ここから本文です
令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
他の追随を許さぬ真実の歴史探求

書庫全体表示

記事検索
検索

全72ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


      《皆様へ最後のお知らせ》
YAHOOブログはいよいよ八月いっぱいで記事の投稿は出来なくなり、以後は閲覧のみ可能となります。
従って、当ブログも今回の記事で最後になります。以後は以下のブログへの投稿となります。
「真実の日本史」を知りたい方は、どうぞご訪問をお待ちしております。
掲載予定記事一覧
伊達騒動原田甲斐の愛と性 三部作
斎藤玄蕃允とは何者か 二部作
真説 森蘭丸 三部作
幻想の平家と源氏 三部作
鍋島の猫騒動 十部作
その他日本史の闇を暴く(サンカ関連記事)多数

ライブドアブログ「新令和日本史編纂所」
http://taiichirekishi.blog.jp/archives/16388761.html
Fc2ブログ「大日本歴史大義」
https://nihonrekisih.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
gooブログ「新令和日本史編纂所」
https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi
Amebaブログ「古代から現代の歴史を見直します」
https://ameblo.jp/yagiri2312/
Seesaaブログ「真実の日本史を読む」
http://yagirisikan.seesaa.net/
白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

 平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。 が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。 だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている。

 ですからでしょうか、その論文のしめくくりの終りの個所に○○をつけて、「義によって百済を助けんとして援兵をだしたものの、白村江の氏礼城の戦いに敗けて兵をひきあげ、百済の臣民をわが内地に移して扶助、 九州の筑紫の防禦に力を尽し、唐には使を遣り旧好を修められしに、唐もまたあえて犯さず、全く無事に結びたり」としているのが、それでもあります。

 その西暦六六三年は日本列島では、古代クダラ語で「国」を意味するナラ朝の時代。つまりクダラ人が日本列島のオーナーだった頃ゆえ、さながらチャンバラものみたいに、 「義によって助け太刀いたす」と日本国が出かけたようになっている。しかしこれは大きな間違いである。 先日もテレビの解説で、ジャーナリストの桜井よしこ氏が、同じことを言っていた。 私は日本の女性論客の中で、桜井氏と中林美恵子氏は大いに評価しているが、彼女ほどの才媛で碩学といえども「日本書紀」と「古事記」を信じ、その呪縛から脱し切れていないのである。

先ず、当時の日本列島に、大唐国を相手に、他国を軍事援助出来たような強国が成立していたという認識が間違いなのである。 白村江で敗戦したのは朝鮮半島の百済で、母国救援に奈良人は吾々庶民の先祖を防人に召集して出かけただけの話。 だから、前線指揮官は百済人だったろうが、強制徴兵された、二万七千人とも三万人とも謂われる日本原住民が、勇敢に戦うはずはない。

 また敗戦して、すぐ引きあげて来られる筈はありません。武装解除され抑留ということになる。当時のことゆえ奴隷に売られてしまっていて、まともには、出かけた壮丁のシコの民達は、 異国の朝鮮半島に拘束されてしまったのが真実。
 なのにクダラの臣民まで、どうして日本へ移送できるような、巨力な艦隊があったり、21世紀末の現代でさえ福祉のよろしくない日本が、そんな扶助行為などを、はたしてしたものでしょうか。

 実際はナラ王朝時代、つまりクダラの都だったのですから、男がいなくなった老幼婦女が、あるだけの物をやむなく牛車に積んで疎開して行っただけの話でして、扶助したのは当時の牛であります。つまり韓国より内地へ移したのではなく、内地の都から安全な土地へ疎開という事態になっただけです。それに九州の筑紫とありますが、最近重要文化財に指定された金田城を始め高安城その他数多くの築城にしても、それを築く命令を誰がしたと言うのでしょう。


  自村江で大勝をし、余威をかって九州へ進駐し、無人の王宮へ翌年五月十七日に姿を現わした唐の劉将軍や郭将軍は、対馬、壱岐に信号用のノロシ台を作らせ、 築紫には上陸用舟艇をつける水城を構築させて来ていたのですが、原住民のゲリラの蜂起を心配してか、翌六六五年八月には答体春初に長門の今の下関にも築城させ、 四比福夫らには築紫の大野城、椽城の二つを築城させるに際し、郭将軍は諸国といっても日本国内ですが、城の積石の供出搬出の命令をだしているのです。 まさか唐の将軍が、唐軍を防ぐ城などを己が部将に命じて築かせる訳はないでしょう。
「大唐郭務淙ラ、二千余人ヲ我ニ送ル」の意味
そのまた翌年二月二十五日に百済帰化人男女四百余人を近江神前郡へ移すとあります。こうなると帰化人とは郭将軍らへ帰順帰化の意味ということになる。  というのも同年九月二十三日には、司馬法聡、令上柱国、劉徳高といった施政官までが大挙してきて十一月十三日に戦勝大パーティーが催されているからである。 そして翌々年になりますと、劉将軍の金田城など大掛りなものが構築されたのであります。


