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(注)
このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。 だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。 忍術の本家は
「尊卑分脈」では、山科家は天皇家と同じ藤原氏で、四条家の分かれで中御門家成の六男実教を祖とし、その子教成は、母の二位丹後の局が夫の業房の他に後白河法皇の寵をも忝うし、よって法皇の別業山科の地を賜り、もってそれを氏となすとある。そして、実教より十四代目が言経となっている。
ところが、山科という土地は、この伝承とは相違して、建長五年(1252)の、「近衛家所領目録」に、その山科が含まれていて、「散所」だから年貢もなく、雑色の行事というものが係りとなっている。 この「散所」というのは、長和二年(1013)の「小右記」正月四日の条に初めて、「中将朝臣云、白馬朧近衛、称散所随身、前例不然也」と書かれてある。 この文面の意味は、 「白色の馬をひっぱってくるとは何事か。公家が白を忌むのを散所から随身した輩は知らぬのか。これは前例もないことだ」 つまり、「散所」とは「山所・産所」の当て字をするが、桓武帝が京へ都を定めた時、天孫系に刃向かった原住民を捕まえ、収容した捕虜地域の別所(院内・院地)の分散収容所の事であり、彼等は白山信仰で白旗を立てていた連中ゆえ、馬を探してこいといわれて白馬をもっていっては叱られたというのが、この記事の意味なのである。 江戸時代の延宝二年の坂内直頼の、「山城四季物語」の<七月二十四日六地蔵参りのこと>にも、「山科」の地名ははっきりあるし、「山科名跡志備要」には、「山科は、鉢叩き、ささらと呼ぶ竹伐りの者住み、茶筅売り、唱門師支配」と明記されている。
また、この傍証となるものは、天正十三年正月十三日の言経卿の日記にも、「山科在所より細竹二百八十本持来」の一行が残されている。
「尊卑分脈」というものは重要史料のごとく扱われているが、あまりにも作りものすぎて、その記載では、 「山科に領地を賜った。そこの百姓が耕した米を年貢として受領していた」と間違えやすいが、散所系の原住民というのは元々が遊牧民族系で、一切農耕はしていないので、米など作るはずが無い。 初めは近衛家管轄で、後に山科家に渡ったとはいえ、そこからは細竹や燈芯の物納があって、それで換銭はできたが、飯米の年貢はなかったという事実が、この証明にもなるのである。 「では、山科家の食糧はどうしていたか?」といえば、天正十一年八月二十一日、当時の京町奉行前田玄以に、山科家の執事である大沢右兵衛大夫が、
「西梅津新地で賜っていた飯米三十石は、先代山科言継宛名義になっていたので、天正七年三月二日の死亡の節、御朱印の伺いを出したところ、上様(信長)は山科家でその侭に致すよう言われて、当主言経が相続していました。なのに、本能寺の変から五ヶ月目に筑前守殿(秀吉)に押さえられて一粒の米も入ってこないのです。食糧に事欠きますゆえよろしく、この段頼み奉ります」という抗議を出しているように、飯米は山科以外の農耕地から収納していたのである。 もし「尊卑分脈」で説くように、山科家が天孫系であったならば、月二斗五升の飯米さえ他から納入せねばならぬような土地を、なぜ押しつけられていたという事になる。 それに散所系の原住民は同族以外とは、「通婚同火の禁」を明治まで固守してきたという歴史がある。また大江匡房の記録にもあるように、同族以外の者の支配はこれを絶対に受けていない。 「大乗院文書」によると、筒井順慶の五代前の筒井順永というのが大和の国の大半をうち従えて勢威があがったとき、散所である五ヵ所の者に軍夫に出るよう命令したところ、「長禄三年(1459)六月十六日付」五ヵ所の者から、先例もない事であると訴えてこられた。そこで、室町奉行御所申次衆が、「筒井方へ従い申さずともよい」の採決をした旨の案文が今もある。 つまり、これまでの日本歴史では、 「戦国時代というのは弱肉強食の世の中で、右に強力な戦国大名が現れれば弱小豪族は右傾し、左に出てくれば左傾し、たえず反復これを繰り返していたものである」というが、これは虚構であって、散所系の者はたかだか軍夫供出ぐらいの事でも敢然としてこれを拒んでいる。だから、もしも山科家が土地の者と同族でなかったら、竹を切り揃えて年貢代りにもって行くこともなかったろうと思える。 さて、この時点より二十一年後の「親長卿記文明十二年九月」の条には、 十一日 夜に入り所々物騒。土一揆蜂起。 十二日 土一揆蜂起、方々鬨の声聞ゆ。 十五日 伏見殿御門に一揆押寄せ門前放火し浄花院焼く。禁裏騒動す。とある。 この土一揆に「蜂起」という文字があるのは、散所別所の原住民には「蜂屋」「鉢屋」の他に色々の文字をあてるHACHIの別称があったからで、なお、これに関しては、「夜は京都の内外から大坂辺にまで彼等は横行して、押込み、辻斬、追い剥ぎといった忍びの夜討ちをして万民を苦しめ、富裕な者の財宝を片っ端から奪って分け合った。
なにしろ官がこれを取り締まって警戒しても、元来、忍びに馴れた連中で、ここと思えば又あちら、燕のような早業で飛鳥の如く立回り、明るい時は岩屋の洞穴などに隠れて寝ているから捕えようもない。 そこで毒をもって毒を制せよと、鉢屋支配という制度を作って同族の頭を定め郡郷を分配したところ効果あり、日本全国がその方式になった」という古記録さえある。 つまり、山科も鉢屋支配の土地で、言経も権中納言の官位ではあるが、実は頭目の素性だったと推理してゆくと、彼が書上げた「喋書」なる系図が「忍法相伝」と伝わるのも、また無理からぬ事になる。また言経の父言継の日記には、「江州八田別所織田の庄出身」の肩書きのある信長の父織田信秀の許へゆき、勝幡城で蹴鞠興行をなし、盆の料として銭の配分をし合ったという記載もあるのは前に書いたが、こういう事は普通の公卿はやっていない事である。
さて、忍者も山科家が家元として伝えるだけのものだったら、当時の蹴鞠や香道なみに優雅なものとして今も受け継がれてきただろう。ところがこれを一変させられる時代がきた。 忍術の系譜 だが、今日では忍術というとこれは、「甲賀」「伊賀」の二つに分けられて、「山科」などという分類は見つからない。
なぜかというと、言経の書いたという忍法相伝は、皆目その片鱗も残っていないが、「甲賀は、その藤林保武の<万川集海>」 「伊賀は、服部半蔵口伝の<忍秘伝>」の二つが今も伝わっているせいだろう。 だが、この二つの忍術書が、いかに荒唐無稽な物であるか。それが別に指南書や解説書ではなく、虚妄の一語につきることは、平凡社刊、足立巻一著の「忍術」に詳述され、彼と尾崎秀樹、山田宗睦の三人の共著である三一書房刊の「忍法」では、二つの秘伝書たるや、 「天下泰平になって形式化された具象」として「徳川家の権力機構に組み込まれた伊賀者、甲賀者が生活保持のために家系強調、祖先及び忍術そのものを伝説化」と説明されている。そして、「万川集海」と双璧をなすものとして、「名取青竜軒」の「正忍記」も、それは上げている。 だが、それらの忍術書なるものは、入れ歯や含み綿による「変顔」および「変装」をまず説いて、これで「変幻化姿ノ始計ナリ」と強調している。 つまり府中の三億円強奪事件のようにオートバイを白く塗り替え、白バイのごとく見せかけ自分自身も警官に変装し、車の下から白煙をふかせドロンドロンと消えるような詐術が、それらのモチーフとなっている。 これは亨保十八年(1733)奥付の、「加藤作左衛門筆の忍秘伝」巻一の、「伊賀甲賀伝記」の導入部分に、「ソレ窃盗ノ始メハ漢高祖ノトキ軍法ト忍ト一度ニ始マリ、ソノ後ハ忍窃盗ヲ間トイウフノナリ」とあるように、「間者」つまりスパイは忍者であるし、「窃盗術こそ、これ忍術の精華なり」、つまり泥棒の石川五衛門が忍術使いであってもおかしくはないというような説明になる。
そして、この伊賀流の「忍秘伝」巻ニは、「忍道具秘法」で「まき菱」「結び梯子」「水中下駄の浮踏」と、今も映画などでもっともらしく出てくるもので、トリック撮影で下駄で濠を渡る場景まで見せられている。 巻三は、三十八項目からなる火器火薬の使用法。ノーベルが黒色火薬とニトログリセリンを結合させてダイナマイトを作った時より一世紀も前に、既に風爆火などもあったというが、 「これは大秘事ゆえ、ここに書かず口伝」と、製法や内容は何も書いていない。 巻四は、忍び込む潜入方法で、猿の皮をぬいぐるみになし、これを着ていくこと。もし田畑で通行人に出会ったら、両手を平行にのばし、案山子の真似をする秘伝などもある。 「万川集海」の方は朝鮮の兵書「間林精要」と、中国明の兵法書「武備志」そのままの内容であり、そして、それらの原典は何かというと、「列子」の黄帝篇、周王篇であるらしい。
「穆王の時、西から化人がきて水中火中をものともせず、金石の間をくぐり抜け山川をひっくり返し、町や村を動かし空を飛行した‥‥」 といったものや、「方仙の道をなし(仙人の修行をし)、形をなくし消失させうるのは、これ鬼神のこと(業)による」とある「史記」の「封禅書」や、 「文選」の「西京賦」に、「奇幻たちまちに起れば、万物その姿を異物に変え、刀を口中へ呑み代りに火をはく。雲霧が沓冥して辺りが暗くなれば、大地は割れて川となり、また一瞬にして水をなくして平坦な道となる魔可不思議‥‥」 などと出ている「方術」「神仙術」が、鬼面、人を驚かす作用があるのをもって、それを空想戦術として兵書に執り入れて孫引きし、 「万川集海」は、さももっともらしく形を整え、これを権威づけたのではあるまいか。 さて、こうなると伝承される忍術または忍法には、形而上学的なものと、まるっきりその反対のものと、二つがあることがわかる。 そして、「児雷也」のガマの妖術のごとく、天竺徳兵衛の大蛇のような妖怪ブームの先鞭をつけたものから、仁木弾正の鼠の忍術が芝居として当たり、尾上松之助の活動写真から立川文庫の猿飛佐助、霧隠才蔵にまで伝わり、戦後も五味康祐の「柳生武芸帖」、柴田練三郎の「赤い影法師」、司馬の「梟の城」とつながる忍術の系譜となるものは、どうしてもこれは外来系となる。 忍術小説「飛び加藤」にしても、抜刀して花を切り落とすと樹の上に登っていた男の首が切り落とされて転がってくるのは、中国の「平妖伝」そっくりそのままである
と、新人物往来社刊の本で水野美知が指摘しているのも、その裏付けであり、また、「猿飛佐助」が孫悟空の翻案なる事も周知されている。つまり、「万川集海」や「忍秘伝」に基盤をおく忍術というものは、印度波羅門から中国へ入ってきたものの換骨奪胎となる。 とはいえ、人間誰しも何か事があった時、他人の物を盗もうといった受益目的でなく、自己嫌悪にかられて己れの存在を他から隠してしまいたい、消えてしまいたいといった願望を持つ。そうした時に、「手足を屈め、近所へより、うつむきに伏し、隠形(おんぎょう)の呪文を口中で唱えれば、これ観音隠れ又は鶉隠れといい瞬時にその身を消す」といった忍法蒸発の術を知っていたら、暮しよいというか、少しは生きていく事の助けにもなろう。なのに、そんな便利なものが、江戸初期から実存していたと研究家は云うが、その後は技術が開発されずに消滅してしまい、今では小説やテレビの中だけの虚像になってしまったというのは何故だろうかということになる。不思議な話しだが、これに関して本当の事は誰も言わない。何か秘密があるらしい。
なぜ忍術は消えたか これまでの説では滅亡した第一の理由を、
「江戸期に入って天下泰平になると、需要がなくなったからである」としている。 しかし、戦国期で彼等は、それ程強力な戦闘部隊だったかというと、これは信じられない。 伊賀出身の菊岡如幻の「伊乱記」によれば、 「天正九年、織田信長の長子信忠の伊賀攻めにあって、僅か二十日にて伊賀の者は僧侶男女の別なく殺戮されつくした」とある。 甲賀の方も慶長五年、関ヶ原合戦の始まる前、百九十名の者が伏見城へ立てこもったが、火遁水遁の術もだめだったのか、伏見は落城し彼等の大半も戦死してしまっている。 しかし、これではまずいからと、甲賀者が裏切ったゆえの落城ともいう。だが、殆どが死んだのは事実である。つまり彼等が強かったとか、戦いに役立ったという例証はあまりないのである。 「永禄五年に家康が今川方の蒲郡城を攻めた時、甲賀の伴太郎左ら八十名の忍びの者を呼び、これらを城内へ潜入させたところ、城櫓に放火し城将鵜殿長持の首を太郎左の弟である伴与七郎がとり、鵜殿の二人の伜は、太郎左の伜の伴資継が生け捕りにした」
という勇ましい武勇談が一つだけはある。 しかし、これは、「改正三河後風土記」所載のものなのである。ところが、この本は元禄時代の、沢田源内とよばれた近江の百姓上がりで筆のたった男の贋本で、史料でも何でもない事は、既に江戸時代から「大系図中断抄」などで暴露されている。 ただ、「淡海故縁」に長享元年(1487)足利九代将軍足利義尚と戦った六角高頼の先陣に加わった甲賀者五十三名が、夜襲をかけて足利勢を追い払った手柄話が出ているが、「重篇応仁記」には、これとは全く反対で、甲賀者が先に逃げたと出ている。
そして、四年後の延徳三年には、甲賀の連中が命からがら逃げて、六角方は完敗している。とても忍びの者の連中が戦に強かったとは義理にもいえない。
