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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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日本原住民アテルイの隆起 (阿弖流為と当て字がされる)
 
アテルイという名は「悪露王」とも当て字されて日本史に出て来る。別名を大墓王(たものきみ)モッコともいう。
大陸勢力に、東北へ追われた我らがご先祖、日本原住民を率いて果敢に戦い、北上川畔のアクリの里より出陣。アトロイともいわれる。
 アが上につくからには天の王朝とよばれる海洋渡来系、淡海国の王だったのでしょうが、彼らの武器が、竹の槍や弓矢では大陸人の鉄剣、鉄槍には勝てず、止む無く
寒冷の東北へ追いこめられていたのでしょう。処が自村江で全勝した大陸勢力は、その余威をかって日本へ進駐してきた彼らは、
辛うじて日本へ脱出してきた百済王善光王をも捕えたので、当時、日本に君臨していた百済人は、やむなく中国勢力に帰順帰化した処、
彼ら大陸人は、百済人の若い女だけは慰安婦として、奈良の都へ残されたものの他は放逐した。
だから、百済の男共はやむなく彼らは忠誠をしめす事にしました。そして、かつては日本列島を植民地にし、三分していた新羅・高麗の者らを同じ朝鮮民族なのだが、蕃族として、
大陸製の武器を借り討伐隊を作って送りこみました。
さて後には「吾こそはミナモトの何々なり」と名のるようになる彼らの先祖も討伐されて、東北へ逃げ阿露王の許へ身をよせることになった。
この現象は、アメリカで南北戦争の後、解放はされたものの黒人が迫害され、インデアン居留地へ逃げこんだのと同じような具合だったのでしょう。
即ち、海洋渡来の拝火宗徒の許へ、騎馬系(新羅や高麗の者たち)の子孫が入ったのです。さて、その内に唐本国よりの命令がでて、「産出する黄金を送荷せよ」とでも通告がきたのでしょう。
帰化した旧奈良人たちが貸与された武器をもって、田舎ながらも南部の山はと唄われるように山金がごろごろしている東北へと進攻した。
 多賀城、胆沢城と次々に拠点を作って兵をおき、黄金集めの人足狩りを大々的にやりだしました。
そして「役得」とばかり、眉目よい女人を見つければ強姦し、抵抗すれば皆殺しをしたので、堪りかねた日本原住民系の、天の王朝の残党ともいうべき子孫どもの頭目阿露王の命令のもとに、
竹槍と竹の弓矢の縄文式その儘の貧弱な武器ですが、新羅・高麗の騎馬民族系が共闘体制をとって決起をしました。
 やがて、まず胆沢の砦を占領すると、そこにあった鉄の矛や剣を、ついで食糧も入手したのです。
 伊洽呰麻呂が先頭になって江刺や雄勝らの者らに武器を与え、次には多賀城を奪還し、そこの武器食糧でまた集まった連中を武装させ、エの戸を突破して箱根の山へは向かわず、
海岸沿いにかって、ヘドロで名高い田子の浦、その頃の清見潟まで大軍で攻め向かって次々と集結してきたのです。
 もちろん蕃族として討伐されていた新羅や高麗の者らは馬のりゆえ、今の埼玉県から足柄峠を越えて突進してきました。すると九州の涯へ追いつめられていた捕虜の新羅の連中も、
今の熊本や鹿児島で暴動を起こし太宰府めがけて、途中の官城を攻め武器を調達して進軍してきたのであります。
 こうなると藤原を名のって、自分らこそ高貴な国(つまり当時の唐国)より開発途上国で、水や空気、気候温暖な桃源郷ともいうべき日本列島へ、天下りして来てやったのだと、
総裁の椅子についてふんぞりかえっていた人たちは、びっくり仰天しました。
 「これにクダラ系の者まで団結して、かかってこられては味方は寡数、敵は多数でポコペンあるな」
 「大唐へ救援をもとめたいにも九州太宰府の怡土(いと)城さえ危ないゆえ、向こうへは使いもやれぬ。船便では年に一回の、東北へ風の吹く季節まで待つしかない。
ならば、この際、中大兄皇子系の者をたてクダラ系だけは此方側にしておかぬ事には、全部を敵にまわしては、吾らのこれまでの苦労が水泡となる」
 といったような重臣会議が藤原魚名らによって催されたものらしい。そこで大和国の今来郡とよばれる高市の高野新笠の御子が、急遽えらばれ、人皇50代の桓武帝となられるのであります。
 さて〈祝詞式〉には、「今来より仕え奉りきたれるスメラ大御神」とありますし、〈延喜式〉には、「山城国葛野郡にある平野祭神四座の内の第一座が、今来神であらせられる」とあります。
<三代実録〉には、「平野正二位今木神をば従一位と昇格、ついで正一位に昇叙したまう」とあり、
〈祝詞式〉では「今来神が皇大神となりたまう」とありますが、皇大御神になられた今来神は、葛野の山城に移られる前は田村里、桓武さまの延暦元年(七八二)に従四位上の官位を授けられるまでは、
高野新笠さまの大和の今来郡の祖神であらせられたらしいのです。処が、さてであります。
「今来」とは、今来たばかりと文字づらで歴史書は解釈し、大和朝廷へ唐に滅ぼされて逃げこんできたばかりの帰化百済人のこととしますのは「今来漢人」と彼らを称したと六国史にあるからです。
 吾々が今もこうして用いています漢字は、みな当て字で発音さえ同じなら一つのことですが、「今来」が「今木」と変えられた時点から、今きりだしたばかりの新材木による神さまとなり、
白木作りの社殿が誕生する。駒時に、別に損傷しなくとも50年とか100年目には新しく建築し直すしきたりも生まれてきたようです。
なにしろ「漢」というのは中国大陸の紀元前の国名ですが、百済系奈良人を、「漢人」とよびだしてからは、今来神をも、「カラ神さま」とそれから申し上げるようになります。
 さて中大兄皇子にクーデターをさせ、それまでの高麗・新羅王朝の蘇我系を倒し、藤原氏が壬申の乱でがっちり権力の表面にでてきましたのが、東北と九州の日本原住民の蜂起によって崩れだします。
 さて、漢字の当て字とは重宝なもので、この年代をまさか「蜂起何年」とはできませんゆえ、「宝亀」の当て字で、光仁帝さまの770年代からの年号を、こうした縁起のよい文字になします。
 つまり奈良朝時代と申しますのも、教科書にのっているのとは大変に違いまして、都が710年に平城つまり今の奈良に移ったからといった、地理的な意味合いではなく、
「日本書紀」にも明白に、「韓人、鞍作りを倒す」とあるように、百済系の中大兄さまが646年に政権をとられ、その御子の弘文さまが殺されて終ったのを、
日本原住民の大同団結の蜂起で、またぞろ桓武さまが担ぎ出されて復活なさったとの意味からであります。
つまり時や場所のことではなく新王朝時代の事なのです。
 蜂起した原住民が大挙して追ってくるので、難を避けられるために、延暦三年には長岡の天険に移られましたが、かっての中大兄さま系の百済の者たちが必死になって防戦し、
まず九州地区の肥人、隼人の新羅系を、朝鮮済州島経由で応援に駆け付けた百済人部隊によって挟み撃ちにして、やっと平定したのである。
これ以後、日本史で云う藤原勢力の「平安時代」が390年続くのである。



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