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      火縄銃と弓の関係 
 
 
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スペインのセビリア市に「ビブリオテーカ・インダア」と呼ぶ東洋史料を専門に保管している図書館がある。
そこの17世紀の綴りの中に「1610年6月20日(当時の日本は大陰暦なので慶長15年4月29日にあたる)Juan Cevic文書」というのがある。彼は帆船サン・フランシスコの船長で、この前年フイリピンから新イスパニア向けの航海の途中、日本近海で難破し、嘘か本当か分からぬが「五十万ペソの財貨に当たる積み荷を日本人に武力で奪われた」と言うのである。
 
これは当時のスペイン国王フエリペ三世に対する申し開き兼陳情書である。つまり彼フアン・セビコ船長は不可抗力だったという自己弁解に日本人の勇猛果敢を強調しているが、その中の一節に「日本人はマカオのポルトガル人より硝石を得て、これに硫黄と木灰を加えて火薬を製造しもって長銃に使用す。その狙撃誠に巧みにして狩猟に使う。
されど矢をもって銃に勝ると考えるゆえ、戦争に際しては銃は重要視せず、もっぱら弓矢による。これはこの国に竹とよぶ強靱な矢にする直立の材質が繁殖している為であるらしく、その矢は極めて折れにくい」とある。
 
前半の自己弁護の部分は怪しいが、見聞記の方は信頼できるのではないだろうか。従来の日本史では天文12年に鉄砲が伝来してから、武器がこれに変わったという。
そして弓矢は旧式のものと顧みられなくなり、甲州の武田勝頼が長篠合戦で破れたのも、原因は鉄砲の数の差とされている。なのに、その合戦から35年後の慶長15年でもフアン・セビコ船長は「弓矢が主要武器だった」と云っている。
 これはどう云うことだろう。今日では戦国時代に剣豪がいたり、刀というのが戦場の武器として重要視されたように誤解されているものの、セビコ船長の船に乗っていて、上総夷隅郡岸和田に漂着したフイリピン総督兼軍司令官のドン・ロドリゴが所の城主である上総大多喜城主本多忠朝(本多平八郎忠勝の次男で、後大阪夏の陣で勇猛突入討死)の軍勢に包囲された時の手記にも「トノと呼ぶ領主の兵士は、その大半は弓矢と槍を持ち、長銃の者も居た。
我々スペイン人の使用するアラバルタに似た薙刀を構えた一団も居た。刀はトノや高級将校のみが吊さず腰に差しているか又は雑兵が粗末なものを持っていた」とあるし、遭難したのであると助けを求めたところ、本多忠朝は「ドン・ロドリゴは大将なれば」と云う訳で緞子の着物と一振りの刀を指揮刀として増られたともある。
 
そして一行370人が江戸城へ伴われて行った時の見聞記にも「一の釣橋(大手橋)脇に長銃手千人。第二門に長槍短槍四百人。第三門に薙刀弓矢の兵士三百人の警備兵あり、皆これ皇太子(徳川秀忠)の騎士なり」と、当時の旗本の護衛ぶりがでている。
 
 【注】「ドン・ロドリゴ日本見聞録」この本は活字本で在ります。村上直二郎訳注:異国叢書改訂復刻版第二刷(1970)雄松堂
 つまり戦国時代から江戸初期までは「槍一すじの家柄」と云われるように士分は槍が表道具であって、刀というのは高級将校の指揮刀か、さもなくば槍の持てぬ軽輩の自衛用の武器であったと考えられる。
 これが今日間違えられているのは「絵本太閤記」の長短槍試合などで(槍を持つのは足軽で、刀をふるうのが武者)などと出鱈目に講談で誤り伝えてきたせいでもあろう。なにしろ、「今川義元は海道一の弓取りにて」と「三河物語」に出てくるし、軍記物にも「弓矢とる身の名こそ惜しけれ」等とよくある。しかし、「鉄砲撃つ身の、海道一の鉄砲うち」といったのは聞かない。
 
「信長公記」には「信長の鉄砲御稽古は師匠橋本一巴にて候」とか、俗書の「明智軍記」には「十兵衛光秀は古今無双の名手にして、百発はなてば九十五発まで命中す」といったものもあるが、現在のアメリカナイズされた感覚では判らぬが、国情が昔から日本とは違うのである。
アメリカの将校は準將クラスでもいざとなれば肩章をもぎとって、自動小銃をもって戦闘するが、日本軍は下士官の伍長位から、ろくに切れもせぬ昭和刀をぶらさげ意気がってしまい、ふんぞり返り、「日本刀は武士道精神の華である」と威張っていて弾薬の補給をおろそかにした。だから土壇場になり切羽詰まってしまい、
ゴボウ剣しかない兵隊に、切り込み隊として突撃させ、哀れ皆玉砕させてしまった。
大体信長にしろ光秀にしろ万余の兵を動かす軍団長や方面軍司令官に当たる者が自分で鉄砲など撃つ筈がない。
 
