<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり</title>
			<description>従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>令和を拝し、忠烈萬世に燦たり皇恩に謝せり</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222</link>
		</image>
		<item>
			<title>　《皆様へ最後のお知らせ》</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
　　　　　　&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;《皆様へ最後のお知らせ》&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;YAHOOブログはいよいよ八月いっぱいで記事の投稿は出来なくなり、以後は閲覧のみ可能となります。&lt;br&gt;
従って、当ブログも今回の記事で最後になります。以後は以下のブログへの投稿となります。&lt;br&gt;
「真実の日本史」を知りたい方は、どうぞご訪問をお待ちしております。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;掲載予定記事一覧&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;伊達騒動原田甲斐の愛と性　三部作&lt;br&gt;
斎藤玄蕃允とは何者か　二部作&lt;br&gt;
真説　森蘭丸　三部作&lt;br&gt;
幻想の平家と源氏　三部作&lt;br&gt;
鍋島の猫騒動　十部作&lt;br&gt;
その他日本史の闇を暴く(サンカ関連記事)多数&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;ライブドアブログ「新令和日本史編纂所」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;http://taiichirekishi.blog.jp/archives/16388761.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;http://taiichirekishi.blog.jp/archives/16388761.html&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(0, 255, 255);&quot;&gt;Fc2ブログ「大日本歴史大義」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://nihonrekisih.blog.fc2.com/blog-entry-1.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(0, 255, 255);&quot;&gt;https://nihonrekisih.blog.fc2.com/blog-entry-1.html&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(128, 255, 0);&quot;&gt;gooブログ「新令和日本史編纂所」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(128, 255, 0);&quot;&gt;https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(255, 191, 255);&quot;&gt;Amebaブログ「古代から現代の歴史を見直します」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/yagiri2312/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(255, 191, 255);&quot;&gt;https://ameblo.jp/yagiri2312/&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(128, 192, 255);&quot;&gt;Seesaaブログ「真実の日本史を読む」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;http://yagirisikan.seesaa.net/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(128, 192, 255);&quot;&gt;http://yagirisikan.seesaa.net/&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35405012.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Aug 2019 08:55:21 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;6&quot;&gt;白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/22/35404622/img_0_m?1566895519&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;363&quot; class=&quot;popup_img_600_389&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/22/35404622/img_1_m?1566895519&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;410&quot; class=&quot;popup_img_640_469&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/22/35404622/img_2_m?1566895519&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; class=&quot;popup_img_300_225&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;
&lt;div&gt;　平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。 が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。 だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員（列島）の沿革〉の初めに述べている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;ですからでしょうか、その論文のしめくくりの終りの個所に○○をつけて、「義によって百済を助けんとして援兵をだしたものの、白村江の氏礼城の戦いに敗けて兵をひきあげ、百済の臣民をわが内地に移して扶助、 九州の筑紫の防禦に力を尽し、唐には使を遣り旧好を修められしに、唐もまたあえて犯さず、全く無事に結びたり」としているのが、それでもあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その西暦六六三年は日本列島では、古代クダラ語で「国」を意味するナラ朝の時代。つまりクダラ人が日本列島のオーナーだった頃ゆえ、さながらチャンバラものみたいに、 「義によって助け太刀いたす」と日本国が出かけたようになっている。しかしこれは大きな間違いである。 先日もテレビの解説で、ジャーナリストの桜井よしこ氏が、同じことを言っていた。 私は日本の女性論客の中で、桜井氏と中林美恵子氏は大いに評価しているが、彼女ほどの才媛で碩学といえども「日本書紀」と「古事記」を信じ、その呪縛から脱し切れていないのである。 &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;先ず、当時の日本列島に、大唐国を相手に、他国を軍事援助出来たような強国が成立していたという認識が間違いなのである。 白村江で敗戦したのは朝鮮半島の百済で、母国救援に奈良人は吾々庶民の先祖を防人に召集して出かけただけの話。 だから、前線指揮官は百済人だったろうが、強制徴兵された、二万七千人とも三万人とも謂われる日本原住民が、勇敢に戦うはずはない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;また敗戦して、すぐ引きあげて来られる筈はありません。武装解除され抑留ということになる。当時のことゆえ奴隷に売られてしまっていて、まともには、出かけた壮丁のシコの民達は、 異国の朝鮮半島に拘束されてしまったのが真実。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　なのにクダラの臣民まで、どうして日本へ移送できるような、巨力な艦隊があったり、21世紀末の現代でさえ福祉のよろしくない日本が、そんな扶助行為などを、はたしてしたものでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　実際はナラ王朝時代、つまりクダラの都だったのですから、男がいなくなった老幼婦女が、あるだけの物をやむなく牛車に積んで疎開して行っただけの話でして、扶助したのは当時の牛であります。つまり韓国より内地へ移したのではなく、内地の都から安全な土地へ疎開という事態になっただけです。それに九州の筑紫とありますが、最近重要文化財に指定された金田城を始め高安城その他数多くの築城にしても、それを築く命令を誰がしたと言うのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　自村江で大勝をし、余威をかって九州へ進駐し、無人の王宮へ翌年五月十七日に姿を現わした唐の劉将軍や郭将軍は、対馬、壱岐に信号用のノロシ台を作らせ、 築紫には上陸用舟艇をつける水城を構築させて来ていたのですが、原住民のゲリラの蜂起を心配してか、翌六六五年八月には答体春初に長門の今の下関にも築城させ、 四比福夫らには築紫の大野城、椽城の二つを築城させるに際し、郭将軍は諸国といっても日本国内ですが、城の積石の供出搬出の命令をだしているのです。 まさか唐の将軍が、唐軍を防ぐ城などを己が部将に命じて築かせる訳はないでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(255, 0, 0);font-size:13.5pt;&quot;&gt;&lt;strong&gt;「大唐郭務淙ラ、二千余人ヲ我ニ送ル」の意味&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そのまた翌年二月二十五日に百済帰化人男女四百余人を近江神前郡へ移すとあります。こうなると帰化人とは郭将軍らへ帰順帰化の意味ということになる。 　というのも同年九月二十三日には、司馬法聡、令上柱国、劉徳高といった施政官までが大挙してきて十一月十三日に戦勝大パーティーが催されているからである。 そして翌々年になりますと、劉将軍の金田城など大掛りなものが構築されたのであります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて西暦六六九年には、「是歳、大唐は郭務淙ラ二千余人ヲ我ニ送ル」と、日本書紀にはでています。 もし自村江の戦いに負けたにしても日本には強力な国があって、進駐してきた唐軍を降参させてしまい、彼らに築城工事を次々とさせて頑強に防備をかためてしまったので、 もはや大唐国も、よって諦めて匙をなげて、「郭将軍らみたいな連中は放ってしまえ」と、我に送ったというのが、今の日本の歴史の解釈であります。 　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし贈ると送るとでは発音は日本では同じですが、まるで意味が違います。 これはどうみても、「送りこむ」とみねばなりません。百済人は向こうで捕虜にされている者らを戻して欲しいし、王宮も占領されているので皆が帰順帰化したようですが、 新羅系や高麗系はその当時はまだ抵抗をしたのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　翌六七〇年に高安城に塩や食糧を積みこんだり、また今の下関や九州に二城を新しく構築し食糧や塩を積みこんだのも、唐本国は二千余の援軍を送ってよこしたきりで、 以降は自給自足せよとの通達だったから、被征服民がもし叛乱をどんどんしだしたら、籠城でもするしかないから、そのための用意だったとみるべき。つまり西暦六六九年の時点での「我ニ送ル」の我は、もう我は昔の我ならずであったのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:13.5pt;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(255, 0, 0);&quot;&gt;多武峰に居たのは唐の武装軍団&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それを学校歴史では、「高安城などを築いて防備したゆえ、唐軍は攻略不能とみて撤収した」としますが、防禦なら穀物や塩の他に武器を多量に積みこまねば、話の筋が通りませんし、 唐軍のことを「我」とする日本書紀もこうなれば、大陸系の人によって書かれた事が明白な証拠になるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;「唐に使をやり旧好をあたたむ」とあるのも、やはりどうにも変てこです。日本へきている弁髪の人が、故国の友人へ使いをだしたのでなくては、まったく意味が通じません。 しかし、これが学校教育の盲点でありますからして、〈日本歴史資史料集大成〉の原文に頼るしか仕方かありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ですからして久米幹文が、やはり「藤原氏論」において「基経大臣が陽成帝は御失徳おわしますとて、御位をおろし奉り己が縁故する処の藤系の光孝帝に取り換えてより、 藤氏と王室の間ますます密となり、より盛んにして、天下になびかざるものなし」として、従来は親王とか諸王宮が大臣摂政となって王政をとっていたのが、 この時から藤原氏がすべて独占のようになった……といいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しかし、もっと前から王政を独占していなくては、清和帝を早く退位させ、その御子の僅か十歳の陽成さまを人皇57代にたて、僅か17歳になられた時に、御失徳おわしますなどと勝手なことをいって、 さっさと廃立などできるものでしょうか。常識で考えてみても直ぐ判りうる事であります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;白村江の戦いの後は藤原氏がすべてを押さえていて、着せかえ人形の首でもすげ換えるよう、帝位をほしい儘にしていたのですから、宇多帝が菅原道真を登用されても何年も保だなかったのです。それゆえ〈日本歴史資史料集大成〉の535頁にある明治史学会雑誌第十号掲載の「多武峰告文使の事」に、 「昔は朝廷に何か変事があれば、藤原鎌足の木像が破裂する事ありて、勅使を派遣して祀られる慣習があったのは、初めは鎌足を摂津阿成山に葬ったのであるが、 定慧が唐よりきて大和多武峰に改葬。肖像をまつり後世になって国家にまさに変事あらんとすれば、その像が破壊すと言われ、時の朝廷はすぐさま勅使を急ぎ送って謝ったものである」となし、 これは〈談峯記〉にでています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;本来なら変事があったら、伊勢神宮へでもすぐに勅使をだして謝るべきなのに、何故に大和の多武峰へ御所から飛んで行ったのかといえば、大化改新のフィクサーで後の天武帝からの、 大陸王朝ともいえる処の基礎をひらいた豪い御先祖さまだからであると言ってしまえばそれまでですが、「坊」といっても今の意味で言えば「防」とよばれる武装隊がここに陣取っていて、 「坊主」とよぶ大将の率いる進駐軍がそこにいたから、それで朝廷では怖れておられたのではあるまいかと想えます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　楠木正成の若い頃、ここへ攻めこんだら、青竜刀や戈をもち鉄具の道具をもった軍勢が居て、びっくりしたという話すら残っている程であります。 