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令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり
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     「韓民族こそ歴史の加害者である」

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この本はテレビ解説でお馴染み、元中国人で今は日本人となった「石平」氏、渾身の一冊である。
以下に氏が参考にした文献の画像をUPしておいた。私も早速アマゾンより購入し読破した。
これらの書物の特徴は、中国や韓国人著者でも、決して自国贔屓に書かれていないことである。
如何に事実に基づいて公平に帰納的に書かれているかという事が大切だから、その意味でも納得できるし、これらを土台とした
石平氏の分析に全く間違いがないことが判明した。
以下に石平氏の前書きからの引用。
 
朝鮮問題の専門家でもない私が、韓民族の歴史をテーマとする本書を書こうと思い立ったのは、今から三年前のある出来事がきっかけであた。
二千十三年三月一日、ソウルで催された「三・一独立運動」の記念式典で、韓国の朴槿恵大統領は、日韓間の「歴史問題」に言及して、
「日本と韓国の加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わる事はない」という発言を行った。
(中略)
彼女の言いたいことは、これから千年が経っても、韓民族は「被害者」の立場から、日本民族に謝罪を求めたり説教を垂れたりする権利を持ってしかるべき、ということだろう。しかしそれでは日本民族は子孫代々、何時まで経っても、半島の人々に対して平身低頭して謝り続けなければならない。
人類の長い歴史の中で、多くの民族同士が互いに傷付けあったり、争ったりすねような「負の歴史」はいくらでもある。
しかし世界史を通読してみても、一つの国あるいは民族が、隣国に対して、それほど過酷で理不尽な要求を強いている前例はいまだ見たこともない。
どうやら韓民族にとって、過去の歴史は未来永劫、日本を苛め叩くための恰好の材料となっているようである。(以下略)
 
さて、地政学的に、半島国家というものは、大国に囲まれ、困難な選択を強いられる側面は否定できない事実である。
しかしこの現実を差し引いても、韓民族はあまりにも特殊である。この事を念頭において、本書を読むべきである。
自国の政争や内紛を解決するため、韓民族は古くは「三国統一戦争」でも唐の軍隊を招きいれている。
時代は下がって「元寇」の原因さえ高麗王朝は、率先して蒙古軍を日本に引き入れていた事実があった。
近代になって「日清、日露戦争」の遠因も朝鮮であった。
さらに、南鮮の李承晩と北鮮の金日成らが、朝鮮戦争を起こし、拡大し、中国、米国を巻き込んだ張本人だったと判れば、
半島国家が起こすトラブルに巻き込まれないように、半島からの災いを遠ざけるため、それこそ「歴史に学んで」日本としては真剣に考えるための、貴重な書物である。
 

再々のお知らせ

      《再々のお知らせ》

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ライブドアブログ「新令和日本史編纂所」
http://taiichirekishi.blog.jp/archives/16388761.html

Fc2ブログ「大日本歴史大義」
https://nihonrekisih.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

gooブログ「新令和日本史編纂所」
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Amebaブログ「古代から現代の歴史を見直します」
https://ameblo.jp/yagiri2312/

Seesaaブログ「真実の日本史を読む」
http://yagirisikan.seesaa.net/

蛇足ながら、私のような特異な史観を展開しているブログは、ライブドアやFc2ブログでは埋没している。
さらに、ツイッターやフェイスブック等のSNSで共有していないので、アクセスアップにつながらないことも理解できるが、これは方針なので仕方ないと思っている。
その点Amebaとgoo、Seesaaは一日の訪問者が数百万単位だというから、私のブログにも毎日百人単位で覗いてもらえでyahooとは段違いである。
前回も通告しましたが、最後までyahooと他のブログも併記してupしますが、「真実の日本史」を知りたい方は、
どうぞご訪問をお待ちしております。

奴隷日本人秘話
織田信長は奴隷を売らなかった
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 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。
しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、
その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。この年号は日本の元亀二年、
織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを
集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。
そして、織田信長坊主どもをが何千人も殺してしまったといった記載などあるが、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」だから「信長様は豪気なお方」
といった受取り方で記録されているのに、
今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。
信長は同胞を売らなかったのだから、立派な武将だったといえよう。
 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、
手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。
 由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の帆船は百トン以下だった。
 だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。
 そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。
 そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。
 さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、
日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事
は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、
「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。
 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、
その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。
 さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。
そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」
「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。
 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、ディーゼルエンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、
夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、
「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。
 さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。
 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、
「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。
 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字が
シンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。
マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。
 つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。
 五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。
 というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。
 真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。
 しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。
 よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。
 戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、
(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。
 さて、戦後七十三年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。

