろ天性ラッキーな生まれつきを持っているから、このイキシチニミヰのイニシアルを姓の上へつけている男性さえ巧く獲得すれば、
女性としては、マイホーム作りなどわけはない。
 もちろん、この型の男性は職場でももてるが、女性にもちやほやされる。だからヤキモチをやいて別れるようなことをしては元も子もない。
また男性の場合は、この姓列の女性を選ぶと、案外に社交性があって、税務署へも代りに行ってくれるし、上役の家へも出かけてくれて、出世のたしになること受けあいといった利益もある。

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