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              熊沢蕃山
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いろは歌留多から見える日本史の真実
尾張いろはかるた(第二部)

下駄のほう歯がカルタ札になった

「文字」を使うのを追補の手掛りになると警戚し、怖れていたサンカ達の命令伝達は口頭であって、これを「コトツ」というが、どんな形式なのかは誰も解明はしていない、出来はしないようだ。
現存のイロハ唄は、正月の子供のカルタ遊びのために考案されたものではない。
文字を使うと、その痕跡から追補されて殺されるので、やむなく文字でない音声で伝達をとるために、考えだされ、危害にあわぬようにと戒めるために作られたものなのである。
だから、簡単な節をつけて歌えるような短文で纏め作られたというのが本当なのである。
 サンカが生きぬくため作りだしたのが始まりで、菅原道真が藤原氏に殺され、サンカが反体制として問答無用で叩き殺されだした十世紀から、同族への周知の伝達にと今の原型は出来ていたらしい。
 名古屋で纏められ、居付きサンカの商いとして東や西へ送りこまれたイロハかるたは、現在のような、紙を張り合せたものではなくて、木曽のホウの木の薄板だった。
江戸期のサンカは、職業の一つとして下駄の歯入れもしていた。歯入れ板には足には軽いホウの板をみな使っていた。
しかし下駄の歯には、節目や窪み、年輪が入っていては、履いているうちに折れてしまう。
だからこんなのは不良品で使えない。だからこれを廃物利用としてかるたの唄板に使い、銭に代えたのである。
 つまり当今と違って、文政年間から江戸で流行しだした「犬も歩けば棒にあたる」という犬棒カルタは紙板ではなく足駄の歯なみのホウの薄板だったし、関西とてもやはり同じであった。
ということは文字を使わぬサンカのことゆえ、それに何か文字を書きこんで売りさばいたというのでは、決してないのである。
下駄の歯人れ屋のシノガラ(町場に溶け込んで暮らしているサンカ)が、集まった材料の内から、割れがきそうで商売ものにはならぬ歯人れ板のはねだしで、板屑としてかまどの炊きつけにするしかないのを俵につめて玩具問屋へ納人し、それで得た銭で栗とかヒエといった食物を買って、家族を養っていたであろうとは想像にかたくない。
 
問屋ではヒビ入りしかけや節穴の入った物でも、下駄の歯入れ用に、同じ大きさに揃えてあるし、両面をきれいに鉋がかかっているから、明治頃までは「砥の粉」とよぶ白い塗料を両面に塗らして乾かせ、
四十八枚を一組にして下絵かきの職人や、文字のかける女房連中に家内賃仕事で安く内職で仕げさせ、十二枚ずつで色つき和紙の帯をかけさせ、四段割りに箱人りにした。

 その頃、ザラ紙に武者絵を石版で刷り、古紙再生ボール紙に貼りつけのメンコは乾いた処を円形の形抜き機にかけて製作するのが、大正年間から需要も増えて従来のものにとって変った。
 ホウの屑板に両面を塗ったり、黒くフチ取りし乾かして、文字をかかせて作るカルタより、石版印刷なら五百枚から八百枚は、刷れるから、ボール紙を裏面にくっつけた物とに変わった。
 これなら一刷りで千組ぐらいが短時問にでき、夏の暇な時に掛っておけば十二月の初めには、玩具屋の店先にホウの板のカサばって高価なのより、子供のお年玉でも買うことができる。当時、一組二銭ぐらいだから、ずらりと山積みされて安い羽子板や独楽類と共に大量に卸せるようになったからである。
近藤勇、京都を反体制都市ら走らせる
 さて京都が権力に対して反体制的になったのは、日本最初の制服集団(赤穂浪十の討人りの揃いの羽織は芝居の舞台だけだけのことで、本当は揃いの制服など着ていなかった)
の新選組で、多摩の弾左衛門支配地に住んでいた近藤勇や土方歳三が、壬生の八木源之丞宅は五ヶ月たらずで引き払い、その後は、西本願寺の御本堂脇の会所に陣取って、
不貞浪士の生首を並べたり嫌がらせの限りを尽くした。(この為檀家も怖がって近寄らなくなり、西本願寺は東本願寺に勢力を奪われ現在に至っている)
御公儀の権力をを笠にきて、「坊主憎けりや、ケサまで憎い」と放歌高吟して、寺や仏具店の多い京を次々と廻り歩き、
「……これまで、よくも屍を畜生塚や投げこみ穴へ放りこんできたな、その仇討ちだ、思い知れ」と隊伍を組んでは、脅かし廻ったのが起因なのである。

この為、明治維新で京都となってからも、体制をバックにした新選組の仕打ちに懲りた京都人はすっかり反体制思想となって、今でも共産党の強力な地盤になっている程である。
「死せる近藤、京都を反体制に走らせる」というところだろう。


さて、名古屋もんは幕末の新選組よりづっと古く、八代将軍吉宗の頃から、散々に痛めつけられている。その恨みつらみが、文化の頃に現われた犬棒カルタにも、露骨に徳川御政道への、それとなく揶揄し批判を敢えてしているものの、西カルタつまり大坂、京ものは逆に教訓めいて作られているのが特徴である。
 この両者の差異とサンカ自身のクズシリ(統領)からムレコ(家族単位で暮らす者たち)へ判りやすく伝えるものは、「アヌさん唄」つまり(太陽讃歌)とか、明治中期まではアイウエオではなく、
アカサタナハマヤの横並びが江戸時代から同類音とされていたので、それから取って言いならわしたか、これを加賀のサンカは「アカサ唄」といった呼び方をしている。
アイウエオの考察
昔から「文字面にとらわれてはいけない」というのも、日本人は外来の四角張った漢字を嫌い、耳から入る音読を大切にしたものなのである る。                                           
だが東と西とサンカいろは唄は、二種類並べ後で詳述し対比解明してみるが、大槻文彦の「言海」からの伊呂波が、昭和三十年からは文部省の義務教育の国語ではアカサタナハマヤラワの十音が俄かにアイウエオの五母音に変わってしまった。
 そもそもアイウエオ五十音図というのは表音のない則天文字(今はこれを漢字としている)をもって西暦六六四年五月十九日に、奈良王朝の御所を押えた勢力が、建国統一の際に、従来の倭言葉や馬韓語に当てはめて使用させたが、唯それだけでは、なんとも巧く総てに当てはめにくいからして、「反切」とよぶ中国大陸の音標方式をもってして、
テ、ニ、オ、ハ式に、漢字と漢字を繋ぐ接着剤の用途によって生まれたとも言われる。

つまり白文と呼ばれる漢字には、一二三の上下天地昇号と、返り点の「レ」の二つしか、訓読するのに使うものがないので、それでは言語統一には、あまり文障があるので、
「朝二道ヲ聞ケバ夕ニ死ストモ可ナリ」といった具合にアイウエオは使われだした。これを「反切語」となし、天武天皇御即位の西暦六七三年よりとか、籐(トウ)学問所で、
後に文部省にあたる西暦八一二年の勧学院が出来てから考案されたものであると、二説すらもある。
 七世紀の唐は高宗の時代で、のち則天武后となる女傑が妃として当時の今いう当用漢字を「則天文字」と呼ばしめたばかりの時代である。まだ唐自体が漢字の選定をしていたのである。
 とても器用に、まだ、反切などをもち出してこられるわけはない。常識をもってすれば、なんとかして初めは、返り点と送り点だけで、占領した倭国を教育しようとしたが、
なにしろ化(げ)とも界外(かいげ)また下等と蔑んでいた未開発人種だったから、漢字の覚えが悪かった。
大東亜戦争の時に、皇民教育として諺文をやめさせ、強制的に朝鮮半島で日本語を使わせたようには巧くゆかなかったのである。
そこで統治教育に手をやいた勧学院の先生たちが、なんとかバカでも判るように、反切をもちだしてきたのは九世紀でも末期だろう。
 しかし、これは、あくまでも従来の官学派の通説が、「平安中期頃に発生」などと決めてかかるのへ、常識をもって反切を解明しただけであって、私のアイウエオ考はまるで違うのである。