さて西暦六六九年には、「是歳、大唐は郭務淙ラ二千余人ヲ我ニ送ル」と、日本書紀にはでています。 もし自村江の戦いに負けたにしても日本には強力な国があって、進駐してきた唐軍を降参させてしまい、彼らに築城工事を次々とさせて頑強に防備をかためてしまったので、 もはや大唐国も、よって諦めて匙をなげて、「郭将軍らみたいな連中は放ってしまえ」と、我に送ったというのが、今の日本の歴史の解釈であります。  

しかし贈ると送るとでは発音は日本では同じですが、まるで意味が違います。 これはどうみても、「送りこむ」とみねばなりません。百済人は向こうで捕虜にされている者らを戻して欲しいし、王宮も占領されているので皆が帰順帰化したようですが、 新羅系や高麗系はその当時はまだ抵抗をしたのでしょう。

 翌六七〇年に高安城に塩や食糧を積みこんだり、また今の下関や九州に二城を新しく構築し食糧や塩を積みこんだのも、唐本国は二千余の援軍を送ってよこしたきりで、 以降は自給自足せよとの通達だったから、被征服民がもし叛乱をどんどんしだしたら、籠城でもするしかないから、そのための用意だったとみるべき。つまり西暦六六九年の時点での「我ニ送ル」の我は、もう我は昔の我ならずであったのでしょう。
多武峰に居たのは唐の武装軍団
 それを学校歴史では、「高安城などを築いて防備したゆえ、唐軍は攻略不能とみて撤収した」としますが、防禦なら穀物や塩の他に武器を多量に積みこまねば、話の筋が通りませんし、 唐軍のことを「我」とする日本書紀もこうなれば、大陸系の人によって書かれた事が明白な証拠になるのです。

 「唐に使をやり旧好をあたたむ」とあるのも、やはりどうにも変てこです。日本へきている弁髪の人が、故国の友人へ使いをだしたのでなくては、まったく意味が通じません。 しかし、これが学校教育の盲点でありますからして、〈日本歴史資史料集大成〉の原文に頼るしか仕方かありません。

ですからして久米幹文が、やはり「藤原氏論」において「基経大臣が陽成帝は御失徳おわしますとて、御位をおろし奉り己が縁故する処の藤系の光孝帝に取り換えてより、 藤氏と王室の間ますます密となり、より盛んにして、天下になびかざるものなし」として、従来は親王とか諸王宮が大臣摂政となって王政をとっていたのが、 この時から藤原氏がすべて独占のようになった……といいます。
 しかし、もっと前から王政を独占していなくては、清和帝を早く退位させ、その御子の僅か十歳の陽成さまを人皇57代にたて、僅か17歳になられた時に、御失徳おわしますなどと勝手なことをいって、 さっさと廃立などできるものでしょうか。常識で考えてみても直ぐ判りうる事であります。

白村江の戦いの後は藤原氏がすべてを押さえていて、着せかえ人形の首でもすげ換えるよう、帝位をほしい儘にしていたのですから、宇多帝が菅原道真を登用されても何年も保だなかったのです。それゆえ〈日本歴史資史料集大成〉の535頁にある明治史学会雑誌第十号掲載の「多武峰告文使の事」に、 「昔は朝廷に何か変事があれば、藤原鎌足の木像が破裂する事ありて、勅使を派遣して祀られる慣習があったのは、初めは鎌足を摂津阿成山に葬ったのであるが、 定慧が唐よりきて大和多武峰に改葬。肖像をまつり後世になって国家にまさに変事あらんとすれば、その像が破壊すと言われ、時の朝廷はすぐさま勅使を急ぎ送って謝ったものである」となし、 これは〈談峯記〉にでています。

本来なら変事があったら、伊勢神宮へでもすぐに勅使をだして謝るべきなのに、何故に大和の多武峰へ御所から飛んで行ったのかといえば、大化改新のフィクサーで後の天武帝からの、 大陸王朝ともいえる処の基礎をひらいた豪い御先祖さまだからであると言ってしまえばそれまでですが、「坊」といっても今の意味で言えば「防」とよばれる武装隊がここに陣取っていて、 「坊主」とよぶ大将の率いる進駐軍がそこにいたから、それで朝廷では怖れておられたのではあるまいかと想えます。


 楠木正成の若い頃、ここへ攻めこんだら、青竜刀や戈をもち鉄具の道具をもった軍勢が居て、びっくりしたという話すら残っている程であります。 が、なにしろ後冷泉院の永承元年正月に、大内記で作らせた上告文をもって、祈謝の使者としてから、何か事あるたびに多武峰へは行っているのです。