白銀海岸は日本の島原

アフリカには有名な「黄金海岸」がある。
此処は何も金が採れたわけでも、それを積み出したからと付いた名称ではない。
 それは大陸奥地から捕らえられ、連れられてきた黒人の男女が、一かけらの黄金か、硝子の玉と交換に、遠いアメリカ大陸に売られていった、黒人奴隷の一大積み出し地だったゆえ、その名が伝わっているのである。
 これは映画の「ルーツ」でも今は良く知られている。
 だが「サイド・オブ・シルバー」つまり白銀海岸の名がある所が存在するのは、全く知られていない。
 これは中世期の世界地図を見れば、ゴールドとシルバーの文字はどれにも載っている。
しかもそれは日本列島の九州の中程にある島原半島の突端から、口之津と呼ばれる原城の辺りである。
 しかし、白銀と呼ばれてもそれは銀ではなく、火薬の七割を占める原料の硝石のキラキラした粉末だったらしい。
 黒色火薬というが、硝石が七割五分、硫黄一割五分、木灰一割を混ぜるため全体が黒くなるので、肝心なのは何といっても硝石で、これは昔も今も日本には一粒も産出されないものである。
 余談になるが、スペインが開発した、強力な爆発力を持つ新チリ硝石が、織田信長爆殺に使われたふしがある。詳細は拙の別館「敵は本能寺」を読んでいただきたい。

 さて、当時此処を領していたのは後に長岡藤孝を変名する細川忠興だが、島原の三角湾には信長生前中は、京の出入りを見張るため丹波を領していた長岡の「長岡番所」と同じく、
 長岡番所を持っていて、そこでポルトガル人から硝石樽を仕入れていたのである。そしてこの交易には日本から何を提出したかと言えば、人狩りをして集めてきた、
日本原住民の男女なのである。現在活字本として出回っている「細川家記」には、勿論こんな事は隠しこんで記されているはずもない。
  この細川家に関する詳細は「奇怪・細川忠興」として以下に在る。

     http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/hosokawa.htm
 
   
 いくら戦国時代といえ、硝石欲しさに同国人の老若男女がどんどん売られて行き、黒人奴隷と共に鎖に繋がれて死ぬまで、白人に酷使されていたとは多くの日本人は知らないだろう。
 戦国期は硝石欲しさに、切支丹大名と謂われる武将の中には、己の妻や娘まで売り払った者も居たという。
 こうした「棄民」と呼ばれる国辱になるような存在は、日本では伏せてしまい、真実は隠しこまれている。だから一般の歴史書には出ないのである。
 日本は明治になって、ボルネオやフィリピン、ハワイや米国本土、ブラジルなどに移民と称して大量の国民を送り出したが、実態は過酷な棄民以外の何ものでもない。
 後段では有馬で和蘭教科書として使用された「少年使節訪欧録」の抄訳の抜粋を記す。
 日本史では、「フランシスコザビエルが来日してから、おおいにキリスト教が広がり切支丹大名も多くなり、信仰の為当時のルソンへ追われた高山右近の例もある」
といったのが正史とされている。しかし聖書の日本語訳の刊行も秀吉の晩年のことである。大体が「ドリチナ・キリシタン」つまり「讃えんかな神を」といった一語だけで、
言葉も意味も理解できぬのに布教など広がるはずが無い。
 フロイスが残している記録でも、「入信してくる人間は信仰の為ではなく、教会は治外法権の場所だから、人殺しや盗人が隠れ場所としてくるだけで、言語が通じぬゆえ教化は困難だ」
と記している。それなのにイエズス派が東洋で何故に布教したのかといえば、ヨーロッパがプロテスタンの新教に脅かされたカトリーコの旧教が、全てが魔女の仕業だと理由付けし、
そしてその魔女は箒に跨って遠い東洋へ逃亡を図ったと神の御告げが有ったといい、この魔女を探し捕らえるためその任務を、白人へは布教できないアンドロのバスク人にさせたからである。
 このバスク人とは、かって有色人種がヨーロッパを支配していたが、バイキングなどで徐々に力をつけた白人種が、有色人をヨーロッパからアフリカ大陸に追い返した。
 その時一部の人間が、逃げ遅れてスペインのアンドロに残留して独特の文化を維持した者達の子孫である。
 後年ナチス旋風が吹き荒れた時代になると、ゲルマン民族優秀説によって差別され、ユダヤ教会と共に、非白人とみなされるイエズス派の教会も、片っ端からゲシュタポに破壊占拠されている。
 古代のインドにはアンドロの国名もあったし、バスク人はジプシーと同じく有色人種として差別されてきている。
 ナポレオンでさえピレネー山脈越のアンドロから先はヨーロッパでは無いといい、今も偏見は生きている。
かってスペインのフランコはドイツと提携していたのに放任されていたのはそのせいである。
 そて、日本に鉄砲が伝来されてから、器用な日本人は直ぐに真似をして生産できた。しかし、弾丸の鉛は採掘されたし、硫黄も豊富だし、木灰もいくらでも作れるが、
肝心の硝石は一粒も産出さず、だから弾丸を飛ばす事は出来なかった。
 従ってこの硝石を手に入れるため、戦国大名はイゼズス派の宣教師にすがり、自国民を奴隷として積み出したのが真相なのである。
 歴史の本によれば当時の交易は、金屏風や甲冑刀剣漆器の類だったと堂々と書かれている。
 尤もらしく書かれているから、つい読み流してしまうが、それは向こうに住んでいる在留邦人用でしかない。
 つまり奴隷の身分から必死に働き出世して、人並みの生活が出来るようになった者らが、故郷を懐かしみ忘れ難くて注文したのである。
 直ぐ錆が出る日本刀や、ひびが入り割れやすい漆器や書画など白人が欲しがる訳は無い。だから御朱印船などと恰好つけていても、日本からの輸出品は人間だったと理解すべきである。
 明治に入って、中国人の奴隷を積んだ英国のノルマント号が、日本近海で沈没し、400人以上も犠牲になって世上蒼然となり、多くの日本人が同情して涙したのも、
人道上よりも、古来からそうした言い伝えが有った為、同病相哀れむ気持ちからだろう。
 