だから、家康が後に伊賀者を召し抱えた時も安直で、二百人が込みで千貫だった。 一貫を一石に換算すると、平均一人五石、というのが伊賀同心の給与体刑で、一升の米を二百円とすれば年俸十万円。月にすれば八千五百円。いくら官舎があって食するだけにしても、これでは生活難だったろう。 しかし総評も官公労組もなかった当時なので、やむなく彼等伊賀者が値上げ要求のデモとしてプラカード代りに書かれたものが、今も伝わる宣伝の忍術書ではなかろうか。 また甲賀者にしても初めから最低の伊賀者以下の扱いだった。 だから江戸期になって戦争がなくなり、需要が跡絶えたから、忍術そのものがドロンドロンと消えていったというもっともらしい説は、初期の彼等甲賀伊賀の者らの人足以下の待遇をみても、どうも単なるこじつけ以外のなにものでもないことになる。 「戦国の忍者は戦乱がなくなると失業同然、殆どが帰農、あるいは神札配りや薬売りとなり、忍術も無用となって秘密が不用となり、その秘密社会も崩壊。その時期が『万川集海』の書かれた時点にあたり、それまで秘事口伝によった忍術が集大成され著述化されたのも、また秘密の消滅を意味する」足立巻一はこう結論をつける。
しかし、農耕民族とは「天孫系と、それに融和した民族」の事で、「神札配りや薬売りは非農耕の原住民系のもの」という区別が明治六年まで厳然としていたのだから、誰もが勝手に帰農できたり、薬屋になれるわけのものではなく、これを同一視するのはまずいような気がする。
それに忍術が消えた最大の理由は、全然また違うのである。 「万川集海」の末尾二巻にも、「火器は忍術の根元である」と書かれ、のろし火薬(狼糞、もぐさ、硝石、硫黄)卯花月夜(肥松硝石等による黄色照明剤)義経炬火(水銀を利用した不滅たいまつ)をはじめ四十種の火薬を用いたものが、「これが忍術だ」といわんばかりに、いろんな製法や使用法が列記されている。
「天文十二年種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がいる。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来の雑賀鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである。 信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競ったように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。
ところが、日本歴史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるものと誤認したのか、これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石ほしさに、言葉もわからぬまま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までが、「信仰あつき切支丹大名」としてしまう。(秀吉の時代には印刷機が持ち込まれ辞書も作られたが、信長が殺されるまでは、代用に採用したイルマンでさえも「ドチリナ・キリシタン」の一言しか知っていなかったのはフロイス日本史にも明記されている。 さて、徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオランダ船のみに限定した。ということは、硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一切認めぬ禁制をとったことになる。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。
だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんとか天下泰平が続いたのである。「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯えたためでも何でもなく、硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治目的による偽装だったにすぎない。 金の切れ目が縁の切れ目というが、治安上硝石の一般の売買を禁じてしまったから、鉄砲や大砲と同様に、忍術も火薬が入手できなくては、もはや策の施しようもなく、「ありし日の思い出」に訣別の形見として各忍術書を残してドロドロ消え去ったのが真相らしい。 悲しき忍術 さて、故子母沢寛の随筆に、ある高名な親分が、「かたぎの百姓衆に迷惑をかけてはいかぬ」と口癖に子分共をいましめ、村の百姓家のある所を通るときは、羽織を脱いで履物も手にとって腰を屈めて通り抜けた‥‥「実るほど頭の下がる稲穂かな」というが、やくざでも昔は、えらい親分にはこういう謙虚さがあったものである。といったような話しがある。
勿論、現在でもやくざはいるが、人口比例からゆくと、やはりどうしても非やくざの方が圧倒的に多い。だから案外やくざを怖れる心理的傾向もまだ一般にあるからして、そこで、 (そうか、昔のやくざはそんなにエチケットを守っていたのか。なら恐くはなかったな)と、こういうものを読んだ人はすこぶる優越感を抱き満足もしたらしい。 しかし、なぜその親分がそうした態度をとったかという理由は、「その親分の人間形成の慎み深さ」程度の浅い読みでしか見ていては判るものではない。 まるで、普段いかさま賭博ばかりして百姓を苛めているから、その罪滅ぼしに頭を下げ気兼ねしているようにも、これではみられてしまう。 そして、徳川政権が農業国家の方針をたて、士農工商の順位を作ったから、百姓はえらかったのかとも誤解される。しかし、それだからといって商工業者が、裸足で村内を通行したとはきかない。すると、何故「やくざ」だけが遠慮しなければならなかったのか。彼等が賭博行為に劣等感や羞恥をもっていたものとみるべきか。といった命題に突き当たらざるをえない。 さて、話しは戻るが、火薬が一般に入手困難になった時点において、ほろびゆく技術の種明しに書かれた「万川集海」や紀州新楠流の「正忍記」が、ただ文字を羅列したに過ぎない荒唐無稽にしろ、その根底において中国・朝鮮の兵書や烈士の孫引きであるのとが一目瞭然とすると、
「単にデフォルメされた話しであったにせよ、忍術とは外来した舶来のものであったか」 の疑問がはっきりしてきて、それでは、「山科言経の書いたような原住系の忍術とは、そもそも何か」ということになる。この疑問は押えようもない。 が、それを解明するためには、明治五年に施行された、いわゆる壬申戸籍が手掛かりとなる。 従来から「たみ・百姓」と言われはするが、これは決して「たみ=百姓」ではない。 併称される「たみ」なるものは、「非農業人口の原住系」を指すものであることが、その新しい戸籍では明確にされた。 つまり明治五年に、これまでの百姓はその檀那寺の人別帖にて人口を把握されていたが、「たみ」の方は皆目不明なので、これも一斉に戸籍を作ったのがそれであるから、これによって従来の仏教人口二千万が一躍四千万に増加したという事実。ここに問題があるのである。 百姓の人口に等しい原住系が幕末まで竹を切り茶筅造りぐらいの無職渡世や博奕打ちで、農家の収穫に寄食していたのではたまらない。そこでまず、土佐の百姓から蹶起した吉村寅太郎の天誅組が口火を切って、これが明治革命になってゆくのだが、それ以前においても、原住系へ天孫系の白眼視は相当にひどかった。関白一条兼良の「尺素(いきそ)往来」にも、
「白河の鉾が洛中に入ると山科ら六地蔵の党との印地打ちが、例年のごとく起るかも知れぬから、侍所の者達が警戒に河原へ繰り出した」 とあるし、また「平家物語」巻十五にも、「堀川の商人や町冠者ばらの向かえつぶて勇し、乞食法師と合戦のさまをいつか習うべきか」 また、「古今夷曲集」ニ夏の部には、 「印地にし、深入りしつつ深手すは、負うは不覚な深草の者 久清」の詠草もある。 印地とは院地の事で、京周辺の原住系の捕虜収容所の名残り。地方の別所・散所と同じだが、ここへ天孫系の者が投石してゆくのが「印地打ち」という石合戦なのである。原住系もやられてばかりはいられぬからと、山科やその他の院地の連中は、石ころの多い河原を、御所の機動隊の来る前に占領し迎え打つようになった。が、天孫系も勇ましく堀川の商人までが突撃し、御所の深草少将の家来も深入りしすぎて逆にやられた‥‥といったところが、この詠草の訴える意味であろう。
さて、今日でも伊賀上野の百々地砦は、上野市から向かって南西と、その反対の北西から入る道しかないが、「界外(かいげ)」という部落が双方に残っている。ということは、つまり講談の忍術名人百々地三太夫のいた地帯は、一般の土地とは違い、 そこはかつて「界外」とばれていた別天地の場所であり、印地であり別所の原住系の民の収容隔離所だったとわかる。 そこで彼等は羽を持っていない限り、橋のない川を渡って他へ出かける時は、百姓から投石され撲殺される危険を覚悟で、界外から外へ出なければならない。
だから百姓の目をかすめるために獣の皮を着てゆけとか、見つかりかけたら案山子に化けろなどという悲しい技術がそこに生れ、これが忍法の極意ともされるのである。だが、「印地打ち」として外部から天孫系の百姓に狙われる事は江戸期にはなくなった。なぜかというと生活の知恵で、要領のよい者は代官所役人の下働きとなって御用風をふかせたり、牢役人となって、これまでとは逆に百姓を苛め返したからである。 しかし、大多数の者はやはり百姓に見つかったら苛められ半殺しにされる弱い立場にあったのであろう。 つまり、その伝統から原住系俘囚の伝統といった意味で、無職渡世のやくざというのは百姓に遠慮しきっていたのである。親分が羽織をとり尻ばしょりし、裸足で村を通るのは謙虚でも礼儀でもなく、「長年迫害されてきた原住民系の劣等感」による悲しき習性ではなかったろうか。
つまりテレビや小説の攻撃的忍術は、中国や朝鮮の兵書からの借り物で荒唐無稽だが、日本の本当の忍術というのは自己防衛のため、殺されまいと必死にあえぎながら考えだされた原住系の民の知恵ではなかったろうかといえる。 占領アメリカ兵に数奇屋橋から川へ放りこまれて溺死した人間の出た頃、我々はどう振舞っていたか‥‥満州で日本女性は引上げまで、なぜ皆坊主頭になり、顔に墨をつけていたか‥‥あれこそ日本人の忍術であり、おそらく山科言経がしたためた「忍法相伝」も、そうした自己韜晦の自嘲というか、自虐めいたものではなかったろうか。
淋しくなったついでに書くが、「続応仁私記」に「堀を深く掘り直して、その前面にひしをまく」という個所がある。湖や沼に生える黒い菱の実の事である。これは四方に棘が出ているのが一番固く、それは山梨県によく生えていたから、これを攻撃よう武器として甲斐から武威を振るった武田信玄は「四つ目菱」の旗を陣頭に立てた。 昔は馬も藁沓、人間も素足か草履ゆえ、そうしたものをまかれては踏み抜きし足裏を痛めるから近寄れなかったからである。
さて、「記録御用所古文書」に入っている和田八郎定教の事を書いた「和田兵談」に、 「甲賀に住いしとき郷人の襲撃をおそれ、こがの実をまく定めありしとか、今も邸囲りにこがの生垣を二重にもうく」とある。 こがとはからたち、くこの実のことをいう。これが語源で「こがもの」「甲賀者」となるのであり、伊賀の方はというと、 「丹波は山栗の産多し、いがを集め俵に入れて運ぶ」と、丹波亀山内藤党の古文書にあることように、武田勢と同じ事で、伊勢加太山の山栗の毬(いが)を今の界外あたりにまき、苛めに来る百姓の来襲を防いで、界外の中でひっそり世を忍んできたのが、家康に拾われるまでの、まことの伊賀者の歴史ということになるだろう。そして、それが、「忍んで生きてゆく技術」つまり「忍術の本質」ではなかったろうか‥‥ これまでの面白い幻想を破ってしまった事をお詫びするが、真実とはこのようなものなのである。
今や「忍者村」なるものが北は北海道から南の沖縄まで、日本中到る所に雨後の筍の如く発生している。 そして、訳も判らぬ外人忍者オタクに人気で、えらく儲かっているというが、外貨を稼いでくれて結構な話である。 日本人ですら忍者を信じているのだから、無理もない話しであるが、まったく馬鹿げている。 |
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この名前は故高柳光寿博士の「戦国人名事典」にも紹介されている。下記に詳細が在るので 併読し、比較してみれば良いだろう。これは経歴と軍功だけの羅列だから、国政の内容などはまったく書かれていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0 前説として、余談になるが日本は今や少子高齢化、人口減少問題が今後この国の未来にとって最大の課題だが、安部政権は何の政策も提示していない。 人口を増やし、労働力を確保するには、年間50万人規模の移民を受け入れるか、 子供を沢山生めて、安心して育てられるような、大胆で斬新な政策が必要だが、日本得意の対処療法のみで、抜本策は無く、現政権には全くやる気が見えてこない。 この問題に関しては、数々の提言をしている大前研一氏が、次のように述べているので以下に引用する。 この状況を打開するためには、スウェーデンやフランスのように「戸籍」という概念をなくすことが重要です。 すなわち、正式に結婚していなくても生まれた子供を認める、というものです。実際、婚姻件数も減少していますから、結婚に期待するべきではありません。また年齢別の出生数を見ると、一番多いのは「30〜34歳」、そして「25〜29歳」「35〜39歳」と続きます。 昔は20代後半が最も多かったのですが、どんどん高齢出産の傾向が強くなってきています。高齢出産になると、2人目、3人目が難しくなります。この状況を考えても、戸籍をなくし、自然婚を認めて、早い段階から出産しやすい環境を整える必要があると思います。 フランスでは、子ども手当が充実しています。子どもを育てる過程で、金銭的に言えば2000万円ほどの手当が受けられることもあります。 日本もフランスの制度を研究するべきです。今の状況は、小手先の政策ではどうにもなりません。
