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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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           薩摩隼人の語源
  江戸時代の諺から見える真実の日本史
 
「テ行の諺に、捕まれば慰みもの」というのがある。これは現代の義務教育で毒された頭ではさっぱり理解不能だろう。
 この「te」という発音は「古代朝鮮半島言語史」という大正十一年刊行本の分類に拠れば、高句麗(高麗)の言葉で唐に滅ぼされた七世紀前の古語とされ、身分のあるものが「おい」と呼ぶように使用していた。
 つまり、目下の者へ呼びつけるのに「オイコラ」といった意味がこのteなのである。
  ということは我が日本国の建国統一時には、海の向こうの半島では、まだ唐の軍勢に降参せずに戦っていた高句麗の人間で、日本海をベーリング寒流で沿海州や北鮮から渡って来て、
初めは裏日本に居ついた先住騎馬民族の 四ツの種族の者たちが反体制派の人間ということになる。
 
   「六国史」の「日本書紀」に続く「続日本記」にも堂々と「高麗、新羅の輩は蛮賊として各地に追討」と、建国と同時にその母国が反抗中ゆえとゲリラ扱いされてしまった人たちである。
 
  そして当時、日本国内で追われた高麗人たちが大集団となって逃げ込み住み着いたのが薩摩国である。
 そして薩摩の高麗人たちは征伐されるのを恐れて時の唐国政権へ降伏使を送り様々な貢物を送った。
 
 だから薩摩は進貢国として扱われた。「大宝律令」なる当時の法律では、毎年正月になる前に、二百人の壮丁に乾魚やその他を背負わせ、選りすぐった二百人の美女も体制側の豪いさんの慰安婦の卑女として、
進貢物をやはり担がせて京の都へのぼらせたとある。
  南国の九州と違って、真冬の京に来させられる高麗人(薩摩人)は相当過酷だったと想われる。
 そして当時彼らは何をさせられたかと言えば、楽隊の無かった昔のことゆえ、正月三ケ日だけは合唱と言えば聞こえはいいが、
 整列させられて、ワンワーンと犬の遠吠えの真似をさせられて、式典の音声楽隊に使われた。
だが又年末には新しいのが二百人貢進されてくるのゆえ、彼らは一月四日には皆お払い箱で、京の御所を放り出された。
  食物も貰えず放り出された彼らは、薩摩へ帰るため、必死に食を乞いつつ道々苦労を重ねるが、何とか戻れるものは僅かであり、「サツマホイト」と蔑まれよばれていた。
 今も鹿児島の国分駅近くには古式蒼然の乞食(ほいと)塚三基が残っている。
  
  これが土地の訛りでホがハになり、ハヤト塚という。
 関が原合戦で薩摩は西軍についたが負けた。だが味方である西軍陣中さえも切り開き、必死猛死に薩摩まで逃げ延びたのは有名な逸話だが、それは王朝時代からの「何としても故郷へ帰る」という習性なのであり、
いわば帰巣本能なのである。
 
関が原戦後西軍に属した薩摩を家康は「薩摩ホイトは勘弁ならん」と怒ったという逸話が残っているが、高麗系サンカの結束があまりにも強固な薩摩を攻め滅ぼすことはしなかった、というより、
あまりにも犠牲の多さが予想できて、出来なかったのである。
 
  明治維新後薩長が天下を取ったが、薩摩にとってのこうした汚濁の歴史は消されて、誇らしき美名として「薩摩隼人」としてしまう。
  しかし幕末までは全く違うのである。薩摩でしていたような仕事が当時の本土で通用するはずも無く、それゆえ
 笑いをかうような芸をして見せては、僅かな食を貰って飢えを満たすしかなかったし、寄進された奴婢の子孫である女たちにしろ、三十歳になって御役御免となり、追放されれば体をひさぐしか、
やはり本土では生きていけなかったのである。
    
  江戸時代から「魔窟」などと化け物扱いされた遊郭の「玉の井」が、昔は墨田区に青線として連綿として続いていたのも、
 昔の三十過ぎの女は、ろくな化粧品が無かったゆえ魔女の巣屈のように見られたらしい。
  
さて、歌舞伎役者は「屋号」を使って本姓はあまり出さぬものだが、六代目尾上菊五郎でさえ、「テ、テ」と、所轄署へ芸人鑑札を頂きに行くと、本姓寺島ゆえ「テ」呼ばわりされていたという。
 何しろ七世紀から後、本土で 食を得るために、今言うショウをして廻っていたので「高麗」からとって「コーリャ」「コリャ」がはやし言葉として現代でも残っている。
 余談になるが、戦前まで警察は、映画俳優、歌舞伎役者、漫才師、落語家、歌手などあらゆる芸人の生殺与奪の権、即ち鑑札の発行権を持っていて、
 為に彼らからの付け届けの金品は膨大なものだったという。
 戦後この制度がなくなり、だから、警察は彼らを目の敵の如く、大麻ぐらいの軽いものでも薬物違反として躍起になっているのである。
 