 さて、天正遣欧使節のヨーロッパ巡路だが、長崎を出て、マカオ、マラッカ、インドのゴア、アフリカのモザンビーク、リスボン、マドリード、ムルシア、アリカンイから
マリョルカ島、イタリアのリブォルノ、フイレンツ、ローマ、ボローニアと、とてつもない距離である。
こうした史実はいとも奇異にして驚嘆すべきものである。
  使節の四少年が母国を出発したのは僅か十三歳の頃であり、九州の片田舎から、郷里を離れ雲煙万里の彼方なるヨーロッパまでたどり着いたということは、破天荒の壮挙と評するしかない。
 動乱に明け暮れていた、九州の戦国大名がキリスト教の何たるかも解らず、何故にマドリードやローマへ派遣したかの謎は深い。
 この後慶長十七年には伊達政宗の家臣支倉常長が、太平洋廻り、メキシコ経由で大西洋を渡りヨーロッパへ渡っているが、彼が何故にヨーロッパへ渡ったかの
詳細は伊達騒動と政宗の正体と合わせて以下を参照されたい。 これにも火薬原料が深く関わっていて、少年使節渡欧の意味も窺うことができる。
 ミゲル===有馬晴信の甥で日本名清左
 マルティーノ===大村純忠の一族
 マンショ===大友宗麟の甥で日本名祐益この三少年が天正11年に出発した。
 そしてこの少年達のヨーロッパ見聞記に拠ると、
 ミゲル「吾々の旅行中、行く先々で同じ日本人が数多く奴隷にされ、鉄の足かせを
はかされ、鞭打たれて働かされているのは家畜並みで、見るに忍びがたい」マンショ「僅かな値段にて、同国人をかかる遠隔な地に売り払う徒輩への怒りは
尤もなれど、白人は文明人でありながら、同じ人間を何故に奴隷に致すのか」マルティーノ「我らと同じ日本人が何処へ行っても多数目に付く。まだ子供までが首を鎖で繋がれ
吾々を見て哀れみを訴える目ざしは辛くてならぬ。真っ黒な墨塗りのような奴隷の中で
肌の白いみめよき日本娘たちが、秘所も丸出しで繋がれ、連れて行かれるのは目を覆いたかった。日本の女たちが転売されるてゆくのを正視できない。
吾らの見た範囲でもヨーロッパ各地で五十万以下と言う事は無い。ポルトガル人の教会や神父が硝石と交換し、証文をつけてインドやアフリカに売っているのは何としたことだろう」
 (注)当時の日本の人口は二千万人と推定されるから、五十万の奴隷とは残忍な実態である。
 だからこの日本奴隷の血は、ポルトガルやパペルやバスク人に伝わっているし、日本語そのままの言葉も多いのである。
 戦国期拝火教の末裔だった織田信長は、仏教を大弾圧し、比叡山の坊主共を3000人、また敵方の女といえども数百人単位で殺している。
 これを当時の人たちは「残酷だ」とは思わなかった。何故なら奴隷にして売れば大変な儲けなのに、それを殺してしまうとは「誠に豪気なお方である」と賞賛している。
 ということは、当時も日本人の奴隷売買は盛んだったという証拠で、信長はそれをしなかった立派な武将だったといえる。

        <日本軍の悲劇・火薬不足>
 日本は富国強兵政策を明治軍部が推し進めた際、当惑したのは火薬原料の硝石が国内では補給できないことだった。
 だから本当は、弾薬が無くては戦が出来ぬという処を、「腹が減っては戦が出来ぬ」と変えて世間に流布させたのである。
 そして国民は知らしむべからずで、事硝石に関しては口にすることも書く事も厳禁した。
 代わりに、斬れもしない日本刀を持ち上げ、下士官でさえ銃は持たず昭和刀をぶら下げ、兵はゴボウ剣なのに、戦術ともいえない、斬り込み突入を繰返し玉砕を強いた。
 日本軍は兵は「消耗品」としか考えてなく、何しろ一銭五厘の赤紙一枚で幾らでも徴兵できるため、兵の命などは一顧だにしていなかったのである。
 