中国の孔子が、「みずから兵を率いて攻めて来たりなば汝らは何んとなす?」と問われると、塾生共が、「はい、謹んで旗をまき、武器を葉て降伏します」と、
異囗同音に中国大陸を崇拝していた儒教万能の江戸期の徳川綱吉以降でさえ、中国よりの「反切」ならば尊重すべきなのに、庶民は、「金釘で引つ掻いたような字を書きやあかって、なんでえ」といった具合に、
片仮名を軽蔑していた。そのくせ平仮名の方となると、「水茎の跡も麗し」と伊呂波の方は遥か段違いに格をつける。
 しかしである。泉州堺から輩出したとされる茶道の有名人たちの遺墨展が、よく開催されて、茶人たちの手紙が現存しているが、利休にしろ紹鷗でもみんな片仮名であって、誰一人として、いろはの平仮名は使っていない。
熊沢蕃山 綱吉の激怒を買う
これには訳が在って、泉州堺はSEN(せん、先住民)が押し込められた土地で、七世紀から世変わりして、大陸から押し付けられた仏教にかかると、
「先住民」のSENが賎民(卑しい民族)と差別されるのである。
 つまり日本列島原住民というか、先住民たちは賤と差別され、すべて当てはめ則天漢字は、これを「仙」とか「千」にしてしまった。
賤は和訓ではシズと発音するから静岡(賤岡)も仙台(賤、千台)と同じで当てはめ文字となるのである。
 中国の「反切」という説も、こうなると可笑しくなる。

江戸時代の陽明学者熊沢蕃山でさえも、堂々と、「中国や朝鮮で生まれた人々は貴種ゆえ、何びとであれ、日本で王となれる素質がある。倭は卑賎種なれば不可なり」、という説を徳川綱吉に献言したから大変なことになった。
この当時、「自分こそが新皇だ」と称していた徳川綱吉はこれに激怒した。そして今いう不敬罪で蕃山を召し捕り、下総古川に幽閉し、後に毒殺してのけている。
何故なら綱吉は勿論日本生まれである。しかし己が生母である、家光の側室於玉の方が、朝鮮済州烏の出身で、器量良しゆえ、京の八百屋の養女として、家光に見染められての出生だから、
これを強引に「自分は朝鮮の血を引いていて貴種の出である」と言い張っていたので、次期が悪かった。
これ以降は徳川が王となって幕末まで続くのである。だから十五代徳川慶喜の時には、「政治の権力は天皇に返します。そして、朝廷から征夷大将軍として頂いた武家の棟梁としての称号を、王として君臨してましたが、これもお返ししますから、どうか一大名として生かしておいて下さい」というのが、大政奉還王政復古の実態なのである。
が江戸期というのは家康、秀忠はサンカ系の血脈だったが、家光、綱吉は仏教系の京の蜷川の春日局(斎藤内蔵介の娘で幼名を於福といい、本能寺の変後、蜷川へ預けられ、十四歳で稲葉市助へ嫁いでいたが、家康に見つけられ種を仕込んだことになっているが、本当は天海僧正の種で仏教系)の血で、大陸系の血脈になってしまった。
これが今度は吉宗からはクダラ系と変ることになる。日本列島は天武天皇の代から朝鮮と中国との代理戦争の一戦場であったことを理解しなければならない。
壬申の乱によってクダラ系は滅ぼされるゆえに、笠井忠氏の「竹取物語の思想的後景」の日本第二学園刊の「教育研究」第九号の論考の33頁にも、壬申の乱の天武側の中華公卿の五名の実
名が、はっきりと列記されていて、作者がクダラ系のせいか、中華公喞たちがかぐや姫にふり廻される道化者として、馬鹿にされたように書いている。
後の南北朝合戦にしても中国の明の代理政権の足利氏と、古来よりクダラのコロニーであった三の宮から湊川で南朝側は布陣して戦ったのに敗けてしまったのである。


 つまり壬申の乱の七世紀から江戸期になっても双方の代理として争いの坩堝だった。徳川吉宗からはクダラ系ゆえ、中国系の公家を軽んじて、東下り際は、ひとまず京で退官させしまい、
前侍従とか前中納言と無官にして江戸へこさせ、伝奏屋敷へ入れてから謁見して、今ではクダラ勢力が返り咲き五百万石だぞと、僅か三万石の田舎大名なみのトウ御所をクダラ徳川は散々に見下した。
 さてここで、ややこしくなるのは、外題でさえ「いろは」とよび、親が「高野の弘法大師の作らせられた四十八字のイロハを教えてやろう」で始まるところの能狂言の一幕なのである。
 昭和になって、新羅古文研究家が、万葉仮名はそもそも新羅固有のもので、クダラ滅亡後も朝鮮半島で頑張ったが、最後は負けて亡国となった。
そしてその時、唐軍に勝利品として持ち去られたのが「新羅郷歌」四千五百首で、その唐語に訳された詩から、壬申の乱で殺した連中が、化けて出てきて、祟りをなしたら困ると挽歌として、
ずらりと日本向けの人名に変えただけのものとする。この詳細は「万葉集は新羅郷歌」として以下にUPしてあるので参考にしていただきたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CB%FC%CD%D5%BD%B8&sk=1
さて、日本人の常識では、全く判らなくなっていることがある。それは十九世紀、フルトンの蒸気機関が発明される迄は、船は水中の潮流まかせで動かされ勝手気儘に運行などはできえなかった事実である。
冬至は「唐至」夏至は「外至」が正しい
それにしても伊呂波であるが、空海こと弘法大師という存在は高野山歴史では、開阻として有難い色々な伝記をこしらえてしまっている。
だが十九世紀に、フルトンの蒸気船が発明されて船が進みたい方向ヘエンジンの力を借りて動き出せるようになるまでは、日本列島に流れてくるのはベーリング海流が突き当ってくる日本海の能登半島や新潟の親潮。
それに太平洋岸へ西南からシーベルトというか、水中エスカレーターのように早く流れてきて、太平洋へ突き出て抜けていってしまう黒潮暖流。それにフィリピン近海と日本との間を流れている赤道潮流がある。

さらに四国と今のベトナムとを数日で結ぶ越南海流が日本列島の各所へ流れついたり通り過ぎたりしているのである。
だから、日本から唐(中国大陸)へ流れてゆけるのは、今は冬至と書く唐至(唐に至る)で毎年冬の東北風の時しかなかった。その反対に唐から未開発の日本(倭)にこられるのは西南の潮流の夏と決まっているので、
「外至」と昔は書き、それが発音だけの変な当て字だが『夏至』と称する。
(未開発の下等な人間の住む倭だから「下至」としたという説もある)
つまり二年かかって、一往復しかできない時代なのに空海が西暦八百四年の冬に入府し西暦八百六年の秋に戻ってきたとされる。
今でいえばトンボ返りである。船待ちというか順風待ちを三十日以上とみて、瓜州海岸から長安の都までの往復も、それくらいかかるとみれば、延べ合計して差引けば、
正味二十ヶ月とは滞在していない計算になる。

中国人が向こうから鑑真和尚みたいに来たのなら納得できるが、短期問で唐語のヒヤリングやスピーキングをマスターし、真言密教なるものを会得し、その二世紀後発生の契丹文字の伊呂波まで予知能力で覚えてこられるような奇跡が、はたして常識をもってして納得しうるだろうか。
 