が、なにしろ後冷泉院の永承元年正月に、大内記で作らせた上告文をもって、祈謝の使者としてから、何か事あるたびに多武峰へは行っているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ詫びに行っだのではなく変事がありそうな時には、多武峰の「匿し軍団」の来援を前もって京から迎えに行っていたのではないでしょうか。と中しますのも、その538頁の終りの方に、多武峰より、時の関白殿下への進物としての内訳が、 「布千疋」とあるからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;なにしろ綿の木は中国大陸から藤原時代に仏教の宣教用にと輸入され、栽培も監理されていましたから、僧侶の他に武装兵らが勢揃いし、 相当の勢力が多武峰にはいて、日本原住民を捕えてきては使役に用い、奴婢たちに綿の実をつませ紡がせ織らせていた模様です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(51, 102, 255);&quot;&gt;ウイキペディアには次のように書かれている。 多武峰（とうのみね）は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮（ふたつきのみや）とした」とある。 『日本三代実録』に、858年（天安2年）「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、 「最初は摂津国安威（現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か）に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 日本史では隠しこまれているが、多武蜂は音読みでは「たぶほう」だが前記したように、ここには「唐からの人間が居た小山」であり、唐から来た武装勢力が多く居たという証拠でもある。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35404622.html</link>
			<pubDate>Tue, 27 Aug 2019 00:56:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>煽り運転犯、宮崎文夫の「ミ」姓の考察</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(67, 67, 67);&quot;&gt;煽り運転犯、宮崎文夫の「ミ」姓の考察&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/64/35404364/img_0_m?1566727554&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;291&quot; height=&quot;400&quot; class=&quot;popup_img_291_400&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/64/35404364/img_1_m?1566727554&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;397&quot; height=&quot;286&quot; class=&quot;popup_img_397_286&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
先頃「あおり運転」の犯人男女、宮崎文夫と喜本奈津子が逮捕された。&lt;br&gt;
連日のテレビ報道で、宮崎の凶暴性がお茶の間には強烈な印象だったろう。&lt;br&gt;
姓の法則を研究している私にとっては、このミ姓の凶暴性は別に不思議ではない。&lt;br&gt;
直情径行の性格だから、ある一定の条件下ではその「負」の性格が爆発するので、理屈っぽいが、本来は気の小さな男なのである。&lt;br&gt;
それにしても、近頃は煽られたり、幅寄せされて、おまけにパンチまで食らって一体どうしたものか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;やられたら、こっちが追いかけて行き、相手の車を止め、逃げられぬようにドアを開けキーを抜いてエンジンを切り、&lt;br&gt;
相手を引っ張り出して理詰めで唸ってやり、話を付けるのが順当だろう。&lt;br&gt;
相手がパンチや蹴りを入れ攻撃してきたらシメたもの。此方が徹底的にぶちのめしてから警察を呼べばよい。これで正当防衛になる。&lt;br&gt;
やられたらやり返すのが基本なのである。&lt;br&gt;
こんな男たちをのさばらせておくことはない。彼らは相手が手出しをしないという前提で行動しているのである。&lt;br&gt;
まあ、喧嘩に自信のない人は、リアウインドウはスモールフィルムを張り、山口組の金色代紋ステッカーでも張っておくことをお勧めする。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;閑話休題。&lt;br&gt;
この比較的温厚であるイキヒチニヒミの付く姓を、例によって日本史から考察してみましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この第二横列（イ姓列）のイキシチニを編戸の民（稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民）とする根本資料は、&lt;br&gt;
『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;原住農耕系（仁徳王朝系）─イ姓列&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。&lt;br&gt;
　つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、&lt;br&gt;
第五横列（オ姓列）に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。（北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、&lt;br&gt;
早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、&lt;br&gt;
あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　反抗派は、第一横列（ア姓列）や第五横列（オ姓列）とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、&lt;br&gt;
種米のモミの束を与えられて、｢田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、&lt;br&gt;
昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。&lt;br&gt;
　しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、&lt;br&gt;
「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　&amp;lt;小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書&lt;strong&gt;&amp;lt;享保十一年伊藤甚右衛門指出書&amp;gt;&lt;/strong&gt;から例を引用してみましょう&amp;gt;&lt;br&gt;
　　&lt;br&gt;
◆大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、″イの池田武蔵守&amp;#12319;家来の″ミの水島助佐衛門&amp;#12319;が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。&lt;br&gt;
処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。&lt;br&gt;
そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正&amp;#12319;陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行″ミの水野但馬&amp;#12319;が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、&lt;br&gt;
落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。&lt;br&gt;
　　　&lt;br&gt;
その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて&lt;br&gt;
″ミの三浦主膳&amp;#12319;の仲立ちで、″イの井伊掃部頭&amp;#12319;へ小姓奉公した。&lt;br&gt;
やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。&lt;br&gt;
だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。&lt;br&gt;
そこで、″キの木股仁太夫&amp;#12319;、″シの清水次郎助&amp;#12319;、″チの千葉五郎太&amp;#12319;ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳&amp;#12319;の娘を妻とし、新しくミの水島流指南&amp;#12319;の一家を設立することがようやくできたのである。&lt;br&gt;
といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓&amp;#12319;と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。&lt;br&gt;
　首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。&lt;br&gt;
　また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　&lt;strong&gt;イ　今川氏＝駿河　　　伊勢氏＝伊勢　　　一色氏＝丹後&lt;br&gt;
　　　キ　吉良氏＝三河　　　木曾氏＝信濃　　　菊地氏＝肥前&lt;br&gt;
　　　シ　斯波氏＝尾張　　　島津氏＝薩摩　　　&lt;br&gt;
　　　チ　千葉氏＝上総　　　長曽我部氏＝土佐&lt;br&gt;
　　　二　仁科氏＝信濃　　　蜷川氏＝丹波&lt;br&gt;
　　　ヒ　日野氏＝摂津　　　土岐氏＝美濃&lt;br&gt;
　　　ミ　三好氏＝阿波　　　三浦氏＝下総&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;関東の”イ”は関西の”ア”と同じゆえ、これと”ヒ”は別ですが、他は一応は、体制協力型で要領が良い。&lt;br&gt;
またエリート型できわめて順応方ですので人付き合いも良い。男性は直情径行型で信念を持った者が多く、女性にも好かれる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ミ姓―カラ神信徒の流れをくむ恐れ知らずの部族。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　この姓には、三、水、宮の三つを上につける姓が殆どを占め、後は、南、峰、湊、光、緑、瑞といったのに分かれています。&lt;br&gt;
　もともとは、騎馬民族で神さんを拝んでいたかカラ神信徒の流れだが、進取の気性にとんでいて、終戦時にアメリカ兵の側によって行き、すぐさま商売した人種のように、&lt;br&gt;
恐れを知らず馴々しく近づいて、国際親善をした勇敢さが今も伝わっているのか、海外へ雄飛している邦人にもこのミの姓の人がかなり多い。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
そしてミのつく姓の人も、やはりイ姓列やウ姓列の二つの姓列の人と結びついている限りは、事業の運営もうまくいくし、交友関係もそつがなく、安全第一ということがいえます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　一般にあっても、この姓は比較的穏健そのものであって、警察協力会の会員になったり、防犯連絡所になっている家にこの姓が多いのも、法を守るという穏当な常識人が多い例証といえましょう。&lt;br&gt;
　ですから、企業側にあっては、こういう姓のつく部下かを管理職の要所要所に配置しておけば、社運が興隆することは間違いありません。&lt;br&gt;
　また、部下のほうも、この姓の持ち主が上司であった場合は、なるべく気に入られるようにしておけば、自分もしたがって栄進の道が辿れるというものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しかし、この姓の弱さは、自分自身が一派をリードし、全体の統率者にはなったりできないということです。&lt;br&gt;
どうしても、脇役とか番頭役であるにとどまることが多いようです。&lt;br&gt;
　しかし、何もリーダーになって苦労するだけがいいことではないですから、セカンドの位置にあって、己の能力を発揮していくとなれば、&lt;br&gt;
それはそれなりに立派でこれはきわめて堅実な生き方といえます。&lt;br&gt;
　しかし、大きな会社の場合では、すべての幹部が皆、イとウの二つの姓だけでまとめていくということはまずできません。&lt;br&gt;
　ですから、ベンベルグの旭化成工業などでは、社長の宮崎輝は、専務にはクの久保田正雄、イの磯部一充を置き、副社長には他の姓&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;列のものを統率してゆくためア姓列のカがつく刈谷享を据えて、全部の人事を取しきって、波風を立てることなく、きわめてうまく事業を伸ばしています。&lt;br&gt;
　これはまた、丸善石油の宮森和夫社長にもいえることで、同姓列のｲの石渡健二、シの清水菊一、ア姓列のマの松田重一、ワの脇坂泰彦を専務にし、&lt;br&gt;
二つの姓の流れをスタッフに置いて、一時は潰れかけた会社なのに、それをなんとか努力して、もって現在のような隆盛さに持ち直してきています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ミの姓をもつ人は当たりがやわらかいというか、他とすぐ親しくなれる特性をもっているので、それをうまく活用すれば事業においても成功するということです。&lt;br&gt;
　これは女性にもいえることで、銀座のバーのマダムや一流の料亭の女将にもこの姓が意外と多い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　つまりこうなりますと、われら日本人は決して単一の民族ではなく、四つの複合民族であるということを、はっきり把握して、&lt;br&gt;
主脳部はうまが合うからと自分と同じ姓列だけで周囲をかためず、他姓列を押さえてゆくためには、どうしても、その姓の者をしかるべく序列におくことが、&lt;br&gt;
なんといっても会社の運営をうまくやってゆく人事問題の要諦ともいえるようです。これはすぐにも実行すべきでありましょう。 &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;こうしてみると、様々な問題はあるとはいえ、安倍内閣もア列が主導権を握り、オ姓列の大臣や副大臣、政務官を配し、原住民系で手堅く運営している。&lt;br&gt;