 戦後米軍が日本軍の武装解除をした際、彼らは准将クラスでも自動小銃を持つ米軍は、日本軍将校の拳銃があまりにも少ないのに怪しんだというが、全員に支給されていなかったからである。
 日本の技術では、機関銃や自動小銃もいくらでも製造できたのに、明治製の旧式三八銃で一発ずつ撃つ単発で押し通したのも、弾薬原料の硝石が産出しないからである。
 だから大戦中日本軍は、兵站の拙さは勿論、最後まで弾薬不足に悩まされ、食料も弾薬も満足に与えられず死んで逝った兵隊は哀れの一語に尽きる。
 さて、徳富蘇峰は「大村由己」の書いた「九州動座記」の内容を書いているが、その中に「宣教師より硝石樽を入手せんため、大名小名はいうに及ばず、豪族の輩までが、
 己の下卑や郎党はおろか、自分の妻妾まで南蛮船に運ぶ。それを獣の如く縛って船内に押し込むゆえ、泣き叫び喚くさま地獄の如し」と
 秀吉の共をして九州へ行った時の見聞録を「近世日本国民史」の初版本には入れている。しかし二版からは憲兵隊の命令で削除され、現在に到ってる。
 日本国が昔から火薬原料に事欠いていたと広まっては、国民の戦意高揚に害があるからとの、理由で、隠しこんでしまったのである。
 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた
半島突端の、原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。
海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。
 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、
十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。
 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。
 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。
 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。
 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・
 こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首がありどれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、四郎に似た少年も多数
奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。
 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。






切腹の美学は血の美学
乃木大将殉死
壮烈無比な大将の最後
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【東京赤坂警察署、乃木大将切腹状況報告書】
「私(署長)は役目としてあの偉人の最期の実況を見た。これまで永い間自殺は見たが、乃木将軍ほどの武士的の割腹は初めてである。
実に模範的の殉死である。自分は検事局に対しても、一切の事情を具して殉死たることを報告した。世に誤謬が伝へられ、
これが為めに先入主となって、曠世の偉人の最後を汚さんことを憂慮し、断然事の真相を語るものであります。
西洋間を日本間に直した二階の室を内から密閉し、八畳間に文台を備へ、共の上に新しい白木綿を懸け、御真影を飾り、其の前に神酒二瓶を置き、金杯を隍して傍におき、ついでに御下賜品全部を並べ、
御製ご宸筆及び先帝陛下の御製を奉置し、料紙に認めし辞世の和歌は、大将が二首で夫人が一首を上げておられ、その隣りに明治十年四月の囗附なる西南役植木戦争の際、
聯隊旗を敵に奪はれ奪還する能はず、進退伺ひを山県参軍に出したのに、参軍は同書に朱書で『其儀に及ばず』と認めて返還されたのをその儘に御真影前におかれ、夫人は左方に大将は右に位置し、
大将の大綬章佩用の大礼服は、飾帯そのままに上衣を取りて右方に畳み並べ、大将はシャツだけになって下左の横腹より、軍刀を差込みやや斜めに右横腹へと八寸切割き、グィと右に廻し上げてゐられた。
これは切腹の法則に合ひ実に美事なものであった。しこうして返しを喉笛に当て、柄を畳へ衙き体を前方に被ぶせたため、首を員きて切尖六寸後に出で、このため俯伏になってゐられた。
夫人は紋付正装で、七寸の懐剣を持ち喉笛の気管をパッと払ひ、返しを胸部に当て束を枕に当て、前伏さって心臓を貫き、懐剣の切尖が背部肋骨を斬り、尖端は皮膚の上に現はれんとしてゐられた。
然るに膝を崩さず少しも取乱したる姿もなく、鮮血淋漓たる中に美事なる最期を遂げてゐられた。

心臓部を斬った為め、此の際アッアッハタハタと声を出されたので、二人の下女が聞附け宙を飛んで上った。中から鍵がかけられて開かぬ。
その内に夜明けになって、苦しげにうめかれるのがきこえた。其処でこれは大変と騒ぎとなり、自分等が検死に行くこととなったのである。
 さて行ってみると遺書は接伴係宛に二通、そして渡辺宮内大臣宛に一通と、この三通は封緘され、他に死ぬる理由の長文一通、遺産処分に関するもの一通、此の二迦は封緘なし、
合計五通認めてあった。この自殺の理由は大将の実弟と他の親族二人に連名で宛てられたもので、意味は大様次の通りである。
『自分は十年役植木坂の戦に、陛下の軍旗を奪はれたのであるが、その時は既に万死に値すべきを許され、心苦しく死なんと決心せしこと以々であった。
されどこの儘死なば未だ御奉公足らず、寧ろ御奉公してこの罪を價ひ死のうと心を翻した、その後幾多の戦争に従事したのであったが、遂に死処を得なく今日に及んだのである。
斯くて愈々年老い御奉公も出来ず、随って罪を償ふことも出来ない。茲に大行幸に御伴しようとするのである』とあって殉死の覚悟が明かに認めてある。

此の理由書は日附に依れば十二日の夜認められたもので、大将の覚悟は前夜より決せられた模様である。なお同文の中に『静子も老人なれば後を宜しく頼む』との句があるから、
十二日夜まで大将は正しくは夫人を残される覚悟であったらしい。
また下女の申立に依れば、大将は十三日朝、宮中から退出帰宅され常に異なって大元気で、大機嫌で夫人と笑話し、下女等にも活発に語られたと云ふのであるから、
夫人の方から悟られたために止むなく事実を明かされたので、夫人は貞節を守って殉死を決心されたものと思はれる。
また大将は勿論覚悟された上で、綽々として余裕のあった事は、死の前数時間に於て認められたと覚しき七言律に、脱字の処へ後から文字が書き入れてあり、何回も読み返して訂正されたのでも判る。