この裏書は、森田誠蒔氏の「伊呂波仮名」の考疑論文にもある。トウを藤と当て字し御所勢力を握っていた藤原道長が入道した後で、唐が滅び契丹が中国の支配者となってからの西暦十世紀末から、
十一世紀になって伝来したものと、日本の国学者達の研究もほぼ一致しているという。
日清戦役が避けられぬようになってきた明治二十二年の「言海」が、それまで唐制とはいえども実際は政権交替後の契丹国の伊呂波四十七文字を、かなぐりすてアイウエオ五十音にし、
また大東亜戦争敗戦後の十年目の昭和三十年からは、オカミの義務教育が、あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ、と「あ」基礎母音となる処の、十音にGHQ教育指導部が戻した。

 よって今いう処のイロハかるたは。昭和二十年までの産物ということになるのである。もちろん十音の子音による五十音のアイウエオが何処から伝わってきたかは一切これにふれぬことにされ、
さも昔から立派に存在していた日本国特有な自然発生のものと言語学者たちは恰好づけている。よく言えば愛国心の発露であり、悪くいえば彼らの頭脳では探究しえぬ難題だからだろう。
 さて「イロハカルタ」について、現在の通説つまり官学派においては、これを二つに分けている。
が、京都、中京(名古屋)、江戸の各三都説や、又は、京、大坂、江戸の三都説に一般はする。
というのは西暦1824四年の文政七年に尾張の小山駿亭によって「絵本以呂波戒」が、黄表紙本として木版化され残っているからして、三都説の一つにもなったのである。
といって、これは尾張サンカのものではない。彼らは絶対文字を使用しないし、反体制のものが事前検閲出版の時代に黄表紙といえど奉行所から許される筈などはない。
小山は儒教化したカルタを残しただけである。が、ということは名古屋では、口から耳への独得のカルタ言葉が多くの人々に話されていて、
小山の耳にも入り、この儘では御公儀に知れてはお咎めされる、と教訓的な無難なものを版木にしたらしい。今いうカムフラージュであった。
徳川の圧政下に喘ぎ、紀州と江戸の双方の台所入り分まで押しつけられていて、搾取されていた名古屋人を、これ以上は苦しめぬようごまかしたカルタだろう。

 では尾張サンカのクズシリのカミ(統領)が、セブ(それぞれの家族が、五つの単位で河畔や山で生活している状態)を張っているムレコ達に口伝えに次々と教え、
それが名古屋中に広まっていた「天(アンヌ)カルタ」とは、どんな内容のものだったのかとなる。もちろんオカミである尾張藩主から迫害され、たたっ斬られぬようにと災難防止イマシメ歌ではあった。
第三部では、以下を記述します。
一、江戸の東カルタは徳川時代文政年間に始まる。
二、京の西カルタはそれより古く元禄時代。
三、サンカコトツ(口伝え)唄として遥か昔からとされる。


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尾張「いろはかるた」の考察(第一部)
いろはかるたから日本史の「闇」を考究する 
                              
             「序」
「尾張名古屋は芸どころ」と昔から言われ、下手くそな芸は受けつけられないとされている。
 それゆえ現在でも俳優座にしろ文学座でも、まず名古屋で初公演をして観客の反応を観察してから、演出効果の手直しをするし、配役変えまですることさえある。
といって今でこそ名鉄ホールがあるけれど他は御園座ぐらいで、昔は四方拝の火縄を信者にわけてくれ若宮さまの脇の末広座とても今はない。
大須の演芸ホールでさえ滞納家賃が溜りすぎて危ぶまれていると聞いていたが今はどうなったのか。
 しかも名古屋育ちの芸人は名古屋からでは絶対に売れず、育たないとまで古来いわれている。
 今では名古屋での芸ごとは西川流の踊りぐらいのもので、やはり中部の東海地方だけに限定されているのが現状である。
 最近のテレビ時代になってからは、名古屋うまれのタレントも活躍しているけれど、それでもタモリにかかるとクソミソの扱いである。
名古屋弁が八毋音の発音のせいだけだろうかと大いに疑問がわく。
ここで安土桃山時代とよぶ中世の文化華やかな頃に遡って考えてみよう。
尾州から出た三人の英雄
戦国時代、近江に居た八田信秀が、尾張守護職斯波家の被官で尾張を委せられていた織田家に奉公した。昔は「禄を家名に賜る」とか「扶持を家門に授く」といったように、
武士の扶持(給料)は現在のように個人の能率や、やる気とは無関係だったから、八田信秀は織田家に採用されはしたが、その代りに「織田」の姓となって勝幡城の城番を勤めることとなった。
(ここの経緯は、岩波書店刊行「山科言経喞全二巻」の内の言経の父の「言経卿記」に書かれている。疑問に思う方はどうぞ読んで頂きたい)
信秀の息子の内、長兄次兄が早死にしたため、信秀の跡日をついだのが織田三郎信長である。
それに毛利へ送った、安国寺文書で「さりとて、秀吉は八(はち)の者にて」と、きめつけられている名古屋の中村部落の出身である、後の豊臣秀吉が居る。
次に愛知県岡崎生まれだと間違えられているが、本当は上州世良田で生まれで、浜松で育った徳川家康がいる。
 この三人が築いた安土桃山時代は重臣団もやはり東海地域の者が主ゆえ、どうしてもみな、「あのよお」「いかんぎやあ」「やっとかめだなも」といった八母音の名古犀弁が日常会話だった。
 今にしていうなら当時は、この名古屋弁が標準語であって、九州の島津にしろ青森の津軽にしろ安土城へあがったり大坂城や、伏見城へ伺候する時は、名古屋弁のよくできる者を近習に、無理をして会話練習をし稽古をしていたのは、他の関東や関西の大名とてみな同じだったろうと想われる。
(名古屋弁が厄介で難しいのに関口していた諸大名が、秀吉が死んだ慶長三年から一年たっての関ヶ原合戦で、また名古屋弁を苦労して使わねばならぬのは辛いから、京の蜷川財閥から銀も貰っていることだし、裏切りと呼ばれてもかまわぬ、言葉が自由だという家康の方へつくべし)となったのだとする異説すらあるのである。
かつて、井上ひさしの「国語元年」というテレビドラマでも、現在の標準語を作成した川島が、吉原遊郭の廓言葉まで参考に苫労した経緯がでていたが、
それより四世紀前の関ヶ原の戦いのことである。馴染めぬ名古屋弁で苦労するよりはと、続く大坂冬の陣や夏の陣にも名古屋弁の豊臣方へ味方する大名は少なかったのは事実。

 まさか言葉だけでそんなことがあるのかと思う方があるだろうが、
津軽のズーズー弁などで「あのよお」と喋舌るのは、録音機もなかった時代である。多くの大名たちとしては切実な苫労で厭がったのも無理はない。
 つまり名古屋弁嫌いの風潮が大坂夏の陣からは一般に定着してしまった嫌いがないでもない。
そして、徳川家康はサンカ出身であるから三家(みけ)を重んじて「御三家」とよばれるものを創立してのけた。この三家の説明をすると、
(サンカは「ミツクリの一」「フキタカの一」「エラギの一」の三つの区分があった。ミツクリ一は蓑作りの一団、フキタカ一は、笛や茶筅など、竹製品を作る一団、
エラギ一は、芝居、門附け、猿回し等の遊芸者の一団。この上に全国のサンカを統括する「オオモト様」という統領が居て、サンカ集団が成立していた。
これを家康は取り入れ、自分の直系血脈を尾張、紀州、水戸に配置して御三家を設立したのである。)