根本的な制度、環境を見直して、構造変化をもたらさなければ解決しないでしょう。 さて、かっての日本には、この人口増産政策で国を治め国を富ませた人物がいたのである。
明治から台頭し、最後には国を滅ぼした軍部も殖産興業と「産めよ増やせよ国のため」 のスローガンで人口増産政策を国民に押し付けたが、消耗品としての兵士となる人間の増産が主目的であった。 これから紹介する男のやったことは全く内容も違い、破天荒の一語に尽きる。
歴史に学ぶとすれば、こうしたことが大いに参考になるだろう。勿論21世紀の現代に、このままの政策は無理だが、かってのスエーデンでも労働力確保の為に行ったフリーセックス政策のように、現代的仕掛けを作れば、十分参考に成り得る。 『本題』 木下藤吉郎時代の組下で、父は加藤権平(20貫扶持)の息子で加藤作内と呼ばれていた頃から 親子で籐吉郎に奉公していた。 藤吉郎が羽柴秀吉を名乗る頃には、作内も700石に加増された。 そして天正元年、二年、三年、四年と良く働き、天正六年からの三木城攻めの時には、包囲戦となり、戦は長引いたため、作内は己の陣場近くに畑を作り、黍や稗の種を蒔いて植え、秀吉に誉められ、5000石の加増となった。 天正十年六月二日。本能寺で信長が爆殺され、時の国家権力者の急死を受け、治安維持のため天皇から征夷大将軍の拝命を受けた明智光秀を、秀吉は山崎で騙し討ちに殺し、天下は 秀吉のものとなった。 (秀吉の最大のライバルであった光秀は、信長の妻、奇蝶の腹違いの弟に当たり、木こりから成り上がった秀吉にとっては、常に煙たい存在であった。それが武門の棟梁たる、征夷大将軍をかしこき辺りからいち早く授けられたとなっては、秀吉としては彼を殺すしかなかったのである。だから秀吉は生涯、光秀の後塵を拝すことを嫌って、征夷大将軍を受けず、関白になり己が天皇になろうともしたのである) 光泰、フリーセックスを奨励する 秀吉はその家臣達にも大盤振舞いをし、加藤作内にも、 「加藤遠江守」と従五位下に任官し、名前も厳しく光泰と改め、丹波周山一万七千石の城主にしてもらえた。 すると自分でキビやヒエの植え付けまでする男だけに、所の領主とて、 『空き地は遊ばせて置かず何でも植えろ。領内の女ごも腹を遊ばせておかんと、子種を仕込め・・・・とかく戦国の世では人的資源は何よりの宝である。よって一人の女ごが一人の男とだけ睦みあっていては、たえず妊娠するとは限らん我が領内の男であれば何人でもどしどし廻しを取ってよい。もし夫がやきもちをやくようであれば叱ってやるし、未婚の母のままで子作りをしてよい。 腹は借物と古来から言うから、城内に未婚女の家を作ってやるし、子供の面倒が見られぬ者には、代わって城内の女中共が里親にもなってやる』 と、当時としては破天荒な布令を出した。 今日で言うならフリーセックスを奨励して、受胎能力のある女で腹ぺちゃの者には、城兵を何人も当てがって種馬代わりに用いた。 勿論領内の男にも、女と見たら掛かって行き、孕ませるのが忠義だと教えた。 これで男も女も安心して昼間は荒地を開墾し食料作りに出精し、暗くなると夜なべ仕事として、 相手を取代えひっ代え、文字通り、精を出して励みに励んだ。 さてこうなると丹波周山は一万七千石だが、一年もたつと実際は二万石余になり、人的資源もオギャアオギャアと満ち溢れて、人心は穏やかになり、皆んな加藤光泰を慕った。 これは秀吉としても領地の収穫が増産され、豊臣勢力下の人的資源がどんどん増えるのは、まことに好ましいところところなので、 「一夫一妻なんてのは詰まらんことはわしもよお知っとるが、住民に慕われつつ国を富まし人民を増やしてゆくは、彼奴の人徳の致すところで行政手腕じゃな」と、次は近江見塚二万石へ移してみた。 光泰はそこでも直ちに前の時と同じように、破天荒な話だが、 「出陣の時、お城へ奉公する男に限り、領内にては人妻であれ、娘であれ全て勝ってたるべし但し無駄なく子種を送り込めるよう、良く落ち着いて事を成すべし」と、布告した。 随分乱暴な布令をしたものだが、戦国時代というのは戒厳令下のようなもので、 自国の人民を増やすためには当時、娘は十三四から嫁入りさせられていたから、有り難い布令が出たものと、すっかり貝塚の者たちは喜び、勇み立ち、ほら貝がブオーと鳴ると二万石の領内なのに、やがて何千もの兵が参集するような、富国強兵振りを示した。 「彼奴め、なかなかやるのう・・・・・・」 と秀吉は、ついで三千石アップしてやって近江高島二万三千石へ移した。ここでも、 「未婚にして、子を産む娘には褒美を与える」とか、進んで軍令に付く志願者には領内の女ごは勝手たるべしの許しまて与えた。 そこで新しい領地の高島も、間もなく男は軍役、女は産役で忙しくなり、赤ん坊が雨後のタケノコのように増えだした。そこで秀吉は、 「思い切って二万石のアップをしてやり、次は美濃大垣」ということになった。 しかし、こうとんとん拍子に行くと加藤光泰も、 「うん、男と女のあれは本能・・・・まんまと本能寺の変で天下を盗った秀吉様の家来の自分がやはり本能を上手く使うのは、こりゃ当然ではなかろうか・・・・・」 とばかり悪乗りしてついとんでもない放言をしてしまった。 実際のところ秀吉は明智光秀を信長殺しに仕立てて、山崎近郊に誘い出し、戦を仕掛け、騙し討ち同然に、葬ってしまったから、まだ後味の悪さに気を遣っていた時期だけに、これを聞き伝えると憤慨して、 「とんでもない馬鹿なことをいう奴だ。すぐ大垣城四万石を取り上げてしまえ」とどなった。 しかしそれでも可哀想と思ったのか、異母弟の羽柴秀長に預け、とりあえず一万石だけ捨扶持を与えることにした。 が、秀長も、加藤光泰の手腕は知っているから、何とか上手く使おうと、千石を自分がくれてやって、一万一千石の大和秋山城主となした。 するとこれを聞き知った秀吉は、秀長に彼を取られてしまっては大変と「勘気赦免」の 早馬の使者を立てた。そしてすぐ二万石を与え近江佐和山城を持たせることにした。 そして天正十八年の小田原征伐後の七月七日、 「のう光泰、おぬし厄介じゃが甲斐一国の軍配をふるってくれぬか・・・・・何しろ武田信玄、勝頼父子の頃には栄えた国じゃが・・・今では火が消えたような有様。なんとか其の方が民政手段を振るってくれぬかや・・・・・」と、秀吉から呼び出され加藤光泰はその場で命じられた。 甲斐一国とは甲府城の二十四万石で、今までの十二倍になる。 光泰はこれには仰天したが、秀吉は平気の平左だった。 この時光泰が甲斐一国二十四万石なったのは、余りにも異例な加増だったので、 『寛永系図伝』や『甲斐国史』『豊鑑』の類にも記載されている程である。だから 「こりゃ、とんだ大事になったぞ。郡の一つ位の大きさや、二万石位なら、わしの試みは何となく上手くいったが、甲斐一国の広さではとてもそうはゆくまい。・・・・しくじれば責任を取らされまた御勘気にあうのだから困る」 そして甲府城へ移ると家臣共を集め、皆でよい知恵を出してもらいたいと、号令した。 こうした相談の結果、積極的に女たちの腹を膨らませる為には、やはり女が積極的に臨むのが良いと いうので、ここに女の夜這い令が発布された。 「甲府よいとこ男極楽、寝てまちろ、待てば来るぞな、女ごの夜這い・・・・・」 と、この歌は幕末まで甲府エンコ節として残った。 甲州風俗はこの時から始まったのである。 さて、素人の女達が、積極的に男のアタックを始めたので、その影響で弱らされたのは、甲府柳町の遊郭の女達であった。 ただより安いものは無いから遊郭は営業不振となり、女達は暇をもてあまし、淋しがった。 その淋しいが、今も甲州弁で女郎のことを訛って「さぼし」と呼ばせているのである。とんでもない赤線泣かせであった。 |
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幕末を駆けぬけた土方歳三 土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。
戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。 明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳。 上がウエキペディヤに紹介されている土方の略歴である。 現在土方の武勇や悲劇のヒロインとしての読み物が多い。 しかし、草深い日野の田舎から、幕臣になりたさに運動神経を生かし、松坂屋の丁稚奉公を投げ出し、刀術を身につけ激動の京へ出た。 そして、国内の激しく変遷する政治情勢に翻弄されながら、あくまでも薩長と対立して、時代を駆け抜けた、これはそんな男の生きざまである。 京、堀川焼打ち
文久三年(1863年)八月十二日。
堀川通り糸問屋大和屋庄兵衛の表戸を、「夜分なれども醍醐家の板倉筑前介である。半分で過日の御用銀はよいことになった。白昼は 人目につくゆえ、かくは夜分にもち戻しにきたぞ」とんとんと叩きつつ声がした。 これを番頭の注進できいた庄兵衛は、「そうか。板倉さまには、もし返却して貰えたら、その分の半分は進上と願うておいたゆえ、 わざわざ届けにきて下されたか。こりゃ思いもかけぬ大儲けしたことになったわい」 すでに床に入っていたが喜んで起きた。 「しかし、今頃から店に銀子の箱をつんで貰うては、夜分のことゆえ物騒でかなわん。こりゃ、ついでに土蔵の方へ入れて貰うたらええ」と番頭を呼ぶなり、
「土蔵の鍵をあけ裏木戸の方から入って貰いなされ」と指図をした。 そして自分は寝間着姿ではと藍染め微塵の浴衣に着がえてからが、「今晩は、よおお越しやした」 銀子を戻しにきたというので愛想笑いをみせ、もみ手をしながら裹囗へでてゆくと、「……庄兵衛か」と声をかけられ、 「へえ」頭を下げようとした途端。ヌーッと鼻先に淡い十二日の月光を反射した抜身。これには、びっくりして、「てへえッ」と庄兵衛が肝をひやすと、 「其方は大和行幸に一万両の銀をだしたが、われらも同じ趣旨にて銀が入用じゃ。出せ」その白刃で首のところをこすられた。 刀の背のところだから斬られているわけではないのだが、ごしごし鋸引きのようにされては気味のよいものではない。 しかし庄兵衛は、(斬る気ならば、とっくにばっさりやっていよう。こない鼠を弄ぶ猫のような真似をするのは、唯の脅しだけだ)と見きわめをつけた。 そこで生唾をごくっと呑みこみながら、
「土蔵の鍵があけてありますから、どうか内部を改めなさってくださいまし。一万両をあらいざらいはたかされ献納してしまっては、大和屋とても後に残っているは、 もう商立物の糸束だけでござりまする」といいきった。 そして背後に縮こまっている番頭に判らせようと、後ろへ手を回すなり、
(この騒ぎを早く終らせるように、京町奉行所へ人をとばせるなり、かねて用心棒に傭っている浪人を呼ぶなりせいやい) 庄兵衛は掌で煽ぐ仕草をしてみせた。 ところが醍醐卿の名をかたって押しこんできた連中は、土蔵の中から絹糸・綿糸の束を外へ担ぎだしてくるなり、 「われらは物盗りではないから……持ってゆかぬぞ」と、山にした束へ火を放ち、「利得になれば、それでよいと皇国の物資を外夷に売渡すは、怪しくりからぬこと。 商売にならぬよう、かくは灰にしてしまうのだ」次々と持ち出してきて焔の中へ投げこみ、「夜中の火いじりは困りまする……」 大和屋によばれた町奉行の役人や町内の火消しが、そこへ顔をだすと、「そうか。水をかければよいのか」 曵っぱってきた竜吐水を蔵の前まで持ってゆくと、今度はまだ積み重ねてある糸束にまで、ジャアジャア水をかけだした。 呼ばれて駈けつけた用心棒の浪人共が、「おのれッ」刀を抜き放って掛ってゆくと、「うるさい」 覆面の男は手にした鉄扇で右へ左へ片っ端から、その刀身を払いのけ脳天めがけて、 「えい」「やっ」と叩きのめすなり、「こやつらは不逞な輩じゃ、ひっ立てえ」 町奉行所の役人の前で七人の浪人を、刀の下げ緒で後手にくくりあげてしまうと、「では、さらばである」ぞろぞろ引っ立てながら戻っていった。 「私めに由なき無体なことをしやはったあげく、うちの店に火いつけはったんは……脅しにきやはったこれと、あれやと思います」 怨めしそうに首実検して指さす梅に、芹沢鴨は小刀を抜いて手渡し、しっかり持たせ、「……夫の仇をとるがいい」 励ますように力強くいってきかせた。 「はい」うなずいた梅は、まっ先に髭もじゃの肥った男の胸倉を、「おのれ、思いい知ってか」 両手に握りしめた切っ先で、身体ごとぶっつけるように突き当っていった。 しかし反り血をもろに浴びてしまうと、次の男は剌すのに息切れがしてしまい、何度も身構えはしたものの、いくら相手が後手に縛られていても、
「あきしまへん。代っておくれやっしゃ」甘えるように振り返った。そこで芹沢は、 「こやつらは恐れ多くも口に、天朝さまの御名をかたり……婦女を手ごめにしたり火つけ泥棒を働く輩だ。刀の錆にするのも汚らわしいが、そこは君たちで適当にしたまえ」 野口健司らにいい残すと、さて梅に、 [あたらせっかくの器量よしが、血達磨のように反り血を浴びてしまっては、なんともなるまい。近くにわしの存じよるお茶屋があるゆえ、 そこなど行って水で洗い、風呂へなど浸からして貰うがよい」吐き気を催したように、しゃがみこみ掛けているのを立たせ、[さあ参ろう]と歩かせた。 梅は無言で芹沢についていったが、「しのぶ」と軒燈のでているお茶屋の裏口から湯殿へ通され、そこの小女に手伝って貰って、 べっとりこびりっいた反り血を、はがすように落し、洗い髪に借衣の浴衣姿で、芹沢の待っている部屋へ顔をたすと、 「こんたびは、夫の仇討ちさせて頂き、なんと御礼をいうてよいか、判らしまへん」両手をつき、畳に顔をすりっけて泣いた。 「うん。なかなか敵討ちなどというは、至難のことと聞き及んでいるが、こう早く本懐とげられたは、おてまえの夫想いを神が憐れみなさり、御加護を賜ったせいであろう」 酒好きな芹沢は、待っている間に独酌で傾けたとみえ、すでに酔った声をだしたが、それでも梅に優しく声をかけた。