すなはち精神に異状が無かったことが明かである」というのが、大正元年九月十五日付国民新聞に、当時の東京赤坂讐察署の本堂署長が記者会見をし、
 「一昨十三日午後八時に割腹された将軍の御最期に関し、世上に誤りが喧伝されているゆえ、ここに真相を明かにする」
 と、詳細に将軍夫妻の殉死の模様を説明した記事などである。これは十三日夜の自決が翌十四日の号外になった処、
 「将軍が精神に異状を来たされての、突発的な椿事」とか、「他殺」のデマがすぐ世間に流布され、そこでやむなく、本堂署長が直ちに記者会見をし、噂の打ち消しをしたのだが、
ひいきの引き倒しとはいうが、余りにも完全無欠に、話を作りすぎてしまった憾みがないでもない。
 そして、この為に、足利時代には、
「差別階級への課刑であった残忍きわまる死罪」であった切腹が、江戸時代の芝居講釈によって、「かっこ良い死に方」と、赤穂義士の切腹後は、武士道に結びつきかけていたのが、
この軍神乃木大将の死によって、それからは完全に、「古武士道=切腹」という、短絡的な結びつきをしてしまった。
「従容として迫らざる偉人の最期」というものが、この時点から太陽のごとく日本民族に輝やいたのである。

 それに、もし乃木将軍が大兵肥満の壮漢であったら、たとえば絵姿で残る柴田勝家のような豪傑型であったならば、
 (勇ましく立派ではあるが、普通の者では、ちょっとあの真似はできまい)と、切腹は高嶺の花というか、
 (まあ常人では、及びもつかぬ処であろう)といった感じを与えただけで済んでしまったかも知れぬ。
 しかし、どちらかといえば小柄で非力そうにみえる老人と、その老妻が、立派に介錯人なしでも自決をなし終えたという事実。
 そして、各新聞に発表された権威ある警察署長の、まるで側で見ていたような詳細な崇高の最期の模様が、それからの日本国民にどういう影響を与えたか。
これは計り知りえないような精神的な衝撃を与えたものらしい。
切腹は脅迫なのか
 なにしろ軍人たるものにとって、「軍神」とは、軍の神様である。だから、いやしくも軍刀をおびる者にとっては、軍神に続くことこそ、最高の至上使命となった。
 また明治三十年代より大正、そして昭和にかけての、忠臣蔵や義士伝の流行は、「浅野内匠頭の死の場面は、桜の花の散る下で潔よく散ってゆく、切腹の美学」「大石内蔵助以下の死は、滅私奉公、尽忠報国といった、切腹の貢献」といった命題を、乃木大将殉死との二本柱によって、それから日本精神の支柱とされた。そして、この二つのものが、
「義勇公に報じ」の根本となって、あくまでも日本人の忠誠心を、切腹に結びつけることによって、国民教育の基礎ということにされた。といって乃木大将や赤穂事件の、
「切腹」が、かつての軍部の、国民精神作興運動に利用されたというのではない。なにしろ幼い時から、まず絵本によって、長じては講談、浪花節、芝居によってあけくれ、
「切腹、切腹」とやられて居る内に、排気ガスのように吾々日本人の肌から、それが滲み通ってしまい、「忠君愛国の使命は切腹することにある」といったようにもなってしまったらしい。

 先日某局のテレビ番組で、柳生の里の紹介があり、そこでは今でも少年が十五歳になると、切腹の儀式のようなことをさせられ、
 「親や目上の者のいうことをきくか……否なら腹を切れ」から始って、何々をするか厭やならば、腹を切れと次々とやられて、
「はい」「はい」と従順にそれに盲従することを誓約すると、初めて、「それでは、よし」と許される状景をみせられたが、あれでは、切腹というのが乃木精神とはまったく違ったものになっていて、
さながら、「脅迫」でしかありえない状景だった。なにしろ背後に、介錯する恰好で親類の大人が日本刀をもって立っているのだから、
(人をして生命財産の危険をもって脅かし、その意志に反した行為や言動をなさしめる)のだから、
立派に刑法第二百二十二条の脅迫罪に該当するのではあるまいか。
 もし、切腹というのが、何々しなければ、いうことをきかなければ、「死んでしまえ」というのであれば、これはかっての差別観による刑罰の一種に他ならなくなる。まさか乃木大将が、
 (何々するのはいやだから)と拒んで、それでは死んでしまえとなって、殉死といった形の切腹をとげたのではあるまい。
 大将の死はもっと純粋であって、何々したから褒美をとか、何々せぬから罰に死をといった掛引きのものではなかった筈である。
 なのに切腹というものが今も、
 「刑罰」的な要素のもとに奈良県の田舎に伝統として残って居るということは、これはその地方の人々が、かては神徒系の原住民であって、昔は何か事あるたびに、
大和興福寺あたりの仏門よりきた僧兵たちに脅かされ、「こうこうせい、さもなくば腹を切らせるぞよ」と絶えず苛めぬかれてきて、
 「はい、はい」と奴隷のごとく、それに従わねば生きて行けなかった頃の遺習ではあるまいか。