何故、こんなに日本人は昔から輸入された鉄砲を軽視し「弓矢八幡」などと弓矢が尊重され、文明の利器が軽蔑されたかは、前大戦の敗戦の一因にも繋がる問題でもある。
が、これは主として弓矢は男性用品、鉄砲は女性用と区別が在ったせいとも考えられる。現在の人には理解しにくいだろうが、女性軽視の中国の儒教が輸入される迄の日本は、男女同権どころか女性優位で、戦国時代も女武者や女武将が多かったのである。
秀吉の時代でも女城主は珍しくなく
 「桃山城普請割当表」や「朝鮮征伐名護屋御陣着例表」等にも女大名の名は散見している。
さらに徳川四天王の一人として有名な本多平八郎忠勝の「わしの若い頃は女が眉をすり落として、いかめしく 描き眉をつけ口に鉄奬をつけて武者働きをなし、いざというときは女の方が勇猛で度胸があり、近頃の男供など足許にも及ばぬ武辺であった」と書き残したのが「遠州中泉本多忠勝聞書」の名で現存している。
つまり江戸時代の儒学全盛時代から「女は優しくおとなしく」といった男性側の希望的観測と、現実がごっちゃになってしまい「戦国時代の女性は、哀れにも悲しかった」と、されているが実際は違うようである。
   九州の女城主 立花げん
 これはこの時代は未だ男系相続と決まっていなかったせいもあると想われる。さて、女は弓を射るのに乳房が邪魔になって向かない、といった説はギリシャ神話の時代からあるが、巨乳であれば物理的に頷けるものがある。
 
だから、鉄砲が日本に輸入されると「これはよい、これならば女ごの身に誂えむきじゃ」と、それに着目したのが、九州筑前立花城主戸次鑑連(べっきあきつら・入道後は立花道雪)の一人娘げんであった。
 
女城主として年下の婿を迎え立花宗茂と名のらせたが、げんは九州が輸入火薬の入手が容易だったから、侍女をもって鉄砲隊を編成した。しかし一発ずつ装薬を作っていてはまだるっこしいと、高良山合戦から、細竹の寸を詰めて輪切りにし、藤蔓で繋いで襷とした。現在の雷管と弾頭のようなものを竹に前もって作っておき、ガンベルトを肩に掛けさせたのである。
 
以下は想像だが、火縄銃は前装式である。
 発射するには一発ごとの手作りの装填だから手間と時間が掛かる。手順として(1)銃を掃除棒で掃除する、(2)火縄を付ける、(3)胴乱から火薬筒を出して適量の火薬を銃に入れる、(4)弾丸を込め、突き矢で銃身底部に押し込む、
 (5)少量の火薬を火蓋を開けて火皿に注ぎ、火蓋を閉じる(6)発射する。火薬は黒色火薬だから、一発撃つと膨大な煙と煤を出すので、射撃後は速やかに銃身を清掃し、上の動作を再現しなければならない。

 
後年(1620〜1630年)の銃にフリントロック(火打ち石式点火装置)というのが出来て、紙製の実包に一回の発射に必要な火薬と弾丸が入っていた。従って、げん女は竹の筒に弾丸、火薬の順に入れて、竹の銃口に当てる部分には、中身がこぼれ出ないように紙を張って、肩掛けしていたのではなかろうか。これだと前記の内の(3)と(4)が省略できるので、相当早く次弾発射が出来たと思われるがどうだろう。
 
この女鉄砲隊をもって九州を席巻し「旧柳川藩志」にも「関ヶ原役にて西軍破れ立花宗茂は柳川の正北方一里半の鉢院に鍋島勢を防ぐも敗退す。この時立花げん女、紫おどしの鎧をつけ、侍女二百の女軍をもつて宗茂を庇う。
為に鍋島勢進めず。援軍として加藤清正きたる。清正もげん女の軍勢に辟易し瀬高よりは別路をとって白鳥へゆく」と出ている。
清正でさえ怖れをなしたのは「緒戦(はな)は立花早撃ち女ご」と当時、この女武者の早撃ち隊は九州で有名だったからである。これから女の勢揃いを「花はたちばな」と呼び、
 今は茶摘み唄に転化されている。ポルトガル語で硝煙のことはチャーと言うから♪♪♪「花はたちばな〜茶の香り」の歌は「緒戦は、げん女の銃撃で戦場は硝煙が立ちこめ手を焼いた」との意味にもとれる。が、このため弓矢に比べ鉄砲はどうしても次第に軽んじられた傾きがないでもない。
 