そして、まだ涙にくれている梅に対して、「もはや亡夫の仇をうたれたからには、われらとも無縁の仲となった。些少だが、ここに銀子百匁がある。 これを持って何処ぞ身寄りの許へ行かれたがよい」近よりざま巾着袋を握らせた。 すると梅は、涙で濡れた顔をもちあげ、
「何処ぞ身寄りの許へ行けとは、むごいお言葉……気を失ったばっかりに菱屋の女房梅は、あの晩押しこみの浮浪どもに寄ってたかって慰みものにされたは、 これは洛中では誰一人知らぬものもない話……そない世間を狭うした女ごが何処へどうして行けますものか」 芹沢の手首を両手で握ると、顔をこすりつけるようにして、また声をあげ慟哭した。 八・一八政変 堀川筋の大和屋庄兵衛の軒先に、不逞浪士の首級を珠算玉のように並べた翌十三日。「帝の大和行幸」がついに議決された。
芹沢鴨たちが上長者町の水戸邸へかけつけると、蓬髪の大男が懐しげに、「おう木村ではないか」と、 芹沢の前名をよんで肩に抱きつかんばかりに、ぐっと手をさしのべてきた。「おう、長岡屯集以来じゃな」 感きわまったように芹沢も近よるなり、相手の掌を固く握り返した。
長岡屯所というのは、安政五年八月八日付けで当時の京留守居役鵜飼吉衛門へ下された密勅を、江戸表から差し出せ、いや渡さぬで揉めた時のでき事である。 従来から水戸は、激党、鎮党の二つに分かれて争っていたが、安政六年二月十八日。鎮党側が勝って井伊大老の命令通りに、勅書を江戸へ戻さねばならなくなったとき、 「そうはさせじ」と手に手に武器をもった若者が集まって、長岡の宿場を通行止めにし、これを妨害しようと企てたことがある。 結果的には、のちに一真斎と名のる大場弥右衛門や武田修理(後の耕雲斎)らが水戸斉昭の周囲から遠ざけられる結果となり、この密勅に関係した者は、みな死罪や追放にされた。
しかし、その後、斉昭は死んだが、激党の大場が執政に返り咲くや、水戸はまた鎮党を押えつけ、激党の天下になったのである。 「なあ本村。われらが長岡へ集まって肩をくみあい、役人どものごぼう抜きに抵抗し、新しい時代の為と頑張りあってから四年目、ついに革命の時ここに来たる」 山口徳之進は感激のあま涙声をだし、 「大納言中山忠能卿第七子の侍従職忠光卿を頭に頂き、吉村寅太郎、土佐の池内蔵太、上田宗児、那須信吾らは、御先鋒として出かけていったぞ…… おぬしも新選組を従えわが水戸義軍の別働隊として、不当な官憲の弾圧をはねのけ、今や易世革命の進軍をする時ぞ」 肩いからせて挙固分かためた。そこで芹沢が、 「大場さまは江戸表へ行かれたときくが、原市之進さまは」と尋ねると、
「肝心かなめの軍用金を、お国表の城代家老市川三左めが押さえおって送りよらぬ。よって原殿は住谷殿ら同行で掛け合いにゆかれた。あの入らがゆけば、三の丸弘道館わきの御金蔵から、うんとこ銀を出してこられるじゃろ。なんせ今は一刻を争う大切な時じゃからのう」 山口は大船にのったような、のんきなことを口にした。 さて、三日たった十七日には、皇軍先鋒の天誅組に対して協力しない大和五条陣屋を、「おのれ、ふらちなり」とこれを攻め落し、
「この者ども近来違勅の幕府の意をうけ、もっぱら有志の者を押さえつけ云々」の立て札をかけ、代官鈴本陣内以下、元締長谷川岱助、用人、取次、書役五人の首級を須恵の道端にさらした。 中山忠光は、木陣としていた桜井寺において、まず占領した大和五条七万石の天領を、朝廷の直轄地と定め、己が陣所を、「御政府」または「皇軍総裁所」と号した。 芹沢鴨や新見錦らは、いよいよもって、自分らも水戸義軍先鋒隊として、新選組を率いて出動するつもりでいたところ。 翌十八日。「すぐさま出動されたし」と水戸屋敷からの密使ではなく、会津の軍事奉行西郷十郎右衛門より命令がきた。 当時、新選組は昼間は仙洞御所前の警備。夜間は禁裏御所南門の警衛が任務とされていたから、芹沢鴨は直ちに何事であろうかと迷いはしたものの、すぐさま、[仙洞御所前の警備に全員出動]を命じた。 そして隊員五十二人に袖口を白く山形に抜き染めした組羽織を着させ、上に山形下には、「誠忠」の墨書を入れた騎馬提灯を一人ずっに持たせ、芹沢鴨は小具足烏帽子姿で駈けっけた。 すると蛤御門の入口をすでに固めていた会津三番組の連中が、「新選組というは水浪(水戸浪人)が多い。かたがた御油断召さるな」 みな槍の鞘をはらって、先頭の芹沢鴨の胸板に狙いをつけてきた。しかし当人は、けろりとしたもので、 「尽忠報国の士、芹沢鴨」と彫りこんだ一キロ二百の鉄扇をひろげ、「この不意の召集はなんでござろうな」「これは、これは汗をかいてござるな」 真槍をつきつけてくる連中を煽いでからが「いい加減にておどき召されぬと会津の槍より、この鉄扇は手痛うござりまするでのう」 まるで嘲弄するように呵々大笑した。これには血気盛んな会津三番組が、「おのれ不届なる悪口雑言。かくなる上は……」 と一斉につきかかり、危うく新選組と正面衝突。まさに血の雨がふらんとしたとき、「これッ待て」 馬のりでかけつけてきたのは会津重臣の西郷十郎右衛門。さっさと双方の仲に割って入るなり、 「本日突如、廟議変更。大和行幸は中止とあいなり、三条中納言(実美)以下七卿が御追放となり、これまで堺町御門警衛に当っていた長州の毛利兵が、 即刻所払いという処分にあいなったというこの非常時に、角突きあいしている暇があるか」双方に対して、ぐっと叱りっけた。 「えッ大和行幸が中止」これには芹沢も新見らと顔を見合せ、思わず咽喉をぐっと鳴らした。あまりの意外さに呆然自失となってしまい、それまで会津兵をからかっていた元気もなくしてしまった。 「元中山侍従、去る五月出奔、官位共返上、祖父以下義絶し当時庶人の身分なるに五条一揆に、中山中将又は中山侍従と名のるは偽名につき、国家の乱賊として早々に討取り鎖静させるべく、 相い達すべきのこと」 九月一日には御所から至上の御名で触書まで出た。そこでこの京の急変で、水戸の国家老市川三左や佐藤図書は、 「それ澂党を倒してしまうは今である」とばかり京から戻ってきていた原市之進や住谷寅之介を押しこめにしてしまった。 これが起囚でやがて水戸天狗党の乱になるのだが、それは半年後の話。 さて、こうなっては京の水戸屋敷へ送金あるどころではなく、これまで鳴りをひそめていた留守居役井坂昇太郎が、激党の而々を京から追い払う策をたてた。 形勢ここに一変。新選組に対しても、「松平肥後守御預り浪士新選組、市中昼夜見回り候よう」と命令が下ってきた。 長州兵や浪人を追いたてたものの、まだ潜伏している者がおるかも知れぬから、これを見回って捕らえろという沙汰である。 転向の報酬 「世の中が、すっかり変っちまったね歳さん……これじゃあ今までみたいに、芹沢鴨や新見錦をたて、水戸さまが新しい幕府を作ったとき、 吾らもお取立を頂くという見込みも、これでは目算違いになってきたね」近藤勇も、げんなりした顔をみせた。 なにしろこれまでは京都守護職お預りとはいえ、新選組の旗印は「尽忠報国」で、王事に仕え奉るのが眼目ゆえ、仕事も御所の警備だった。ところが、この政変から、
奉行所の別働隊の恰好にされてしまったのである。 つまり「反戦」「平和」といった当り前の言葉が、俄かに睨まれだしたようなもので、もはやうかつに「尊王」「攘夷」など囗にしたら、御抱えの会津家から放り出され、 「不逞浪士扱い」されかねない事になった。土方歳三はこの男の癖で頭を縮め肩の間へ後頭部を押しこむようにしていたが、 「やりましょう」ぽつりといいはなった。「うん。もはや、それしかないだろう」近藤勇も迷ったように大きな囗をとじた。
「なにしろ新選組は水戸浪人の集りとみられているのに、今では京の水戸屋敷からは一文の蔭扶持もこない有様。もうこうなっては芹沢らは無用の長物」冷く土方はいいはった。 「そりゃ水浪を一掃してしまえば、会津でも吾々を信用し、その内には立身の骨折りなどしてくれるかも判らぬが……」 近藤は芹沢鴨とは仲が良かっただけに、まだ躊躇しきった。しかし土方隴三は、 「革命には犠牲はつきものです。ひとつ眼をつぶって委せて下さい」両眼をとじた。 九月十八日。会津家招待の宴で島原の料亭角屋へ新選組が招かれると、土方歳三は、
「芹沢先生、先生」と酒好きな男にひっきりなしに酌をして酔わせたうえ、 「好い妓が居ります」と女まで世話しようと執拗にすすめた。だが芹沢は、手をふって、「……わしには憐れな後家女の梅が居る」 危なっかしい酔余の足どりだが、駕をよばせるなり早々に壬生の屯所へ戻った。 「えらいまあお酔いどすな」迎えた梅が着がえさせ寝かしつけたところ、抜き足さし足で忍びこんだ土方歳三と仲田総司の二人は、戸ヶ埼熊太郎直伝の神道無念流の免許もちの芹沢の腕をおそれ、 「それッ」と身動きできぬように六角屏風を、両側から寝ている上に押し倒すなり、「覚悟ッ」とばかり盲目滅法つきたてた。 (尽忠報国、木村継次。死すとも護国の鬼となり、革命の日をわれ持たん) 屏風の上から押し潰され突き刺されつつ、いっも唄うように声をはりあげていた芹沢鴨は、最後まで身動きして、挑ねかえそうと屏風を下から押しあげていた。
が、力つきはて、がっくり金屏風が動かなくなったとき、「世話をやかせやがって、水戸っぽめ」 沖田総司が屏風をはねのけざま、すでに息たえだえの芹沢の首を取りはねた。すると、「あッ」土方歳三が血刀をふるいあげ、「女……何をするか」 仲田の背へ突きかかってゆく梅を、けさ掛けに切って落した。白縮の浴衣の背に、真紅の牡丹が咲いた。赤く血をふいて滲んだ。 それでも梅は、転がっている芹沢鴨の眼をむいたままの首へ細い腕をさしのべ、 「だんはん……仇討ちできんと堪忍どすえ」むせぶがごとく断末魔の鳴咽を洩した。
あわてて振返った沖田総司が、梅の髷をつかむと、その白い咽喉もとへ止めを刺した。 この最期には諸説あって、沖田が誤って先にお梅を斬ったともいう。 この夜。平山五郎は山南敬助と原田左之助の手で睡眠中に刺殺され、二日後には祇圉の、「山の緒」で詰腹の恰好で新見錦が殺され、
十二月の八日には水戸浪士の最後の一人野口健司も結髪中を、背後から原田左之助に槍で刺し殺されクウデーターは終った。 水戸浪士を一掃してしまい、初志と違って革命から反動に転化した近藤勇は、 「これでいいのか、歳さん」浮かぬ顔をしていたが、野口健司まで処分した報告をだすと、 「近藤勇は大御番頭取として月五十両」 「土方歳三は大御番組頭として月四十両」 「原田左之助や仲田総司には月三上両」と、昇給の沙汰がきた。現在ならば近藤の月給は五十万円、土方歳三が四十万円ということになる。これが転向の報酬だった。 「いいじゃないですか……」土方歳三はぶすっとした顔で、嬉しいのか嬉しくないのか、まるっきり無表情のままたった。 しかし食うだけでの給金なしで松坂屋へ三年も丁稚奉公していたこの男は(月に三十両)という手当が満ざらでもなかったらしい。 「おれは田舎へ金を送る。勇さん、あんたもどうです、二人一諸なら飛脚代が安くなる」
そんな囗のきき方した。そのくせ土力歳は何処から聞いてきたのか、 「……大御番組頤といえば、布衣二千石以上の御旗本の御役で、加扶持が五百俵は下しおかれるのがお定法というのに……いくら出先でのお沙汰とはいえ、
四十両ぽっきりでは」といいだした。だから近藤勇は呑みに祇園へ連れ出し、そこで慰め顔に、 「まだ、われらの値打ちが本当に認めて貰えとらんから……怜好だけの待遇じゃろが、その内に、ご奉公を励めば、布衣二千石に昇進するも夢ではなかろうが……」 「そうか……それもそうだろうな」土方歳三は大きくうなずき、「男は立身して世に出るか、さもなくば死あるのみだな」ぽっりといった。 しみじみした口調で盃をなめつつ洩した。 後に、近籐勇は流山で官軍に包囲され、板橋へ連れてゆかれて刑死したが、この男はあくまで敢闘精神をしめし、函館に立てこもり、いよいよ五稜廓も落城のところで、 榎本武楊らのように座して降服することは潔よしとせず、馬にのって敵陣へ乗りこみ突撃して壮烈な最期を選んだ。 この男には、べんべんたる生を求めるより、あっさり死を選ぶ方が好ましかったらしい。 榎本は当時から外交や国際法の碩学として知られていた。だから五稜郭で降伏後明治政府の要請を受け、要職についている。
しかし、土方歳三や近藤は、官軍から見れば、徳川幕府の殺し屋集団の頭目である。一方土方たちから見れば朝廷を取り込んで徳川幕府を倒そうとした薩長は許しがたい存在だった。 だから薩長を膺懲しようと激しく抵抗したのである。しかし、所詮生き残りはかなわぬ夢であった。 以下に芹沢と近藤の記事をUPしてあるので、三部作として併せて読んで頂ければ幸いである。 |
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織田信秀の妹 「貞女尾張御前」 戦国時代 産まない女たちの考察
頼朝の妻政子、信長の妻奇蝶、秀吉の妻ねね
身分ある女は出産しなかった
信長の妻 奇蝶
秀吉の妻ねね
「鎌倉に縁切り寺というのかあった。一度縁づいた女はどんな事があっても、離婚できない悲しい運命に泣かされていたので、此処へ飛びこんで俗世と縁を切り、