世に柳生但馬守や柳生十兵術が名高いが、あの地帯は歴代の御陵がずらりと並んで居る特殊地域ゆえ、彼らの先祖は、
「守戸」とよばれていた処の、がっての被占領民に問違いなく、柳生石舟斎の若かりし時にも、大和興福寺の筒井順和の軍勢によって、柳生の庄は焼き払われてしまっている。
 薬師寺系の徳川の世になって、柳生一族が初めて世に出られるのも、そうした理由によるのだから、そうした里の切腹の遺習とは、
「苛められ差別されていた足利期から豊臣時代までの、悲しき風俗」ということにもなろう。つまり、切腹という概念の中に、雄々しくも勇ましい武士道の権化といった考えと、
遥か昔からの、哀れにも悲しい迫害の刑罰といった両面があるからして、ともすれば乃本大将の壮烈な死に対しても、まったくあい反する見方がここに伝わってくるのである。
 なにしろ本堂署長発表のものが余りにも、超人的な立派さだったものだから、それへの裏話というか、きわめて人間的すぎるような挿話も流布されてしまったのであろう。

 そして、「乃木伝説」と巷問に流布した伝聞との食い違いが、「絵のない絵本」の頃の林房雄や芥川竜之介の短篇に現れてもくるのでもそれゆえある。
 が、精神異常説のような非礼極るものは、すぐ打ち消されたが、それでもまだ、他殺説が根強く広まったのは、
「乃木将軍と辻占売り」を流行させた浪曲師、天中軒雲月の台本書きだった松浦泉三郎の「明治芸談こぼれ話」によると、
「痛かったらしい乃木大将」というのが後世に伝わったからだそうで、真偽の程は判らないが一応その、長くなるが原文を引用してみよう。
【異聞紹介
「普通の御邸ならば直ぐ交番所へというのでしょうが、なにしろ将軍は軍人だから、すぐ近衛の第一聯隊へ連絡をとったんだそうです。処が当夜は明治天皇さまの御大葬の晩なので、
近衛の聯隊では儀仗兵というのに出払って、将校さんはもとより兵隊も居なかったようです。
 お居間の中から、静子奥さまの誰かとおよびになるお声はするし、将軍の苦しがって叫ばれる唸声も洩れてきますが、なにしろ固いけやき六分板が上り囗の扉で、
御居間も樫五分板戸で中から桟が落ちていますから、押せど叩けど開きません。交番所か警察署へ願い出れば大鋸でも持ってきて、戸板を切ってくれたでしょうが、
家扶や女中さん達は、かねて将軍から、『乃本は軍人である。有事の際は軍へ』と命ぜられていたので早ければ問に合ったのが、朝になってしまったそうです。
 副官とかいう肩から何かたらした豪い将校の方がみえ、掛矢とよぶ才槌の大きなので兵隊に戸を順にぶち破って壊させ御居問に入った時は、もう出血多量とかで手遅れだったようです。
 号外が出たのは午後二時頃でした。
 明治天皇さまがおかくれになり直ぐまた乃木ご夫妻も死去というので、日本中の人問は泣きつらに蜂の有様で、みんな力を落し、しゅんとしました。
だから将軍の死を惜しむからか、とても苦しがって声を出され悶えて居られた模様が戸越しに洩れていたのが伝わり、そこで、
『党悟の切腹なら、そんな取り乱される事はなかろう。賊が忍びこみ危害を加えたらしい』という噂になって東京中に、その日の内に広まってしまい、
『将軍殺しの国賊を捕えろ』と赤坂警察署へ民衆が押しかけ、騒ぎになったので、新聞に署長さんのお話が出たのでしょう。
切腹は芝居だと見世場で恰好良ろしいが、本当になさるとなると首を斬る介錯人が居なくては、さぞかし大変だったらしいと将軍ご夫婦を悼んで評判でした」
 さて、こうした当時の民の声がその儘で伝われば別だったが、伝説の方が圧倒的に強くまことしやかになったので、わが敬愛する乃木大将は、その反動というか、
お気の毒にも、昭和四十一年十月文芸首都に、「愚将軍神論」として、福岡徹に書かれ、翌年六月号の別冊文巻に「要塞」同九月号には、「腹を切ること」と司馬遼太郎の筆にのせられ、
これが出版文化賞受賞となったのである。
 さて、これに対し中野区弥生町に現存する白鳥模子さんとおっしゃる七十五歳の方より、
私は昔、赤坂表町一丁目(今は高速道路脇に)生れて父が印判師をしていましたので、乃木大将に可愛がられて、よく夕方店先へ落款や色々の判のことでみえていました。
私は当時満十六歳なのでお茶を出したりお話もきかせて頂きました。さて現場をみたわけではありませんが、乃木さんの切腹は聞く処では腹の皮を薄く左から右へ一文字に引き、
右にてピンと一センチ位はね上らせ、致命傷は右頸動脈を短刀で刺し貫らねられたもので、後で抜くとき中々取れなかったそうです。
そして奥様の方は万一にも仕捐じないようにと左胸部に刃を立てられましたが、お声は「あっ」と立てられたが乃木さんは噫られたきりで、奥様のお召し物の乱れを大将が直してあげたようだと、