さて、彼らが作って売り歩いたのがコマである。
  騎馬系だから白バケサンカとなった者は、江戸期は危険な仕事で怪我も多かった奉行所配下の御用の「捕方」になり、
 「その手のもの」の言葉も生んでいるし、危険で「どぶさらい」と蔑まれていた「臥煙」(火消し)もそうなのである。
(注)現代では江戸の火消しの事を「臥煙」と書くが、徳川吉宗の頃、熱くて堪らずどぶの水をかぶって火消しに専念する、誰もが嫌がる仕事で、そんな彼らに過酷にも「我焉」(がえん)と呼び名をつけている。
これの意味するところは「我事終わりぬ」という悲壮な文字である。
 後には正月の梯子乗りから、身の軽いと言う意味にして、ましら(猿)のごとくと「臥猿」とし、現代では「臥煙」と誤魔化しているものが一般化している。
「火事と喧嘩は江戸の華」だとか、火消しを「いきでいなせな若い衆」等と美化するが、飛んでもない逆説で、実態は上記したように差別と卑下の裏返しなのである。
忠臣蔵で有名な、浅野内匠頭も大名火消しで、本所材木座の御上御用の火の番詰めの時は、今の祭礼の際のような大団扇で、風の流れを煽って防火していたものだが、
これとて鳶口や大槌で民家を取り壊しの破壊消防が実態で、大名や大身の旗本の邸は守るが、民家など眼中になかったのが実態なのである。
 
彼ら火消しを勇敢で勇ましい、江戸の男の華であると美化して「勇み足」という。だがこの言葉は勇敢な行為を意味すると思ったら大間違いである。
 早まってドジることを指すのである。「勇み足」と現代では江戸の華のように格好良くされているが、 何とその実相は死罪にも近い残酷物語だったのである。
江戸の端唄に「兄貴何処だと姉御に聞けば、兄貴二階で木遣りの稽古」がある。この唄とてよく聞けば、まといや木遣りを持って勇壮に火事場へ出動するはずの火消したちの筈ななのに、
いやいや出かけるようなもの淋しい旋律の唄で、聞いていて彼らの内心が良く解る。
 
続  薩摩隼人第二話 
  江戸時代、全くお国替えの無かった土地は幾つかある。
 仙台、加賀、長州藩などだが、何といっても関が原で負けたのに減封もされず幕末まで其の儘だった代表格は薩摩藩である。
 
 現代と違って江戸時代は日本を大和民族一つ、即ち単一民族とは徳川幕府も見ていなかったから、別個の他民族が多い土地へ大名を移しては反乱が多く、統治不能との配慮からなのである。
 
 薩摩は朝鮮の三韓時代、即ち高麗(弁韓)、百済(馬韓)、新羅(新韓)から朝鮮半島に一番近い土地ゆえ、百済系住民の多い土地だという歴史書もある。
  しかし<大宝律令>時代には年間200人もの壮丁を御所は貢進させ、儀式の時には御所の門外に彼らを 四つん這いにさせワンワン吠えさせて、今の楽器の代わりともいう鳴物代わりの役を命ぜられていた、
という 記録もあるし、高麗系住民は藤原系(中国の唐)の体制から、後に蛮族として反体制部族として扱われてもいたのだから、高麗系が正しい。
 
 毎年200人からの薩摩人がこの後どうするかと言えば、当時の大陸系体制である御所が、旅費や日当を払ってくれる筈も無く、楽器代わりの使役が終わると彼らは無常にも放り出され、
故郷である薩摩へ乞食のように途中物乞いをしながらでも必死に帰って行ったのである。これが毎年のことだからすっかり習い性というか、遺伝子に組み込まれてか、
  後年、島津勢は関が原で、西軍敗退と聞くや味方陣地の中を強行突破で、必死猛死に薩摩へ帰っている。 強烈な帰巣本能である。
 
この時徳川家康は「薩摩ホイトは勘弁ならん」と怒り、島津家の取り潰しを考えていたらしいが、
  前述のように高麗系住民の住む場所は薩摩だけではなく、日本各地に多く、彼らが一致団結して反徳川に回るのは 得策でないと諦めた経緯がある。
 
さて、薩摩の高麗焼き陶器を、秀吉の朝鮮出兵の折、島津家久が連れ戻ってきた帰化朝鮮人達の子孫の作であると 発表している歴史書もあるが、高麗焼きというのはずっとその前から島津家のお家芸なのである。
 
そして薩摩の唐国即ち大陸嫌いは筋金入りで、その理由は薩摩の本国、即ち高麗が唐国によって滅亡させられたからである。
 なしろ唐によって朝鮮半島全部が席巻されるまでは、陳や隋の時代の頃に大陸から薩摩半島に漂着した者も多く、それらの者たちを沖永良部や各離島へ送り込み、
ずっと子孫末代まで薩摩の奴隷として使役していたのは有名である。
 また沖縄の「久米の子」の子孫が「さしの側」として守護していた中山王の琉球王朝を攻め、圧政を敷いていたのも琉球が中国系とみての仕返し、意趣晴らしの感がある。
 徳川綱吉の神仏混合令発布以降、島津家は自国領内に止む無く曹洞宗やその他の寺院の建立は許可したが、日本の仏教の本元とも云う「一向宗」の本願寺派だけは、説教僧を送り込んでくるからとの理由で、
江戸期は勿論明治なっても薩摩入国は絶対不許可だった。
 
また後年、「薩摩木綿」の名称で、中国や朝鮮産の布地を、日本で国産品が出回る様になったが、それは家康の開いた江戸幕府初期の頃で
 薩摩は一手販売で儲けていたのを、一向宗が綿の木を輸入して、日本原住民を仏教に転宗した者たちにのみ紡がせ織らせたから、
  薩摩木綿が売れなくなり、ゆえに一向宗を特に憎んだという説もある。薩摩は王朝時代は軽蔑されて高麗狗とさえ扱われ「さつまほいと」と差別されていた怨念が先祖伝来染み付き、
 鹿児島の小原郡西国分町駅の西側にある古墳は、今でこそ「隼人塚」と呼ばれているが、昔は「ホイト塚」だったそうである。
 しかし薩摩は明治維新の一方の雄となり、勝てば官軍である。そんな恰好の悪い呼び名を許すはずも無く、
 明治以降は「薩摩隼人」は蔑称ではなく、勇ましい美名と今は変わっている。





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