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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

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姓の法則による、日本史の真実
第二次大戦とイ姓列の考察
忠義一途のア列、オ列
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さて、同じ日本人でも、「歴史が好き」というのと、「歴史なんか嫌いだ」というのがいる。
 おかしな話だが、歴史好きという人に、名前を聞いてみると百発百中、アカサタナの横行か、オコソトの横行に決まっている。
 再言するが、現在の日本人の姓で、圧倒的に多いのもア横とオ横の二列だ。電話帳やその他の名簿をひいても、50音の五分の三の割合を突破して、約六割がこの姓の持ち主なのである。
                                                    
これが驚くなかれ皆同族で、かっての被圧迫階級なのである。だから国民の過半数の彼らに本当のことを教えて、もし大同団結されでもしては困るから、
これまでは、この<姓列遺伝>を何も教えないようになっているのらしい。
だから逆に、この歴史を国民に教えて「ア行とオ行」の大同団結を成せれば「原住民の原住民による、原住民の為の政治」ができるのである。政党名は「日本原住民党」とすればよい。
 しかし、これは日本の歴史学の発生が明治二十年代で、しかも底本にしたのが徳川時代の新井白石の<読史余論三巻>というお粗末さで、政権が一変したのに、
「徳川史観」がそのままで通っているというおかしさからきているらしい。というのは、
「かっての被圧迫階級は昔のことを根にもって反国家的であろう」とする誤解による。
 が、こういうのは間違いであって、ウクスツヌ系のごとき公家の側こそ、「かつては船をつらねて渡ってきた仲ではないか」と、藤原氏のごときは恐れ多くも帝位を狙おうとする野心の者もないではなかったが、
その点、アカサタナやオコソ系の連中は初めから、「降参しました」と臣従してからは忠節そのものの国民なのである。
 後醍醐帝の勅を奉じて戦ったのも公家ではなく、上州新田別所の義貞や、楠木正成といった者たちで、彼らは、脇屋に住していた弟の義助はそのままの脇屋姓だったが兄の方は、
新田の庄をとってイ横列系を名のらされたが、その子孫は、「世良田」「徳川」と工横列系オ横列系となった。楠木の方は、ウ横列系のクを公家の側より名のらされたが、俗には、
「河内」を名のり、さもない時は、「ナン」と音読をした。そこで、今でも、「ナンコウ」といった呼び方をされる。
つまり別所出身の原住民系日本人こそ、天皇様の御為にその身を鴻毛の軽きにした忠君愛国の民なのである。
昭和になっても、大東亜戦争時、公家の血の多い京都の師団はさっぱりだったが、「東北健児」として、滅私奉公のまことを尽して多くの血を流したのは、これは周知のことである。
しかしである。
 かつて大東亜戦争の終わりに当時の日本政府は、朝鮮人や台湾人に日本式の姓に変えることを強要した。そして改姓した青年を召集し次々と前線へ送った。
たまたま終戦になったから、彼らは旧の姓に戻ることができた。
 しかし、アとオとの横列の純日本人は、融和された格好のままで今日まできている。だが、それに対して盲従したわけでもなかった。
純日本系は、あくまで、その「血」を純潔に守り通して今日まできている。これが唯一のレジスタンス運動だったのであるらしい。
 アとオの関が原
 さて十六世紀までは、アカサタナの姓をもつ者は、同じアカサタナの姓の者としか結婚しなかった。
ところが、このタブーをゆるめ、オコソの横列も同族だからと、範囲を二倍にして、ここにア横とオ横が血液の交流を認めだしたのは、神君徳川家康といわれる者に起因する。
