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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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「姓」の法則から見える日本史の深奥「ウ」姓列の考察
「処女荒らし」はウ列の男
《精力絶倫、昔も今もモテるのはウーサマ》
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<ウ>という発音そのものが梵語なのである。
 仏教用語では優婆夷(うばい)、優婆塞(うばそく)が善男善女のことである。乳母と書いて、チチハハとも、読むし、ニュウボともいわずウバと読ませるのも、理由はここからきている。
つまり植木、宇野、臼井、内田、上田、内海、といったウ印の姓の人や、ク、ス、ツ、ヌ、フ、ム、ユ姓の人は、この日本列島へ、
砂漠の国のアラビヤ方面中近東あたりからきたのか、はたまたベトナムか、天竺とよばれた印度か唐からきたか判らないが、高千穂の峰へ降臨してきたと云われる、日本では一番尊い人々の血脈にあたる。
 もしも今でこそ月給暮らしのシガないサラリーマンであったとしても、ウクスツヌフムユのつく人たちの先祖たるやコーンパイプかなんか咥えて、悠々と厚木へきて威張っていたマッカーサーなみに、
かつては威厳があったものである。つまり、「昔は良かった」といわれる家系の人たちがこれに当たるのである。しかしである。
 今でも一夫多妻制だった郷愁が残っているのか浮気っぽくて、男ではオンナに目のないのが多い。
 「多情仏心」というのはこのウクスツヌの人たちのことをさすのであろうか。
 よく亭主関白という言葉があるが、これはこの系列の男の特徴ともいえる。
 が、別にそれは悪いことではない。威張るだけのことはあ。つて、体制側にぴったりくっついて実に要領よく出世をする型で、役人とか公吏といった向きにできていて、
「能吏」というのか、実に仕事がてきぱきやれ、人間的にも練れている人が多い。また、人当りのいいのが特技ともいえる。

 だから変な話だが、つい誘われて女が最初に純潔を捧げてしまう相手は、えてしてこの種の姓の男が統計学的に多いということさえいわれている。
これは現代ばかりでなく、さかのぼって江戸期でも、「もてるのは、ウーさまという」といったのが、黄表紙の、<春告鳥>にも記載され、
<忠臣蔵>でもこれは大星由良之助が女にもてるのを表現するのに、当時の戯作者は、ことさらに「浮きさまエ、手のなる方へ」と、祇園一力の場で、女形の者たちに斉唱させている。
                                            
 またウクスツヌフムユ列のつく人は、自信があるというのか、女にもてるだけでなく、きわめて大人的で悠々たるところが在るのも特徴である。
<赤松再興記>に「百済国人の後裔備前三郎高徳の末孫」と出自が説明されている備前の宇喜多秀家などは徳川家のために伊豆八丈島へ流されると、
普通の者なら、参ってしまってすぐ早死するところ、<流人御赦免並に死亡帳>によれば、八十四歳まで長生きして、浮田編みと呼ぶ苫あみをしながら、若い島の乙女と仲よく添いとげていたと、伝わっているほどのんびりしたものである。
 ウ列が幅をきかした平安時代
 さて徳川時代より五世紀前の頃のこと。その時代は、「紫式部、清少納言、赤染衛門、和泉式部」といった人々が<源氏物語>なんかを書いたといわれて、
女流作家なるがゆえに賞められ威張っていた時代である。だから現代と同じでやはり女類が誇らしげにしていた。つまりその当時に生きていた諸君の先祖も、第三ウ横列以外は相当に女性にいじめられ、灰色の青春を過ごしていたのではなかろうかとも想像される。
 何故かといえば姓というものは、一つの鋳型にはまってでてくる製品に、何々印の第何号とナンバーがつくように、昔からカテゴリーが決まっているのである。
 だからして、これを「血統」という。俗には「瓜の蔓にナスビはならぬ」とも表現する。つまりそのご先祖がお人よしなら、キミもまたお人よしだということだ。
 そして、一千年前の清少納言の時点は、どんな時代だったかというと、アイウエオのウの字。つまり第三字目のウ横列の姓の黄金時代だったからである。

この時代「藤原氏」をもって代表されるウクスツヌフ姓は、純舶来系で、天武帝の時に制定されたが、当時は、この一門の姓をもつ者がエリートだった。                            
「満月(もちづき)の虧(かけ)たる事も無(なし)と思へば」と藤原道長も豪語していた程の時代である。紫式部だって夫は藤原の宣孝である。
昭和になっても、この姓の者は、
ウ、植村環、臼井吉見、内田百
ク、蔵原惟人、串田孫一、桑原武夫
ス 菅原通斎、杉浦幸雄、杉森久秀
ッ 都留重人、鶴見俊輔、角田喜久雄
フ 福田清人、福田赳夫、舟橋聖一、藤原審爾
列姓遺伝でそうそうたる社会的な名士がそろっている。
だが一人ずつの顔を写真でよく眺めると、「まこと、血筋とは争えぬもの」としみじみ感ずる。なにしろみな大陸的な風貌である。
このウ横列は、海の彼方の空遠くから、日本列島へ進駐してきた氏族の末裔である。
 さて、紫式部が<源氏物語>を書いたとされる藤原時代より二世紀後になると、「われこそはミナモトの民なり」と原住民であることをスローガンとし、八幡さまの八の旗や白山さまの白旗を掲げ、
一斉に蜂起したのが神信心の日本原住民である。しかし彼らのことを源氏とよぶのは、
<源平盛衰記>や<平家物語>の作者のコジつけらしく、彼ら自身、自称はしていないようである。足利期では、彼らは、
<白旗党>とよばれ、江戸中期になって、初めて侮称として<源氏>の呼び名が普及したのである。だから今でもブローカーを源氏屋と呼ぶ。お女郎さんや酒場の女の店の名を源氏名を付けている。
女が春を売る店を源氏店(芝居では玄冶店としている)。
この名残は今でもキャバクラやスナックなどの風俗店の女は、本名で出ているのはまずいない。店の名は全て「美香」とか「ユリ」という源氏名を付けている。
江戸時代には浮浪人狩りを、源氏狩り。蛍でも、山の中で巣くいふらふら飛んでいるのを源氏螢と云い、これらは全て原住民を軽蔑した言葉である。
それを今の無知な歴史屋が、「源氏」「源氏」とやるから今ではよい方に間違われてしまっているようであるがおかしな話である。
 さて日本インディオに当たるアカサタナの姓は、女尊族だから、昔も今も、男は女房にしごかれ、
見かけ倒しで精力に欠け、から威張りはするが、あまり、あの方の実力がある方ではない。内向型のハムレットタイプが多い。
 それに反して、舶来ウ横列は、一人の女房をもて余すどころか、祖国ではハーレムに何百人、後宮三千人。順番に回って歩けるほどの、実力者の末裔だから、きわめて外向型だ。
 この極端に相反するア横とウ横列にサンドイッチされているのが、イ横の姓列なのである。
 「だから常識的にみると、双方の融合」
 「弁証法的に解釈すれば、アを正、ウを反とみて、正反かけ合わせてうまれた『合』」
 「つまりセレクトされた純良優秀種だ。だから、いまの時点で流行し、売れっ子になり、『わが世の春を謳歌する』ハイクラスだ」
 −と、伊藤君や志村君や南氏は、いってほしいだろうと思う。だが、<姓の方則>では、これは、「第二次大戦による第二次字列の勃起であろう」と解釈する。
次回は「第二次世界大戦とイ列勃興の関係」として書いてみましょう。


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