 尾張藩主にもその子をもってしたのだが、八代将軍吉宗が紀ノ川系つまり朝鮮クダラ系の血筋だったゆえ、邪魔な尾張宗春を閉門処分にし、その後毒殺している。
そして、支藩高須より代って尾張藩主が入ったが、吉宗は吾が伜に田安家と、一橋家の両家を設立させると、幕末まで交互に尾張領主に送りこませ、紀州の属鍜なみにしてしまった。
 「塩尻百巻」の絵図のごとく、尾張付家老犬山三万五千石の成瀬隼人正家の倍くらいも大きな、紀州よりの付目付邸宅の方が人きい有様だった。これ差別の証拠である。
今も○に八を入れたのが名古屋の市章だが、津島が文字通りのまだ、島だった頃から尾張伊勢美濃の東海地方は海洋民族が往みつき栄えていた土地柄だった。
 しかし日本海を渡ってきた青銅剣を持った騎馬民族に、食糧課役を命ぜられても相互扶助しあって、「豊アシ(遊牧民族の馬の餌)原、瑞穂(農耕の栄える)の国」として未問発でも平穏に暮らしていた。
 処が日本歴史では、日本に仕みついてしまわれたので、神功皇后とよぶ馬韓(後のクダラ)人が九州から進攻し、近畿地方を占領してしまい、古代クダラ語の国を意味する処の「ナラ」から、
「奈良王朝」ができるようになると、それまでの四ッの騎馬系と八ッの海洋系の先住民たちは、「クダラぬやつ」「クダラない」「クダラぬ真似はするな」とされ、クダラ人だけが人間で、
そうでない征服された先住民共は非人扱いされた。だが壬甲の乱から、乂しても世変りをするのである。そして江戸時代になると、千代田城が徳川綱吉の代から「江戸が朝廷なのだ」と、
徳川家八百万石の権力をもって自称しだし、将軍家が「我こそが新皇」と名のるようになってよりの八代徳川吉宗は、とんでもない暴れん坊将軍で、
トウ(藤原)王朝の京の御所が、畏れ多くも僅か二万石の小大名なみで窮乏しているのにつけこみ、昔の天智の世をば今に戻そうとするみたいに、クダラ王朝の復活を試みたのである。
 尾張領は六十二万石なのに、別個に二十万石を紀州が搾取して、公儀台所領に半分を取り、残りを和歌山へ送らせたのである。
そのため尾張では衣紋税といって、着ている物へも課悦した。尾張西部は一向宗が綿の実をもちこみ植えさせ、ガチャマンと機織りをさせふんだんに作っていた。
なのにみな紀州へ運ばせ、名古屋もんは明治になる迄はオガラ編みとか、籐の繊維で織ったものしか着られなかったのである。
 もし逆らえば罪人として召捕えられて国境まで追いこまれ、海洋民族なのに、山国の信州へ峠から蹴落されるような、追放の苛酷な囗にあわされていた。
昔の塩尻峠は現をは市になっている。
また、尾張の徳川宗春が、その曾祖である徳川家康の事を、尾張領内にまだ生きている土地の古老達に聞きとりをして、家康と松平元康は別人だとする、家康出生の秘密を「章善院目録」として書かせて世に出した。
 これに怒った吉宗は、大岡越前に前もって、徳川家の事を書くことは一切まかりならんと、 出版統制令を布令させておいて、この法に引っ掛けて宗春は閉門処分にした。
 そして、支藩高須藩より、宗春が紙という紙を取り上げられ、厠用の落し紙にも不自由していると聞き、差し入れがあったことを探索し、
「紙は紙である。又しても徳川家不為のことでも、秘かに書こうとしている所存ならん」と尾張目付けにしていた村垣左太夫の弟の手で処分した。
そして己の子供に田安と一橋の両家を創設しておいた吉宗は、すかさず代々の新藩主として送り込み、次々と名古屋城へ交互に入れさせている。
名古屋城の濠端の土居下に村垣左太夫の輩下共を住まわせて、万が一にも尾張者が反乱した際には、「掘割から庄内川に藩主を奉じて漕ぎ出し、紀ノ川へまで出て脱出せよ」と特別命令されていた。
 そして一橋出身の名古屋城主の時でも、田安家出身の殿様になっても、吉宗の遺言通り、 大陸系の血は尊いのだとする、原住民差別政策は続いていて、
つまり名古屋城下に隠れ住み着いていた「居付きサンカ」に対しても、寺人別に入っていない者は、
「髪を結ってはならぬ。雨天といえど蓑笠は許されず、裸足のままにて歩くべし」となったのである。
この結果が八の部族、即ち海洋渡来系の多い名古屋では、皆乱髪、裸足の者ばかりになった。こうなるといくら御三家の一つとは言え、他国者を名古屋城下へ、外聞が悪くて通すことは、
 見た目があまりにもみすぼらしく、出来なくなった。
 つまり東海道五十三次といっても、「池鯉府」つまり「知立」は今の星ケ崎で、中日球場のある、 鳴海潟だったが、そこから旅人は名古屋城下へは入れなくて、内海廻りで熱田へ出て、
そこから海路五里で桑名の渡しに出る道順だったのである。
 大名行列だけは海上三里と近回りをさせたが、一般には絶対陸路を通さずの原則が、 明治まで続けられた。
この原則が破られたのはトコトンヤレの官軍の東上進軍が初めてだったという。隠されているがこれが尾張名古屋の実態なのである。

名古屋者の怨念、維新戦争で爆発す
冷奴のいわれ
つまり名古屋者は、紀州からきている町目付に見恨られ、熱田浜の塩作り漁の課役や田んぼ作りに、休みなしに働かされ、遁がれようとすれば逃散の罪で、すぐ捕えられるように、見通しが良い整然とした碁盤割の地区に、穴居させられていたのである。
戦前でも名古屋市内は碁盤割りの町並みだったのである。戦後は爆撃の後を綺麗に整地し、全国でも珍しいほどの広域道路の街に見事に復興した。
だから、戦前はまるで文化都市の先駆けのように云われていたが、実態はそんな生易しいものではなかったのである。
京都を始め都市の中へ部落をとじこめていた処は、逃げても見つけやすいようにと枡目になっていたのである。
 明治までは奴隷という言葉はなくて、やっ(八ッ)とかヤッコ(奴)と呼んでいた。今でも豆腐を枡目に切って冷やして食べるのを「冷ややっこ」と呼ぶのはここからきている。
さて宗春を始末してからの紀州系の代々の領主は従来の30%増しの搾取をなすために、休みなしに裸同然の領民を働かせ続けた。この八代将軍吉宗の代から次々と代々にわたって
奴隷使役された名占屋もんの怨念は、維新戦争によって爆発したのである。
 本来なら徳川御三家の一つで、地政学的にも日本の中心で、東上する官軍をここでせき止め、江戸を守る筈の名古屋が、西軍が東北へ進攻となると、雲風一家のやくざ達と共に名古屋もん達は、進んで西軍の先発隊となって「集義隊」として結集した。
 かつて大陸占領軍は、東北の多賀城とよぶ、倭製リオグランデの砦を築き、奴隷となるのを拒んで山の台地に隠れた先住民たちを賤とし、山裾の四方から火をつけて焼き殺した。
そして、センとつく仙台の地名を残したのである。これを東北の宮城として、昔は栄えた今の宮城県を、七世紀からの恨みつらみをはらすため仙台藩や会津藩を徹底的に荒らし廻り、
虐げられてきた名古屋もん達は意趣ばらしをした。
東北戦争で、会津藩家老西郷頼母の娘を隊長とした娘子軍をひっ捕えて、廻しにかけてレイブしてのけ暴れまわったのも尾張集義隊だったのである。
 さて名古屋は八ツ、つまり赤の上地である(海洋渡来民族の民族色は赤)。だから騎馬系の白の四ッが入りこもうとするのには、
白から転向する意味で、転白川でのミソギをせねばならなかったのだが、今日となると、「天白川」と発音は同じでも文字を別に当てはめてしまって、昔を今では判らなくしてしまっている。
さて、序説が長くなると読者も飽きるだろうから、ここで有名な「犬棒カルタ」で、「犬も歩けば棒にあたる」について解説しましょう。(再掲載になります)
掲載した犬棒画像は間違いである。棒が空から降って来る筈もなく、本当は棒は棒でも番太郎の持つ六尺棒なのである。