内閣の女房役ともいえる官房長官に菅氏という、契丹系の頭の良いのを配し睨みを利かせている。人事としては大成功である。&lt;br&gt;
そして、党の運営には、イキシチニヒミ横列のニの付く二階幹事長だから、安倍一強として長く続いているのである。&lt;br&gt;
会社でも政府でも組織は全て人間が動かしているので、複雑多岐に渡り、果てしなき不毛な現代は円滑な人間関係がより一層大切になるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div id=&quot;article-ad&quot; style=&quot;text-align:center;clear:both;margin-top:20px;&quot;&gt;&lt;div style=&quot;text-align:center;line-height:100%;&quot;&gt;&lt;span class=&quot;PubAdAI&quot; id=&quot;875CE3E8-91C7-41CC-8E04-A0CD6B8F008E&quot;&gt;&lt;span class=&quot;PubAdAI&quot; id=&quot;B0B451C2-1C69-4677-A05F-56B7284E1600&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35404364.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Aug 2019 00:55:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察</title>
			<description>&lt;div&gt;　&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;6&quot; style=&quot;background-color:rgb(128, 255, 0);&quot;&gt;滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;6&quot; style=&quot;background-color:rgb(128, 255, 0);&quot;&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/06/35403906/img_0_m?1566692970&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;379&quot; class=&quot;popup_img_1000_677&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/06/35403906/img_1_m?1566692970&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;520&quot; height=&quot;640&quot; class=&quot;popup_img_520_640&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;前回は小泉進次郎からの「コ」の付く姓の考察をしました。&lt;br&gt;
今回は彼の伴侶となった滝川嬢の姓を日本史から考察してみます。&lt;br&gt;
先ず彼女はフランス人の父を持ち、母親は「滝川」姓の日本人である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
滝川の「タ」はアカサタナハマヤラワのア横姓に入っている。&lt;br&gt;
このア横列は、原住東北系（八幡国群・天&amp;lt;海&amp;gt;の朝系）になる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。&lt;br&gt;
　ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。&lt;br&gt;
　紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、&lt;br&gt;
崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。&lt;br&gt;
　今日でも生まれつき肉食できないという人がいますが、それがこの流れの末孫なのです。&lt;br&gt;
　そして毎年四月から五月に初鰹を祝う風習を、この人たちは「目に青葉山ほととぎす初鰹」と部族の祝いとして江戸時代まで伝えていた魚食人種だったのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。&lt;br&gt;
　しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、&lt;br&gt;
天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。&lt;br&gt;
　特に、アカサタナハマヤラワの中で、カとヤとマの三つの姓を上につけた人には、「天の邪気」というか、その傾向が今でも強く伝わっています。　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しかし、人口比率はそれでも多くて、現在でも三千万人以上の多数を占めていることからして、これを、｢庶民」と呼ぶのです。が、一般庶民といっても、大衆といったような意味ではありません。&lt;br&gt;
　現行法で摘出子でない、つまり父親だけが認めた子を「庶民」と区別するのと、それは同じことで、つまり一般庶民とは被占領地の末裔の意味なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot;&gt;　　姓は、横に結びつく。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　　◆例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横に結びあって、一つの集団、関連部族を形成していたということです。&lt;br&gt;
　これは、江戸時代までは、姓氏の横のつながりが、「同姓」と呼称され、それが相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例によって解明できます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（１）ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。&lt;br&gt;
　&amp;lt;四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう&amp;gt;&lt;br&gt;
　　&lt;br&gt;
◆姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛といったとある。そこでまず、アカサタナハマの増山姓を新設し正利に名乗らせた。&lt;br&gt;
　　そして、その弟の資利は″ナの那須&amp;#12319;へ養子にゆき、那須遠江守と号すとでている。&lt;br&gt;
　　さて、このアカサタナのリズムで、この列のカ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類扱いにと台命で決められたのが、&lt;br&gt;
″カは加藤右衛門佐忠&amp;#12319;″サは酒井讃岐守忠勝&amp;#12319;″ハは林羅山&amp;#12319;と　いう具合にして埋められています。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
そして、増山が西尾城主になる迄の間これを幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃　守尚政であって、まず初めに彼より五十人扶持を贈られ、&lt;br&gt;
そしてナの成瀬隼人正正虎が、その江戸邸を贈っている。「正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す」とあるように、同姓列が面倒をみることに決まっていて、&lt;br&gt;
その生母が青木と離別後再嫁したのも「ナの七沢清宗」という姓の家であった。が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけは、リズムから外れた。そのため、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。&lt;br&gt;
　　つまり、アカサタナハマヤラワ以外の発音のつく姓の女を嫁にしたために、罰としてお寺へ入れられたと　いうのです。昔は姓列から外れると厳しかったようです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot;&gt;ア姓列とオ姓列は緊密系列&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の&lt;br&gt;
&amp;#12317;ホの鳳来寺&amp;#12319;に巣くっていた猿女部族の&amp;#12317;オの小野&amp;#12319;姓の女比丘たちを動員して、&lt;br&gt;
「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、彼はかねて徳川姓の他松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりアカサタナハマのア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。&lt;br&gt;
　ですから、あなたの御両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もしあなたの父方がアカサタナハマヤの一つの姓なら、&lt;br&gt;
母方の旧姓も同じか、必ずオコソトノホモヨの一つのどれかであるわけです。&lt;br&gt;
・・・・・どうです。ぴったり当っているでしょう。&lt;br&gt;
　これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。&lt;br&gt;
　&amp;lt;たとえば&amp;#12317;忠臣蔵&amp;#12319;を例にとってみましょう&amp;gt;&lt;br&gt;
　　&lt;br&gt;
　◆元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、&lt;br&gt;
　　　「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。&lt;br&gt;
そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。&lt;br&gt;
つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。&lt;br&gt;
　　　　&lt;br&gt;
ところが、このとき朝鮮系の生母於玉の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。&lt;br&gt;
この結果が翌年翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみまと、&lt;br&gt;
　　　&lt;br&gt;
&amp;lt;細川越中邸にて屠腹の者&amp;gt;大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。&lt;br&gt;
&amp;lt;松平隠岐守邸にて屠腹の者&amp;gt;小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。&lt;br&gt;
&amp;lt;水野監物邸にて屠腹の者&amp;gt;奥田貞右衛門。&lt;br&gt;
　　　&lt;br&gt;
　この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六，奥野源五、小山源五右衛門、&lt;br&gt;
これだけでもオのつく姓の者は十六名もいるのです。&lt;br&gt;
僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。&lt;br&gt;
だからこそ討入も決行できたのでしょう。&lt;br&gt;
つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot;&gt;関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく｢イカン」が｢アカン」となるように変わるのは前述しましたが、&lt;br&gt;
発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。&lt;br&gt;
つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot;&gt;タ姓・・・藤原氏に追われて身を潜めた温厚な部族&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;(滝川、滝田、田中、田村、田島、丹野、田尾、龍田、丹下、田畑、館山、等日本には多い姓)&lt;br&gt;
　このタ姓は日本全国に散らばっています。それは、このタ姓をもつ人の先祖が原住系で、陽成帝が藤原氏に追われたとき各地に逃げ、身をひそめていたからなのです。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　ですからこの血がそのまま現代にも受け継がれているためか、タのつく姓は、よくいえば人がいいというのか、事なかれ主義の人が多く、あまり社会的に活躍しているというか、&lt;br&gt;
知名度の高い人は人口の占める比率としては少ないようです。またこのタ姓をもつ人々は今でも血の流れを尊重する傾向が強いところがありますので、&lt;br&gt;
一面では真面目だが、その半面きわめて頑固にすぎるようです。ですから、この姓の上役をもつと部下は苦労することになるようです。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　しかし、家へ戻っても、そうだろうと想像すると間違いで、この姓の人々は案外ぶすっとして，妻が自分にではなく子供にばかり話しかけるといったことを気にしたりします。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　演出家の武智鉄二とか建築家の丹下健三といった鼻っ柱の強そうな人もいますが、一般に案外に真面目人間で小心なところもあるようです。&lt;br&gt;
なにしろこの姓は非常に多い割りには、目立った存在がないというのは、この姓をよくいうならば従順、つまり順応性がありすぎるのです。&lt;br&gt;
なんでもすぐ右へならえをしてしまい、間違っても特異な存在にならないからです。が、その反面、凶暴性をもった人もいるようですから用心すべきでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　また、この姓には講談本で有名な竹中半兵衛がいます。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　木下藤吉郎時代の秀吉と知り合って、その軍師となって、おおいに蔭の人物となり後の太閤秀吉を作り上げたとする重要人物です。&lt;br&gt;
ですから若い時に単身で、今は鵜飼で名高い金華山の上にあった井口の城を奪ったとか、いろいろ面白く話は作られています。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　しかし、タのつく者がそんなに勇猛果敢だったりやり手であるのは可笑しいというのか、講談では、藤吉郎と知りあった頃は、もう呼吸器疾患で枕も上がらぬ病人ということにしてしまっています。&lt;br&gt;
そして、単に唯のブレントラストの一人といった具合にしてしまっているのです。つまり滝口入道にしろ、現在の佐藤愛子さんの前夫で作家だった田畑麦彦にしろ、みな、きれるという型ではなくて、&lt;br&gt;
