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安土桃山時代
日本最初のルネッサンス
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愛知県出身の織田信長と豊臣秀吉、が天下をとった時代は、当然その時代の公用語は「おきやあせ」「あかんでよう」の名古屋弁だったのである。
北は東北、南は九州まで、日本は六十余州というぐらいだから、様々な言葉が在って大変だったろうことは想像できる。
今でも青森と鹿児島人が方言で話せば全く意味が通じない。だから諸大名は随分と苦労したらしい。
さて、足利時代には、原住民が体制側の仕事に就こうとすれば、強制的に仏教に転宗し、坊主のように頭を丸めて「何アミ」と称さなければ奉公できなかった。
また、官庁に出仕を許されても、反乱されては困るので武張った務めは許されず、安全な能、茶、花、画とか美術に限定されていて、これは信長や秀吉の時代にも続いていた。
しかしここに、彼らが信長という原住民解放軍のおかげで自由人になり、おおいにその才能をのびのびと花咲かせたのが日本最初のルネッサンスなのでである。
日本史ではこれを「安土桃山文化」というが、次のルネッサンスともいうべき文化の爛熟期は元禄時代だった。
ここで、学校歴史では教えないルネッサンスの裏面史(真実)を考究してみたい。

元禄ルネッサンス 
悲劇の水戸光圀
 
講談では、徳川家光が辻斬りに出歩き、それを光圀が止めたことに作り変えられている。又嘘と言えば<武野燭談>では、水戸家を立てるため京から宮様を迎えようとする酒井忠清に、
あくまで光圀が反対したようになっている。だが実像の光圀は京派であり、勤皇精神に溢れていたのである。
光圀は吉良上野介によって青蓮院へ押し込めになった有栖川幸仁親王へ、衣服類や銀を水戸京屋敷を通じて、度々今で言う差し入れをし、
前後西帝の擬華洞へも何度も自作の詩の「添削料」の名目で、半紙百帖とか、墨百挺といった納入の他に、「採暖」にと冬は桜炭、夏には団扇をかかさず差し入れたので、
幽閉された後西帝は「六国史」を今日に書き改めも出来たのである。
つまり光圀は何人も辻斬りこそしているが、「後西帝に唯一人の忠臣として奉仕」している。そのため吉良上野介に嫌われ、柳沢吉保に憎まれて、その血脈を皆絶たれてしまい、
今では虚像の黄門様にされてしまっている悲劇の人である。(光圀を大納言の唐名で黄門と言うが間違いで、水戸はちなみに中納言である)

さて、元禄時代の背景を知ってもらいたいため、光圀の実像を解明しながら長々と稿をさいたが、この時代の立役者はなんと言っても徳川綱吉と柳沢吉保である。
綱吉が上州館林十万国から将軍職になると「側近の小納戸役を申しつける」と柳沢も五百石取りに立身する。時に綱吉三十四歳、吉保二十二歳と、おおいに気のあったところである。
だから二人で何かでっかいことをやろうと、話しあったのかも知れない。
というのは江戸時代の代表的文化人や財産家はみんなこの時代に出現しているからである。
そしてこのため、今日になると対比する如く並べてみられ、ルネッサンスと呼ばれダヴィンチ、ラファエロ、ミケルアンジェロ等が輩出した絢爛たる世界と、
日本の元禄時代とは同一視されがちである。

何しろ絵画の浮世絵でも有名な英一蝶の他にも菱川師宣、鳥居清信、西川裕信といった今日の芝居絵の元祖の鳥居派が誕生。
蒔絵の小川破立、中村宗哲、光琳派の元祖の尾形光琳、陶器の尾形乾山、彫金の横谷宗眠、当時の新興文学の俳人としては松尾芭蕉、向井去来、内藤文草、服部嵐雪、室井其角、桑岡貞佐、作家の井原西鶴。
また、天下の権勢を一人で押さえていた柳沢吉保の側室で町子の実家の正親町公連に青侍奉公していた近松門左衛門が、柳沢のたてた神仏混合政策に迎合して「この世には神も仏もないものか」と
<心中天の網島>の中で堂々とPRしている。
ジェームズ一世のお抱え作家で、その母メアリ・スチュアート女王がエリザベス一世に斬首されるのを見殺しにしたのを対外的に弁護するため<ハムレット>等を書いたシェークスピアが
今日でも名声を保ちうるのは、英国王室御用作家だったためで、国家権力でずっと守られてきたためであるが、
近松も立派なものを書いたに間違いないが、柳沢在世の元禄期において「町子のお方様の御実家の旧臣」というレッテルでその評価が定まったようである。
悪辣非道な綱吉と柳沢
本来、作家とは庶民の側に立って反体制であるべきなのに、ともすれば御用作家になってしまうのは、権威の裏付けが評価を左右するかららしい。現代でもこの手の作家は実に多い。デビュー時には文学的に鋭いものを持っていたのに、儲かるとなればエロや体制迎合物も平気で書きとばす。
さて、近松によって、竹本義太夫や新内の岡本文弥、役者では坂田藤十郎、初代片岡仁左衛門、水木辰之助、初代市川団十郎、中村七三郎が出現し、いわゆる名優が東西一斉に舞台を飾ったのは、
元禄ルネッサンスといえる。この他にも熊沢蕃山新井白石、室鳩巣、太宰春台、伊藤仁斎、世界的な和算の大家の関孝和もこの時代に続出している。
赤穂浪士が討ち入りの時、生卵を届けて激励に行った細井広沢。討ち入りが済むと「全員死刑」をあくまで主張した荻生徂来らも学者であるが、二人共柳沢の家臣である。