ただ詫びに行っだのではなく変事がありそうな時には、多武峰の「匿し軍団」の来援を前もって京から迎えに行っていたのではないでしょうか。と中しますのも、その538頁の終りの方に、多武峰より、時の関白殿下への進物としての内訳が、 「布千疋」とあるからです。

なにしろ綿の木は中国大陸から藤原時代に仏教の宣教用にと輸入され、栽培も監理されていましたから、僧侶の他に武装兵らが勢揃いし、 相当の勢力が多武峰にはいて、日本原住民を捕えてきては使役に用い、奴婢たちに綿の実をつませ紡がせ織らせていた模様です。
 
ウイキペディアには次のように書かれている。 多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。 『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、 「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 日本史では隠しこまれているが、多武蜂は音読みでは「たぶほう」だが前記したように、ここには「唐からの人間が居た小山」であり、唐から来た武装勢力が多く居たという証拠でもある。
 
 
 
 

煽り運転犯、宮崎文夫の「ミ」姓の考察
イメージ 1
イメージ 2

先頃「あおり運転」の犯人男女、宮崎文夫と喜本奈津子が逮捕された。
連日のテレビ報道で、宮崎の凶暴性がお茶の間には強烈な印象だったろう。
姓の法則を研究している私にとっては、このミ姓の凶暴性は別に不思議ではない。
直情径行の性格だから、ある一定の条件下ではその「負」の性格が爆発するので、理屈っぽいが、本来は気の小さな男なのである。
それにしても、近頃は煽られたり、幅寄せされて、おまけにパンチまで食らって一体どうしたものか。
やられたら、こっちが追いかけて行き、相手の車を止め、逃げられぬようにドアを開けキーを抜いてエンジンを切り、
相手を引っ張り出して理詰めで唸ってやり、話を付けるのが順当だろう。
相手がパンチや蹴りを入れ攻撃してきたらシメたもの。此方が徹底的にぶちのめしてから警察を呼べばよい。これで正当防衛になる。
やられたらやり返すのが基本なのである。
こんな男たちをのさばらせておくことはない。彼らは相手が手出しをしないという前提で行動しているのである。
まあ、喧嘩に自信のない人は、リアウインドウはスモールフィルムを張り、山口組の金色代紋ステッカーでも張っておくことをお勧めする。
閑話休題。
この比較的温厚であるイキヒチニヒミの付く姓を、例によって日本史から考察してみましょう。
この第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。

原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列
 関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、
第五横列(オ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
 何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、
早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、
あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
 反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、
種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、
昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。
 しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、
「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。

イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
 <小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書<享保十一年伊藤甚右衛門指出書>から例を引用してみましょう>
  
◆大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、″イの池田武蔵守〟家来の″ミの水島助佐衛門〟が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。
処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。
 
そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。
そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正〟陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行″ミの水野但馬〟が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、
落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。
   
その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて
″ミの三浦主膳〟の仲立ちで、″イの井伊掃部頭〟へ小姓奉公した。
やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。
だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。
そこで、″キの木股仁太夫〟、″シの清水次郎助〟、″チの千葉五郎太〟ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳〟の娘を妻とし、新しくミの水島流指南〟の一家を設立することがようやくできたのである。
といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓〟と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。
 首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。
 また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。
   イ 今川氏=駿河   伊勢氏=伊勢   一色氏=丹後
   キ 吉良氏=三河   木曾氏=信濃   菊地氏=肥前
   シ 斯波氏=尾張   島津氏=薩摩   
   チ 千葉氏=上総   長曽我部氏=土佐
   二 仁科氏=信濃   蜷川氏=丹波
   ヒ 日野氏=摂津   土岐氏=美濃
   ミ 三好氏=阿波   三浦氏=下総

 といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。
関東の”イ”は関西の”ア”と同じゆえ、これと”ヒ”は別ですが、他は一応は、体制協力型で要領が良い。
またエリート型できわめて順応方ですので人付き合いも良い。男性は直情径行型で信念を持った者が多く、女性にも好かれる。
ミ姓―カラ神信徒の流れをくむ恐れ知らずの部族。
 この姓には、三、水、宮の三つを上につける姓が殆どを占め、後は、南、峰、湊、光、緑、瑞といったのに分かれています。
 もともとは、騎馬民族で神さんを拝んでいたかカラ神信徒の流れだが、進取の気性にとんでいて、終戦時にアメリカ兵の側によって行き、すぐさま商売した人種のように、
恐れを知らず馴々しく近づいて、国際親善をした勇敢さが今も伝わっているのか、海外へ雄飛している邦人にもこのミの姓の人がかなり多い。
 