三年経つと寺から許し状が貰えて、初めて夫と別れられたのである」と、『日本女性史』なる本に書かれている。 しかし、織田信長の父の織田信秀の妹で美濃岩村城を味方にするため、そこへ縁づいた女性は、夫が若い女中を己が床へ連れこむのを知るやいなや、 「……わらわという者がありながら」と、激怒した。 が立腹して尾張へ戻ってしまっては、兄の織田信秀に叱られる。そこで天井の梁に松皮丸太を何本も積ませ、夫が女中と重なり合っている時に切って落させ圧死させ、代って自分が女城主となった。
さてその後、尾張では信秀が死に三男の織田信長が跡目をつぐ事となった。 しかし岩村城は大切ゆえ御坊とよばれる末弟の源三郎を跡取りにとさしむけた。 ところが武田信玄もさるもので、その家来の中で女好きのしそうな秋山伯耆という者を、岩村城へ使者の形でおくりこんだ。 いつの世でも女性というのは、見てくれのよい男には弱いものである。尾張御前も、「まあ好いたらしい」と、一目みてなってしまった。 すると信玄は、しめたとばかり、座光寺三郎と大島勘解由の両名を次いで送りこんだ。「二人とも秋山どのに劣らぬ容姿の佳き方」と尾張御前は参ってしまった。つまり、食前、食間、食後といった具合に三人と仲良くなった。 早速、信玄は御坊源三郎を人質にとって、岩村城を自分のものにしてしまった。 そこで織田信長も驚き、叔母にあたる彼女に意見の使いをだした。が、男の中年からの浮気はやまないというが、女も同様。 しかも両手に花どころか、三位一体では、「いやじや」という事をきかなかった。 やむなく信長は天正三年十二月に攻めた。ところが尾張御前は三人の男を守るため、「おのれ甥っ子の分際で生意気な……」 とばかり、赤髭をうえた鉄面頬を顔に、緋縅の大鎧をつけ織田勢めがけ突入した。 さて、相手が故織田信秀の妹ゆえ主筋に当るから、これには困った織田勢が、「まさか槍を突きつけられもしまい」 と、おたおたしている処を、次々と鉄砲で仕止めては首をあげた。 これが何日も続いたから信長も堪りかね、 「秋山伯、座光寺三郎、大島勘解由の三名を助命しよう」と和平の使者を送った。 そして三名を長良川畔へっれてゆき、岩村城をあけ渡して出てきた尾張御前を、岐阜城へとつれ戻った。が、これを謀略と勘づいた尾張御前は、さながら気でも狂ったように、 「この身はどうなっても構わぬ。あの三名の者の無事な姿がみたや」とばかり喚き眸んだ。 いくら肉親の叔母でも、こう取り乱されては家臣のてまえ恰好かっかず、「ならば叔母上、おまえさまの御命頂戴す」 信長が自身で彼女を斬首しようとしたが、いくら刀をふりかぶっても、まるで鉄筒のように刃先が跳ね返って斬れない。そこで戦国期一級史料の、 『当代記』には、この情景を、「刀きれずして死にかねらる。信長公の御佩刀はもとより業物なれば、見る者みな愕き、不死身とはかかることをいうのかと囁く」と出ている。 これは当時有名な話だったらしく、太田牛一の『信長公記』にもあるが、しまいに信長が癇癪を起して、
「三名の者は既に長良川原にて張付けぞ」と本当の事を教えると、尾張御前は、 「……げえ」とばかり眼をむいて信長を振返り、「よくも瞞したな……」凄い形相をみせた。 しかしである。やがて、「もはや揃ってあの世へ行ってしまった、ものならば……この身ひとりが残ってなんとしよう」と囗走り、やがて静かに目をとじた。 すると、それまでは、いくら斬っても落ちなかった首が、初めてすとんと前へ転げ落ちた。 そこで人々は、男を想う尾張御前の女心に感じ入って、その亡骸を河原で処刑された三人と共に、一緒に埋めたと記載されてある。 現在のように一夫一婦制でなかった昔は、一夫多妻だったりその逆であったらしいが、その内に女大学や夫唱婦随の時代となり、「想夫恋」として鬼神をも哭かせるこの夫婦愛の話も、一婦多夫とい
うのかまずいのか。 確定史料のどれにも載っている戦国悲話であるのに、あえて誰もこれをとりあげてはいない。 それを、あえて此処で挙げたのは、戦国時代の女性のあり方を、これまでの歴史の嘘から脱して、その時代のありの盡の実相を、なんとか判ってほしかったからである。 余談として記しておくが、イギリスのエリザベス女王だとて、肖像画のような美人とは程遠い容貌だったし、 若くて見目良い壮健の家来を夜毎ベッドへ引っ張り込んでの乱行三昧だった。 夜専門のセックス専用御奉公だからこれを「ナイト」と格好つけていた位のもので、洋の東西を問わず性欲は男の専売に限らないというこれは証拠である。 女は石のごとく さて、いよいよ本題へ話は入るのだが、歴史上有名な英雄の夫人たち、たとえば源頼朝の妻政子、織田信長の妻奇蝶、豊臣秀吉の妻ねね、といった女性たちは、どうして自分の子をうまなかったのか という事である。 『吾妻鏡』は、筆写されている内に、不自然さを紛らわす為か、政子の子は生れてすぐ死んだようになっているが、頼朝は五十三歳まで生きたのだから、一度でも受胎させえたものなら機会は他に何千 回とあった筈である。 『玉葉』又は『玉海』ともよばれる当時の九条兼実の日記には、はっきりと、 「子なきをもって、左大臣藤原道家の子三宝二歳を迎え、将軍家藤原頼経となしこれを助く」と政子の本当の処が書かれている。 信長の妻奇蝶は美濃の斎藤山城守の一人姫で、いわば美濃の国力をもって信長を、信秀なき後の尾張の跡目にしたようなものだが、彼女は一人も子をうんでいない。 生駒将監蔵人の後家娘にうませた長子を、引取って吾が子としたのが奇妙丸で、のちの織田中将信忠。 次子で幼名三介の織田信雄も同腹で、三番目の三七のちの織田信孝が、伊勢神戸の神戸具盛の妹ですでに子持ちであった板御前が信長のためにうんだ子。 四男以下もみな異腹だが、奇蝶自身がうんだ子はまったく一人もいない。 豊臣秀吉の正室は木下藤吉郎時代からの、「ねね」だが、淀君には子ができたが彼女は一度も腹をいためていない。こうなると、「石女」といった呼称かおるけれども、有名武将の正夫人である彼女達は いずれ揃って皆不妊症だったのだろうか。 誰々は何歳の時に嫁したとかヽ何歳の時に結ばれたといった記載は残っているがヽ頼朝と政子は月に何回致したとか、信長と奇蝶における夫婦生活の実体といった、臨床的データーは残念ながら伝わっていない。 秀吉も藤吉郎とよばれた頃には、他に相手もなくもっぱら妻一人を慈しみ、「ねね、ねよう」とばかり求めていたろう事は、想像にかたくないが、だからといって一日に何回したかといったような記録は、その祐筆の『豊鑑』の類にも記されてはいない。 しかし子作りでは大器晩成と云っても、実際の方は相当に早くから人並み以上では、なかったろうかとも想われる。 なのに、ねねが産んでいないのは、彼女に受胎能力がなかったものとみるべきなのか。 淀君の産でいる子が秀吉の種とすれば、そうした見方も成立つ。その点、信長は堂々と十有余の他の女に、十二名の子供を産ませているゆえ、彼に受胎させる能力が十分に備わっていた事は歴史が
証明している。 となると、この場合もやはり奇蝶の方に、受入れ態勢が整っていなかった事になる。 この点は頼朝の場合も同じで彼に能力が立派にあったのは、なにしろ最初に他の女に子をうませたのを、政子が無慈悲にも七里ヶ浜へ遺棄させている事実でも判る。 それに、まだ彼女の頃はコロンブスも生れておらず、従って不妊の原因ともなる性病など、各地に伝播もされていなかったから、それによる受胎障害などなかった筈である。 こうなると政子はもとより、ねね、奇蝶らは、冷静にみて冷え症だったか、子宮後屈などの発育不全ではなかったかと考えざるをえなくなる。 しかし歴史上あまりにも有名な武将夫人が、みな打ち揃って子宮がいびっだったとは、どうも話が変ではあるまいか。 とはいえ先天的不妊症が原因でないとしたら、やはりどうしても性病か婦人病とみるしかない。 そこでコロンブス以前であっても南蛮人が怪しいと睨んでみても、種ケ島ヘバスク人が渡来した天文十二年には、源平時代の政子はとうの昔に死んでいる。 信長の妻奇蝶は、その当時八歳。秀吉の妻ねねは、まだ五歳だった。 そして、南蛮人が多く入ってきだした頃には既に二人とも結婚している。身分柄まさかよろめいて病気を貰ったとも思えない。 では英雄ともなるような男は、違ったもので彼ら、つまり頼朝や信長や秀吉は、「子供など生れたら煩わしいから、子を生まぬ女を探すにしかず」と彼女らを選んだものであろうか。ここが判らないところである。 なにしろ、現実において子をはらむかはらまないか、これは実験してみなくては、前もって知りようもないと思える。 すると、その時代にも五味康介氏のごとき女体鑑別の大家がいて、髭をなぜなぜ、「これならば荻野流の術の必要もなく」と、彼女らを選んだというのであろうか。 が、実際はそういう事はなかったろう……となると、きわめて奇怪至極にすぎる。では、この謎はどうしたら解けるのであろうか。 下請け産業 『医学天正記』の著で知られる曲直瀬道三の書き残したものに、
「雖知苦斉」と題するのが残されているが、その中に、 「お産はそれ婦人の大役にして、産褥にて亡くなるものすくながらず、よって、腹は借りものと称して、身分家柄の高き女性は己が子を産むの煩わしさを避け、身分低き女子をもって代りをさせる」 と、あるのがでている。また、その伜の曲直瀬正紹は、 『玄朔道三配剤録』とよぶ、後年編纂された「医学天正記」の神記を書き残した他に、「延寿院記」なる日記も伝えている。 その中に、身分の低い女に、奥方が子うみをさせることを、彼は、「産業は女の大役にて子を助けんとすれば、その身を失う事も珍しからず、よってこの、下請け産業というは女子といえど一死を賭して、その毆に奉公することであれば、家臣の中にても良き家柄の、
志操固きものこそ選ばれねばならぬ」と書いている。 これをみると、頼朝の妻であれ、信長や秀吉の妻も、うっかり妊娠して臨月となり、産業の大役で命を失っては大変とそれを避けていたからして、石女扱いを後年になってされたのではなかろうかとも想像される。 もちろん奇蝶のように、生駒の後家娘に下請け生産させた児を、産褥の床からすぐ取りあげてしまい、これを、 「乳人」とよばれた乳出し女に養育させて、わが子としてしまい、自分は、「妻の座」を守って、女房業に専念していれば良かったのだから、云わば現在の妻一人の仕事を三人で分担するシステムで、これなら、 (女性か男性と伍し一個の人間として生きてゆくのには、これまでのような出産育児といった煩わしさから、解放されねばならない) といったボーボワールの『第二の性』の、先取りといったことにもなるのである。 つまり以前流行したウーマンリブが、プラカードを立て、ヘルメッ卜姿で竹竿を振り回し、アメリカ輸入のつもりで新しがっていても、歴史を正確に見直せば何の事もないようである。
日本では既に四百数十年前に、竒蝶やねねは、ヴァージュアウルフのいうごとき、 (女は社会的存在として生きてゆく為には、独自の時を持たねばならない)を、さっさと実践していた事になるのである。 つまり信長の妻とか秀吉の妻といった当時の進歩的婦人たちは、出産育児に煩わされることなく、一個の人間的生き方をしていたということである。 源頼朝の妻であった政子が、頼家、実朝と殺させて実家の北条氏に政権をとらせ、己れは、死に際しては果然と源姓を拒み、「平の政子」として死んだごとく。 奇蝶にしても亡父斎藤道三の城たった岐阜城を回復するために、その異母弟斎藤玄蕃允をもって城主にせんとして拒まれるや、美濃三人衆稲葉一鉄の縁辺に当る内蔵介を使嗾して、本能寺を爆発させ 信長を髪毛一本残さず、噴き飛ばしてしまったように。 ねねの場合も秀吉の死後、東西陣営に分れて関ヶ原合戦となるや淀君への憎さから、故秀吉の大坂方を滅ぼす手助けをして、徳川家康より、 「お骨折り過分であった」と、河内で一万六千石の報酬を受取っている。が、だからといって家康に心服していたわけではなかったらしく、彼を呼び棄てたり云うことをきかず楯をつき、 「憎々しき老婆かな」と家康を何度も立腹させていたのは、徳川史料の、『当代記』の慶長六年から十九年迄の、随所にそれは記載されている。 「子はカスガイ」といった諺もあるが、彼女らには子がなかったせいか、みな、夫の死後や死ぬ時には、それぞれが裏切ったような恰好をとっている。だからして、 (子をうまなかったのは、名目だけの夫婦で交渉は何もなかったのではあるまいか) と勘ぐられもする。しかし奇蝶にしろねねにしろ、生涯禁欲していた女性にしては、生々しすぎる感がしないでもない。さて、この謎ときはもうすこし後にして、 『徳川十五代記』の記載を先に引用すれば、 「十三代将軍家定の正室澄心院は、一条左大臣忠香の猶子明姫となっているが、畏き辺りの御落胤といわれている。姫は身長一メートル十セソチにみたぬ短身で、唐紙の把手まで頭が届かぬ幼女のごと き有様にて足袋は七文。こびと姫と申上げた」とある。これが、 「奇体な難病療治」と題される国芳描くところの三枚続きの錦絵では、(中央に明姫らしい幼女のような御簾中の姿と、その周りをとり囲む医師たちが手を伸ばし、指を挿入させている)ような具合で描かれていて、 「これ位がおよろしいようで……」と、卜書き迄がっけ加えられている。がまた、よみ本の、 「柳亭桃水作御伽草紙小指姫」になると、 「せっかく貰うた嫁女じゃ。もしもやり殺してみいな、向うの親ごさまと気まずうなる。じゃによって本番は、下女でもよんで用をたしておけ。ええか判ったかや」 「というて、おやじさま。柄はこまうても十八の女盛り。もしむずかってしたがったら、何としましょうぞ、のう……」 「はてはて才覚のない伜めじゃて。そういう時は太指ではまずいから、そっと小指でも用い手ずまを使うてやるのじゃわい」 洒落本とか黄表紙ともよばれた江戸時代のポルノグラフゆえ、書いていることが露骨だが、家定将軍が遠慮して触れなかった事への諷刺であろう。しかし小指でこそぐる位なら、なにも将軍みずか らしなくとも、お側の女中衆でも、その用はたりたのではあるまいか。 さて、これは京から室を迎えた将軍家の場合だが、将軍家の姫君を貰った大名はどうかといえば、 十一代家斉のごときは子女五十四人ともいわれ、その姫を賜わった家は多い。が、うっかり将軍さまの娘を妊らせ、お産をさせて、もし産褥熱でも出されたら、ペニシリンもアクロマイシンもなかった頃のことゆえ、 「お産は女の大役、不幸にも御逝去」では、恐れ多くて将軍家に申訳がたたない。 といって、明姫のようなミニミニ型なら、 「小指の思い出」だけでも済むだろうが、成熟しきった姫君の場合は親指でも無理ゆえ、この問題をどう処理したものかとなる。 信州松代藩の真田幸貫は松平定信の息子で養子に入って、のち、やはり将軍家の姫の御降嫁を恭のうした一人だが、この人の日記の『松影抄』に、 「昔は稚児小姓というは衆道の為にありしときくが、当節は奥向きに召仕われるが多し」の一節がある。これを推理すると、まだ受胎させる能力のない十三、四の少年が選ばれて、女装をさせられてそ の用つまり御降嫁の嫁さまの相手をしていたものかとなる。 「湯島でもお城下りは前も売り」の川柳かある程だから、陰間とよばれた中でも、色子の方は後ろが専門だが、屋敷奉公の小姓くずれは、年上の女にその方で商いをしていたらしい。