いろはかるた
「犬も歩けば棒に当たる」の真実
 旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国水平社が結成された世良田事件発祥の地である。
つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、
 「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。
この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。
そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、
 全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化部落で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の明治宮内省が慌てた。
 「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊部落出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は執筆発表禁止にされたらしい。
と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
  明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。
 楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵にずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。
しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。
  一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。
さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、
 「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。
 是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。
  是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、
 「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、
 彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。
だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは製革業者の住んでいた場所だった。
 『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ、
 これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった
限定住民が羨ましがって犬小屋で野良犬の食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。
と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。
  さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが、
 既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。
 新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版になっていた。
  なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。
 「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、
 本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意にし、バレン刷りと、和紙閉じにした。こういうのを猿知恵というのである。
  そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。
 「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物は持っている。



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いにしえの奈良の都の八重桜・・・・・・ 
記紀は藤原氏によって捏造された
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西暦8世紀の人皇43代元明帝の710年から、784年の人皇50代の框武帝の延暦三年までをさし奈良時代とします。しかしナラはクダラ語で言う処の国の意味なのです。
 西暦六六三年の白村江の戦いで、奈良王朝の百済人は、本国のクダラ救援に総力をあげて攻めこんでゆき大敗した。その翌年から当時は三つ編みの弁髪の中国の将兵たちが堂々とのりこんできて、
奈良の王宮へきていますのに、なんで今さら唐によって滅ぼされてしまったクダラが、日本列島にナラ王朝などを作り得るでしょうか。変な話だが、これには裏がある。
 また仮りに8世紀初頭から、圧迫された日本原住民たちが堪りかねて捲き返しに一致団結して、駿河の清見潟までアイウエオを一二三四五の合言葉に怒濤のごとく進撃してきましたゆえ、
大東亜戦の時に本土決戦にそなえて信州の松代へ大本営を移そうとしたごとく、20世紀の今でさえワラビ採りに行った主婦二人が襲われ殺され迷宮入りしているような、辺ぴな長岡へ急遽、都を移した延暦三年までがクダラ王朝であるとみるならば、これまた可笑しなことが二つあります。
 この年代に、まず古事記が712年にでき、ついで8年後に、日本書紀ができている事なのです。
 クダラ王政下でしたら諺文(おんもん)でなくては変なのに、これが唐よりの四角い文字即ち漢字で書かれているという事である。
 マホメットのコーランがイスラム語で書かれているからこそ信用されるのでして、もしラテン語でしたら十字軍遠征時代の手作りと怪しまれ、絶対にアラブの信仰の対象にはならないでしょう。
 仏書や仏典にしても初めはサンスクリット語のものが、中国経由で渡来したからこそ漢字漢文になっても許容されている。
それでも梵語、梵字も伝わっているのです。となると漢文体の古事記や日本書紀の原本も中国大陸経由できたものでしょうか。オンモンとよぶ朝鮮文字が共に残っていないのも、実に変な話です。
 唐令そのままの大宝律令が、飛鳥浄御原律令を拡大整備させたものとし、藤原不比等が立法化したとされ、
彼が西暦708年から右大臣となるのも、これまた、まことに申して辻つまが合いません。

 その才覚をかって登用とか、藤原鎌足の子ゆえといろいろに言われますが、正直に申して朝鮮の人より中国大陸の人方が頭が良かったということもありません。
ただ本当の歴史からみて中国大陸の唐人は戦勝人間でして、朝鮮半島人は当時は戦敗人間だっただけ差異でしかありえません。
 さて大陸人は、白村江の戦いの前から日本へ渡来してきていたのを桃の文字を使用し、その後は藤と変えますが、この時代からは藤原と同一の貴姓にします。
騎馬民族の崇神王朝系の蘇我の人々が、芝居では「曾我の仇討」という同音の当て字も使いますが、一般には「われこそミナモトの民なり」と源を姓に統一しますし、
その前の天の王朝系も当初は、みな天の御一門である。のちになると改姓して皆それぞれ熊野者も「平」の御一門となる。
処が百済、新羅、高麗となると統一姓はございません。「コウラーイヤ」と芝居で松本幸四郎らに掛け声が残る他は、瀬戸物の青磁の名物ぐらいです。
もちろんコマと縮めれば、狛犬とかコマエ百姓、独楽のコマの原語もそうですが、占いコックリさんとしても残っている。
 新羅となると、八幡太郎義家の弟で、新羅三郎義光ぐらいで統一姓どころか何も伝わりません。
 百済にしても「クダラにあらざれば人にあらず」とし、クダラねえといった俗語が21世紀の今でも使われる程なのに、法隆寺の百済観音像の他は、平安初期の画人百済可成の名ぐらいしか残りません。
 三韓時代から日本列島を植民地にして、あらゆる地域を三分し備前・備中・備後と命名していたくらいのオーナーなのに、各別はおろか統一姓すら伝わっていなくて、奈良の国名すらも、今では「オナラのごとく消え」とされ、江戸期でも「音はすれども姿はみえず、ほんにそれゆえヘイ城京」と狂歌にされているくらいです。
ということは徹底的に奈良人は進駐軍によって奴隷扱いされキイの川の流域に初めは閉じこめられ、やがて男はヨボの走り使い、女だけは単身進駐の大陸人の臥床御用だったようです。
 「いにしえのナラの都の八重桜今日ココノヘに匂いぬるかな」の唄にしても、
桜の花は八重桜にしても染井桜にしろ決して芳香などは致しはしません。
 また、良い香りは、かおると言いまして、匂うというのは臭いということです。ヤエは古代クダラ語の女人のこと。サクラは寅さんのような香具師言葉になっては、人寄せの連中の意味になりますが、
群がるとか多いの複数の意味でした。つまりこの歌を綺麗ごとに教えこませているのは学校歴史の嘘でして、当時の怨歌であるこの意味たるや……
昔の奈良の女どもは粟ばかり食していたゆえ、キビ、つまりコウリャンを食させるようになったので、消化不良でガスが溜るのか、その最中にさえプウスカ洩して臭くて堪らぬわえ……
といった進駐軍の歎きのバラードが真実なのであります。
 が21世紀の令和になっても「朝鮮美人」とよばれるのが、白人とのハーフ全盛の現代になるまではおおいに賞讃され、かつては女優の司葉子がそうよばれて人気があったのをお覚えの方も、
まだいられるでしょう。
 つまり8世紀を女上位の時代とみれば、ブウブウやりながらも威張っておられた奈良美人の世ですから、これを奈良朝とよんでも、一向に差支えはありません。
しかしクダラ系の中大兄の天智さまの死後、その御子の弘文さまを倒して、取って代わった天武さまは反クダラで大陸人である。次の持統さまはその妃であられたゆえこれは同系。
御子の文武さまとてやはり同系。ついで立たれて大和平城に遷都された元明さまとて文武さまの御生母ゆえ、やはり同系貴種であらせられるのであります。
次の元正さまも元明さまの皇女ゆえ同系。聖武さまは元正さまの御子ゆえ、やはりまた同系です。
 藤原鎌足の孫にあたると伝わる光明皇后さまを迎えて、おおいに仏教のPRをなされ、やがて御子の孝謙さまへ西暦749年に御譲位なされたが、7年目にまた御自身が取って代わられて人皇49代の称徳さまにならせられたもうが、慎しむべきは何んとかの途と下世話にも申すよう、道鏡さまのことで問題になり、
やがて崩じられて、次は光仁さまの世となりまするが、さて781年の天応元年、「正月三日、光仁帝、不豫ノ故ヲモッテ、桓武四十五歳二譲位」という緊急事態となるのであります。
 何故に継体王統に突如として、この時に消滅させられていた奈良系の桓武さまが人皇50代になられるのかという謎は、なんの文献も残されてはおらず「六国史」にさえも何もでていません。変です。
 まさか唐によって滅ぼされた百済が、このとき再興して唐を破り日本へ攻めこんできて、河内の国より桓武さまをかつぎだしたという訳でもないようです。
だが、明白に同年十二月に前帝崩じたもうや、恐れ多くも桓武帝は「天皇哀号卜咽ヲ摧イテミズカラヤムコトアタワズ」つまり、帝は悲しまれて、哀号、哀号と叫びつづけられ咽喉をつぶしても、なお叫ばれ哀悼の意を表されたというのです。
が何故にこんなことを、藤原勢力がここまで書き残しているかといえば、せっかくの王統がここで替わるゆえ、その埋め合わせに挽歌として強調して、こうした文章を書き加えたのでしょう。
不自然さはそのせいだという事がこれで判ります。
                 