そしてミのつく姓の人も、やはりイ姓列やウ姓列の二つの姓列の人と結びついている限りは、事業の運営もうまくいくし、交友関係もそつがなく、安全第一ということがいえます。
 一般にあっても、この姓は比較的穏健そのものであって、警察協力会の会員になったり、防犯連絡所になっている家にこの姓が多いのも、法を守るという穏当な常識人が多い例証といえましょう。
 ですから、企業側にあっては、こういう姓のつく部下かを管理職の要所要所に配置しておけば、社運が興隆することは間違いありません。
 また、部下のほうも、この姓の持ち主が上司であった場合は、なるべく気に入られるようにしておけば、自分もしたがって栄進の道が辿れるというものです。
 しかし、この姓の弱さは、自分自身が一派をリードし、全体の統率者にはなったりできないということです。
どうしても、脇役とか番頭役であるにとどまることが多いようです。
 しかし、何もリーダーになって苦労するだけがいいことではないですから、セカンドの位置にあって、己の能力を発揮していくとなれば、
それはそれなりに立派でこれはきわめて堅実な生き方といえます。
 しかし、大きな会社の場合では、すべての幹部が皆、イとウの二つの姓だけでまとめていくということはまずできません。
 ですから、ベンベルグの旭化成工業などでは、社長の宮崎輝は、専務にはクの久保田正雄、イの磯部一充を置き、副社長には他の姓
列のものを統率してゆくためア姓列のカがつく刈谷享を据えて、全部の人事を取しきって、波風を立てることなく、きわめてうまく事業を伸ばしています。
 これはまた、丸善石油の宮森和夫社長にもいえることで、同姓列のイの石渡健二、シの清水菊一、ア姓列のマの松田重一、ワの脇坂泰彦を専務にし、
二つの姓の流れをスタッフに置いて、一時は潰れかけた会社なのに、それをなんとか努力して、もって現在のような隆盛さに持ち直してきています。
 ミの姓をもつ人は当たりがやわらかいというか、他とすぐ親しくなれる特性をもっているので、それをうまく活用すれば事業においても成功するということです。
 これは女性にもいえることで、銀座のバーのマダムや一流の料亭の女将にもこの姓が意外と多い。
 つまりこうなりますと、われら日本人は決して単一の民族ではなく、四つの複合民族であるということを、はっきり把握して、
主脳部はうまが合うからと自分と同じ姓列だけで周囲をかためず、他姓列を押さえてゆくためには、どうしても、その姓の者をしかるべく序列におくことが、
なんといっても会社の運営をうまくやってゆく人事問題の要諦ともいえるようです。これはすぐにも実行すべきでありましょう。

こうしてみると、様々な問題はあるとはいえ、安倍内閣もア列が主導権を握り、オ姓列の大臣や副大臣、政務官を配し、原住民系で手堅く運営している。
内閣の女房役ともいえる官房長官に菅氏という、契丹系の頭の良いのを配し睨みを利かせている。人事としては大成功である。
そして、党の運営には、イキシチニヒミ横列のニの付く二階幹事長だから、安倍一強として長く続いているのである。
会社でも政府でも組織は全て人間が動かしているので、複雑多岐に渡り、果てしなき不毛な現代は円滑な人間関係がより一層大切になるのである。




 
滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察
イメージ 1
イメージ 2

前回は小泉進次郎からの「コ」の付く姓の考察をしました。
今回は彼の伴侶となった滝川嬢の姓を日本史から考察してみます。
先ず彼女はフランス人の父を持ち、母親は「滝川」姓の日本人である。

滝川の「タ」はアカサタナハマヤラワのア横姓に入っている。
このア横列は、原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系)になる。
 神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。
 ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。
 紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、
崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。
 今日でも生まれつき肉食できないという人がいますが、それがこの流れの末孫なのです。
 そして毎年四月から五月に初鰹を祝う風習を、この人たちは「目に青葉山ほととぎす初鰹」と部族の祝いとして江戸時代まで伝えていた魚食人種だったのです。
 つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。
 しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。
 それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、
天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。
 特に、アカサタナハマヤラワの中で、カとヤとマの三つの姓を上につけた人には、「天の邪気」というか、その傾向が今でも強く伝わっています。 
 しかし、人口比率はそれでも多くて、現在でも三千万人以上の多数を占めていることからして、これを、「庶民」と呼ぶのです。が、一般庶民といっても、大衆といったような意味ではありません。
 現行法で摘出子でない、つまり父親だけが認めた子を「庶民」と区別するのと、それは同じことで、つまり一般庶民とは被占領地の末裔の意味なのです。