温厚な善人型ということに、この姓をもつ男性は決まっているようなものですが、なにしろタのつく姓の人は多いので、これではいけないと発奮して田中角栄のように大をなす人も、その反面にはいるようです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　例をあげますと、日本石油社長の滝口丈夫、朝日麦酒社長の高橋吉隆、クラリオン社長の滝沢左内、日本無線社長の竹内雄一、立石電機社長の立石一真、日本セメント社長の竹安千春、&lt;br&gt;
王子製紙社長の田中文雄、武田薬品工業社長の武田長兵衛、石川島播磨工業社長の田口連三、ミノルタカメラ社長の田嶋一雄といったように華やかな社会のフットライトをあびている人も多いのですから、&lt;br&gt;
タのつく人でも温厚善良型に納まっているのを潔しとしない人は、男は度胸と覚悟をして、「なにくそッ」とここ一番、胸をはって大成を期すべきでしょう。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　また、姓列でみますと、三菱銀行の会長が田実渉、頭取が中村俊男、副頭取が加藤武彦とまさしくア姓列で首脳陣を固め、その結びつきで都銀のトップをいっています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さらにこのタ姓は熱しやすく冷めやすい自己埋没人間でもあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　このタ姓のつく人は、不思議とアカサタナハマヤワか、オコソトノホモヨの発音姓の相手と恋愛したり同棲したり、結婚しています。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　タのつく男性は、一般に真面目人間が多く、ただの真面目というのでもなく、その裏に頑なまでの頑固さを秘めています。&lt;br&gt;
自己をまず一番に守るといった露骨なところを持っていますから打ち解けそうで馴染めません&lt;br&gt;
つまり、あまり出しゃばらない性質で、人目につかず、自分の生活に埋没する人が多いようです。おとなしいといえばおとなしいのですが、&lt;br&gt;
自己埋没型といえるため結婚しても家へ帰って来た時など案外ブスッとしていたりします。また欠点として熱しやすく冷めやすい面を男女共にもっています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;したがって、タ姓を伴侶にもつ人は浮気に気をつける必要があるといえます。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　女性の場合は、内面が悪く外面の良いいわゆる八方美人型のようです。今は松山姓になっている高峰秀子とか作家の竹西寛子、デザイナーの田中千代といったような並の男より遥かに頭が良く、&lt;br&gt;
それで美人という才色兼備の人が多く、男性としてはこの手の女性の美貌にひかれて結婚すると、あとで後悔するような結果になりかねませんから注意を要します。&lt;br&gt;
それは、前にも述べましたように内面があ まり良くない、つまり家にあっては鼻っ柱の強くなる女性が多いからです。そこで、男性の方が関白亭主になろうなどと思っていると、&lt;br&gt;
まずうまくいかないといっていいでしょう。&lt;br&gt;
タ姓をもつ女性と結婚しようとしている男性は、女性操縦法に自信があるかどうか、自問してからにした方がいいようです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;こうして見ると、滝川姓が上位で小泉姓は従属しなければならないことが理解できるでしょう。&lt;br&gt;
進次郎氏は、独身時代の女関係は大いに結構だが、結婚後に浮気をしたら大変なことになる。&lt;br&gt;
だから彼は、美人で容姿端麗、才女の嫁さんの云う事をよく聞き、尻に敷かれても「嫁さん一筋」を貫いて政治に邁進すれば、何れ総理の椅子も取れるだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35403906.html</link>
			<pubDate>Thu, 22 Aug 2019 00:07:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>徳川家康が作った「鎖　国」の真実</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(172, 198, 181);&quot;&gt;　徳川家康が作った「鎖　国」の真実&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/50/35403350/img_0_m?1566122054&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;294&quot; class=&quot;popup_img_670_352&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/50/35403350/img_1_m?1566122054&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;373&quot; class=&quot;popup_img_600_400&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　元和元年五月八日に、かねて懸案の大坂城を、どうにか仕末して豊臣家を滅亡させた徳川家康は、当時江戸中納言から征夷大将軍になっていた伜の秀忠をよびよせると、&lt;br&gt;
　「長年の宿願をとげ、やっと握った天下の権ぞ。孫やその末に到るも、これを手放すではない……それに、もはや合戦というものは槍や弓の時代ではのうなって、&lt;br&gt;
一にも二にも鉄砲や大砲の世の中になってしまった」と洩した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「……仰せのとおり」と秀忠が畏まると、「うん」と家康も白毛のとび出した眉毛を揺さぶり、ひとつ軽く咳ばらいをしてから、&lt;br&gt;
「さて云わでもの事ではあるが、いくら良うできた大筒や小筒にしたところが、こりゃア玉薬がなくては弾丸も砲丸も飛びはせぬ。&lt;br&gt;
ところが、木灰一割、硫黄一割五分、煙硝七割五分の調合の内、灰は問題ない。硫黄も薩摩から入る。だが煙硝だけは当国では、ひとかけらも産出せぬ。&lt;br&gt;
よって信長の頃は泉州堺の商人どもが一手に輸入して儲けおった。次に秀吉は呂宋(フイリピン)からの船に頼って火薬を入れた。&lt;br&gt;
そして信長殺しに本能寺へ投げこんだ火薬が、天川(マカオ)のポルトガル人よりの到来物とは、世間に知られたくないゆえ、表むきは天主教禁圧ということにしてポルトガル人を追った」&lt;br&gt;
　「……存じ居りまする」合点して秀忠が、又それにうなずくと、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「うん、考えてみれば、元亀天正の世でも大名共も良き硝石を入手したさに、訳けも分がらずに伴天連坊主を大切にし、勝手に布教など許したものである。よって南蛮坊主共は己れの都合で、&lt;br&gt;
洗礼した大名には良き火薬をあてがい、信心せぬ大名や布教を許さぬ領主には、これをぶっ潰してしまえと細工を致した。&lt;br&gt;
つまり戦国の世というは、表むきでは吾らが血みどろになって戦ったようにもみえるが、&lt;br&gt;
裏へ廻れば南蛮坊主の火薬補給という糸にあやつられ、吾らは傀儡だったのだ。つまり操り人形にすぎなんだのじや……分かり居ろうのう」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　かんで含めるような云い方をして見せた。「よく存じ居りまする」秀忠は顎をひいて大きく点頭してみせた。&lt;br&gt;
　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「世の中を落ちつけ、天下泰平を保つためには鎖国しかない」かねての腹案らしく、家康は年よりらしいせっかちな云い方で結論をもう出していた。&lt;br&gt;
　「……さ、鎖国とは」言葉が難しかったか、秀忠は聞き返し。「とざす国と、唐の文字ではかくのだ」&lt;br&gt;
　指で掌になぞって見せてから家康は、&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
「……いくら南蛮坊主共が、やれ天国だの地獄だのいうて天帝の教えなど弘めにきよっても、そないなものは格別どないな事もない。それより難儀するのは、やつらが信者になった者を手足のごとく使い、この国では一かけらも産出せぬ硝石を輸入し、それを自分らの都合で諸大名に売り渡すことじゃ。　&lt;br&gt;
……火薬がゆきわたれば西国大名の謀叛は目に見えとるというもの。よって秀吉時代と同前に、まず南蛮坊主の伴天連どもを追払ってしまえ……やつらさえ入ってこねば、まさか、足のない硝石の樽がひとりで転ってきもしまい」と自分が先にひとりで頷いてから、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「表むき硝石を勝手に入れることを停止したからといって、抜け荷買い（密貿易）をされ秘かに輸入されては、こりゃ手の施しようもない……よって抜本根源策に『伴天連門徒停止』の名目で、&lt;br&gt;
眼の玉の変った者や、それとくっついた女、その子供らは、これ悉く追放となし、門戸をしめるようにも、国を鎖してしまうのじゃぞ」と、いってきかせた。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「……恐れながら」秀忠は当惑げに顔をつきだし、&lt;br&gt;
　「そないに国を鎖してしまいますると、わが徳川の家にも、硝石が入らず、もしもの時には難儀を致しまするが……」と口を挾んだ。&lt;br&gt;
　「何をかいう。心許ないことを申すな……何処ぞに一ヶ所だけ、わが徳川家専用の港をもうけ、そこから徳川家だけが硝石を輸入し、他の大名には一粒もゆかぬよう致すのじゃ。&lt;br&gt;
つまり独占輸入法というやつよ」カラカラ乾いた声で家康は笑ってみせた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「……ならば駿府や江戸に近い今切（現在の弁天島）あたりに定めましょうや」と秀忠が云えば家康は首をふり、&lt;br&gt;
「そちゃ若いのう。苦労がたらんぞ……」綻ばせかけた頬を、また固くひきしめ、&lt;br&gt;
「もしも硝石を輸入している港を誰かに押えられてみい。あと木灰と硫黄さえもってくれば、すぐにも火薬ができる……よって、そこから駿府や江戸へ攻めこまれたら何とするぞ。&lt;br&gt;
だから近くは危ない、遠国かよい。もしもの用心じゃ。九州の平戸あたりとなし、それでも念のため出島など築いて、南蛮人どもの往来は固く禁ずることよ……そんで、&lt;br&gt;
そこ以外は国の戸締りを固くなし、鎖国をもって徳川の家の安泰を計るのじゃぞ」と厳しくいいつけた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(127, 163, 124);&quot;&gt;秀忠「長崎出島」に火薬輸入拠点を造る&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そこで、徳川秀忠は命ぜられた通り九州の平戸に、出島を築くよう埋立て工事を命じたが、その内に年改った元和二年四月十七日。&lt;br&gt;
家康は駿府城で他界。その葬儀や何かで延引していたものの、平戸出島ができると八月八日。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「きっと申し入れ候。伴天連門徒の儀は、相国（家康）さまが仰せ出されし御遺言にて、これを堅く停止。下々の百姓に到るまで右の宗門に入りその手引きをせぬよう、&lt;br&gt;
入念に取調べをなしオランダやイギリス船は、もし自分の領分へ入ってきた時には、決して直接取引はなさず、必ず長崎表の平戸へ廻るよう命じなされたく、&lt;br&gt;
この旨を（将軍家）上意により、かくのごとく通達申し侯」といった老中連署の命令を各大名の江戸屋敷へ配った。これは「徳川家令条巻十八」に記載されている。&lt;br&gt;
　さて元和九年（一六二三）七月に家光が三代将軍に即位し、一年おいて寛永二年になると、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「天川(マカオ)人一斉にお払いだてのお布令」&lt;br&gt;
　つまりポルトガル人に限っては、特に芳しからぬ事が前にあったからという名目で、先の将軍秀忠が、一斉に国外追放を命じ、長崎の出島といえど居住することは厳禁した。&lt;br&gt;
（これは、その四十年前の本能寺の信長殺しに使用された強力爆薬が、マカオから渡来のポルトガルの伴天連によって、提供されたものだという秘密が、一般に広まりだしたので、&lt;br&gt;
徳川家の為にポルトガル人だけを永住禁止にしたらしい）&lt;br&gt;
　もちろんこの後になっては、&lt;br&gt;
　（硝石を持ちこんでくるのは、何もポルトガル人だけではなく、南蛮人はみな危険なり）&lt;br&gt;
　という結論も出たらしい。しかしこれは治安維持のためで、米国では何処でも一挺三十ドル位で手軽に入手できる拳銃を、日本だけは、&lt;br&gt;
持ちこんだり蔵ったりしていると「不法所持」として体刑処分にまでされるのと同様だが、&lt;br&gt;
　寛永十年　二月二十八日付、&lt;br&gt;
　寛永十一年五月二十八日付、&lt;br&gt;
　寛永十二年五月二十八日付、&lt;br&gt;
　寛永十三年　五月十九日付、&lt;br&gt;
　毎年のように、徳川家安泰のため、火薬を輸入する恐れのある南蛮人やその系類を追払うために根気よく各大名に通告をだした。&lt;br&gt;
　しかし何時の時代でも頭の良い人より悪い方がともすると多いとみえて、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「鎖国とは切支丹弾圧」だという早呑みこみというのか、感違いをしてしまった大名も多いらしい。家康や秀忠の真意が硝石独占輸入であるという裏肚までが呑みこめず、&lt;br&gt;
もっぱら領内の切支丹狩りをしては、これを片っ端から惨酷な処刑で処分した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　もちろん、こういう恐怖政治をしていた方が領民を弾圧できて、年貢米の取立を厳しくして苛斂誅求するのに、きわめて好都合のせいもあったろう。&lt;br&gt;
が、この寛永に入ってからは例年のごとく出された布告のしめくくりみたいな、寛永十三年五月のものでも、&lt;br&gt;
　「南蛮人はもとよりなれど、その子孫や系類の者も領内に残して置かぬよう堅く申しつけること。もし命令に違反し残して置くようなのがいたら死罪となし、一類の者も厳罰」&lt;br&gt;
「南蛮人が作った子は、片親がこちらといえど養子などにして引取ってはならない。そのようなことをすると自然と成人してから、向うと行ききをするか文通などを生ずるからである。&lt;br&gt;
もちろん当人には死罪を申しつけるが、それに関連のあったと思われる者は一人残らず取り押えて重刑に処するものである」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　といった内容で、宗教問題より、硝石をもちこむ危険のある南蛮人や、その系類の追放にだけ重点かおかれている。つまり、&lt;br&gt;
　「切支丹を追放するための鎖国」と、今の歴史家も、そのままの受け売りだが、林羅山以前の布令を良く調べてみれば、&lt;br&gt;
当初は火薬の輸入を徳川だけが握って独占するため、老獪な家康が掲げた表看にすぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　だからこそ幕末になって長州や薩州が、英国から直接に火薬を輸入するまでは、徳川三百年の泰平が悠々と続くのである。&lt;br&gt;