 もちろん仏君と言わず、神君という点からみても、家康は神徒の出身、つまり原住系だったらしいが、
 『徳川家康は二人いた』によると、家康は岡崎城主松平三郎信康とは肉親関係はない。
家康は浜松から立った徳川党で、岡崎の松平家とは初めは無縁で交戦までした仲だという。だが、三郎の父松平元康の急死のあとをひきうけ、
その伜の三郎信康が成人したら家督を譲る約東をしたのだが、さて信康が大きくなると三河一国を戻すのが惜しくなって、信長の命令と偽って、その生母の築山御前とともにだまして殺してしまった。
 というのであるが、さて家康は、
「ア横行の(マ)の松平姓、オ横行の(卜)の徳川姓」の二つを兼用した。
 このため二千六百年の慶長五年八月、この松平兼徳川の家康は、諸国大名に檄をとばし、天下分け目の合戦をしたが、この時の諸国大名をその姓別で引用を一覧表にすれば、
 ア 浅野幸長(山梨・府中城主)赤座吉家(石川・今庄城主)有馬晴信(長崎・日野城主)
 力 加藤清正(熊本城主)金森長近(岐阜・高山城主)加藤嘉明(愛媛・松浦城主)
 サ 真田信幸(長野・上田城主)佐野信吉(栃木・佐野城主)坂畸出羽(山口・津和野城主)
 夕 竹中重門(岐阜・不破城主)田中吉政(愛知・西尾城主)伊達政宗(岩手・岩手沢城主)
 ナ 長岡藤孝(京都・田辺城主) 南部利直(岩手・盛岡城主) 中村一氏(静岡・府中城主)
 ハ 蜂須賀家政(徳島城主)長谷川重成(岐阜・岩村城主) 花房助兵衛(岡山・高松城主)
 マ 前田利長(石川・金沢城主)松下重綱(宮城・二本松城主)松浦鎮信(長崎・亀岡城主)
 ヤ 山内一豊(静岡・掛川城主)山岡景友(茨城・古渡城主)屋代勝永(長野・屋代城主)
 ワ 分部光嘉(岐阜・上野城主)脇坂安心(香川・州本城主)渡辺 了(奈良・郡山城主)
 オ 小寺宮兵衛(福岡・中津川城主)大関資増(栃木・黒羽城主) 小川祐忠(愛媛・府中城主)
 コ 小早川秀秋(佐賀・名陥城主)小出秀家(大阪・大島城主)近藤重勝(新潟・燕城主)
 卜 富田知信(三重・阿久津城主)戸沢政盛(秋田・角館城主)藤堂高虎(愛媛・板島城主)
 ホ 堀尾吉睛(静岡・浜松城主)堀 親良(山形・蔵王城主)細川忠興(京都・宮津城主)
 モ 毛利輝元(広島城主)最上義光(山形城主)森 忠政(岐阜・金山城主)
 ヨ 横井伊織介(愛知・赤目城主) 吉旧家隆(愛知・吉田城主)米津田政(東京・小岩城主)
  ということになる。
そしてこのア横列オ横列の大名は、豊家思顧の者でも一人のこらず終局的には東軍につき、家康を勝たせてしまった。つまりは<列姓遺伝>の賜物である。
 しかし、現在のクのつく歴史家や、その第三字横列の学者たちは、アとオの日本系住民団結の歴史を抹消しようとしてか、なにも知らずにか、この合戦を、
 「西軍文臣派と東軍武臣派の衝突」と袮している。
 だが当時の武将は戦さばかりでなく、帳面つけや勘定も、つまり経理事務もしたのである。
 現在の自衛隊みたいにシビリアンコントロールが建前ということはないのである。石田三成にしても立派な武将だった。
もし文臣を今日の文士なみに考えるならば、当時の歌道の大家で、「細川幽斎」の名で知られた長岡藤孝までが、やはり東軍なのはなんといいわけをするのだろう。
 起て! 純日本系
 現代はイの横列の黄金時代であることはのべたが、次代は、どのイニシアルの姓の者が、これに取ってかわるかというのが問題だ。
 第四字列のエ横行が、しきりに動きだしているのは事実だ。だが江崎グリコも、今は前ほど一粒で三百メートルも走らない。
エサキーダイオードの発明者もイの井深大に負けて、アメリカへ行ったままである。昭和はエの遠藤周作が谷崎潤一郎賞をとったのと、江上波夫と弟の不二夫や、永六韜が流行ったぐらいである。
が、やはりこのイニシアル列が、次の激動期である令和には日本を制覇することになろう。
 しかしエ、ケ、セ、テ、ネ、へ、メ、ヱのこの連帯民族は、きわめてわずかしか今は、その姓を残していない。源氏鶏太だって本姓は田中で、ア列の人間だ。