  姓は、横に結びつく。
  ◆例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横に結びあって、一つの集団、関連部族を形成していたということです。
 これは、江戸時代までは、姓氏の横のつながりが、「同姓」と呼称され、それが相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例によって解明できます。
(1)ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。
 <四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう>
  
◆姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛といったとある。そこでまず、アカサタナハマの増山姓を新設し正利に名乗らせた。
  そして、その弟の資利は″ナの那須〟へ養子にゆき、那須遠江守と号すとでている。
  さて、このアカサタナのリズムで、この列のカ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類扱いにと台命で決められたのが、
″カは加藤右衛門佐忠〟″サは酒井讃岐守忠勝〟″ハは林羅山〟と いう具合にして埋められています。
 
そして、増山が西尾城主になる迄の間これを幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃 守尚政であって、まず初めに彼より五十人扶持を贈られ、
そしてナの成瀬隼人正正虎が、その江戸邸を贈っている。「正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す」とあるように、同姓列が面倒をみることに決まっていて、
その生母が青木と離別後再嫁したのも「ナの七沢清宗」という姓の家であった。が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけは、リズムから外れた。そのため、
 「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。
  つまり、アカサタナハマヤラワ以外の発音のつく姓の女を嫁にしたために、罰としてお寺へ入れられたと いうのです。昔は姓列から外れると厳しかったようです。
  ア姓列とオ姓列は緊密系列
 これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の
〝ホの鳳来寺〟に巣くっていた猿女部族の〝オの小野〟姓の女比丘たちを動員して、
「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、彼はかねて徳川姓の他松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりアカサタナハマのア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。
 
したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。
 ですから、あなたの御両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もしあなたの父方がアカサタナハマヤの一つの姓なら、
母方の旧姓も同じか、必ずオコソトノホモヨの一つのどれかであるわけです。
・・・・・どうです。ぴったり当っているでしょう。
 これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。
 <たとえば〝忠臣蔵〟を例にとってみましょう>
  
 ◆元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、
   「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。
そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。
つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。
    
ところが、このとき朝鮮系の生母於玉の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。
この結果が翌年翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみまと、
   
<細川越中邸にて屠腹の者>大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。
<松平隠岐守邸にて屠腹の者>小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。
<水野監物邸にて屠腹の者>奥田貞右衛門。
   
 この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六,奥野源五、小山源五右衛門、
これだけでもオのつく姓の者は十六名もいるのです。
僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。
だからこそ討入も決行できたのでしょう。
つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。
 関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる。
 これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく「イカン」が「アカン」となるように変わるのは前述しましたが、
発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。
つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。