(幕府が輸入していた硝石は、江戸は西の丸に、大阪は天満与力が管理していた。)　&lt;br&gt;
さて、国外追放にされた南蛮人の身よりの他に、大坂冬と夏の陣で逆徒として追捕され、もはや日本にいては陽の目も望めぬ豊臣家の残党も、&lt;br&gt;
やはり逃亡奴隷の恰好で次々と当時は海外へ流れ出ていた事実が在る。&lt;br&gt;
　しかしジーゼル機関の発明される前で、貿易風と季節風か交互にふくのを利用して、「船は帆まかせ、帆は風まかせ」の時代だったから、近くの天川あたりへ行くつもりで、&lt;br&gt;
現今のベトナムの安南へ行ってしまったり、南支那海へそのまま風にもってゆかれて、「シンガポール」が尖端にあるので知られているマライ半島へ辿りっき、&lt;br&gt;
ここに住みついていた日本人も、かなり当時は多かった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　現在では一九六三年九月に、マラヤ連邦が旧英領のボルネオとシンガポールを一つにして、「マレーシア」とよばれている。&lt;br&gt;
　だが、この頃はモジョポヒトの一族が戦火で追われて、ここへきて魔羅津加王国をたてていた。そして日本では北条早雲が、関東で覇をとなえた永正八年に当たる一五一一年に、&lt;br&gt;
ポルトガル人の火器によって、この、「マラッカ王国」は一世紀で滅ぼされ、占領者のダルブケルクが、&lt;br&gt;
ポルトガル王セバスチャン家の命令によって統治。「総督」としてダルブケルクの孫が、マラッ力海峡に面したマラッ力のベンハーの丘に宮殿をたて、ここでマレー半島に君臨したが、国名は魔羅津加から「バハン」に変えられた。&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35403350.html</link>
			<pubDate>Sun, 18 Aug 2019 00:49:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>宮迫博之と吉本興業のドタバタから聞こえる日本衰退の序曲</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(224, 220, 170);&quot;&gt;宮迫博之と吉本興業のドタバタから聞こえる&lt;br&gt;
日本衰退の序曲&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/03/35402603/img_0_m?1565828634&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;373&quot; class=&quot;popup_img_900_600&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/03/35402603/img_1_m?1565828634&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;707&quot; class=&quot;popup_img_1820_2299&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
連日ニュースや情報番組で、これでもかというほどテレビは取り上げている。&lt;br&gt;
識者やコメンテーター連中はここぞとばかり、尤もらしい大衆受けのする解説をしている。&lt;br&gt;
こうしたテレビ業界に蔓延っている口舌の徒は信じられないし、庶民の浮ついた熱狂を煽っているに過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私にとっては、タレントや漫才屋がヤクをやろうが、不倫をしようが、全く興味のない分野だが、&lt;br&gt;
テレビのコメンテーターや学者、識者と云われるしゃべり屋の分析があまりにもお粗末で、事件の本質を突いていないのでここで一言苦言を呈してみたい。&lt;br&gt;
そもそも、宮迫が「反社会的勢力」という、私に言わせれば、訳の分からぬ言葉だが、要は犯罪者共に呼ばれて「芸」をして、&lt;br&gt;
金を貰ったのがけしからんという事だろう。貰った貰って無いでの食い違いも見苦しいが、しかしこれは間違っている。&lt;br&gt;
そもそも「金」に色なんかついていないし、どこから、誰から貰おうが全く問題はない。&lt;br&gt;
知っていてやったのなら確信的だし、知らなかったのならそれだけの話なのである。&lt;br&gt;
詐欺集団から金を貰ったと大騒ぎで「被害者の側の気持ちになれ」との大合唱である。しかし、&lt;br&gt;
現代程情報が豊富な時代、それを咀嚼も出来ず、次々と詐欺に引っ掛かる方が甘いのである。同情の余地は全くない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
昭和五十年代までの日本の芸能界は、ヤクザが仕切っていたのである。美空ひばり、鶴田浩二、勝新太郎、菅原文太など、&lt;br&gt;
名前を挙げればきりがないほどヤクザとの交際は当たり前だった。飲ませてもらい、客を呼んで貰い、代わりに彼らはやくざのステータスとしての一面に協力してきた。&lt;br&gt;
だからヤクザと義兄弟、舎弟杯の芸人や俳優はごまんと居たし、東映撮影所などはやくざだらけの時期もあったのである。&lt;br&gt;
警察が怖いからといって、おもねり、従順になる必要は微塵もない。「芸を見せて金を貰って何が悪いのですか」と開き直ればいい。それこそが芸人の心意気というものである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;近頃「フリージャーナリスト」と、御大層な肩書でテレビでは「大御所」として君臨している北野武が面白い解説をしていた。&lt;br&gt;
吉本興業を「女衒(ぜげん)」と表現していて、これは当たらずとも遠からずと言える。少し解説すると、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この商売をやっていた者は江戸時代から、売春禁止法が施工された昭和三十二年まで全国に居た。各地から女郎(売春婦)になる女を買い集め、売春宿に売る。&lt;br&gt;
売る前に、商品としての価値を調べるため、自分が必ず抱いて、顔の美醜や肌ツヤ、女そのものの具合を確認する。&lt;br&gt;
「この娘は肌が白く餅肌で、あそこも良く締まり具合がいいので優良」「顔も可愛く具合もいいが、反応が鈍いので訓練次第で売れっ子になるから良」&lt;br&gt;
等とランク付けし、それによって店に売る値段も変わるのである。&lt;br&gt;
私はこの女衒というより、吉本興業や芸能プロダクションを「猿回し一座」と名付けている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;東京にもジャニーズを始め多くの「芸能プロダクション」があり、田舎のあんちゃんや娘っこを集め、&lt;br&gt;
学芸会の延長のような拙い唄や踊りで売り出し稼いでいる。こんなのに熱狂している男女もどうかしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この宮迫問題の本質は、六千人とも謂われる、ろくな芸もない、馬鹿騒ぎや裸になって笑いを取るような、社会の半端者を集め、ピンハネで儲けている吉本の悪しき企業体質なのである。&lt;br&gt;
今や吉本芸人(漫才屋)なくしてテレビは成り立たない異常事態である。&lt;br&gt;
そして吉本は行政(権力)にも食い込んで大きな利権も獲得している。「笑いで地方を元気にする」とのお題目だが、おへそで茶を沸かしたいぐらいのものである。&lt;br&gt;
笑いで雇用がいくら増やせるのか具体的数字を出してみろといいたい。そんな事で地方が元気になるはずなどない。&lt;br&gt;
だから猿回しの親方的体質を捨て、古い二十世紀の「人いれ稼業」的体質から脱皮し、戦略的思考に基づいた企業戦略を立てなければならない。&lt;br&gt;
猿回しの親方とか人入れ家業の親分と呼ばれたくなければ、当然の帰結だろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
話は飛ぶが、近頃のテレビのMCと言われる、知ったかぶりでドングリまなこの宮根、子役崩れの坂上や、漫才上がりの恵らの、言葉使いには呆れる。&lt;br&gt;
敬語の使い方が全くなってない。そして薄っぺらな正義感をかざし、どれもこれも傲慢な態度に呆れる。&lt;br&gt;
スタジオにイエスマンの芸人やタレントを集め、MCとして己の意見に従わせ君臨しているさまは空恐ろしい。&lt;br&gt;
吉本さん、タレントさん、芸人さんと「さん」付けを乱発し、自分も広義では芸人の端くれなのを忘れたのか、何にでも「さん」を付ければいいと思っている。&lt;br&gt;
謙虚が過ぎれば卑屈が見える、というが、裏読みすればテレビ業界の「驕り」の裏返しだろう。&lt;br&gt;
さて、このように物事の本質を見極め、分析すれば厳しい言葉にもにもならざるを得ない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
日本史ではこの河原者について、誤解が多いのでここに真相を書いておきます。&lt;br&gt;
先ず、古い浄瑠璃の&amp;lt;愛護の若〉では四条河原にたむろする「細工の者」といったとでている。&lt;br&gt;
　さらに源頼朝の出したと云われる、頼朝御判28種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。だから間違いではない。&lt;br&gt;
平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、本当は公家とよばれる藤原氏は捕虜として奴隷百姓にして働かせている者らは従順だったが藤原体制にまつろはない彼らは、&lt;br&gt;
強制的に囲地に入れられた。かれら原住民は藤原体制の奴隷になることを徹底して拒んだからなのである。&lt;br&gt;
だから藤原体制は、奴隷になるのを拒む連中の許へ、毎年五月五日に限って石打ちに押しかけるのを許した。&lt;br&gt;
何故なら、奴隷百姓は汗水たらして過酷な労働に追い立てられているのに、彼らは労働に従事せず、税も払わぬ部族だった。&lt;br&gt;
だから百姓は羨ましがり、彼らを憎んでいたから日頃のうっぷん晴らしに年に一度に限り襲うことを官許したのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これを京では「院（因）地打ち」とよんだ、つまり人の上に人をではなく、その反対に人の下にわざと非人を作って、石つぶてで打ち殺しても構わぬものとしたのである。&lt;br&gt;
官許というか公家後援があるため、白川とか山科、桂、大原といった収容所へ当日は群れをなして竹槍まで持って押しかけ、放飼いの鯉を戦利品として持ち帰って、&lt;br&gt;
これ見よがしに竹の先に剌したのを、家奴隷も百姓奴隷も軒ごとにたてた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これが後には「尚武の節句(本来は勝負の意味)」となり、現在の鯉のぼりになるのである。&lt;br&gt;
　しかし襲われる者達も黙って待っておられぬ。石合戦ゆえ小石の多い河原を確保するために、四条河原から加茂川一帯に住みつきだした。&lt;br&gt;
が小石を押えるため石の沢山ある河原に小屋掛けしていても、石では食せぬし銭にならぬ。&lt;br&gt;
そこで細工物をしたり、芸をみせてやむなく生きてゆくために銭稼ぎをした。後に役者のことをそう呼んだり、&lt;br&gt;
河原埼権十郎といった名が生まれてくるのも、圧迫され通しの日本原住民系としては、石合戦への応戦の必要があったからであって、やはりそれなりの訳があるのである。&lt;br&gt;
だから芸人(漫才、落語、講談師、歌手、役者、タレント、)という人間たちは、差別と弾圧、迫害され続け、風雪に耐えた歴史の中から、その抵抗の精神を芸に昇華させるから&lt;br&gt;
素晴らしいのである。だが、近頃の芸人と自称する者たちにはこれが全く見られない。&lt;br&gt;
「芸」と呼べる代物でなく、全くの五月蠅い馬鹿真似を芸と勘違いしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
吉本に六千人と言われる「マンザイ予備軍」が居て、そのほか東京や地方にも「芸能」を志す若者を加算すると、何万人の労働しない半端者が居るのか見当もつかない。&lt;br&gt;
さらに、オリンピックに煽られて「将来はスポーツ選手になりたい」という若者も多い。この日本開催五輪は大失策である。&lt;br&gt;
世界的な投機家の、ジョージ・ソロス氏もオリンピック後の日本国衰退を予言している。&lt;br&gt;
競技場や関連施設の経費を入れると五兆とも六兆円ともいわれる無駄な金を、有意義な事業に振り向ければよかったのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;オリンピックも今や世界的な金儲けのビジネスになり下がった。こうした、人間生活にとって必ずしも必要としない、非生産性遊民が増えるとどうなるか。&lt;br&gt;
人間は遊び好きな動物である。これから日本は高齢化、少子化、人口減少が進み国力は下がる一方なのに、労働しない人口が増大すると考えるとゾッとする。&lt;br&gt;
こうした中、日本は人口増加のための、移民政策も、出産奨励策も全くとっていない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;また、中小企業の事業継続者不足も深刻で、若者が継続しなければ六百五十万人もの雇用喪失が懸念されている。&lt;br&gt;
さらに、十五歳から六十歳までの引きこもりが六十万人も居るというら、この国の将来は真っ暗である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、防衛省喫緊の課題である「自衛官候補生」も五年連続で計画割れで、国防の危機でもある。&lt;br&gt;
古代ローマやギリシャも、奴隷に労働を任せ、市民はスポーツや娯楽に沈溺し滅亡の道を辿った歴史が在る。&lt;br&gt;
テレビの食い物番組や、お笑い低級番組にうつつを抜かし、スポーツに熱狂し、国内外の情勢に怜悧な目を向けぬ腑抜けのような国民は、いずれ中国の属国に成り下がるだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35402603.html</link>
			<pubDate>Wed, 14 Aug 2019 00:53:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>小泉進次郎に見る「コ」姓の考察</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 0, 255);&quot;&gt;小泉進次郎に見る「コ」姓の考察&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 0, 255);&quot;&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/15/35402115/img_0_m?1565575237&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;400&quot; height=&quot;316&quot; class=&quot;popup_img_400_316&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/15/35402115/img_1_m?1565575237&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;392&quot; class=&quot;popup_img_1200_839&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
先頃、小泉進次郎と滝川クリステルの結婚が発表された。しかもやることも素早く彼女は妊娠中だというから誠に大慶。&lt;br&gt;
フライデーや文春などの「暴露週刊誌」は何をしていたのか。こんな大物の結婚を見逃すとは大失態で、溜飲が下がる。&lt;br&gt;