つまりその言動や主義主張は主人の代弁と見られるから、赤穂事件も柳沢がマッチで火を付け、ポンプで鎮圧した政治的配慮に依るらしい。
そして学者としての評価が、今日でも不動の物となっているのは、三十年におよぶ柳沢体制の中ではっきりと体制(おかみ)で位置づけられたからだろう。
なにしろ宝永三年には隠匿されていた古金銀貨を国家権力によって強制供出させ、銅や錫を半分以上混ぜた元禄通貨よりなお質の悪い宝字貨を鋳造流通させ、
「初物くばり」と新貨を人脈の配下へ柳沢は惜しみなく配ったという。現代はお手盛り立法の政党助成金を自党の陣笠連中に数百万円当て分配するが、柳沢は宝永通宝を今の金額に換算して十億円ずつばらまき、
その後も従来の二朱金を徹底的に回収し、やはり十億見当の配分を幕閣の主立った者に配っている。

普通賄賂というのは百万贈れば千万ぐらいの見返りを願うものである。柳沢の凄いところは賄賂を取らず、逆に自分の方から金を撒いていたことである。
だから誰に足をひっぱられもせず、悠々と天下の権勢を独り占めにし、全てを蔭で仕切り、晩年は駒込六義園で悠々自適していた。その子孫は郡山十五万石で幕末まで続いている。
彼は庶民にとってはとんでもない男だが、政治家と見るより徳川家の官僚としては最高の人物だったといえよう。この時代、次々と金銀の含有量が希薄になるインフレの波に乗り、
柳沢に劣らず巧く立ち回って財を作った傑物達も多い。

三井の開祖八郎右衛門、住友の元祖の吉右衛門、鴻池の善右衛門などが輩出して壮観を示している。だが、こうした柳沢のインフレ政策で弱い者は打ちひしがれ、
江戸でも行き倒れが多かったという事実を何と見るかだが、そうした乱世こそが金儲けの時代だったのは三井や住友が今なお健在なのでも判る。何と現代と似ていることだろう。
何時の世も体制(おかみ)のやることは一緒である。科学の発達は素晴らしいのに、平成も新令和の時代も、政治の手法は旧態依然のままである。
ヨーロッパのルネッサンスとは
さて一方の欧州のルネッサンスはなにも後世の、世界美術全集を賑わすため起きたのではない。
イスパニアのカタリーナ女王のイザベルが、自分より美しく見える女はみな魔女であると、トマス・トルケマダ司祭に命じ、片っ端から捕らえさせて殺戮してのけた。
ヨーロッパの王家の男女の肖像画はみな美男美女に描かれているがあれは美化しているだけである。バイキングや海賊あがりの連中が武力で王になっただけで、
当時のイザベラ女王が美人だったとはとても思えないし、発端はいわば女の嫉妬からといえよう。

そこでトマス司祭は己が行為を正当化するため「異端審問長官」の肩書きをバチカン法王庁に乞うた。
それに「片っ端から捕らえて拷問にかけ、魔女として焼き殺したり水漬けにして処分しては免罪符が売れなくなり、法王庁の財政に響く」と、
魔女として処刑する場合には、女の所有財産を没収し、その献金をレオ十世は命じた。
トマス異端審問官は女の財産を裁判所と教会で折半する案を出した。そこで法王は、
その拾得分の内の半分を女王へ差し出し、教会もやはり半分を法王庁へ献金と定めた。

だから、なんと当初はイザベラ女王の妬情から起きた魔女狩りが、儲かるからと、各地の王や教会の奨励するところとなってしまった。
そこで金のある女が老幼を問わず狙われ「魔女」とされて欧州全土で次々と火炙りや、生き埋め、四つ裂きに殺され、全部で四百万とも言われている。記録では1854年、ドイツの
トレバースだけでも七千人、スペインのトレドでは三千二百人が蒸し焼きの大量処分とある。
だからそれらの女達の遺産はもの凄かったろう。「これは凄い、思いもよらぬ金がどんどん入ってきて使い切れぬ」とレオ十世猊下も各国の王もすこぶる満足した。
そこでこの泡銭のおこぼれが仮需要となり、装飾用にと絵画や彫刻が求められ、芸術家を潤しルネッサンスとなったわけである。
つまり日本の元禄時代も、柳沢吉保が次々と古貨を回収し、水増し改鋳で利得を上げ、このアブク銭が彫金師や絵師に流れ歌舞伎や俳句の興隆となり、日本版ルネッサンスとなったのである。