タ姓・・・藤原氏に追われて身を潜めた温厚な部族
(滝川、滝田、田中、田村、田島、丹野、田尾、龍田、丹下、田畑、館山、等日本には多い姓)
 このタ姓は日本全国に散らばっています。それは、このタ姓をもつ人の先祖が原住系で、陽成帝が藤原氏に追われたとき各地に逃げ、身をひそめていたからなのです。
  ですからこの血がそのまま現代にも受け継がれているためか、タのつく姓は、よくいえば人がいいというのか、事なかれ主義の人が多く、あまり社会的に活躍しているというか、
知名度の高い人は人口の占める比率としては少ないようです。またこのタ姓をもつ人々は今でも血の流れを尊重する傾向が強いところがありますので、
一面では真面目だが、その半面きわめて頑固にすぎるようです。ですから、この姓の上役をもつと部下は苦労することになるようです。
  しかし、家へ戻っても、そうだろうと想像すると間違いで、この姓の人々は案外ぶすっとして,妻が自分にではなく子供にばかり話しかけるといったことを気にしたりします。
  演出家の武智鉄二とか建築家の丹下健三といった鼻っ柱の強そうな人もいますが、一般に案外に真面目人間で小心なところもあるようです。
なにしろこの姓は非常に多い割りには、目立った存在がないというのは、この姓をよくいうならば従順、つまり順応性がありすぎるのです。
なんでもすぐ右へならえをしてしまい、間違っても特異な存在にならないからです。が、その反面、凶暴性をもった人もいるようですから用心すべきでしょう。
  また、この姓には講談本で有名な竹中半兵衛がいます。
  木下藤吉郎時代の秀吉と知り合って、その軍師となって、おおいに蔭の人物となり後の太閤秀吉を作り上げたとする重要人物です。
ですから若い時に単身で、今は鵜飼で名高い金華山の上にあった井口の城を奪ったとか、いろいろ面白く話は作られています。
  しかし、タのつく者がそんなに勇猛果敢だったりやり手であるのは可笑しいというのか、講談では、藤吉郎と知りあった頃は、もう呼吸器疾患で枕も上がらぬ病人ということにしてしまっています。
そして、単に唯のブレントラストの一人といった具合にしてしまっているのです。つまり滝口入道にしろ、現在の佐藤愛子さんの前夫で作家だった田畑麦彦にしろ、みな、きれるという型ではなくて、
温厚な善人型ということに、この姓をもつ男性は決まっているようなものですが、なにしろタのつく姓の人は多いので、これではいけないと発奮して田中角栄のように大をなす人も、その反面にはいるようです。
  例をあげますと、日本石油社長の滝口丈夫、朝日麦酒社長の高橋吉隆、クラリオン社長の滝沢左内、日本無線社長の竹内雄一、立石電機社長の立石一真、日本セメント社長の竹安千春、
王子製紙社長の田中文雄、武田薬品工業社長の武田長兵衛、石川島播磨工業社長の田口連三、ミノルタカメラ社長の田嶋一雄といったように華やかな社会のフットライトをあびている人も多いのですから、
タのつく人でも温厚善良型に納まっているのを潔しとしない人は、男は度胸と覚悟をして、「なにくそッ」とここ一番、胸をはって大成を期すべきでしょう。
  また、姓列でみますと、三菱銀行の会長が田実渉、頭取が中村俊男、副頭取が加藤武彦とまさしくア姓列で首脳陣を固め、その結びつきで都銀のトップをいっています。
さらにこのタ姓は熱しやすく冷めやすい自己埋没人間でもあります。
 このタ姓のつく人は、不思議とアカサタナハマヤワか、オコソトノホモヨの発音姓の相手と恋愛したり同棲したり、結婚しています。
  タのつく男性は、一般に真面目人間が多く、ただの真面目というのでもなく、その裏に頑なまでの頑固さを秘めています。
自己をまず一番に守るといった露骨なところを持っていますから打ち解けそうで馴染めません
つまり、あまり出しゃばらない性質で、人目につかず、自分の生活に埋没する人が多いようです。おとなしいといえばおとなしいのですが、
自己埋没型といえるため結婚しても家へ帰って来た時など案外ブスッとしていたりします。また欠点として熱しやすく冷めやすい面を男女共にもっています。
したがって、タ姓を伴侶にもつ人は浮気に気をつける必要があるといえます。
  女性の場合は、内面が悪く外面の良いいわゆる八方美人型のようです。今は松山姓になっている高峰秀子とか作家の竹西寛子、デザイナーの田中千代といったような並の男より遥かに頭が良く、
それで美人という才色兼備の人が多く、男性としてはこの手の女性の美貌にひかれて結婚すると、あとで後悔するような結果になりかねませんから注意を要します。
それは、前にも述べましたように内面があ まり良くない、つまり家にあっては鼻っ柱の強くなる女性が多いからです。そこで、男性の方が関白亭主になろうなどと思っていると、
まずうまくいかないといっていいでしょう。
タ姓をもつ女性と結婚しようとしている男性は、女性操縦法に自信があるかどうか、自問してからにした方がいいようです。
こうして見ると、滝川姓が上位で小泉姓は従属しなければならないことが理解できるでしょう。
進次郎氏は、独身時代の女関係は大いに結構だが、結婚後に浮気をしたら大変なことになる。
だから彼は、美人で容姿端麗、才女の嫁さんの云う事をよく聞き、尻に敷かれても「嫁さん一筋」を貫いて政治に邁進すれば、何れ総理の椅子も取れるだろう。




 徳川家康が作った「鎖 国」の真実

イメージ 1
イメージ 2
 元和元年五月八日に、かねて懸案の大坂城を、どうにか仕末して豊臣家を滅亡させた徳川家康は、当時江戸中納言から征夷大将軍になっていた伜の秀忠をよびよせると、
 「長年の宿願をとげ、やっと握った天下の権ぞ。孫やその末に到るも、これを手放すではない……それに、もはや合戦というものは槍や弓の時代ではのうなって、
一にも二にも鉄砲や大砲の世の中になってしまった」と洩した。
「……仰せのとおり」と秀忠が畏まると、「うん」と家康も白毛のとび出した眉毛を揺さぶり、ひとつ軽く咳ばらいをしてから、
「さて云わでもの事ではあるが、いくら良うできた大筒や小筒にしたところが、こりゃア玉薬がなくては弾丸も砲丸も飛びはせぬ。
ところが、木灰一割、硫黄一割五分、煙硝七割五分の調合の内、灰は問題ない。硫黄も薩摩から入る。だが煙硝だけは当国では、ひとかけらも産出せぬ。
よって信長の頃は泉州堺の商人どもが一手に輸入して儲けおった。次に秀吉は呂宋(フイリピン)からの船に頼って火薬を入れた。
そして信長殺しに本能寺へ投げこんだ火薬が、天川(マカオ)のポルトガル人よりの到来物とは、世間に知られたくないゆえ、表むきは天主教禁圧ということにしてポルトガル人を追った」
 「……存じ居りまする」合点して秀忠が、又それにうなずくと、
 「うん、考えてみれば、元亀天正の世でも大名共も良き硝石を入手したさに、訳けも分がらずに伴天連坊主を大切にし、勝手に布教など許したものである。よって南蛮坊主共は己れの都合で、
洗礼した大名には良き火薬をあてがい、信心せぬ大名や布教を許さぬ領主には、これをぶっ潰してしまえと細工を致した。
つまり戦国の世というは、表むきでは吾らが血みどろになって戦ったようにもみえるが、
裏へ廻れば南蛮坊主の火薬補給という糸にあやつられ、吾らは傀儡だったのだ。つまり操り人形にすぎなんだのじや……分かり居ろうのう」
 かんで含めるような云い方をして見せた。「よく存じ居りまする」秀忠は顎をひいて大きく点頭してみせた。
 