チンピラタレントや、芸能人のケツばかり追っているからこのていたらくになる。&lt;br&gt;
彼女はまさに才色兼備、語学も堪能で、美人。進次郎より三歳上の「姉さん女房」。将来総理大臣のファーストレディとしては世界に出ても遜色ない。&lt;br&gt;
進次郎の良き片腕になるのではないか。&lt;br&gt;
だが、口では「お目出度い」等と言っている永田町の議員連中だが、内心では「あの野郎!旨いことやりやがってッ」が本音。だから、&lt;br&gt;
この結婚が嫉妬と権謀術策渦巻く永田町で進次郎にとって吉と出るかは未知数だが、彼の今後の動き方は大変だろう。&lt;br&gt;
父君の小泉純一郎はコケの一念、一点突破政策で「郵政民営化」をして大失政だったが、進次郎は総理になったらどんな政策を示すのか楽しみでもある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、コの付く姓には、小泉、小島，近藤、小林，五島、後藤と多い姓である。&lt;br&gt;
コのつく人の特徴はまず、&amp;#12317;努力型&amp;#12319;の一言につきます。しかし、メダカのごとく群れたがるというのではなく、&lt;br&gt;
あまりサラリーマンでは立身せず、いうなれば独立営業的なところがあるのです。だから小泉は親子で派閥も造らず「一匹狼」的存在なのである。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
一般には、コの姓をもつ人は、「小売業」というか、町の酒屋さんなどに多くて、それが一代で大きなビルを建てたりしている巷の成功者に多いようです。&lt;br&gt;
　といっても、運が良いというようなことではなく、「刻苦勉強型」というか、１円玉でも大切にしてこつこつと金を溜めて、その一代で金持ちになるといった、&lt;br&gt;
&amp;#12317;カンナン汝を玉にする&amp;#12319;といったような銭ゲバ型でないと出世しない厄介なタイプなのです。ですから、コのつく成功者は静岡以西の出身者に多いのも、いわゆるド吝嗇精神を平然と振舞えるからです。&lt;br&gt;
　付き合いずらいというか、交際してゆく上にはうんざりさせられる向きも多いのですが、会社の経理など委せたら絶対に安心できるタイプですし、官公吏ならば能吏といえましょう。&lt;br&gt;
　それゆえ、この姓の人が係りの税務署員だったりしたら、夜逃げするしかありません。融通やお目こぼしは絶対にないからです。&lt;br&gt;
　また、この姓の相手から金を借りたら寝具まで剥がされて持ってゆかれてしまいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　きわめて金銭に厳しいのが、なんといってもその特徴といえます。&lt;br&gt;
&amp;#12317;やり手&amp;#12319;型人間として、例えば雪印乳業の児玉由一社長が、珍しいセのつく瀬尾俊三会長の下で、田尾正副社長、山本庸一専務と&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;いった完璧な姓列の布陣をひいているのも、これは会社の位置が、不動揺るぎないものとなっている基礎ともいえます。&lt;br&gt;
　さて、現在の宝塚の生みの親ともいうべき阪急電鉄の故小林一三は、どんな場合でも決して自分からは財布の口をあけず、タクシーに乗っても決して先には入らず後から入ったということです。&lt;br&gt;
つまり止まった時にさっさと出てしまえば、料金の支払いにはノータッチでいられるからでこれは晩年まで押し通したそうです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　まあコのつく事業人は、これくらい徹底しないことには大成しないという例ですが、そのくせ儲かるとなると借金を質に入れてもヤマコをはるようなところがあります。&lt;br&gt;
現在資産二千億といわれる近藤紡績の近藤信男にしても、やはり西の名古屋人ですが、六十九歳で数人の彼女をもち、中山製鋼の仕手戦で四十億円の欠損をしても、びくともしていない大物ですが、&lt;br&gt;
それがかつて某という名奴が気に入って、二号さんにするしないの話しがあった時、彼はセックスが終わった際に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「一枚ずつ広げて用いれば三枚か四枚で済むものをあの女はかためて掴んで拭く。あれでは何回かに一帖はいるだろう」と中京花柳界ではNO1の麗名のあった浪越連の美人を、&lt;br&gt;
さっさと惜しげもなくやめにしてしまったということです。あの時の事後処理の紙にまで目を配る男は全く大したものである。&lt;br&gt;
やはりコのつく人は目のつけ所が違うようです。&lt;br&gt;
東急電鉄もゴのつく五島昇の下で、副社長がタの田中勇、専務がカの唐沢勲、常務がヤの山田秀介といったアとオ姓列だけの陣容ゆえうまく発展しているのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　コ姓は人嫌いなむっつりタイプ&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　男性の場合は、性格的に見て、&amp;#12317;人嫌いな面&amp;#12319;をもっていて、&amp;#12317;むっつり型&amp;#12319;が多い。これは、酒でも呑ませれば発散して騒ぎもしますが、淋しがり屋ではないのですが、&lt;br&gt;
あまり人付き合いはよくないということになります。ですから、それが女性の母性本能をくすぐるのか、年上の女性と一緒になってしまうような結果にもなるのです。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　仕事に関しては&amp;#12317;刻苦勉励型&amp;#12319;の男性ですが、もし、女性が、夫を飼育して出世させようと考えているのでしたら、これくらい立身させ甲斐のある男性はいないといえます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　しかし、自分の方も身なりにかまわず、共に働かないことには駄目だといえます。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　さて、それではコのつく女性を妻にすれば、よく働いてくれて、おおいに楽できるかといえば、これはあべこべなのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　あまりこの姓のつく女性は働き者ではありません。怠け者です。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　そして、どうも好色なタイプが多いようです。というと、それならば&amp;#12317;恋愛対象&amp;#12319;にと、コのつく女性を探そうとする男性がいるかもしれませんが、&lt;br&gt;
一度、その女性が本気になったりしてしまうと、簡単に「さようなら」というわけにはまずいかないということを心得ておくことです。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　したがって、コのつく女性を恋人にもっている男性は、真面目に付き合って結婚し、その後、浮気をさせないようにコントロールする以外はないようだといえましょう。&lt;br&gt;
因みに私事になるが私の最初の妻は「小林」姓だった。私が長期に家を空けると必ず浮気をしていたもので、これが原因で別れたのだが、&lt;br&gt;
私への愛情が無くなったというではなく、淋しさとセックスへの渇望だった。だから勿論相手の男を愛したわけでもない。&lt;br&gt;
夫は夫として愛し、浮気は閨の寂しさを紛らすスポーツのような感覚で、騎馬民族の女の特徴なのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　&lt;br&gt;
　&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;騎馬民族系（崇神王朝・蘇民系）─オ姓列&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　エビス、ダイコク、ビシャモンといった七福神は、今では単なる縁起物扱いされていますが、かつては、それらは蘇我氏人の奉ずる多神教の神々だったのです。&lt;br&gt;
　徳川家康が天下をとる際、徳川だけではオコソトノの姓列しか統合できないので、アカサタナハマのマのつく松平姓をも、二倍でゆこうと併称してからというもの、&lt;br&gt;
ア姓とオ姓列は公然と混合させられてしまい、今ではごっちゃになってしまっているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しかし厳密にいえば、騎馬民族系は頭蓋骨が小さいのが特徴ですが、この蘇民将来系や白山神信仰、土俗八幡信心の人達は、大頭だったりフクロクジュのごとき長頭なのです。&lt;br&gt;
　彼らは、戦国時代には勇ましく戦ったものの、その後、武士から脱落した者が商人になっていったので、「番頭」「手代」といった武者言葉をそのまま商家でも用いています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　が、なにしろ商人は殆どといってよいくらい出自が蘇民将来系ゆえ、大阪あたりでは、現在でも「十日えびす」とか「えびす講」といった売出しをやりますが、&lt;br&gt;
堺や昔の佐渡などはかつてはエビス島と呼ばれたものでした。そしてエケセテネのエ姓列が、このオコソトノのオ姓列に入ってしまっているのは吸収合併されてしまったからの所為なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そして、その結果、オ列の女性上位の感化をうけ、相当に女人から苛め抜かれてきましたので、今でもその子孫は、恐妻家とか愛妻家と呼ばれる人には、&lt;br&gt;
このオコソトノの姓を上へつけている人が多いようであります。しかし、復讐のために反動的になって、女性の敵ともなります。例えば、オのつく大久保清とか、コのつく&lt;br&gt;
小平義雄といった例です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そしてアカサタナの第一横列とオコソトノの第五横列が、ともすると過激に走るのは、「連合赤軍事件」や、&lt;br&gt;
アラブゲリラの関係者の名前を羅列しても一目瞭然です。これをみましても、この方則には感心させられましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&amp;lt;連合赤軍関係者一覧&amp;gt;&lt;br&gt;
　ア青砥幹夫　　カ金子みちよ、加藤能敬、加藤順子、　サ坂口弘、酒井隆樹　タ　ナ中村愛子、永田洋子&lt;br&gt;
　ハ坂東国男　マ前沢虎義　ヤ山本順一、山崎順、山田孝。&lt;br&gt;
　オ大槻節子、尾崎充男、太田直己　コ小島和子、近藤有司　ソ　ト遠山美枝子　ノ野津和寿恵　ホ&lt;br&gt;
　モ森恒夫、持原好子　ヨ吉野雅邦。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&amp;lt;アラブゲリラ事件&amp;gt;&lt;br&gt;
　ヤ安田安之　オ岡本公三、奥平剛司　ヒ（ホ）檜森孝雄・・・・・といったあんばいです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;戦国期になれば「コ」の付く戦国武者は多く出現してくる。&amp;lt;戦国人名辞典&amp;gt;にも、&lt;br&gt;
秀吉の家臣や馬回りに「小出長政」「小出三尹」「小出吉政」「小坂助六」「小崎新四郎」「小島与衛門」「小寺休夢」「小西和泉守」らが見える。&lt;br&gt;
「小介川親茂」(出羽由利十二党)　「小林家鷹」(高匠で信長に仕える)　「小堀政一」(秀吉から家康に仕え、元和九年伏見奉行)「小宮山内膳」(武田勝頼の臣)　&lt;br&gt;
有名な、小西行長、小早川秀秋、講談でお馴染みの後藤基次(又兵衛)、鉄砲同心五十人で有名な駒木根利政などこの他にも数十人が見受けられる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
さて、次回は進次郎の奥さんになった滝川クリステルの「タ」姓についての考察をしてみようと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35402115.html</link>
			<pubDate>Sun, 11 Aug 2019 00:32:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>「韓民族こそ歴史の加害者である」 石平氏渾身の著書</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
　　　　　&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#ff0000&quot; size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(82, 83, 48);&quot;&gt;「韓民族こそ歴史の加害者である」&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_0_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;818&quot; class=&quot;popup_img_1513_2209&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_1_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;360&quot; height=&quot;538&quot; class=&quot;popup_img_360_538&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_2_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;351&quot; height=&quot;499&quot; class=&quot;popup_img_351_499&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_3_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;316&quot; height=&quot;500&quot; class=&quot;popup_img_316_500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_5_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; width=&quot;304&quot; height=&quot;500&quot; class=&quot;popup_img_304_500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_6_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 6&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;800&quot; class=&quot;popup_img_843_1205&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_7_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 7&quot; width=&quot;360&quot; height=&quot;500&quot; class=&quot;popup_img_360_500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_8_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 8&quot; width=&quot;324&quot; height=&quot;475&quot; class=&quot;popup_img_324_475&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_9_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 9&quot; width=&quot;500&quot; height=&quot;500&quot; class=&quot;popup_img_500_500&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_10_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 10&quot; width=&quot;500&quot; height=&quot;375&quot; class=&quot;popup_img_500_375&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142465/04/35401504/img_11_m?1565268714&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 11&quot; width=&quot;400&quot; height=&quot;429&quot; class=&quot;popup_img_400_429&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この本はテレビ解説でお馴染み、元中国人で今は日本人となった「石平」氏、渾身の一冊である。&lt;br&gt;