となると現在、江戸城の女中が孤閨に悩んで用いたものと袮せられるベッコウ細工や、鯨骨の張形も、本当は将軍家の姫が嫁入りの際に自慰用にと持だされたものかも知れぬ。 なにしろ葵の紋は入っていないが精巧な品が多く、頗る高価な物らしいから、女中風情が自力で購入できたとは考えられない。 さて、貝原益軒の門人樫原重軒の、『養生訓読解令集』によれば、 「子を産まぬ為に梅干の種をつけし水にて洗うを良しとするも、もし経血滞りたる後にしあれば、ほおずき、いたどりの根を……」といった。バスコソ法までが書かれている。 信長や秀吉時代の公家である山科言経の日記は、岩波から上下二巻刊行されているが、「月さらえ薬、遡月丸」といったような、妊娠中絶薬を家伝薬として商っていた旨の記載があるし、滝沢馬琴の 『椿説弓張月』にも、 「子おろし一服丸。経通散」の広告が、その裏表紙には堂々とでている。
明治軍部が人的資源確保こそ、富国強兵策であると、堕胎を厳しく取締り、そうした漢方薬を一斉に摘発してしまったから、今では伝わってもいないが、がっての日本にはピルにもまさる避妊薬や、 中条流のごとき簡便な堕胎術が昔からあったのではあるまいか。 だからこそ、政子、ねね、奇蝶といった夫人たちも、接して洩らさずではなく、接しても産まず、 そうした産業は、それしか能かないといった女にやらせ、後は引取って乳人をつけ、自分は一個の人間として、「脱・女」の立場から、おおいに働いて夫に天下取りするような大仕事をさせ、やがてそ れがエスカレートしてその成果を自分で、引っくり返してしまうようにもなったのだろう。というのは、子を産まなかったとはいえ、彼女らの勇ましさは、張形をこそこそ使用し遣瀬なさを紛らわせて いたような陰鬱さはない。きわめて闊達である。だから、する事は充分にしても唯うまなかっただけだと想う。つまり、 「女は、それを我慢できない」と云われる程だから、化学薬品ではない安全確実な、避妊薬や中絶薬が昔は昔なりにあったのであろうと推理するのである。 なのに江戸時代から、インフレがひどくなって生活難となり、女性が一人で子をうみ乳をやり、そして女房業をと、がっての三人役を一人で済ますようになったから、「素幃らしかった日本女性」も、 哀れ昔日の面影を今では喪失してしまったのだろうと愚考される。 |
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史擬 徳川家康
徳川家康の実像
この一連の徳川物は、以前ニフティの歴史会議室で議論されたものを、加筆訂正してここに改めてUPするものである。重複する箇所も多いが何卒御容赦願いたい。
現代、家康を尊敬している人間は非常に多く、彼の生き方を経営戦略の手引きとしている本もある。しかし、ここに敢えて水を差すような一文を書いたのは、事、日本史に関しては相当の碩学といえども、既成概念が強く、なかなか文部省歴史から脱却できないという現実が在るからである。以下に書かれている内容に驚かれ、反発されるも御自由です。しかし、人類の生活が大きく変わろうとしている今、この国の現状はどうでしょう。
今こそ新しい、高い目線で”新史観”が必要ではないでしょうか。それには勿論隣国の韓国や、中国との歴史の「スリアワセ」は不可欠である。さすれば日本は何時までも過去の呪縛から脱却出来ないでいる、「自己悪逆史観」や「お詫び史観」から脱却できると想うからである。
さて、家康は天下を平定するまで随分と邪魔者を殺しております。
しかし時は足利時代末期。体制内の勢力争いで里も田畑も荒れ放題。酷税と人狩りで飢饉が追い打ちをかけ、日本原住民の騎馬系も海洋渡来系、サンカ系も生きるのに必死の時代でした。
こんな、人肉を食べるまでに追い詰められた悲惨な戦国時代に生まれた家康である。古今の英雄で「殺し」という行為を成さなかった人物は少ないでしょう。弱肉強食の中世にあっては、致し方もなかった事でしょう。父親に去られ、母親に売られた幼い家康は辛酸をなめました。戦乱で百姓も疲弊し、庶民も貧困のどん底の状況を見て育った家康は、徒手空拳の一介の土民の身から革命を志し、「おりゃあ、偉くなったる。世直しせなあかんぎゃあ」と、同じ虐げられた仲間を糾合して、ついには徳川政権を作りました。
そして家康は日本原住民である同族を解放し差別の撤廃を断行しました。これは立派な事です。これは秀忠の時代まで続きます。(現代で言えば、お上から搾取され続け、ただ黙々と体毛を剃られるため、働き続ける羊のような従順なサラリーマンを団結させ、政権を奪還するようなものでしょう)しかし、三代将軍家光の時から家康の意志は踏みにじられ、これが幕末まで続く事になる訳です。即ち、現代にま尾を引く差別問題です。(以下から、どうぞこのイントロ部分を頭の片隅に置いて読んで下さい)
●徳川家康について、明治三十五年四月十八日、村岡素一郎が『史疑徳川家康』を東京の民友社から出しました。八切史観でも「家康二人説」ですが、明治史学界は『松平記』を出してこの説を封じ込んだ。しかし、明治の学会でも村岡説に同調というか、理解を示したような学者は皆無だった訳ではない。時の内閣修史局編修官東京帝国大学教授、重野安繹博士がそれである。博士は『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際して序文を書き、
「東照公は幕府の烈祖三百年の基業を開く。世にその事蹟を云うる者粉飾避諱なき能はず。仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば、則ちその太閤微賤の時を伝ふる、未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや」といっています。さらに「もし豊臣秀吉の子孫が現存し公爵にでもなっていたならば、やはり秀吉の卑賤な素性を糊塗し、先祖を藤原氏か源氏に持っていったであろう。だから家康もそのような工作を試みなかったとは言い切れぬ」と述べています。
また南条範夫著「三百年のベール」によれば、重野博士は村岡説に対して、「自分も徳川氏の出自が新田源氏だなどということは全く出たらめだと思っていた。しかし家康自身がささら者の倅だとは夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説である」と批評し、村岡が「史実として成立し得るとお考えですか」という質問に対しては、「いやそこまでは断定できない。今君の挙げた全資料を自分は同じくらいの反対資料で片端から反駁できる」と答えた。
しかし、「自分の出来る限りの反論の方が正しいか、君の立場の方が正しいか、それは今のところ何ともいえない。徳川幕府は二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し湮滅させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽くしたに相違ないし、又民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは疑いない。してみれば、君の立場もその粉飾され阿諛されつくした歴史に対する爆弾的宣言として大いに意義がある」ともいったという。ここまで理解していて尚かつ「松平記」を正史としているのですから、一体明治の歴史家と称する人達はどうなっているのでしょう。
(この辺は鹿島史観の「国史大儀」では「明治のボンクラ学者」と痛烈に批判してます)何といっても、明治史学会は華族会がスポンサーでしたから、致し方も無かったのでしょう。「学者の良心という概念」もこの頃には未だ無かったのでしょう。と、同情します。まあ考えて見れば、彼らは明治政府の親衛隊的存在の側面がありますから、重野博士の言っていることを良く解釈すれば、天皇家周辺の権力者に極力おもねった歴史を作った事実を、自嘲しているようにも思えます。
【家康二人説】(1) さて、この資料は公開されたのだろうか?また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか?不思議なところである。八切止夫は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。 嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。
現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。
だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。
リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。
だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。
「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。
前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書ー国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です
○家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。 世良田次郎三郎(家康の前名)は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。 さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。
次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。
しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。
桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。
つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。
是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、 為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、
「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、
使人送葬干此然是行
戎役未息墳墓唯為封而己、(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略)
龕 慶長十四年春三月
大將軍 翁 印
さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、
「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。
さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。
しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。
竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。
しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。
だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。
つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。
だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。
だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。
これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、
これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。
【家康二人説】(2)
石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。 遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうと志しをたて、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。
しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。
これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して”東海一の弓取り”とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。だから、それまで互いに戦いあっていた二人が、合併してその時から一人になる。
つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。(ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます)
殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。
そこで、まんまと松平元康ん化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか(大須万松寺天王坊の説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いいが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康(家康)を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。
その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。だから、三河の一向門徒の騒動とは、
所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。
榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。
ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。
その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。
【家康二人説】(3)
<<武田信玄は家康の正体を知っていた>>
上州。ここは当時、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。処が天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が今日のごとく前橋の西へ変わったから、関東管領として上州平井城にあった上杉憲政がこれまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。そこで上杉の姓と管領の肩書きを譲られた景虎(謙信)が、関白近衛前嗣卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領。そこを近衛卿の城として、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。
永禄四年九月十日が川中島合戦になるのだが、謙信は小田原攻略に失敗したので、近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。が、永禄六年十一月になると、武田信玄がこの城を力攻めで奪った。そこで上杉方も放っておけず取り返した。三年たった永禄九年に、箕輪城を落とした信玄は又も厩橋城を奪った。そして今川義元亡き後の駿遠二カ国もついでに己が領国となさんと信玄は企てた。
信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用して、当時一向宗と呼ばれた石山派の僧たちを、住民宣撫工作に招いた。元亀二年の織田信長の比叡山焼討ち後は、英俊、亮信、豪盛と呼ばれる延暦寺の名うての僧たちも、焦土と化した山を下って、信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを<宣撫工作班>として信州、上州の各地に派遣し寺を建てて近隣の住民を集め「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせた。この武田の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。
自己防衛のため織田信長と攻守同盟を結び、元亀元年十月には「上杉家文書」「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈り物)をなして、同盟を結び信玄に対抗した。しかしそれでも武田の仏教宣撫班が、「武田の権僧正鬼より怖い、どどっと来たって、どどっと斬る」といった触れ唄を御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。何しろ幕末まで、この地口は伝わり、「甲斐の吃安、鬼より怖い。どどっと吃れば人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのだろう。そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母鳳来寺の猿女と呼ばれる者たちの居る薬師寺に対抗策を講じるように求めた。
現代で謂う”宣伝合戦”である。そこで「家康こそ何を隠そう、鳳来寺薬師寺十二神將の一体の生まれ変わりである」と説いて回った。後には関ヶ原合戦で薬師寺系の大名を皆寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ司令が飛び、それぞれの修験者達が家康のために武田に対抗した。
【注】 武田の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対して、薬師寺医王派というのは、白衣を纏い、正反対の東方瑠璃光如来、を教える東光派である。教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するり、修験、修法を旨とする白衣派であり、「武田一派の本願寺派を折伏せん」と各地から動員されたものである。 こうして双方が宣伝合戦をしている内に、信玄は妻の義弟本願寺光佐の合力でまたぞろ出兵してきた。越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもつて、越後の上杉景虎を防ぎ後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落とした信玄は遠州二股の城も降し、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。
家康は十二月二十二日、夜明けと共に、三河岡崎勢を前発させ、遠江勢を己の旗本として全軍を率いて浜松城を出ると、秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、あまりの大軍に驚き取って返し、籠城の支度をした。武田勢は姫街道の西へ出て追分けで北方へと隊列を変えた。家康を討つ胆なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、信玄はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた。さて、現在のように徳川史観そのままの「松平竹千代が成人して松平蔵人元康になり、それが姓も名もやがて徳川家康に 改名した」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話しだが、当時の武田信玄は、(松平蔵人が誤って森山で斬殺されたのを奇貨として、後家の築山御前めに近よってその倅の岡崎三郎信康めを籠絡、家康はまんまと替玉を勤めている。が、今や当初の約束は守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。
よって戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪まりかねている。故に、三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放することこそ、街道制覇の焦眉の急である)と全軍を向けんとしていたのである。さて、前記したが、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の死で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎(家康)が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に激しく抵抗した。やむなく家康はその与党を率いて、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。しかしとても完全に征圧できぬと知ると、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引払ってそちらへ移り住んだ儘である。そしてその後はあまり三河へは寄りついていない。
だから三河の土民や地侍達は、「三河解放」を豪語して信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡くのは目に見えていた。だから、名を取るより実をとれと信玄は、目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かうとしていたのである。そこで、閉じ籠もっていた家康も、(この浜松城へ攻め込まれんで助かった)と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると周章狼狽。すでに日没になっていたが「追い討ちをかけい」と城門を開かせた。「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、
「家康公は浜松城から十二キロの余も撃って出て武田勢を追いかけた。もっと真暗になってから奇襲を掛けたら、勝利を得たかも知れないが、三河へ行かれるのを恐れてはやりすぎたので、薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」と説明している。つまり、この三方原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った信玄は三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、信玄は瀬戸城に入って越年し、雄図空しくここで病没してしまう。
【注】 信玄は一向宗の僧達を自在に使い、己の宣伝をすると同時に、他国(駿河、遠江、三河、尾張など街道沿いの諸国)にも一向宗の勢力はあるので情報収集もしていた。だから家康が元康の替え玉だ、ということも判っていて、己の兵力温存の意味からも、浜松城を力攻めせず、こうした合理的作戦を採ったのだろう。「加越闘争記」巻一の始めの書き出しにも、はっきりと、「是則ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵なり」とでているぐらいで、元亀天正の頃は、徴税つまり年貢を取り課役を言いつける施政権の奪い合いで、仏教徒と非仏教徒の武士は不倶戴天の仇敵同志だったのである。だから、この時代を宗教闘争、民族闘争として捉えれば理解できる。 さて、八切史観で家康、松平元康を解明すれば以上の様になります。従って松平の血脈は信康(竹千代)で断たれ、松平一族は悉く殺されています。 そして、松平の「姓」は徳川に従うという意味から”属”とされ、大名にもこの姓を与えている。武鑑を見れば、九州の島津も、東北の会津も松平姓で、この姓は多い。だから、徳川秀忠と御台所(江与の方・信長の異母妹、於市の末娘で信長の姪御に当たる)の間に生まれた国松(駿河大納言忠長)には、織田の血が流れているというので、徳川姓は名乗らせず正式には”松平忠長”である。 「右は神君大御所駿府御城御安座之砌、二世将軍秀忠公御台所江被進候御書拝写之 忝可奉拝誦之者也秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣同 御次男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也 従二位 」 とあるこの確定史料は現在内閣図書館に秘蔵されている<内閣蔵本>の<慶長十九年二月二十五日付、神君家康公御遺文>というのがある。