「世の中を落ちつけ、天下泰平を保つためには鎖国しかない」かねての腹案らしく、家康は年よりらしいせっかちな云い方で結論をもう出していた。
 「……さ、鎖国とは」言葉が難しかったか、秀忠は聞き返し。「とざす国と、唐の文字ではかくのだ」
 指で掌になぞって見せてから家康は、
 
「……いくら南蛮坊主共が、やれ天国だの地獄だのいうて天帝の教えなど弘めにきよっても、そないなものは格別どないな事もない。それより難儀するのは、やつらが信者になった者を手足のごとく使い、この国では一かけらも産出せぬ硝石を輸入し、それを自分らの都合で諸大名に売り渡すことじゃ。 
……火薬がゆきわたれば西国大名の謀叛は目に見えとるというもの。よって秀吉時代と同前に、まず南蛮坊主の伴天連どもを追払ってしまえ……やつらさえ入ってこねば、まさか、足のない硝石の樽がひとりで転ってきもしまい」と自分が先にひとりで頷いてから、
「表むき硝石を勝手に入れることを停止したからといって、抜け荷買い(密貿易)をされ秘かに輸入されては、こりゃ手の施しようもない……よって抜本根源策に『伴天連門徒停止』の名目で、
眼の玉の変った者や、それとくっついた女、その子供らは、これ悉く追放となし、門戸をしめるようにも、国を鎖してしまうのじゃぞ」と、いってきかせた。