私の母などは乃木さんのお心を押しはかって貰い泣きしていました。
 乃木さんは天皇の御不例以来毎日馬車にて、参内されお見舞いにゆかれていましたが、日がたつにつれ憂色が濃くなってゆかれるのを、私どものような御邸近くの者はよくみて居り、
陛下さまの御容体の容易ならないのをさとり、同じように御憂言申し上げていました。
 さて御大葬の夜は、私の兄は、宮内省御用を承っている判師なので、つるばみ色の紋付置物袴をつけ「大葬使」と大きく書いた弓張り提灯を下げて、乃木さんの御家の赤坂檜町から青山御所へかけ、交通整理に当って居りました。
 処が夜ふけてから、乃木さんの処の書生さんがそこへ駆けつけてきて、交通整理中の兄に、「おお……柴山さんか、大変なんだ」とよびにこられ、ひとまずお邸へ駆けつけましたが、
何しろ、どなたさまも御大葬の晩なので連絡のつけようもなく、彼方此方へと兄もお使いに走ったが、みな御留守中でなんともなりませんでした。
 その内に、明け方近くなって玉木さんといって居られる甥の中尉さんが、ようやく戻っておみえになったので、そこで初めて近くの表町の憲兵屯所とかへお届けにあがったそうであります。
こうした当時の模様を一番詳細に伝えたのは、私の家でとっていた時事新報だと思いますが、大正の終りか昭和の始めに解散して、今では当時の新問も伝わっていないでしょうから残念です。
このとき浮田和民という文学博士が、殉死は愚かであり自殺は最悪なりと説かれて物議をかもしたよう覚えてますす。しかし人それぞれ境遇も違いますし、お世つぎのお子二人を戦死させ、
前途に希望を失った御方にとっては、ああなさるより仕方はなかったかと存じ上げます。一般に死花を咲かせたと申していました。
 さて三島さんの切腹は実にお見事ではありますが、打首の様にてチト・・・そして非常にぜいたくな死であると存じます、失礼しました」
 ……というお手紙を受取ったので、これも当時の民の声として、ここに援用しておいた。
 私はその頃まだ生まれていないし、その当時の新聞を読み比べてもいないので、国民新聞の本堂説と、時事新報の白鳥説、そして明治芸談こぼれ話の三つの提説の内、どれが真実だともいいようもなく、ここに並べてみたのであって、別に福岡徹とか司馬遼太郎といった人のかいたものに対し、とやかくいうつもりなどないのである。
これはお断わりしておきたい。
 腹部に血脈なし
 さて、当今では夏になるとビキニ水着の関係で、臍の整形が流行し、テレビでもメスを入れる場面を放映していたが、腹部には静脈も動脈も通っていないから、一滴の血も出はしない。
今ほど胃カメラの性能が良くなかった頃は、「胃カメラで覗くより腹を開けてみましょう」と胃腸障害で大病院へゆけば腹を切られるし、盲腸手術でも今は縫合せず、クリップで止め自然癒着させる。
 いわゆる「切腹作法」の、「左から右へ浅くの一文字」の切り方では、咽喉を突くとか首を切断せぬ限り、晒木綿でもまいておけばくっついてしまう。
 では深く突き立てたらどうなるかといえば、そこは大腸小腸十二指腸のある処だから、もりそばの塊りへ箸を刺しこんだみたいに絡みついてしまう。
二センチや三センチ切断しても、すぐ繋ってしまう器官ゆえ只の腸切りでは死ねはしない。
 つまり前述したように、芝居の切腹で血綿を、「ううむ」と引張り出して客席へ見せるのは、白砂黄畳水色裃といったカラフルな絵の、しめくくりのためでしかない。
 それに腹部筋肉は横割れするから、二センチ切れば五センチ位すぐ口があくが、脂肪質といっても白く凝固するのは死んでからで生きている内は赤い。肉屋の店先のロース霜ふりみたいな事はない。
ぽっかり口をあけた処は濃ロースである。
 だから歌舞伎の舞台でも、血綿は見せるだけで、引張り出しては嘘になる。つまり腹一文字に切っても、出血多量で死ぬためには、動脈の通って居る個所をさらに切るか、
心臓肺臓の孔をあけたら機能を停止する部分を突くしか死にようがないのが実際なのである。
 つまり切腹は単なる口あけにすぎず、他人の手でバッサリ首を斬って貰わねば死ねない。どうしても介添人の介錯を必要とする。
 なのに将軍は単独では不可能に近い事をやり、その為に結果的に悶え苦しみ喘ぎ続け、「他殺」と誤り伝えられもしたが、これは当然なことであり、将軍の偉大さを損いはしない。
毛利家の家訓「腹せ切る」の意味
 将軍の切腹を、伝説は至誠尽忠とし、小説は心情的に揶揄的な扱いをする。が、私をしていわしむれば、それは乃木さん個人の性格によるものではない。
乃木さんは長州人である。長州は明和四年に編纂した「御家誠」をもって藩士子弟の教育用にと、安政二年に儒臣中村清旭に判り易く書き直させ、「大訓衍義」として木版刷りになし、
松下村塾でも教科書に用いていた。この中に、
 