つまり西暦七八四年までが奈良朝となるのならば、最後の3年間だけが実際の奈良系の王朝です。
それなのに一括し「奈良朝時代」などと日本歴史がするのは、結果論によると申しますか、はたまた、「終りよければ、すべて良し」のきめつけでしょうか。
まことに何も裏付けするものは残っていません。
これは中国勢力(藤原氏)が自分たちの都合で、すべて匿してしまっているので、今も誤られている藤原日本史なのであります。
さて、せっかく大化改新のクーデターを敢行させた黒幕のフィクサー藤原鎌足が、中大兄の死後はその御子の弘文さまも殺して、自分らの世となし、朝鮮美人の臭みにも馴れ、おおいに持ちこんできた仏教の興隆につとめていたのに、この期に及んでどうして、又も逆に戻ったのかとなります。
それは日本原住民が蜂起したため、治安維持のために旧奈良人を味方にせねばならぬ突発事態になったから、やむなくとった政策であろうと想われます。
その証拠に、西暦七七四年七月に藤原王朝は、陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂を副将軍として河内守紀ノ広純を任命して、検税使を各地に向わせ反乱鎮圧に出向いているからである。
そして駿河麻呂が討死となるのは日本書紀に書かれている。
さて、世に史書と云われるものは数多く存在する。記紀を「これしか無いのだから、これが正しい」として、歴史屋は金科玉条のものとする。
しかし、実態は上記した通りである。ここで一つ例を挙げれば、現在一級史料と云われる「細川家記」がある。
あれだけ詳細に書き残されているということは、本能寺を襲った第一戦部隊に、先祖の細川幽斎が参加していたという、事実を糊塗する目的の書なのである。
誰が、何のために、何を隠したいが為に書かれたのか、ということを必死に考えることが大切なのである。
そして、記紀などは「歴史の改竄」等の生易しいものではなく、己らに都合よく歴史を捏造したものだという事である。

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 イロハカルタに隠された日本史の闇
 「一寸先は闇」「命あってのものだね」
 
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(注)文中「サンカ」という意味を簡単に説明しておく。日本史では士農工商と江戸時代の国民を分類する。が、学校歴史では教えないが、まず、江戸浅草の弾佐衛門を頭とする
部族が居た(彼らは人別に入っていなかったので非人と間違えられている) 。更に、これとは別に川べりや、山野を家族単位で放浪する部族が居て、彼らは土地の大名や代官にも属さず、
「統治されず、統治せず相互扶助」をモットーに原始共産主義的生活を送っていた。大名にも幕府にも納税しない為、徳川幕府は彼らを目の敵にし、見つけ次第佐渡送りや、撲殺していたのである。
弾佐衛門一派とサンカ族を合わせた人口は、士農工商と同じぐらい居て、維新後明治政府を驚かせたという事実もある。

 昔の都は京都を平安京といった。豊太閤の頃は大阪城が天下だった。 処が徳川家康はこれまでも前例のない江戸へ都を造ってしまった。
そして京には、公家や朝廷を見張るため所司代を置いて厳しく監視した。 大阪には大阪城代が置かれて、徳川家の直轄とした。
織田信長は八の民(海洋民族)の立場から、内大臣となっても天正四年十二月で官位を返上した。 さらに右大臣を押し付けられたものの、これまた半年で辞退している。
これは信長が原住民系であり、中国大陸系の公家や御所からの贈位を潔しとしなかったためである。
おそらく彼は、日本全国制覇というより、祇を奉じる海洋民族の国を樹立したかったのではなかろうか。為に岐阜に(祇府)都を建てたかったのが真相ではないか。
だから無位無官のままで、天正九年の馬くらべ(観兵式)の当日に、銃隊を率いて御所へ乱入して虚仮威しにしろ、鉄砲の一斉射撃のデモまでした。
 次の秀吉となると、自分は後奈良帝の落し胤であると言い張り、皇太子の誠仁親王が邪魔者だから そのお守り役を買って出ていた明智光秀を、山崎円明寺川の勝竜寺城で騙し討ちで殺した。
ついで、孤立無援となった親王をハシカと称させて医道の者に毒殺させた。
そして従来の御所では手狭で汚いと、京の中央の五条を中心に、十町四方の寺や屋敷を強制的に立ち退かせ、その後へ聚楽第を己が天皇となった時の新御所として建て、正親町帝に譲位を迫ったような、秀吉である。
 皇国史観では「信長の勤皇」とか「秀吉の勤皇」というが嘘である。 二人とも、千石の御料地の献上もしていないし、御所は二万石の儘である。
後に徳川秀忠の娘の和子が、後水尾帝の許へ女御として参内の際に、化粧料として持参の一万石でようやく合計三万石になった。
とてもじゃないが五百万石の徳川家とは月とスッポン。これでは何時御所が潰されるかと、京や大阪ではこれから先何時戦が起こるかと、
全く生きた心地がしなくて、八の民の多い大阪も不安の極みだったというのが、このイロハ歌留多の意味。
         命あってのものだね
 
もちろん江戸の幕府も大阪は不安で心配の種ゆえ、天保の飢饉の際には、大老となった井伊直弼が密かに大阪城代跡部良弼に密命を下し、
「先んずれば人を制すという。関西のサンカ共を唆し、暴動を起こさせるように絵図を描き、皆殺しにすべし」と企てた。
よって隠居の身だったが、大阪の前天満与力、大塩平八郎が呼ばれ、
 「そちも代々お扶持を頂いて参りし幕臣の端くれ、不憫ながら倅とともに一命を徳川家の為に投げ出してくれぬか」
と、内密に五ケと呼ばれた渡辺橋から一帯の居付きサンカ達に銀をばらまき扇動させるように言いつけ、仰せにて大塩が大将になってヤラセをさせようとしたほどである。
井伊直弼が大老となったのは、天保六年の暮れゆえ、就任翌年春に、大阪城代跡部を江戸城へ呼びつけて命じた。彼も直ちに戻って、公儀大阪硝石倉庫担当の、
 天満与力の職を倅に譲って陽明学の塾を開いていた大塩平八郎に、密かに下知したから、翌年天保八年の暴発騒動となったのだろう。
 江戸時代の幕閣というのは、赤穂浪士の討ち入りにしろ、陰険なヤラセの裏取引を御政道として二百七十年を保ってきたのゆえ、通俗史を鵜呑みにしていては何も判りはしない。