「おかみの印さえ有れば、金銀でなく石ころや瓦でも天下の宝として通用する」と豪語した柳沢の家臣の荻原重秀。
「国民をだましても消費税をガッポリ取るのだ」の自民党。どちらも国民のことなど一切考えていない点で同根である。
現在政治に幻滅した国民はスポーツやオリンピックのお祭り騒ぎに幻惑され、グルメブームに踊らされ、美味を求めて狂奔する。
求める豊かな生活(土地や家やレジャー等)には手が届かないため、即物的なものが人々の精神を支配している。
これでは怒る権利を自ら放棄したことになってしまう。人間らしい生活、誇りと言う奴は即物的な物に有りはしない。よりよい社会へのロマンへの渇望ではないか。
さてヨーロッパのザクセン侯やラプール王達が、教会と結託して次々と女を捕らえ火あぶりにし、
あぶく銭を儲け、ミケランジェロらに己の肖像画を描かせたりしたのに比べれば、<殺しの金>でないだけでも、柳沢の方がはるかに紳士的(陰謀での生殺し)であったと言える。


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世界を航海した 葦  舟(あしぶね)
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 「姪児を葦舟に入れて大海に流す」という神話から想像して、太古は人間を水葬にしたのかともする。
しかしこれは違って、アラブのナイル河のパピルス舟と同形の前部三角形、後部が角ばった扁平型の舟は、オーストラリアにも出土している。
さらに、南米ペルーのチチカカ湖にも残骸がみられるというから、古代海人族の有色人種は、まだ白人が文化度が低く野蛮人だった時代にも、
文化の高かった有色人種たちは、この葦船に乗って海流を利用して航海することを知っていたと想われる。
だからアラブの人たちは、日本だけでなく地球上の各地に流布して、それぞれの文化を築いていたらしい。

 阿修羅 
現在もこの阿修羅は、インドやアラブ共通の神々にて、ペルシャ拝火宗では、アフラ・マズダとし、仏としている。
しかしこれは、後の仏教側の作為で全く違う意味なのである。
「ア」というのは差別用語で、アの冠頭詞にシュラがアラブ語なのである。
日本ではコンピイラが海神ゆえ、「コンピラフネフネ追手に帆かけてシュラシュシュシュ」と唄に残っている。
巧く仏教川語にされてしまっているが、シュウラは今でいう起重機に当る。船の積荷をあげるクレーンでもある。
仏教側が日本に進駐してきて、延暦寺をを険しい山頂に建てた際は、清水建設も大林組のような建設会社は当時はなかった。
誰が造ったのかと言えば常識的に考えれば、強制的に駆り出された日本原住民である。
今でも行った人は良く解ると思うが、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院である。
今も当時も鉄鉱石が採れない日本は、鉄の鎖は作れなかった。だから、
イチビの樹皮で編んだ綱で修羅を曵っぱり上げる際、崖の岩で擦り減った綱が切れ、積んでいた巨石や大木が転がり、その下敷きになった。
さらには崖下に転落して、延べにすると何千人もの人間が下敷きになって死んだ。
こうした情景が修羅場であり、修羅の巷といった言葉を今に残しているのである。
ユネスコ世界文化遺産に登録され、観光収入で大いに儲かっている寺で結構なことであるが、
我ら日本原住民ご先祖様たちの、文字通り「血と汗と涙」の結晶で建てられた事を偲び、どうぞお参りの際には、一掬の花を手向けて頂きたいものである。
金毘羅に関して以前の記事を以下に重複するが再掲しておきます。
東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。
こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。
 「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、
 吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか?
 「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」
というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。
ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、
 曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。
  この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、
 「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。
 いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。

信長が作った安土城
淡水魚好きな信長
仏教嫌いの信長
織田信長は幼少から尾張五条川の清州城で育ち成人した。そして海の無いため海の魚には縁がなく、川や池の魚を多く食して成人した。
だから子供の頃の味覚は大人になっても変わるものではない。
五条川で捕れるボラやフナを大いに食べた。また、長良川のアユが美味だと知れば、近くに岐阜城も建てている。
さらに淡水魚の王とも称される鰉(ひがい)や姫鱒の群がる琵琶湖畔の弁天涯に築城したのが安土城なのである。
岐阜城にしろ安土城にしろ、全く地理的戦略上の必要性から建てられたものではない。
信長が京に上って接待を受けた際、四条流の包丁方が、若狭湾で捕れた鯛の塩焼きや様々な料理を出したが、箸を付けてもらえず、
困惑した挙句、近くの小川で捕ってきた小鮒の味噌漬け焼きを出したところ、大いに美味だと喜ばれたという。
これは信長の淡水魚好きを現した逸話として有名である。