これは明治四十四年刊の国書刊行会のものに<当代記><駿府記>といった、徳川史料のものと並んで活字本で収録されている。これによると、生母が春日局と御台所との相違をはっきり出している。が、父の方は、忠長の方は明白に御二男としてあるが、家光の方は御長男、とせずに、御嫡男の文字を当てている。現代では”嫡出”といった用語もあるが、この時代は”猶子”といった名前だけの養子であっても、これが跡目と決まると、<嫡出>とか<嫡子>とか書かれたものであって、一男とか長子という文字が無い限りは、その長男とは認められないことになっている。
これは当時の<陰涼軒日録>や<御湯殿之日記>にも、「嫡男とは長男とは違い、他から入って嫡男となり、そこの倅共と争う事など」と残されている。さて、家康〜秀忠〜家光〜家綱〜綱吉と続く徳川家であるが、
八切史観では秀忠は鍛冶屋の平太の娘、おあいの子(後の西郷の局)で、家康直系。家光も於福(春日局)に産ませた家康の子で、秀忠とは異母兄弟である。この春日局は本能寺で信長を襲った一万三千の軍勢を率いた斉藤内蔵介の娘なのである。当時於福は稲葉八左衛門の妻で四人の子持ちであった彼女を探しだし、夫の稲葉には五千石の扶持(手切れ金)を与え、夫婦の縁を切らせた。これを伏見城に連れてきて仕込んだ子が家光その人なのである。
(しかし、知らぬは本人なりで、家康は家光を自分の種だと思いこんでいたが、本当の父親は天海僧正らしい。これは「八切裏がえ史」や「徳川家康」「家康は世良田徳川の生まれ」の本に詳細。)
【注】 何故に於福の産んだ子に徳川家を継がせたかの謎も、これ全て「信長殺し」に起因する。徳川史料を鵜呑みにして家光を秀忠の子とすると、何も判らないが、徳川家では家光を秀忠の子としないことには、まずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、神徒系の徳川家が全く仏教系に変貌してしまい、<神仏混淆>と言う時代に変遷してゆく為の糊塗策とも見られる。 【引用参考文献】 駿府政事録・大日本国駿州城府分時鐘銘・駿河誌・武徳編年集成・城塁記事
世良田二郎三郎のこと 現在徳川物で広く流布されているのは、山岡荘八の「徳川家康」ですが、これの底本と言うか、下敷きになっているのは「松平記」です。これが問題なのです。政権が変わると前体制の悪政を暴露するのが通常です。家康も豊臣の生き残りを九州へ送り(豊臣松園)といった特別部落名さえ今も残ってます。
だから徳川慶喜は「明治の世代わりになっても、徳川期のことや、家康が部落出身だったことは絶対に蓋隠すること」を条件に、金のない新政府に三回にわたって献金した。さて、明治になって新政府は徳川慶喜に対し「汝その祖崇の地へ戻るべし」と駿府七十万石に戻され、やがて公爵になり、華族会の会長になる。「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治十六年七月七日から徳川はまた権勢を回復してしまう。
それまで徳川時代の真相を暴露しておけば良かったが何しろ新政府は学のない軽輩ばかりで天下を取った喜びで酒食に溺れ、明治七年の佐賀の乱からは治安維持に追われていた。現代でも政権党になれば、地元に国家予算を分捕り、利権に預かる政治屋が多いのは慨知のことで、この国は明治以来政治体制はちっとも進歩していません。閑話休題。
だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく神祇省廃止で当時の歴史家に当たる国学者も追放され関知出来ずでした。長州御傭い学者リースが、日本での博士号設定の時、学士会が設立され、これに権威を持たせるため華族会の下に入れ、その指示を受けるようになった。だから筑摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑徳川家康事蹟」が明治三十五年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し宮内省華族会によって買い占めて絶版となった。だがこの本も大変な労作だが「三河後風土記」よりの引用が多すぎる。
しかもこれは贋本、贋系図造りの名人、元禄時代の沢田源内のもので、「松平記」も源内作だからこれを根本史料とした山岡荘八の「徳川家康」はまるで実像が違います。さて前段が長くなりました。本題に入ります。世良田二郎三郎が徳川家康なのです。
「本多元孝譜」に「永禄四年十一月一日には元康の御名で手紙類を出されていたが翌五年八月二十一日よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役に当たる「物書き方」だった当人がはっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出系図を集めたものだから「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名のられたが、直ぐ翌年夏からは松平家康。次ぎに上下とも変えて徳川家康とならせられた」というのは公認されていた事実のようである。 この徳川という姓は、上州新田別所出身の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田、日光、徳川と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変わったが、代々、徳川家へ系図を貸してやり手当を貰っていたが、幕末、皮肉なことに徳川家が倒れると今度は本家の岩松満次郎が先祖の功により「新田男爵」となった。
また、元禄年間以降に編まれた徳川家の歴史では「松平清康ー広忠ー元康」となっているが、岡崎の大樹寺に葬られている広忠には「瑞雲殿広政道幹大居士」となっていて慶長十六年の寺の過去帳では、広忠の供養のため建立された寺だから「大樹院殿大居士」となっている。一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあるし、その他にも「滋光院大林居士」の法号もある。
一人の死者に狭い岡崎の内で四つも戒名が有ると言うことは複雑すぎる。これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするためには、「元康の墓や戒名が在ってはいけないから、四つの戒名を一つにして広忠にしてしまった」のだろう。これでも家康と松平元康は別人だということが判る。つまり本物の元康は家康の前身とされてしまったばかりに、戒名も墓も判らなくさせられている。
俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに荷担して家康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者を追い払おうとした当時のレジスタンス」であろう。何しろ家康になってからの二郎三郎は松平一族の長老の松平蔵人信孝を明大寺村で殺し、鵜殿康孝も殺し、松平好景も明丹宮で殺し、松平一族は殆ど全滅させている。そして全然無縁の連中に改めて松平姓を付けて糊塗したり、やがて本物の元康の子の「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくなり、武田へ通謀ということにして、うるさい築山御前と共に始末している。俗史では、信長が、我が子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて殺させたと言うが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令など出す訳がない。
この岡崎三郎は信長の猶子、つまり養子身分になって、信の字を名に付けて貰ってる位だから、これを信長か殺せと言う訳がない。天正二年に家康は鍛冶屋の服部平太の娘”あい”に作らせた長子秀康が、天正七年には後、二代将軍となる秀忠も生まれた。もうこうなると、信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちが良好で自分の子達がよく育つとみきわめがつくや、親子とも始末した。勿論色々と体裁を作って誤魔化したろうが、これが信長に知れる。
と言うのは一介の土民から身を起こし、世良田二郎三郎と名のっても、尾張の名門の出の信長と違い基盤となる領地がない二郎三郎は三河に目を付け、松平元康が死んだ後、後見人と言えば恰好がいいが、本人になりすましたのである。(どうも、奇計を持って元康を殺したらしい。これは外国の推理小説に良くあるパターンである。
現在家康物を経営の手本とする本が出回っているが、この実像の家康を企業経営の手本としては”殺しの経営戦略”となってしまう) そして後に、松平蔵人元康として清洲城で信長と盟約を結んだ。この時人質として信長に取られていた本物の元康の子三郎信康を取り返し、三河と尾張が手を結ぶ一種の平和同盟である。
そして取り決めの誓紙二通に松平元康として署名捺印する。これはまさしく欺瞞、詐欺である。今で言えば私文書偽造だし、他人名義を詐称しての取り決めなどなんの効力も発生しないのは、当時であれ決まりである。これがばれたら信長に殺されるのは明白である。だから以後、信長の言うことを良く聞き、守ったのである。
こうした後ろ暗い負い目があるから、戦国時代には珍しく堅い同盟が続いたのである。だが「永禄四年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だった」ことがばれそうになった。そこで慌てた家康は、五千両を持って天正十年五月十五日に、安土城へ命乞いにいった。
半額だけ受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へ行くと五月二十九日に信長は小姓三十騎を連れ、突如として上洛してきた。家康は慌てて船便を求めてその日堺へ逃げた。しかし堺取締の信長の家臣松井友閑は一隻の船も自由にさせず、家康一行を軟禁した。
六月二日本能寺の変が起きた。そこで「フロイス日本史」では「三河の王(家康)を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、信長は髪毛一本残さず吹っとばされた」とある伊賀山中を越え、必死もっしの難行苦行で逃げ戻った家康は、直ぐ大軍を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を津島まで出した。しかし秀吉が十三日ライバル光秀を山崎円明寺川で全滅させてしまった。ところが家康はその五日後に至るまで鳴海で頑張っていた。
勝った者向かいといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかったらしい。
しかし情報網を張り巡らしていた秀吉に(信長殺しは家康の差し金)という弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、(他へ知られたくない急所)を握られていたばっかりに、秀吉の在世中は諾々とその命令下にあったらしい。
なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引きぬきして、いざという場合に備え生き証人にしていた。その他にも岡崎三郎の長女の夫小笠原兵部少輔秀政と次女の夫本多美濃守忠政の二人も秀吉の臣となってしまったので、これでは家康としては「信康殺し、信長殺し」と続けてボロが出てしまうので、鳴くまで待とうホトトギスと、時節到来まで辛抱していたのだろう。だから秀吉が死ぬと直ぐ、大阪城を焼いて天下を取った。そしてその間に信長殺しをさせた斉藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子があるのに、
これを伏見に引きとって子をしこませ、やがて産まれた子と共に江戸の秀忠のもとに送り込んだ。家康としては、信長の異母妹於市の産んだ達子の子国松には、織田の血脈が流れているから「あれに徳川の家を継がせるなど、もってのほかである」と於福(後の春日局)に産ませた子の竹千代(後の家光)をもって三代将軍家光とした。
秀忠も老いた父の家康から信康殺し、そのためやむを得なかった信長殺しの顛末を聞かされると「徳川家の恩人斉藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを待って直ちに将軍職を譲ってしまった。家康は己の晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると安心したのか翌年に大往生をとげた。しかし三河の人間でないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した。所が家光は「自分を将軍にしてくれた父家康の恩に報いるため」まず織田家の血を引く名目上の弟の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、その母の達子は押し込め同然にした。ついで家光は世良田村の奥に日光別所があるのに目をつけ、ここへ今も現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると、二郎三郎家康は幸せである
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