 そして「サンカ歌留多」というかアヌさん唄の言葉伝えでは「命あってのものだね」という。 徳川家康、秀忠の二代までは、上州世良田徳川郷の居付きサンカの血を引いていて、同族が多いから、
大垣城へ入った石田三成らの軍勢を関が原へ、雨の中を誘い出し、火縄銃を使えないように湿らせてしまい、 家康を勝たせた。
大阪御陣でも、周辺の穢多崎や博労が淵の者らを動員して、家康方に勝利をもたらした尾張サンカや美濃サンカの連中は「やっとかめで、よかったなも」と、
ようやく自分らの世になったものと歓びあって、ほっと はしゃぎきったものであるらしい。
 処が、京の蜷川道斎の姪の夫にあたる、斉藤内蔵助の末娘の阿福の産んだ子を、己が最後に仕込んだ子供と思い込んだ家康が倅の秀忠に対して、家光が二十歳になったら、三代将軍にせよと遺言した。
 淀君の妹で、江戸へ与えるのだから「江与」と名を改め、秀忠の正室となって産んだ駿河大納言忠長は、
 時の老中筆頭の土井勘三郎利勝が、「織田の血を残すのは災いのもとなり」と、上州高崎へ押し込めて密かに謀殺した。そして竹千代こと家光の一人天下となってしまった。
 川越の喜多院にある「家光生誕の間」は京畳ゆえ、「江戸城より此処に運び込まれて移設奉納される」と、喜多院の寺の説明では麗々しくなっているが、本当は伏見城からのものらしい。
  そして、家光生誕の間を挟んで春日局の住居と、天海僧正の胸像が向き合って置かれている。
 勿論、喜多院は春日局が新たに建立させ、天海僧正に贈ったものゆえ、家光の本当の父親は七十歳近かった伏見城の家康ではなく、まだ壮年の天海らしい。
  京の仏教徒の春日局の腹を借りた天海の子種だったらしい家光は、成人して秀忠存命中に三代将軍となると、
 当時は東方瑠璃光如来の、薬師寺しかなかった江戸府内に、春日局が片っ端から京の各本山より勧請して、次々と寺を建てだした。
 こうなると反仏教派のサンカは、もはや多摩渓谷や大山の川畔へ逃げてセブるしか仕方がなかった。
 家光の子の家綱や綱吉の代になって「御仏の慈悲を願わぬ徒輩は、人間にあらず、転向せざるにおいては打ち殺しても差し支えなし」
  といった寺社奉行からのお達しが出た。つまりサンカが尾張に多いというのは、津島から鳥羽の志摩の江の津に多く這い上がって住み着いた昔から、
尾張宗春がサンカ家康直系の玄孫の血脈で、名古屋へ逃げ込めば殺されずに済むと、各地から逃げ込んで集まってきていたのである。
 だが、紀州のクダラ系の吉宗は子の田安や一ツ橋からの吉宗を殺した後は、尾張の領主を交互に送り込んできた。
  尾張が安住の地とサンカか思っていた名古屋が、情容赦なしの地獄と変わってしまったのである。
  
  今も「界外」の地名の残る伊賀の名張や、伊勢や甲賀山中にも散らばって逃げ込みだした。
  役人ばかりでなく、奴隷百姓に見つかっても叩き殺されるから、押し込められた橋のない川の中州から密かに人目を避けて外へと脱出を企てていたのは私の「忍術論考」に詳しく出ている。
  建国統一の際に、軍属どもを入れると四万八千も入ってきた独身の連中が、日本列島の女を少女までも、カイトと呼ぶ茨垣で囲んだ収容地に収容。
  
そして「開け戸」と、股を開けさせているのを見かね、まだ彼らに犯されていない女達を伴って、山や河へ逃げた男たちが「サンカ族」の始まりである。
  「食物と女の怨みは、何時までも祟って怖い」というが、クダラ兵や唐兵にすれば許しがたい人種として、追い詰めては、
 宮城あたりでは山へ追い上げて四方から火をつけ燃やし、人間焼肉としていた。
  このオカミ側の怨念は吉宗以降はますます厳しくなってきて、山狩りを絶えず繰り返し焼き殺した頃の名残が、今では「大文字焼」などとされて、すっかり観光名物にさえなっている。
つまり、サンカの側からすれば、男は見つかり次第叩き殺され、女は垣内の奴隷女郎にされるのだから、人目を避け逃げに逃げ回っては追っ手や村人に見つからぬように、証拠となるような文字は一切使わず、
お互いに近くとの連絡は、インデアンみたいに山の頂上で ノロシを上げようものなら目立つから、アオイの乾蔓を燃やし、その匂いと、淡い煙で交互につなぎを取り合っていた。
そして互いに用心して、「見つかったら叩き殺される。だが命さえあれば、せっせと子作りして、殺された者たちの補充もできる」と、逃げ回るようにとの戒めなのである。
(後記)
画像に湯島天神の紋章に梅文があるが、契丹から来て、藤原氏に殺された菅原道真を祭っている太宰府天満宮も梅文である。
契丹の国章は梅花なので、その名残。サンカのウメガイの柄にも、この梅文の焼き印が在ったと聞くが、現物を見たことはない。


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安土桃山時代
日本最初のルネッサンス
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愛知県出身の織田信長と豊臣秀吉、が天下をとった時代は、当然その時代の公用語は「おきやあせ」「あかんでよう」の名古屋弁だったのである。
北は東北、南は九州まで、日本は六十余州というぐらいだから、様々な言葉が在って大変だったろうことは想像できる。
今でも青森と鹿児島人が方言で話せば全く意味が通じない。だから諸大名は随分と苦労したらしい。
さて、足利時代には、原住民が体制側の仕事に就こうとすれば、強制的に仏教に転宗し、坊主のように頭を丸めて「何アミ」と称さなければ奉公できなかった。
また、官庁に出仕を許されても、反乱されては困るので武張った務めは許されず、安全な能、茶、花、画とか美術に限定されていて、これは信長や秀吉の時代にも続いていた。
しかしここに、彼らが信長という原住民解放軍のおかげで自由人になり、おおいにその才能をのびのびと花咲かせたのが日本最初のルネッサンスなのでである。
日本史ではこれを「安土桃山文化」というが、次のルネッサンスともいうべき文化の爛熟期は元禄時代だった。
ここで、学校歴史では教えないルネッサンスの裏面史(真実)を考究してみたい。

元禄ルネッサンス 
悲劇の水戸光圀
 
講談では、徳川家光が辻斬りに出歩き、それを光圀が止めたことに作り変えられている。又嘘と言えば<武野燭談>では、水戸家を立てるため京から宮様を迎えようとする酒井忠清に、
あくまで光圀が反対したようになっている。だが実像の光圀は京派であり、勤皇精神に溢れていたのである。
光圀は吉良上野介によって青蓮院へ押し込めになった有栖川幸仁親王へ、衣服類や銀を水戸京屋敷を通じて、度々今で言う差し入れをし、
前後西帝の擬華洞へも何度も自作の詩の「添削料」の名目で、半紙百帖とか、墨百挺といった納入の他に、「採暖」にと冬は桜炭、夏には団扇をかかさず差し入れたので、
幽閉された後西帝は「六国史」を今日に書き改めも出来たのである。
つまり光圀は何人も辻斬りこそしているが、「後西帝に唯一人の忠臣として奉仕」している。そのため吉良上野介に嫌われ、柳沢吉保に憎まれて、その血脈を皆絶たれてしまい、
今では虚像の黄門様にされてしまっている悲劇の人である。(光圀を大納言の唐名で黄門と言うが間違いで、水戸はちなみに中納言である)

さて、元禄時代の背景を知ってもらいたいため、光圀の実像を解明しながら長々と稿をさいたが、この時代の立役者はなんと言っても徳川綱吉と柳沢吉保である。
綱吉が上州館林十万国から将軍職になると「側近の小納戸役を申しつける」と柳沢も五百石取りに立身する。時に綱吉三十四歳、吉保二十二歳と、おおいに気のあったところである。
だから二人で何かでっかいことをやろうと、話しあったのかも知れない。
というのは江戸時代の代表的文化人や財産家はみんなこの時代に出現しているからである。
そしてこのため、今日になると対比する如く並べてみられ、ルネッサンスと呼ばれダヴィンチ、ラファエロ、ミケルアンジェロ等が輩出した絢爛たる世界と、
日本の元禄時代とは同一視されがちである。