さて、この絢爛豪華と云われた安土城は、天正15年2月15日に焼払ったのは、講談では明智左馬之助こと明智秀光となっているが間違いである。
実際の放火犯は信長の次男の信雄(のぶかつ)なのである。
信雄は蒲生氏郷と共に、土山より出兵してきて、明智光秀が坂本へ引き上げた後、無人となった安土城には信長の奥方、奇蝶御前が残留していると知り、
「彼女こそ信長殺しの黒幕である」と思い込み、焼き殺すために火を付けたというのが真相である。
しかし今では、明智秀光が放火したもののごとく、現地では誤られてしまっているのである。
さて、信長の仏教嫌いで有名な「安土宗論」にも触れておく。
織田家というのは元々が拝火教だから、中国勢力の仏教とは対立の関係だった。
そして仏教には様々な流派が在って、浄土宗も日蓮が起こした日蓮宗も忌み嫌っていた。
そのため天正7年5月27日、双方の代表を呼んで対決させたのである。
信長としてはどちらが勝っても許す気などなく、共倒れを狙っていた。しかし浄土宗側は信長の意向を前もって察していて「全て上様の御意次第でございます」と
叩頭平伏した。ところが日蓮宗は僧兵まで伴って安土に乗り込んだものだから信長の逆鱗に触れ、宗論では浄土宗に勝ったが、
信長の武者共に叩きのめされて、京より追放となった。ここで哀れ日蓮宗は勢力争いで敗れ去ってしまったのてある。



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再度ご愛読下さっている皆様にお知らせ致します。
ライブドアブログへ移転しておきました。ブログ名も「日本史編纂所」と同じです。

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現在のところ、古い記事を転載しております。
ヤフーブログには八月まで新記事を掲載します。従って八月以降はライブドアブログを、引き続きご贔屓の程、お願い申し上げます。
なお、八月以降はライブドアブログに新記事をどしどし掲載します。歴史好きの方は是非おいでください。
第一分館としてFc2ブログにも掲載してます。
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また、第二分館としてgooブログも利用してます。
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敬語を使う不思議な日本人
隠されている「日本原住民史」
占領軍最後の将軍マッカーサー
世直し(革命)の出来ない日本
庚申(こうしん)待ちとは何だったのか

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日本には尊敬語の一分類で、謙譲語がある。
これは尊敬語のいわば裏返しとなる形をしていてその眼目は、へりくだる意思を託する形の表現を、こちら側に使うことであちら側を立てる(高く置く)こととする。
例えば、あちら側での「おっしゃる」に対し、こちら側では「申し上げる」と使う。
世界の言語の中でも「まこと比類ない、日本語の難しさは、他国語には絶対にない敬語のせいである」と称されている。
アメリカにしろ何処でも、なんといっても白人と有色人の違いはすぐ一見して判別できるのに、他に比のないような日本列島では先住民族である現今の庶民も、
この列島に渡来してきた大陸人もみな同じ黄色人種だった。だから見分けがつかなかったのである。そこでうっかり話をしては後の咎めが怖ろしいと、
さも他意がないように可否を明確にせず無憲味な愛想笑いをしたり、後難を怖れて、叮寧な口をきいた昔の生活の知恵が、その習い性となってしまったのであるが、
はたして今となってはそれさえ知られてはいない。
日本では「本当の事をいえば身も蓋もない」と考えたがらないし、厭やなものは見たくなく判りたくないというのは人情として解る。
 しかし、日本史の真実を死ぬ前にそっと本当のところが知りたいと願う人や、昔からどうしても引っ掛る謎があると気にする人もいるにはいるのである。
今でも「史実」「史伝」などと免罪符のごとくしたり、恰好よく体裁ぶって権勢や金力に仰合し、金儲けの手段としてのみ利用されてきたのが歴史のありかたにされているが、
臭い物には蓋をではなく、人間には過去の具象として真実を見詰める勇気が必要なのである。
民俗学へ転向してしまった柳田国男が、まつろわぬ国ツ神の末裔を山人だとしたのに対して、大江健三郎は故郷の村で聞き知った事柄から、『同時代ゲーム』を、
日本原住民族が大陸勢力に、追われ排除された、国ツ神の子孫の側より書きあげそくれたのは有難い。

戦に負けて一度も抵抗しなかった国の不思議
さて、日本は大東亜戦争に負け、本土に進駐してきた最後の将軍がマッカーサー元帥である。
強大な権力で日本に君臨したが、次第に本国の云う事を聞かなくなったとして、彼は解任された。しかし米国民はこれを大いに非難した。何故なら彼は次期大統領候補として
人気が在った為、政治的陰謀だと見なした為である。
その当時のワシントンポスト紙に「マッカーサー統治中日本では、近代史上稀有な反乱が絶無だったのは、彼の統治が偉大であった功績でもなく、素晴らしかったと惜しまれるものではない。
何故ならば彼が統治してきた者たちは、かって大陸勢力によって統治支配の歴史が長く、島国ゆえ他へ逃亡は不可能で、叛乱すれば殺掠されるしかない過酷な運命におかれ、
権力に対しては絶対服従の国民性を今に伝えているに過ぎぬからである」と大統領補佐官筋のコラムがあった。
これは、元帥解任の批難への反撥だったらしい。
そういえば、八路とよばれていた中国共産党軍の第一線に立って勇猛に攻めこんでくるのは捕虜になった旧日本軍だった事実があった。
さらに、かつて豊臣秀吉の大軍勢を悩ましたのも「降倭」と呼ばれた旧日本武者なりと伝わっている。全く可笑しなな国民性である。
だから旧軍部は「戦陣訓」で、生きて捕虜となるな、自決すべしと苛酷な軍律を日本兵に強制したのである。
日本兵は実に勇敢に戦うが、捕虜になると将棋の駒みたいに取られると、今度は親方星条旗でも向うの意の儘に使われる。いや進んで協力して好い子になろうとしたがる兵が多い。
こう書くと、反発する方も多いと思うが、真珠湾攻撃の特殊潜航艇の酒巻少尉は、日本人捕虜の第一号になった。普通の軍隊では捕虜になると、
尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(ジュネーブ条約第三条約第17条第1項)となっている。
しかし彼は、それをあろうことか、日本海軍の暗号までペラペラしゃべっている。このため米国は暗号を解読して、山本五十六大将を撃墜死させることができた。
このためまさか「お前のお陰で山本を殺すことができた」とは言わなかったろうが、後に捕虜なのにワインを一本与えたという裏話がある。
日本では戦死したと思って「軍神」に祭り上げ、美談としているが、実際は将校でさえこんなものなのである。