 「……恐れながら」秀忠は当惑げに顔をつきだし、
 「そないに国を鎖してしまいますると、わが徳川の家にも、硝石が入らず、もしもの時には難儀を致しまするが……」と口を挾んだ。
 「何をかいう。心許ないことを申すな……何処ぞに一ヶ所だけ、わが徳川家専用の港をもうけ、そこから徳川家だけが硝石を輸入し、他の大名には一粒もゆかぬよう致すのじゃ。
つまり独占輸入法というやつよ」カラカラ乾いた声で家康は笑ってみせた。
「……ならば駿府や江戸に近い今切(現在の弁天島)あたりに定めましょうや」と秀忠が云えば家康は首をふり、
「そちゃ若いのう。苦労がたらんぞ……」綻ばせかけた頬を、また固くひきしめ、
「もしも硝石を輸入している港を誰かに押えられてみい。あと木灰と硫黄さえもってくれば、すぐにも火薬ができる……よって、そこから駿府や江戸へ攻めこまれたら何とするぞ。
だから近くは危ない、遠国かよい。もしもの用心じゃ。九州の平戸あたりとなし、それでも念のため出島など築いて、南蛮人どもの往来は固く禁ずることよ……そんで、
そこ以外は国の戸締りを固くなし、鎖国をもって徳川の家の安泰を計るのじゃぞ」と厳しくいいつけた。
 秀忠「長崎出島」に火薬輸入拠点を造る
 そこで、徳川秀忠は命ぜられた通り九州の平戸に、出島を築くよう埋立て工事を命じたが、その内に年改った元和二年四月十七日。
家康は駿府城で他界。その葬儀や何かで延引していたものの、平戸出島ができると八月八日。
 「きっと申し入れ候。伴天連門徒の儀は、相国(家康)さまが仰せ出されし御遺言にて、これを堅く停止。下々の百姓に到るまで右の宗門に入りその手引きをせぬよう、
入念に取調べをなしオランダやイギリス船は、もし自分の領分へ入ってきた時には、決して直接取引はなさず、必ず長崎表の平戸へ廻るよう命じなされたく、
この旨を(将軍家)上意により、かくのごとく通達申し侯」といった老中連署の命令を各大名の江戸屋敷へ配った。これは「徳川家令条巻十八」に記載されている。
 さて元和九年(一六二三)七月に家光が三代将軍に即位し、一年おいて寛永二年になると、
「天川(マカオ)人一斉にお払いだてのお布令」
 つまりポルトガル人に限っては、特に芳しからぬ事が前にあったからという名目で、先の将軍秀忠が、一斉に国外追放を命じ、長崎の出島といえど居住することは厳禁した。
(これは、その四十年前の本能寺の信長殺しに使用された強力爆薬が、マカオから渡来のポルトガルの伴天連によって、提供されたものだという秘密が、一般に広まりだしたので、
徳川家の為にポルトガル人だけを永住禁止にしたらしい)
 もちろんこの後になっては、
 (硝石を持ちこんでくるのは、何もポルトガル人だけではなく、南蛮人はみな危険なり)
 という結論も出たらしい。しかしこれは治安維持のためで、米国では何処でも一挺三十ドル位で手軽に入手できる拳銃を、日本だけは、
持ちこんだり蔵ったりしていると「不法所持」として体刑処分にまでされるのと同様だが、
 寛永十年 二月二十八日付、
 寛永十一年五月二十八日付、
 寛永十二年五月二十八日付、
 寛永十三年 五月十九日付、
 毎年のように、徳川家安泰のため、火薬を輸入する恐れのある南蛮人やその系類を追払うために根気よく各大名に通告をだした。
 しかし何時の時代でも頭の良い人より悪い方がともすると多いとみえて、
「鎖国とは切支丹弾圧」だという早呑みこみというのか、感違いをしてしまった大名も多いらしい。家康や秀忠の真意が硝石独占輸入であるという裏肚までが呑みこめず、
もっぱら領内の切支丹狩りをしては、これを片っ端から惨酷な処刑で処分した。
 もちろん、こういう恐怖政治をしていた方が領民を弾圧できて、年貢米の取立を厳しくして苛斂誅求するのに、きわめて好都合のせいもあったろう。
が、この寛永に入ってからは例年のごとく出された布告のしめくくりみたいな、寛永十三年五月のものでも、
 「南蛮人はもとよりなれど、その子孫や系類の者も領内に残して置かぬよう堅く申しつけること。もし命令に違反し残して置くようなのがいたら死罪となし、一類の者も厳罰」
「南蛮人が作った子は、片親がこちらといえど養子などにして引取ってはならない。そのようなことをすると自然と成人してから、向うと行ききをするか文通などを生ずるからである。
もちろん当人には死罪を申しつけるが、それに関連のあったと思われる者は一人残らず取り押えて重刑に処するものである」
 といった内容で、宗教問題より、硝石をもちこむ危険のある南蛮人や、その系類の追放にだけ重点かおかれている。つまり、
 「切支丹を追放するための鎖国」と、今の歴史家も、そのままの受け売りだが、林羅山以前の布令を良く調べてみれば、
当初は火薬の輸入を徳川だけが握って独占するため、老獪な家康が掲げた表看にすぎない。
 だからこそ幕末になって長州や薩州が、英国から直接に火薬を輸入するまでは、徳川三百年の泰平が悠々と続くのである。
(幕府が輸入していた硝石は、江戸は西の丸に、大阪は天満与力が管理していた。) 
さて、国外追放にされた南蛮人の身よりの他に、大坂冬と夏の陣で逆徒として追捕され、もはや日本にいては陽の目も望めぬ豊臣家の残党も、
やはり逃亡奴隷の恰好で次々と当時は海外へ流れ出ていた事実が在る。
 しかしジーゼル機関の発明される前で、貿易風と季節風か交互にふくのを利用して、「船は帆まかせ、帆は風まかせ」の時代だったから、近くの天川あたりへ行くつもりで、
現今のベトナムの安南へ行ってしまったり、南支那海へそのまま風にもってゆかれて、「シンガポール」が尖端にあるので知られているマライ半島へ辿りっき、
ここに住みついていた日本人も、かなり当時は多かった。
 現在では一九六三年九月に、マラヤ連邦が旧英領のボルネオとシンガポールを一つにして、「マレーシア」とよばれている。
 だが、この頃はモジョポヒトの一族が戦火で追われて、ここへきて魔羅津加王国をたてていた。そして日本では北条早雲が、関東で覇をとなえた永正八年に当たる一五一一年に、
ポルトガル人の火器によって、この、「マラッカ王国」は一世紀で滅ぼされ、占領者のダルブケルクが、
ポルトガル王セバスチャン家の命令によって統治。「総督」としてダルブケルクの孫が、マラッ力海峡に面したマラッ力のベンハーの丘に宮殿をたて、ここでマレー半島に君臨したが、国名は魔羅津加から「バハン」に変えられた。
                



全72ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事