何しろ絵画の浮世絵でも有名な英一蝶の他にも菱川師宣、鳥居清信、西川裕信といった今日の芝居絵の元祖の鳥居派が誕生。
蒔絵の小川破立、中村宗哲、光琳派の元祖の尾形光琳、陶器の尾形乾山、彫金の横谷宗眠、当時の新興文学の俳人としては松尾芭蕉、向井去来、内藤文草、服部嵐雪、室井其角、桑岡貞佐、作家の井原西鶴。
また、天下の権勢を一人で押さえていた柳沢吉保の側室で町子の実家の正親町公連に青侍奉公していた近松門左衛門が、柳沢のたてた神仏混合政策に迎合して「この世には神も仏もないものか」と
<心中天の網島>の中で堂々とPRしている。
ジェームズ一世のお抱え作家で、その母メアリ・スチュアート女王がエリザベス一世に斬首されるのを見殺しにしたのを対外的に弁護するため<ハムレット>等を書いたシェークスピアが
今日でも名声を保ちうるのは、英国王室御用作家だったためで、国家権力でずっと守られてきたためであるが、
近松も立派なものを書いたに間違いないが、柳沢在世の元禄期において「町子のお方様の御実家の旧臣」というレッテルでその評価が定まったようである。
悪辣非道な綱吉と柳沢
本来、作家とは庶民の側に立って反体制であるべきなのに、ともすれば御用作家になってしまうのは、権威の裏付けが評価を左右するかららしい。現代でもこの手の作家は実に多い。デビュー時には文学的に鋭いものを持っていたのに、儲かるとなればエロや体制迎合物も平気で書きとばす。
さて、近松によって、竹本義太夫や新内の岡本文弥、役者では坂田藤十郎、初代片岡仁左衛門、水木辰之助、初代市川団十郎、中村七三郎が出現し、いわゆる名優が東西一斉に舞台を飾ったのは、
元禄ルネッサンスといえる。この他にも熊沢蕃山新井白石、室鳩巣、太宰春台、伊藤仁斎、世界的な和算の大家の関孝和もこの時代に続出している。
赤穂浪士が討ち入りの時、生卵を届けて激励に行った細井広沢。討ち入りが済むと「全員死刑」をあくまで主張した荻生徂来らも学者であるが、二人共柳沢の家臣である。

つまりその言動や主義主張は主人の代弁と見られるから、赤穂事件も柳沢がマッチで火を付け、ポンプで鎮圧した政治的配慮に依るらしい。
そして学者としての評価が、今日でも不動の物となっているのは、三十年におよぶ柳沢体制の中ではっきりと体制(おかみ)で位置づけられたからだろう。
なにしろ宝永三年には隠匿されていた古金銀貨を国家権力によって強制供出させ、銅や錫を半分以上混ぜた元禄通貨よりなお質の悪い宝字貨を鋳造流通させ、
「初物くばり」と新貨を人脈の配下へ柳沢は惜しみなく配ったという。現代はお手盛り立法の政党助成金を自党の陣笠連中に数百万円当て分配するが、柳沢は宝永通宝を今の金額に換算して十億円ずつばらまき、
その後も従来の二朱金を徹底的に回収し、やはり十億見当の配分を幕閣の主立った者に配っている。

普通賄賂というのは百万贈れば千万ぐらいの見返りを願うものである。柳沢の凄いところは賄賂を取らず、逆に自分の方から金を撒いていたことである。
だから誰に足をひっぱられもせず、悠々と天下の権勢を独り占めにし、全てを蔭で仕切り、晩年は駒込六義園で悠々自適していた。その子孫は郡山十五万石で幕末まで続いている。
彼は庶民にとってはとんでもない男だが、政治家と見るより徳川家の官僚としては最高の人物だったといえよう。この時代、次々と金銀の含有量が希薄になるインフレの波に乗り、
柳沢に劣らず巧く立ち回って財を作った傑物達も多い。

三井の開祖八郎右衛門、住友の元祖の吉右衛門、鴻池の善右衛門などが輩出して壮観を示している。だが、こうした柳沢のインフレ政策で弱い者は打ちひしがれ、
江戸でも行き倒れが多かったという事実を何と見るかだが、そうした乱世こそが金儲けの時代だったのは三井や住友が今なお健在なのでも判る。何と現代と似ていることだろう。
何時の世も体制(おかみ)のやることは一緒である。科学の発達は素晴らしいのに、平成も新令和の時代も、政治の手法は旧態依然のままである。
ヨーロッパのルネッサンスとは
さて一方の欧州のルネッサンスはなにも後世の、世界美術全集を賑わすため起きたのではない。
イスパニアのカタリーナ女王のイザベルが、自分より美しく見える女はみな魔女であると、トマス・トルケマダ司祭に命じ、片っ端から捕らえさせて殺戮してのけた。
ヨーロッパの王家の男女の肖像画はみな美男美女に描かれているがあれは美化しているだけである。バイキングや海賊あがりの連中が武力で王になっただけで、
当時のイザベラ女王が美人だったとはとても思えないし、発端はいわば女の嫉妬からといえよう。

そこでトマス司祭は己が行為を正当化するため「異端審問長官」の肩書きをバチカン法王庁に乞うた。
それに「片っ端から捕らえて拷問にかけ、魔女として焼き殺したり水漬けにして処分しては免罪符が売れなくなり、法王庁の財政に響く」と、
魔女として処刑する場合には、女の所有財産を没収し、その献金をレオ十世は命じた。
トマス異端審問官は女の財産を裁判所と教会で折半する案を出した。そこで法王は、
その拾得分の内の半分を女王へ差し出し、教会もやはり半分を法王庁へ献金と定めた。

だから、なんと当初はイザベラ女王の妬情から起きた魔女狩りが、儲かるからと、各地の王や教会の奨励するところとなってしまった。
そこで金のある女が老幼を問わず狙われ「魔女」とされて欧州全土で次々と火炙りや、生き埋め、四つ裂きに殺され、全部で四百万とも言われている。記録では1854年、ドイツの
トレバースだけでも七千人、スペインのトレドでは三千二百人が蒸し焼きの大量処分とある。
だからそれらの女達の遺産はもの凄かったろう。「これは凄い、思いもよらぬ金がどんどん入ってきて使い切れぬ」とレオ十世猊下も各国の王もすこぶる満足した。
そこでこの泡銭のおこぼれが仮需要となり、装飾用にと絵画や彫刻が求められ、芸術家を潤しルネッサンスとなったわけである。
つまり日本の元禄時代も、柳沢吉保が次々と古貨を回収し、水増し改鋳で利得を上げ、このアブク銭が彫金師や絵師に流れ歌舞伎や俳句の興隆となり、日本版ルネッサンスとなったのである。

「おかみの印さえ有れば、金銀でなく石ころや瓦でも天下の宝として通用する」と豪語した柳沢の家臣の荻原重秀。
「国民をだましても消費税をガッポリ取るのだ」の自民党。どちらも国民のことなど一切考えていない点で同根である。
現在政治に幻滅した国民はスポーツやオリンピックのお祭り騒ぎに幻惑され、グルメブームに踊らされ、美味を求めて狂奔する。
求める豊かな生活(土地や家やレジャー等)には手が届かないため、即物的なものが人々の精神を支配している。
これでは怒る権利を自ら放棄したことになってしまう。人間らしい生活、誇りと言う奴は即物的な物に有りはしない。よりよい社会へのロマンへの渇望ではないか。
さてヨーロッパのザクセン侯やラプール王達が、教会と結託して次々と女を捕らえ火あぶりにし、
あぶく銭を儲け、ミケランジェロらに己の肖像画を描かせたりしたのに比べれば、<殺しの金>でないだけでも、柳沢の方がはるかに紳士的(陰謀での生殺し)であったと言える。


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