以下に氏が参考にした文献の画像をUPしておいた。私も早速アマゾンより購入し読破した。&lt;br&gt;
これらの書物の特徴は、中国や韓国人著者でも、決して自国贔屓に書かれていないことである。&lt;br&gt;
如何に事実に基づいて公平に帰納的に書かれているかという事が大切だから、その意味でも納得できるし、これらを土台とした&lt;br&gt;
石平氏の分析に全く間違いがないことが判明した。&lt;br&gt;
以下に石平氏の前書きからの引用。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;朝鮮問題の専門家でもない私が、韓民族の歴史をテーマとする本書を書こうと思い立ったのは、今から三年前のある出来事がきっかけであた。&lt;br&gt;
二千十三年三月一日、ソウルで催された「三・一独立運動」の記念式典で、韓国の朴槿恵大統領は、日韓間の「歴史問題」に言及して、&lt;br&gt;
「日本と韓国の加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わる事はない」という発言を行った。&lt;br&gt;
(中略)&lt;br&gt;
彼女の言いたいことは、これから千年が経っても、韓民族は「被害者」の立場から、日本民族に謝罪を求めたり説教を垂れたりする権利を持ってしかるべき、ということだろう。しかしそれでは日本民族は子孫代々、何時まで経っても、半島の人々に対して平身低頭して謝り続けなければならない。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;人類の長い歴史の中で、多くの民族同士が互いに傷付けあったり、争ったりすねような「負の歴史」はいくらでもある。&lt;br&gt;
しかし世界史を通読してみても、一つの国あるいは民族が、隣国に対して、それほど過酷で理不尽な要求を強いている前例はいまだ見たこともない。&lt;br&gt;
どうやら韓民族にとって、過去の歴史は未来永劫、日本を苛め叩くための恰好の材料となっているようである。(以下略)&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、地政学的に、半島国家というものは、大国に囲まれ、困難な選択を強いられる側面は否定できない事実である。&lt;br&gt;
しかしこの現実を差し引いても、韓民族はあまりにも特殊である。この事を念頭において、本書を読むべきである。&lt;br&gt;
自国の政争や内紛を解決するため、韓民族は古くは「三国統一戦争」でも唐の軍隊を招きいれている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;時代は下がって「元寇」の原因さえ高麗王朝は、率先して蒙古軍を日本に引き入れていた事実があった。&lt;br&gt;
近代になって「日清、日露戦争」の遠因も朝鮮であった。&lt;br&gt;
さらに、南鮮の李承晩と北鮮の金日成らが、朝鮮戦争を起こし、拡大し、中国、米国を巻き込んだ張本人だったと判れば、&lt;br&gt;
半島国家が起こすトラブルに巻き込まれないように、半島からの災いを遠ざけるため、それこそ「歴史に学んで」日本としては真剣に考えるための、貴重な書物である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35401504.html</link>
			<pubDate>Wed, 07 Aug 2019 17:29:16 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>姓の法則から見える日本史の深奥 オ列の女は良妻賢母の見本</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 128, 255);&quot;&gt;姓の法則から見える日本史の深奥&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(128, 255, 0);&quot;&gt;オ列の女は良妻賢母の見本&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;海外からの渡航者にも人気のあったオ列&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 0, 0);&quot;&gt;オ姓の代表「織田信長」の考察&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/04/35401304/img_0_m?1565265693&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;425&quot; height=&quot;284&quot; class=&quot;popup_img_425_284&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/04/35401304/img_1_m?1565265693&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_640_640&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/04/35401304/img_2_m?1565265693&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;420&quot; class=&quot;popup_img_600_450&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/04/35401304/img_3_m?1565265693&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;436&quot; class=&quot;popup_img_600_467&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　オ姓は昔は神職に多かったという。&lt;br&gt;
　これは猿女族とよばれた原住系が、小野の野主の率いる小野族の男をことごとくたらしこんで、&lt;br&gt;
「小野姓」を名のるようになり、諸国を、「語りべ」と称して流して歩くに際し、自分のことを、「おの」と第一人称でよぶようになり、例えば、&lt;br&gt;
「おのが姿を影とみて」とか、自分の事を「おのれ」と自称したり、角兵衛獅子などやりだし、この流れが、&lt;br&gt;
「歩き巫女」となって、やがて神社に居付いて、これが神職になって落ち着いてしまったものだろう。&lt;br&gt;
　しかし神を信ずる部族が、かつては多かったから、　　&lt;br&gt;
「オ」のつく部族は崇拝されてもいたらしく&amp;lt;続日本紀&amp;gt;にも書かれている。&lt;br&gt;
　もちろん語りべの女たちによって弘まった、「小野の小町」「小野の道風」といった伝説上の有名人の他に、&lt;br&gt;
「小野派一刀流」の本当の元祖とされている女流の刀豪、小野於通も、絶世の美女にされ、信長、秀吉、家康の三人に愛されたと伝わっているが、オのつく姓が尊ばれた証拠としては、&lt;br&gt;
寛永元年の、&amp;lt;老翁物語&amp;gt;にも、&lt;br&gt;
　「朝鮮百済王聖明第三子琳聖が渡海し周防に土着、多々良氏を名のる。その九世盛為に到り、周防介となり、更に大内氏をその姓に選びて称す」&lt;br&gt;
　とでているこの大内義隆が殺され、跡目の大内義長の時、毛利元就が山口城を占領すると、&lt;br&gt;
　「『日本国昔年欽奉大明国勅賜』と在銘の『臣日本国王』の十センチ角の宝印を発見す」とあるのが&amp;lt;毛利家文書&amp;gt;には見られる。&lt;br&gt;
　つまり海外から渡航してきた者まで、このオコソ系を狙ったわけで、それを名のったのは、&lt;br&gt;
　「児島高徳」という、桜の幹に十字の詩、「天勾践をむなしゅうするなかれ」で有名な勤王の士も、&amp;lt;赤松再興記&amp;gt;によれば、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「百済人、備前に上陸し児島を名のり、今や児島半島とよばれる。児島三郎高徳はこの流れにて、のち、三宅氏、宇喜多氏となる」&lt;br&gt;
　となっていて、故渡辺世祐も、「大永四年に前南禅寺の九峰宗成のしたためた字喜多能家像の賛にも、これははっきりしているから朝鮮人であったのは動かしがたい事実であろう」&lt;br&gt;
　と、イ姓のミ、ウ姓のウとなるべき百済人も、渡航してきた際は、最初にオコソトノホモヲの系列をとったことを説明している。&lt;br&gt;
　また大化の改新で誅されてしまった蘇我入鹿が、やはりそがの、ソ姓を名のり、彼は中大兄皇子や藤原鎌足に殺されるまでは、おのが住いを、「宮」と称ばせ、自分の子らを、&lt;br&gt;
王子と称ばせていたくらいの権勢だったと伝わる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そして、また中世は、三好基長の子で有名な、「三好長慶」の弟が四国讃岐の十河城主となって、「十河一存」を名のって、雑賀の根来衆や河内の畠山を討って勢威を振い、&lt;br&gt;
また対馬の府中城にあって、朝鮮と日本の二股をかけて保身を巧くした「宗義調」などが、足利末期までは、伝統的に強かったらしいが、織田信長が足利義昭を追って天下を統一しかけると、&lt;br&gt;
すっかり情勢が変わってしまったらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「一番槍を生涯に四度あげた」と評判をとった織田信秀の家臣で小豆坂七本槍の岡田助左衛門。&lt;br&gt;
　熱田大宮司で、信長の智謀役だった岡本定季らが、森三左衛門（この遺児が蘭丸、力丸、坊丸）とともに新しく募った兵で、比叡山や高野山を焼討ちしてしまってから、&lt;br&gt;
この、「オコソトノホモ」の系列は、反仏的原住民、つまり神徒系列になってしまったらしく、岡田助左衛門は、&lt;br&gt;
「星が畸」に城を築き、信長の遺児織田信雄を守って、秀吉に滅されるまでは頑張り、岡本定季も神徒衆を率いて戦ったが、本能寺の変の後は、その次男の岡本良勝が織田信孝の家老となって、&lt;br&gt;
秀吉のため調略されたため、それを恥じて父定季は神前で自决している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;background-color:rgb(168, 190, 209);&quot;&gt;　&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;ワンマンから自殺者まで多士済々のオ列姓&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「誠実」というのが、このオコソトノホモヨの姓のつく人の特徴で、&lt;br&gt;
「義理固さ」の一語につきよう。これは浅野内匠頭に義理だてした家臣の姓別が、大石内蔵助以下十六名もオのつくのがいたのを、前に説明したが、この伝統は今も続いている。&lt;br&gt;
　だから他社からスカウトしてよい人材は、こうした志操堅固なこの系列であるし、「結婚」ということを考えるなら、女性の立場ではこうした姓列の男性に限るようである。&lt;br&gt;
　というと善良すぎるようにも思えるが、それは間違いで、昭和に活躍した小田実とか小中陽太郎のような、&lt;br&gt;
　『反戦学生のすすめ』の本をだす反骨的な快男児もいるし、新劇界に叛旗をひるがえした「小沢栄太郎」とか、ゾルゲ事件で有名な、「尾崎秀実」のような人もいる。&lt;br&gt;
　「また戦争になったら若いひとをやる代り、自分がゆく」と言いきる大岡昇平もいた。&lt;br&gt;
　『万延元年のフットボール』や『厳粛なる綱渡り』を書いた大江健三郎。&lt;br&gt;
　そうかと思うと、大森実、大宅壮一、小汀利得といったように世の中をリードしたがる人間も居る。この流れがオコソトノホモの特徴で、映画界でも昭和では、&lt;br&gt;
松竹は大谷、東映は大川、日活は堀、東宝は森、大蔵映画は大蔵貢、独立映画は大島渚といったようなこの系列の人がやるとワンマン事業となる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて仕事が順調にゆけばそれはそれで良いのだろうが、もしも不調のときはこの系列の人は、くさり方が他よりも烈しい。&lt;br&gt;
非常に囗惜しがりやのむきが多く、腹をたてて抗議の自殺をする人が多いのは、『自殺の系譜』という本に、名の知られた人の自決の統計がでているが、その二割をしめている。&lt;br&gt;
これもノホホンとしたり無為無策には世をおくれぬ真面目さの現われであろう。&lt;br&gt;
　だから用心のため生命保険をかけさせるのも一手だが、日本の保険は、自殺は契約二年後でないと支払ってくれないから、早くしないといけない。&lt;br&gt;
また、この系列の女性は非常に思いやりがあって慎しみ深いが、しんが強く女流画家の小倉遊亀などもいるが、結婚相手として選ぶには無難といえる。&lt;br&gt;
しかし、「神がかり」というのもおおげさだが、ヒステリー的傾向は内蔵している。といっても、「ワアワア」やるようなはしたない型ではなく、慎しみ深いヒステリー内向型ゆえ、これが陰にこもると不意に爆発する。&lt;br&gt;
　「このこおそろしい」という江戸時代の、「女人へのいましめのこと」の話は後述するが、扱い方というかリードを巧くしないと大変なことになるらしい。&lt;br&gt;
　つまり、よく男が女を怖いというのは、なにも食いつかれたり引っ掻かれて、怪我をするからというのではなく、男としてはまったく意想外な、&lt;br&gt;
「なにをしでかされるかも判らん」という不安をさすものであろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　が、それは原因あっての結果であってすべて夫の仕打ち次第ゆえ、まあ身もちのよい夫だったら、なんの心配もないといえる。&lt;br&gt;
一般的には、良妻賢母の標本とおもい、このオコソトノの姓をつけている女性を、一生の伴侶にむかえることこそ望ましい。平凡だが無難である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
因みに、世界的に認められ「賢人」と言われる大前研一氏は、この国を良くしようと様々な提言をしている。&lt;br&gt;