さて慶長13年にもなってなぜまだ弓矢の方が鉄砲より実戦に向いていたかというと、訳がある。矢は弓につがえてヒョウと放てば前方へ飛んで行くが、当時の鉄砲はそうではなかった。何しろ「清正公記」等にも
亀山合戦のくだりで「加藤虎之助は秀吉の云いつけによって滝川左近將監の家老佐治新助の守る城の中へ入り込むと、佐治の鉄砲大将の近江新七というのが、ずらりと銃口を並べて撃ちまくっている。ために秀吉の軍勢は前進を阻まれていた。
見かねた虎之助は二間半(3m)の大槍でその銃口を叩き伏せ、返す穂先で近江新七の肩先を田楽刺しにし、そのよろめくところへ後から槍をつけた木村十三郎に『最初に槍をつけたは拙者だが、突き倒されたは貴殿である』と手柄を譲った」という美談がでている。
清正の個人的武勇伝というのは実際にはあまりなく、これが代表的なものだが、鉄砲隊のずらり並んだ銃口から飛び出す弾雨より、清正の槍の方が速く、突き倒したというのはナンセンスに思えるが、火縄銃は元ごめではなく、
銃口から入れる先ごめ装填で、うっかり下を向けると弾丸が転がり落ちたり、それに何といっても硝石の不良による不発が多かったのである。この二年前の1598年に亡くなったフエリペ二世がチリー鉱山を開発してからはスペインやポルトガルでは新黒色火薬の時代に入っていたが、日本では慶長15年より11年たった元和7年になって初めて、山田長政の使者が新火薬用のチリー硝石200斤をシャムロから献上してくる迄は日本では知られていなかったらしい。「田付流砲術伝書」にいう。
 
「ご老中筆頭土井勘三郎利勝さまより御局(春日局)様からの台命なりと指図され、吹上御苑にて試し射ちを上覧に供す。新火薬誠に強力なり。もって他に入手させんか天下の乱にならんと、すぐさまこの年より長崎平戸に出島を築き、諸家の海外通商は一切停止(ちょうじ)」
つまり徳川政権の鎖国というのは、切支丹問題より、新黒色火薬の威力に驚いた幕府が今日で言う独占輸入法案として、輸入の硝石を他の大名が入手出来ないようにしたもので、このため幕末になって薩長が上海から硝石を入手するまで、天下泰平が保てたのである。
 さて、鉄砲は狩猟の時なら不発でも獲物に逃げられてすむが、合戦ではそうはいかない。不発は命取りになる。だから長篠合戦で信長が柵を作ったのも、三段階に分けて射撃させた理由も、この不発の多いことを気遣っての用心であった。姉川合戦の初まる前にも当時横山城にいた羽柴秀吉から、堺の硝石輸入業者に対し「よき煙硝の樽を送られたし」と但書づきの注文伝表さえ残っている。矢には不発がないので当時としては極めて安全な武器として重宝されたのだろう。
 

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 「最強の狙撃者」
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この本は伝説の狙撃者、ドイツ陸軍第六軍、第三山岳猟兵師団、百四十四連隊
 ヨーゼフ・アラーベルガー(通称ゼップ)上級兵長の実録実名物の叙述であり、美化することの無い兵士の伝記でもある。
 主人公のヨーゼフは、その卓越した才能と戦闘意欲で公式記録では257人を狙撃で殺している。
しかし狙撃以外の一般戦闘でも多くを殺しているので、カウントされないこれらを含めれば膨大な、恐らく1000人に近い殺傷数になるだう。 
場所は東部戦線でスターリングラードからの撤退戦。
戦争記録や軍記物でもあまり取り上げられることの少ない狙撃兵という特殊な兵士の経験を通じて、第二次大戦の末期、東部戦線でドイツ軍がどのように泥沼の撤退作戦を戦ったかつづる特異かつ貴重な記録でもある。
 内容はあくまでも事実にもとずいており、フィクションを交えているわけではないが、記述されているエピソード全てが主人公ゼップ本人の経験だと考える必要もない。
巻末に挙げられている参考文献の内容も織り込みつつ、一人の狙撃兵の目線から、東部戦線の兵士たちの軌跡をたどったものと解釈すべきだろう。
読者としては、圧倒的兵力と物量で追撃するソ連兵の悪辣さ残虐さ。
暴行、略奪、強姦、陵辱捕虜虐殺の凄まじい描写は壮絶で背筋が凍る。
一例を挙げるなら、材木工場の電動鋸で、ドイツ兵の捕虜を切り刻むさま。
 ルーマニア村民の妊婦を強姦し、その腹から胎児を取り出し、壁に釘で張付けるなど。
歴戦のドイツ軍兵士でさえ、その凄惨で残虐な光景に反吐をはき逃げ出すさま。
さらに想像を絶する戦闘の相貌、狙撃銃の種類、その操作方法、狙撃用移動陣地の造り方、塹壕での大小排出物の処理方法、戦場食、等々、戦闘の詳細は興味深い。
 さらに到る所で描写されている、砲撃でドイツ兵士が腹から内臓があふれ出し、本人が湯気の立つ臓物を腹に押し込む、手足が一瞬で吹き飛び胴体だけになった兵士が、
「俺の手は何処だ?足が無い」と泣き叫ぶ様など壮絶を超越して幽鬼迫るものがある。

一般に想われている「スナイパー」の颯爽としたイメージとはかけ離れた、泥臭く地味な狙撃兵の実像が浮かび上がってきて、戦後も集団で戦う他の兵士とは違って、面と向かって人を殺したという意識が消えることは無い。
それがどれほど苦しいことであるかは、我々の想像を絶している。
 
映画の「アメリカンスナイパー」は米国中心の世界秩序というものが
天壌無窮のものとして描かれた、いわばアメリカの宣伝映画だが、
この本は戦争の本質を一兵士の体験から浮かび上がらせてくれる。
 
 
 

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