日本には「民草」という言葉があるけれど、民は陽のあたる側で、草はそうではない日陰者なのである。
ロスアンゼルス公共図書館にあったR・ケーラーの「研究・日本人」には、「日本人は密告を恥とはせず、むしろ義務に置きかえ、誰にしろボスとなった者へは絶対従順」と、
強制移住収容地での同胞見聞記を読んで納得できた。
日本人の多くは、正嫡の民でないゆえ自分らのことを平気で、「われら庶民」というが、こうしたことに疑問を持ったため、
改めて自分なりに納得のゆく常識方式で歴史なるものを見直してゆくようになったのが、この労多くして何も報われない道に進んだ経緯である。
 といって別に奇をてらう訳ではなく、有るがままに判断してゆくだけなのに、これまで誰も何故手掛けえなかったのかと首を傾げたくもなった。片っ端から調べてゆくと多くの先輩が、
木村鷹太郎は、やりかけて放棄、飯田忠彦は記紀だけに頼って成らず、柳田国男は折囗信夫との間柄を公表されると迷惑を及ぼすとし民俗学の新分野に転向した。
白柳秀湖は家族を慮って右翼評論家に転向して終った。
記紀の内容は借信しかねる
占領軍将軍第一号の朝散太夫郭務?
 が、先人が踏みこんで惑わされた迷路は、高天原に降臨したもうた方たちが、きわめて数多く先住民族は僅少でみな誅殺抹消され、残りは同化したとする思向であったらしい。
しかしマッカーサー進駐当初でも日本の人口は8千万とみて、その1%の80万だった。それゆえ弥生時代で石斧や竹槍しか持たぬ先住民族に対し、鉄剣鉄矛の方たちも、
やはりそれ位の割合の比例ではなかったかと想像できる。「世直し」というが、明治のご一新を迎えるまで後段の「庚申待ち」の項にあるごとく、江戸の庶民の町人たちは根気よく辛抱強く、
60年目に一度ずつ太陰暦では廻ってくる庚申の年を、繰り返し気長に寄り合い待ち続けていたのではどうも食い違いすぎる。
それと自村江の戦いの5年後の天智8年に「大唐、郭務棕ら二千余人を我に送る」の一章でも誤られるが、4年前の天智3年5月17日には、唐の朝散太夫郭将軍らは既にもう来ているのである。
自村江の戦いで日本軍を破っているのゆえ、さぞ勝ち誇って入城式をしたと思うのが常識である。
なのに日本史では「表函と献物とを進む」と記されている。
今も昔も外地で敗戦した兵が、許されてみな直ぐ戻ってくる訳はない。当時の百済人の奈良王朝は、男共は皆戦地へ出かけて空っぽだった筈である。
この「彼我」が、どうも逆転らしいのは、その年の2月9日に冠位二十六階制度が発布され、大陸人の弁髪に真似せんとして、髮を仲ばし始めは見苦しいゆえ、本来は戸外で被る帽子を室内でと変るのでも判り得る。