セで働いていた千田是也も、本当はいま流行の伊藤姓のイ列だ。
 孤立する姓列の民族の運命を象徴していたのは、目下のところ故芹沢光治良だけでテだけが元気で、
漫画の鉄腕アトムの手塚治虫、詩人の寺山修司、草月流の勅使河原蒼風がいた。坊主の寺内大吉は本姓成田でア横行の人間。ネで漫画の根本進と「天皇家の歴史」を書いてにらまれた、
ねづまさしなどがいる。
 へもメもこれはという名を思い出せない。なにしろこの列を名のるのは全日本でせいぜい二百万弱。
なんといってもエ列は人数がすくないので今のところではバイタリティがないようにも表面はみえる。
 イ横列にとってとにかく警戒せねばならぬのは、また「わが世の春」を謳歌せんとする第三字の宇佐見や藤原氏を中心とするウ横列の進出だろう。
 ウクスツヌフムの姓のつく人達の天下となると、イキシチニ列は押しつぶされてしまうのである。
彼らが権力の座を降りたのは戦後で、それまで千何百年という長い間、ずうっと国家権力を握ってきている。
だから、その蓄積してきた力はあなどりがたいものがあるからである。
 なにしろ前述したように、われわれが見せられる日本歴史だって、彼ら製のものであるからして、このウ横列にじわじわ攻勢をとられたら、今でこそエリートであっても、
かつて集団革命の実績のないイ横列などは、ひとたまりもなかろうと思われる。
昔のように軍国主義にせず、平和に日本を守れる民族はこれから先は、エケセテネ横列か、もしくはア横列とオ横の系列しかない。
いくら伝統の血の流れとはいえ、自分の女房ばかり恐ろしがっていないで奮起するべき時である。攻めるのではなく守るべき愛国精神を発揮すべきだろう。
 なにしろ十七世紀の初頭に「慶長革命」として、一度はまがりなりにも原住民の手で、国家権力を押えた実績もある。
さかのぼれば、その四百年前にも、「文治革命」を成功させたこともある。そのバイタリティをもって、日本のために尽すべきであろうと思う。
 さて関が原合戦のリストは前拙したが、秀吉の若い頃の部下には、
「宇喜多秀家」「上杉景勝」「上田長安」「氏家行広」
「黒田官兵衛」「桑山重晴」「熊谷直盛」「九鬼守隆」
「杉原家次」「薄田隼人」「角倉了意」「須田波親」
「福島正則」「不破光治」「藤井与兵衛」「福原右馬助」
 とウクス横列が多い。また、木下藤吉郎を名のっていたせいか、
「生駒親正」「井尻是時之助」「池田輝政」[石川貞清]「石田三成」「稲葉直通」「木村吉清」「木村常陸介」「喜連川国朝」「城戸十乗坊」「京極高次」「吉川広家」とイキシ列の大名もそろっている。だから、
「羽柴」「豊臣」を名乗っていたが、晩年に秀吉本人が公言していたように、あるいはウクスツヌ系の出身なのかもしれない。
というのは「土民出身」とするのは江戸時代に神君家康を立てるために出来た説だからである。
さて、前記したがエ横列の姓を持つ人たちは昭和になると多く出てきて、各方面で活躍したものである。
○野球でも江本、江夏、江川、江藤、テレビでも榎本美佐江、榎美沙子、江上トミ、それに遠藤周作、江守徼、
永六輔といった工のつく人が頻繁にに顔をだしてくる。
○だから工のつく人は多いように錯覚をするが林家三平こと海老名といったエ姓は元禄十二年の柳沢吉保の大弾圧によって、
生きのびてゆく為に余儀なく改姓を強いられ、今では全国に二十万人ぐらいしか残っていない弱小民族でもあるのだ。
しかし、不思議にエ姓は,アイウエオの立ての繋りかオ姓と結びつき自己顕示欲強くその種族の繁栄を保っている。
もちろんエ姓の男も管理社会ではハミダシして、自由業しかないゆ、妻になった女は堪え耐えて夫についてゆくべくである。
なお、近日中に長期安倍政権の閣僚で、エケセテネの内のセのつく「世耕弘成経済産業大臣」について考察してみたい。



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