「毛利隆元(元就の子)の御代には、腹せを切れと云われ、否応いうものはなかった。つまり昔の長州人は、いつでも切腹の心構えで忠義に励んだのだ」という項目があり、
そこで乃木さんも幼い日には、まず、「腹の切り方」の作法から仕込まれ教育されたのである。
 だからして、三つ子の魂は百までというが、乃木さんは教えられたように腹を切った迄のことである。では長州では、どうしてそんな教育をしたのかとなると、恐らくそれは、
「腹に刃をあてても首斬りが居なくては死ねるものではない。苦しむものだ。だから卑怯な事をしてそんな羽目に陥るより死ぬ気で敵に当り毛利家に尽せ」
 といったお為ごかし、ではなかったろうかと想像される。
 何故かといえば、関ヶ原合戦で毛利家発祥の地の安芸は浅野家の領地となってしまい、判らなくなったらしいが、「腹せ切る」というのは安芸の方言で「腹から背がすり切れる程」、
つまり「身を粉にして働く」といった意味が本当だからである。
 藩の儒臣でさえ知らずに教えていた事を、講談本の真田三代記位しか読まなかった乃木さんが知りよう筈はない。責めるのは酷というものである。
 が、乃木さんは日本武士道精神の権化とされるようになってからは、多くの軍人や有為の青年が歴史家の嘘に曳きずられ、「切腹という美名」に酔わされ苦しみのたうち死んでいった。
 といって三島由紀夫氏のように、苫しまぬように前もって介錯する青年を伴ってゆくのは、現在の刑法では嘱託殺人として刑法第二百二条の六ヵ月以上七年までの定めがある。
 これでは、いくら覚悟の上とはいえ、伴われてゆく者は巻き添えみたいで可哀そうである。
どうか今後は、切腹の本質をもっとよく見極めて、美化することのないよう、やたらと模倣せぬことを切に祈るものである。
 なんといっても、大東亜戦争敗戦後、「御前の大東塾同志十四名、うつそみの命を限りて、無窮に国体皇道を護持拡充の念願を籠め最後の大きみ祭りを、明治神宮の御側なる代々木練兵場に於て仕え奉る」
と、自刃の根本趣旨を、ただ絶対の祭りとして、影山庄平氏以下大東塾十四烈士の、古今未曾有の壮烈極まりなき自決をもって、日本における切腹の終焉として欲しかったのである。


それだけに昭和四十五年、三島由紀夫氏の、凄惨であっぱれな自決のことは、残念でならない気がする。
追記・・・・「死に対し同じ立場で向きあえる唯一の自由さは、自分も死の中へ飛びこむことでしかない。そうすれば、すべてが限界を破って可能になるであろうから……」
というのは、カミユの書いた一節であるが、<パーティザン・レビュー>誌にも、文芸評論家のアルヴァレスが、
 「自殺のテクニック」なる論文を発表し居る。これは二十世紀に入ってから小説家の自殺が世界的に激増している点から、あらゆる技術を展開させ、
その内なるものと死の方法の結びつきを解明しているものである。
 きわめて日本的な死である切腹については世界的にも関心が強く、前大戦中にアメリカ政府が集めた資料が、ロスの公共図書館に揃っている。
 横に浅く切断するのが切腹で、これでは単独では死ねはしないが、「屠腹」という言葉をもってする腹を深く突き刺す方なら、非常に苦しむが死ねないことはない。
なのに深さを問題にせず巾何センチといったような表現の仕方があるのは、是非訂正してほしい。
だからこれは「切腹のすすめ」の為にそうしたのではなく反対なのである。切腹の美学とは血の美学であるが、私は自分が死を選ぶ時も流血は好ましくないと想っている男である。


本稿を愛読して下さる下記の読者に、満腔の謝意を表したい。
ナイスを付けて下さる読者、初めての方、ご常連の方にも感謝いたします。なお、漏れた方々にはこの場をもって失礼をお詫びいたします。

南風 さん
日記 さん
 st5402jp さん
 TAKASHI さん
庭園&公園を歩く(東京の四季) さん
 杜悠遊 さん
 百合香 さん
 中江の瀬戸 さん
 hemn7921 さん
 
捨離 さん
riku0710-0101 さん
 isannkmw さん
 夢佳志 さん
 TJ Adventure さん
 富士山便り さん
 日記 さん
 TAKASHI さん
 中江の瀬戸 さん
 hemn7921 さん
 riku0710-0101 さん
 isannkmw さん
 TJ Adventure さん
 gokatoベレー/GO真/ほか さん
 モモタロウ島 さん
 ☆_阿呆の鳥飼_★ さん
 電脳写真工房 さん
 末永能登守14611514 さん
 hana さん
 迷えるオッサン さん
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 岩苔 さん
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 富士山便り さん
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 百姓のヤスジ さん
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Hiro さん
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