今の学校歴史が出来た明治22年は中国大陸進出の矢先ゆえ、「チャンコロなにするものぞ」と意気軒高の風潮が強く、
その当時の中国大陸の日本への影響や関連を一切排除してしまった。だから、そこで記紀の辻つまが合わなくなるのである。
 その癖、やがて日露戦争後の南満州鉄道時代からは、正倉院御物の硝子器までが鴨緑江経由で、天山山脈越えに、遥々と地球を横断するみたいな陸路を通ってきた、
とするような過ちをおかして憚らぬ。そしてシルクロードが何時ごろできたかの解明もなされていない。
 スメラをシューメールと今では故意に呼ぶが、ペルシャ湾からなら50万トンの大油送船でも、海流に乗れば、僅か20日で日本へくる現実を考えず無視しようとしている。
夏場の南西の風で日本に来るのと、冬場の北西の風とでは、燃費が三割も違うという事実は海運界では有名で、
風と海流の向きは一緒だから、これはそれほど海から来るのは、今考えるほど困難ではなかったという証拠でもある。
しかし歴史家が真実を伝えないのは日本だけではないらしい。ピカソの有名な壁画で知られる「ゲルニカ」の住民皆殺しにしてもそうである。
 つまり歴史は権力や権勢が作ってしまうものだから、間違っていて当然であるとトインビーもいう。
「真実をのべるとは愚かしき」とパスカルも不滅の名言を残している。しかしヨーロッパならスペイン史家がごまかしても、ピレネー山脈越しにフランスで暴き、
ピカソが堂々と動かぬ証拠に壁に描いて虐殺の事実を暴いている。
 しかし日本ではそうした期待はもてない。私のような愚か者が庶民の一人の挽歌として綴るのみなのである。
 非力で解明しえなかったが、〈旧事紀>と神話の対照によって、上古を歴史の中で把握しようとすれば日本国としての成立は淡海国しかないと考えている。
そして、あくまで仮説だが大和朝廷の次とされる飛鳥王朝が、所謂天の王朝ではなかったかと思えてならない。かつて蒋介石が重慶で日本に対して徹底抗戦を叫んだ時、
孔子孟子の春秋の時代が紀元前600年なのに遅れじと、軍部は紀元は2600年と遡らせて学校唱歌まで作ったものである。
 そうした経緯を覚えているから迷いもするのだが、大陸に比して当時の日本はは開発途上国だったゆえ、飛鳥王朝と大和朝が、順序が逆にされているのではないかと思える。
耶馬台国であったとする説を唱える人もいるが、尾張の一の江から、琵琶湖の淡海国になっていったと見るしかないのである。それは16世紀の信長の進発コースにきわめて似ているが、
庚申待ちの拝火宗徒が信長のために進んで協力し、天下統一のその路線を敷いたのである。
徳川家康は騎馬系だから同族の猿女部族の語り部を利用し、先住系ついで拝火宗の地盤までつかんで己が時代を築きあげた。
(猿女たちは反仏教の東方瑠璃光如、薬師神将十二人の一人の生まれ変わりが家康だと宣伝し、彼こそが新しい世を作ってくれる「光」なのだと全国を遊説して回った) 

さて資本家や地主の為にと購入した奴隷が勝手に死んでは労働力の損失だとし、牧師が神の御召しがあるまでは勝手な真似はしてはならぬと成めたのが、死ぬにも死ねない悲しさを歌って今では「黒人霊歌」として残っている。
が、古代ローマ帝国は、「市民」は元老院へゆき理由さえ明白にのべれば、牛や馬の動物にはない人問だけの特権として、苦くない毒人参人りのジュースが支給され、
それで身辺整理をすませてゆっくり永眠する事ができた。
そしてこの日本国は、昭和、平成、令和と続いたが世直し(維新)は出来ず高齢化、少子化で人口減少に歯止めはかからず、年金も事実上破綻で、膨大な国の借金で今や日本丸は泥船状態。
我ら日本原住民の末裔たちは生活苦に喘ぎローマのように自殺も出来ない「生殺し」状態である。大前研一氏はこの状態を「ゆでガエル国家」と称したが、正に正鵠を得ている。
先日もテレビで、世界的な投資家のジム・ロジャース氏が、日本への助言を求められ「日本から何処かの国へ移住すべきだ」と言っていた。大変な慧眼である。
だから暗いこの国の将来を案じつつ、この一文を書いている。

庚申待ちとは何だったのか?
先ず現在の定説を判りやすく解説してみましょう。
「コの申告」つまり庶民よりの密告より始まる。江戸期になり五戸ずつが集まって相談し、道教でこれをコウシン待ちとよび、おかみへ忠誠を誓う為の密訴の情報交換。
毎月五の日に集まる際に順ぐりに猿田彦や帝釈天、青面金剛を祀ったから、申つまりサルの日と江戸中期から変わり、その中に庶民金融のため頼母子講無尽がもたれるようにもなった。
これが現在の定説だが、実際は全く違う。そんな町民達の集りでは絶対になかったのである。その証拠に、
承和7年(840)2月陸奥守の良峰木連、前鎮守将軍匝瑳未守らへの勅の記録にあるのは、
「今月十八日の奏上には援兵二千人を出したとある。しかし奥州の者らは口々に庚申待ちと喚きあって騒然たる有様である。潰出の徒輩を押さえることが出来ぬと申すが、
これは六十年前の庚申の年には伊治砦麻呂が叛乱し、同類を指揮し清見潟まで何万と押しよせてきた宝亀十一年に当る。そのまた丁度六十年前の養老四年には、
按察使上毛野広人が異類どもの乱に取りかこまれ官兵も皆殺しにあっている。更にその六十年前の斉明六年には、阿倍比羅夫が遠征したものの武力では戦いあたわず、
やむなく御馳走政策をとって引きあげてきただけである。つまり六十年ごとに廻ってくる庚申の年こそ、自分らには待ちのぞんできた巻き返しの年であると、異類共は、
前から待ち望んでいたのを注意すべし」と、明確にされているのである。
だから江戸期になっていても、口伝えのユーカラみたいに庶民達は60年ごとに廻ってくる大陰暦の庚申の年を、指折り算えて親から子へ、子から孫へと申し送って待ちわびていたのである。
それゆえ「異類」の呼称が町人、職人と変わっても相変らず、指折り算えては、「庚申待ち」をしていたのが本当のところである。
つまり表むきはサルの日と変えたり、無尽の集りと、おかみの目をごまかしつつも、今度の60年目は駄目でも次の60年目はと待望し、ついに成し遂げたのが明治維新なのである。
源氏の末裔の庶民が現代でも、蘇民には将来きっと福が来ると「蘇民将来ササ持って来い」とお祭りにして、御礼を配っているのと同じことである。



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山里亮太と蒼井優の結婚を慶ぶ。
日本原住民の勇敢な親衛隊
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先ず、彼の経歴は関西大学教育学部教育学科卒、専攻は心理学で文学士を持っている中々のインテリでもある。
一方彼女は芸能人御用達し、偏差値の高くない堀越高校のトレイトコースに進んでいる。学校の説明によると、
高校生でありながら、才能を活かして、すでに歌手、役者、プロスポーツ選手などで活躍している人たちのためのコース。
このコースは、課外活動で出席日数が不足した時に、進級・卒業に向けてサポートする制度があります。礼儀、身だしなみは特に大切に考え、
プロとしての活躍がさらに光り輝くよう厳しく指導しています。最近は、もっと勉強して自分を高めたいと、大学へ進学する生徒が増えています。
という高校から、日大芸術学部に合格したが、女優としてめきめき頭角を現して学業に専念できず中退している。
山里亮太は本名も山里亮太。蒼井優は本名は夏井優である。
さてここから二人の姓を日本史から抉剔し、将来を考察(占う)してみよう。
先ず「妻を娶らば才長けて、見目麗しき情けあり」を地で行く快挙を成した山里君に拍手。
近頃は結婚しない男女が増えている。また、目出度く結婚したカップルを見ると、何とも「ブス」が多いのには呆れる。
男は妻にする女として、美人でスタイルも良くて頭がよく(勉強ができることではなく、物事の本質を理解する能力)、深い愛情で夫に尽くす女が理想である。
これが男の本音で、まさか最初から「デブでブス女が良い」というのは居まい。居れば異常嗜好性障碍者か変態だろう。
だから山里君は、世の多くの男たちの羨望と嫉妬の嵐に曝されるが、負け犬の遠吠えは無視していい。彼は人生の結婚戦線に勝利したのだから。

ヤ姓―総社親衛隊騎士を先祖にもつ末裔
このヤのつく姓をもつ人は、沢山います。そしてこれは日本史では特殊な姓なのです。
「清水の次郎長こと本姓山本長五郎」とか「祐天仙之助は山本仙之助」「笹川の繁蔵こと柳島繁三」「だるま吉は矢島吉五郎」といったところから、
「浅草弾左ェ門が矢野内記」ともなると、その手代衆もことごとく、「首斬り浅右こと山田浅右」を筆頭に六人とも全て本姓の上にヤがついています。
 また、小説や映画やテレビの悪役は、このヤがつくのが多いようです。
 新聞の社会面を見ましても、全日空乗っ取り事件の〝男一匹、山村新冶郎次官〟〝全共闘、山本義隆〟は上の部類ですが、下の方にもヤ姓は多いといえます。
俗に、ヤー公、ヤ−さんというのは、昔から弥造をくみ首っ玉に手拭をまいていた手合いで、やしややくざの仲間にも多いのです。
 というのも訳があるのです。このヤ姓の部族というのは、「ヤソタケル」とか「ヤマタのなんとか」の子孫らしく、仏教を奉じた船舶系が渡海してくれば、彼らは神を護って徹底抗戦し、
よってその拠点を「ヤの城」つまり「ヤシロ」、今では、社の字をあて、その首長のいた地をば総社といい、これが豪い人の使われる、
〝あそう〟といった肯定語の〝そうじゃ〟になった、と<旧和訓栞>にはあります。つまりヤのつく人の先祖は、昔は総社親衛隊騎士だったらしいのです。
 ですから日本では武器を「矢」とか、道具という呼び方をした槍も古語では「矢利」なのです。
 つまりヤマトの国名も、かつてご先祖がそのヤとヤリで切りとった由縁からきているのです。
 ヤのつく人は昔はエリートだった誇りを忘れず、おおいに同族のために頑張るべきでしょう。
 このヤのつく人は、なにしろ普通の人と違った特徴をもっています。
 それは、非常に向こう気の強いところがあり、人から憎まれても、それをものともしないというか、いわゆる「千万人といえどもわれ行かん」といった気概があるのです。
と書きますと、非常に有能で立派な人間のようにきこえますが、あまり人からは好感をもたれぬ面を多分にもっています。したがって、大成する人は意外に少なく、一匹狼的存在になる傾向が多いようです。
 ですから、山田とか山崎など、非常に多い姓ですが、企業体の中で、他と調和して立身するとか、うまく人を使って成功していくという型ではないでしょう。
 しかし、それでも男は生きていかねばなりません。そこで、ヤ姓の場合は人一倍並以上の努力をしないと行く先危機が訪れると思って間違いありません。
 ヤの姓のつく女性も扱いにくくて、自尊心だけ人一倍強くて困りものですが、男性のヤのつく人も、ともすれば反体制になったり、そのくせ威かされると権力側のいいなりになって、
山の中で殺されてしまう山田孝もいるのです。まあ個人営業でも始めるのが安全かつ無難なようです。
 徳川家康の側近で黒幕的存在だった者に、「山岡道阿弥」という人がいます。もともとは三井寺の出身で、足利義輝将軍の頃には近江半国の守護代をしていた家柄ゆえ、
足利十五代将軍義昭が織田信長に叛旗をひるがえしたときには、彼もまた瀬田の大橋のある己の城で、やはり反織田の旗をたてたのです。
が、明智光秀が、義昭を裏切った形になって攻めてくると、あっさり降参してしまい信長の家臣となってしまいます。
しかし本能寺の変で信長が爆死をとげると、光秀の一行が安土へ行けぬように瀬田の大橋を焼き落してしまいました。しかし、これは秀吉の命令だったので、その手柄で三万石を貰ったのですが、
秀吉が死ぬと、さっさと家康にくっつき、伏見城に入った家康のために自力で山岡曲輪を作ったのです。
そして関ヶ原合戦に際しては、甲賀者や猿女を動員して関東方へ尽くします。
  ですから余程、その後は登用されて出世したかというと、たった三百俵どりで甘んじて駿府城で家康の話相手として生涯をおえているのです。つまり反骨のための反骨だけで、
それを男の意地とか生き甲斐みたいな考え方をしていたものらしく、天正十一年には滝川一益を蟹江城で破ったり目ざましい戦功も上げていますが、いわゆる華々しい割にはなにも実質的な成果をあげていません。
今でもヤのつく人には、そうした型が多いようです。
 さて、変な例ですが、前にも述べましたが推理小説に現われてくる真犯人は、殆どといってよいくらいみなヤがそのイニシャルにつくのです。
 また、新聞の社会面を見た場合、世間を騒然とさせる事件から、その辺のコソ泥に至るまで、三面記事を賑わすスターたるや、大半がヤの姓をもつ人なのも前に書きました。
 これは、ヤのつく男性が、非常に女性から冷たくされたり、苛められたりしていますので、そのストレスからそういった事件を起こす、というのでもないでしょうが、
何かしらそこに繋がりがあるのではないかと思われます。もし、心から愛してくれる恋人がいたり、真心を尽くしてくれる女房がいれば、ヤのつく男性だけが新聞のスターであるということはなかろうと思えます。
それどころか大いに発奮し、仕事もうまくいくし成功するので、山里君の今後は明るいと言えます。
 

ヤ姓―我の強い独身者の多い姓でもある
重複しますが、ヤ姓は、我が強いというか我侭というか難しい人が多い。女性でも三十過ぎてまだ独身の人などは、「ヤマちゃん」と呼ばれる姓が圧倒的に多いのです。
 男性もやはり同じことで、この姓をもつ人は臍曲がりというか根性があるというべきか、結婚相手としては難物であるといえます。しかし当りは悪くなく、いわゆる面白い型が多いので、
良い人らしいと結婚してしまう例が多いけれど、もしそうだったら何事もハイハイと逆らわずについて行くに限ります。そうすればヤのつく人は向う意地が強いから、無理してでも夫としての義務ははたします。
ですからぶつぶつ文句などいわず、やりたいようにさせておくに限ります。なまじ意見などすると、ぐれてしまって蒸発される恐れもあるからなのです。
 一般的にもこの姓をもつ男性で、心から自分は女性に恵まれているとか、良い女房をもったとか思っている人は、本当のところ、自惚れを引けば、あまりあるまいと思われます。
つまり、この姓の人は、きわめて女性運が悪い宿命のもとにいるのです。ですから、もしも女性にして、博愛的な精神があって、一人の男を幸せにするのが女性の生きがいであると思うような健気な人がいたならば、
このヤ姓の男性をさがして、献身的な愛の手を差しのべるべきでしょう。求めよさらば与えられんというぐらいですから・・・・・。

さて、一方蒼井優さんは、本名「NATUI」とナの付く姓だから、北川景子(本姓内藤)とDAIGO(本姓内藤)の記事でも書いたように、
この姓のつく女性の場合、中には残忍型というか、強度のヒステリーな人が往々にしているようです。ですから、
「ナ×××さんは固い御方だから、その娘さんなら間違いないだろう」などと早とちりして結婚してしまうと、自分の方が危ない目にあうかも知れません。
したがって夫たるもの、もし旧姓にナの奥さんをもっている人は、絶対に浮気だけは禁物とといえましょう。
山里君は「ブサイク芸人」で有名らしいが、そんなことはない。美男子ではないが男としての力強さも可愛らしさも、勿論「男の色気」も在る。
男女の修羅場の経験が皆無のような近頃の男には理解できないだろうが、ある種の女には「動物的メスの嗅覚」が鋭く、全国的に一躍有名になった彼はこの手の女からの、
様々な誘惑が増えるだろう。しかし、美男子を鼻先にぶら下げているDAIGOと違って、己の器を知っている山里君は、奥さん一筋で大丈夫と太鼓判を押してあげましょう。
そして彼は、漫才タレントの競争激しいテレビ業界で、成功者になるための資質も素質も持っていることが、二人の会見からも見えている。これは彼女にも女優として言えることである。
何しろ近頃稀に見る「ヤ」姓男子の快挙だから大いに祝福してあげたい。


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