平成維新の会も立ち上げたし、東京都知事にも立候補したが落選。頭脳明晰弁舌巧みで、世界的分析能力は右に出るものがない。&lt;br&gt;
だが、あまりにも自己主張が全面に出すぎ、多くの人間を引き付けられないのだ。日本にとって誠に惜しい人材である。&lt;br&gt;
青島幸男のような素っ頓狂な知事を選んだ東京都民も馬鹿だが、当時大前氏の出した東京都改革がなされていれば、オリンピックのような無駄遣いイベントは無かったし、&lt;br&gt;
その代わり、東京は世界の金融都市になり、東洋のハブとして発展し、その波及効果として地方も大いに発展していただろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(96, 191, 0);&quot;&gt;「オ」の付く代表織田信長の考察&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;歴史上有名なオの付く「織田信長」について、再掲載しておきます。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、&lt;br&gt;
越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp; そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、 彼だけの武勇知略ではない。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; ＜天下布武＞では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp; 「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp; だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、 彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。&lt;br&gt;
&amp;nbsp; （こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう）&lt;br&gt;
&amp;nbsp; という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元が なにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈であるし、それが戦国の常識である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、 信長は心変わりして、&lt;br&gt;
ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼ら信長の近習を匿っていた。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
　　さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、秀吉の妻、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、 永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、 井之口城を占領した。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、&lt;br&gt;
&amp;nbsp;木下籐吉郎が防いだだけの話しである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
　　こんな事も歴史屋共は判らなく、講談の儘なのが現状である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、&lt;br&gt;
&amp;nbsp;家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　有体は史学会の歴史屋共が、徳川慶喜に金を貰って嘘と知りつつ買収されたのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、 八の民が進んで協力したからである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
　　播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、 今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。&lt;br&gt;
その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに 山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、&lt;br&gt;
&amp;nbsp;愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&amp;nbsp; だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;どうも信長は初めの内は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　しかし本能寺で爆死する数年前辺りからは、マカオの火薬を一手に入手し、「八」の民の大同団結を図り、 天の朝の復活を目指して日本統一の計画があったふしも窺える。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、&lt;br&gt;
&amp;nbsp;信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史にある。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
従来この矢銭の解明が出来ず、（弓矢の矢代＝軍費のこと）&lt;br&gt;
&amp;nbsp;（屋銭と解釈して＝棟別銭）の二通りの分け方がされている。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;　しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭（やせん）」となっている。だからこれは、八族である原住系が、&lt;br&gt;
&amp;nbsp;（これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金）として強制徴収したものらしい。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような 田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾なのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35401304.html</link>
			<pubDate>Tue, 06 Aug 2019 08:52:36 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;「長文なるも面白く書いてます」&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b8-7a/a23121222/folder/1142445/58/35400458/img_0_m?1564760530&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;315&quot; class=&quot;popup_img_640_360&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;&lt;strong&gt;世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;何しろ彼は安倍政権の当初から、&lt;br&gt;
内閣府特命担当大臣、原子力経済被害担当大臣、産業競争力担当大臣、ロシア経済分野協力担当大臣、&lt;br&gt;
国際博覧会担当大臣。 自民党政務調査会長代理、自民党参議院政策審議会長、内閣官房副長官等を歴任と、&lt;br&gt;
眩しいばかりの経歴で学校法人近畿大学第4代理事長も兼務している。&lt;br&gt;
安倍政権の外交から内政を総括すれば、様々な問題はある。その批判はここでは他のブログやマスコミに任せて、世耕大臣の&lt;br&gt;
「エケセテネヘメエレ」横列の人間について考察してみましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;エ姓列の人は五千人に一人の希少価値&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;エ姓の先祖は山の民である&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「影供」と書いて平安時代は「えぐ」と呼んでいた。今では、&lt;br&gt;
「人間が歩くと、その影が後をついてゆく状態」または、「影かたちのごとくつき従う忠実な召使い」といった具合になっているが、本来の意味はそうではないらしい。これは、&lt;br&gt;
「用心棒として、影を供にしてつれ歩く」のことらしい。つまり平安時代末期というのは、&lt;br&gt;
&amp;lt;鉢屋由来記&amp;gt;にもあるごとく、山の民の彼らが京洛まででてきて荒し廻っていたので、身分のある公卿さんなどは、礼を払ったり給与をはらって、同じ影の者を護衛につれ歩いていたのをいうらしい。&lt;br&gt;
「影」を「え」と発音するのは、今では、「えい」となっているからおかしいみたいだが、これは、いわゆる「陰陽説」からでたものらしく、ウクス系やイキシ系を、&lt;br&gt;
　「陽の民」とみて、日蔭の被征服民族、即ち日本原住民たちの彼らを、「影の民」とみなし、彼らの祖先の神話が、（エオトコとエオトメが天の浮橋によって、結ばれて）の建国話であるからして、&lt;br&gt;
「エの民」として扱い、これを&amp;lt;日本書紀&amp;gt;の《景行紀》ににあるところの、「景行帝二十五年武内宿禰は風土巡察二十七年帰り奏す。&lt;br&gt;
土地沃壌広し、これ蝦夷の地なり、撃ちて奪るべし」といった報告の時でも、「蝦夷」は初めのうち、その意味合いは、「之を見し」といった具合だったのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
　だから、蝦夷をエゾと呼ぶ以前のものは、「エミシ」が呼称になっている。そこで、「影」が「え」とよばれ、これが白土三平の、『忍者武芸帖』の影丸にもなるのだろうが、&lt;br&gt;
このため陽の民が持ちこんだ両刃の、「剣」に対して、蔭の民である影族がもたされた片刃の、「刀」を扱う刀術も、&lt;br&gt;
「柳生新蔭流」「疋田陰流」「諸羽影流」とみな影とか蔭をつけ、正流とか陽流といった呼称はないのである。&lt;br&gt;
　しかしそれは後世のことで、山へ追われた初めはいくら山岳民族でも路頭に迷うどころか、山中で生活に窮しきったものと思われる。&lt;br&gt;
　草や木の実をもいで食用に当てたろうが、それだけではたらず女達は、「あれを捕えてこませ」と山野を駈け廻る野兎や鹿や山犬たちを男にとらせ、その肉を焙って食し、皮を剥いで衣服にしたらしい。&lt;br&gt;
　さて、船舶系の者たちが今の河内あたりにかたまって、そこの交野郡に住まっていたのは、「中宮」「片鉾」といった村名が残っているのでも判るが、長岡京のできる前後は、ここの行在所に延暦二年、六年、十年と桓武帝が行幸されたのでも判るし、&lt;br&gt;
&amp;lt;公卿補任&amp;gt;や&amp;lt;本朝皇胤紹運録&amp;gt;によれば八三九年の承和六年に、河内国高安郡に、「百済宿禰」がその一族とともに栄えていたこともでている。さてその後、ここへは、&lt;br&gt;
特にシャム方面からきた人間が住みつくようになったのか、彼らが軍用の食料として持ちこんだ南方鶏が飼われ、これを、「軍鶏」つまりシャモとよんだり、&lt;br&gt;
鳥を捕えるための猛禽の鷹がもちこまれ、狩猟用に珍重された。&lt;br&gt;
　さて鷹は肉食なので、影の民である山岳民族がその飼育をいいつけられたのか、&amp;lt;揚氏漢語鈔&amp;gt;にあるごとく、&lt;br&gt;
　「餌取り」、つまり、エを上へつける呼び方で、里近くに居住を許された者は称された。これは&amp;lt;今昔物語&amp;gt;の一節にも、&lt;br&gt;
「やがて草ぶかき茅屋をたずねあて、そこに一夜を求めしところ、やがて夜食に持ち来りしは牛馬の肉。僧はこれをみて、妖しき所へ来にけるかな、これ餌取りの住みかなるべしとおののき」&lt;br&gt;
　などとでている。この鷹の餌取りのため山野を駆け廻っているうちに、次第に逞しくなった連中が、やがて足腰が強くなって武士という階級になるのだから、彼らの成人式ともいうべき元服には、&lt;br&gt;
「烏帽子」とよばれる加冠の式を行なうのも、「鳥」の宇を「え」と発音するのも、後年の、「鳥打ち帽」と同じことで、鳥の餌取りからの由来であろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;&amp;lt;エケセネ&amp;gt;姓は少ない訳&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて、ビニールや擬革のない時代にあっては、皮は貴重品であった。鎧や馬具の鞍にはどうにも欠かせぬ軍用品で、これを自己補給できる原住民系は、源氏没落後なりをひそめていたが、&lt;br&gt;
応仁の乱の時代になると勢をもり返し、戦国大名の殆どは彼ら出身の者らで占められたのである。&lt;br&gt;
　そして徳川期に入って平和になっても、袋物や革羽織といった需要がきわめて多く、製革業者の原住民系は、非武士階級でもみな富裕になり、各地の神社が栄え、&lt;br&gt;
したがって仏教の寺の勢力を上廻った。&lt;br&gt;
　このときに当たって、朝鮮系の生母をもつと伝わる甲府宰相綱吉が、徳川五代将軍についた。&lt;br&gt;
　将軍生母桂昌院を通じて勢力を得た隆光とよぶ大陸系の僧が、貞享四年正月には、将軍をそそのかし、ついに、「生類憐みの令」を天下に公布した。&lt;br&gt;
　これはなにも動物愛護精神によるものではなく、（動物を殺すな）ということは、皮をはぐなという、製革業者である原住系への弾圧の法令であった。ついで、&lt;br&gt;
「厭離穢土」という三河松平家に伝わる大樹寺勢誉上人揮毫の旗の文字からとって、「エ」をことごとく「穢」に換えさせもした。&lt;br&gt;
　だから、江間、江原、遠田、枝島といった鎌倉時代には、花形だったエ姓が否応なしに改姓をしいられてしまった。つまりエの字は、&lt;br&gt;
「夷無名(いむな)」=「忌名(いみな)」となってしまった。よく、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「ちゃきちゃきの江戸ツ子」とか「三代つづいた江戸ッ子」などと書く人もいるが、とんでもない出鱈目で、江戸に住む者は明治になるまでは「エ」を憚って、&lt;br&gt;
自分の口からは決して「江戸」などとはいっていなかったようである。ではなんと称していたかとなると、&lt;br&gt;
　「ご朱引うち」とか「ご府内」といったもので、二号さんが、「おめかけ」と自称しないのと同じことであって、幕末の勝海舟が、&lt;br&gt;
「おいら江戸人はねえ」という時は、自己卑下し、相手に油断させる時か、または皮肉のようである。&lt;br&gt;
　このエ姓が明治になっても忌まれた例としては、&lt;br&gt;
　「前司法喞参議の官をすて西郷南州と廟堂を去り、佐賀にて挙兵、君は敗れ鹿児島に身を匿さんと欲す。されど薩人頑迷にも、君の姓により拒む。&lt;br&gt;
止むなく君は四国へ赴き捕えられるや、明治七年四月十三日に断罪にあう。されど嗚呼前司法喞江藤新平君、君の首級のみは梟首にかけらる。まこと悲しき哉」&lt;br&gt;
　と&amp;lt;南白遺稿文集佐賀乱記&amp;gt;にあるくらいで、まだ明治初年にはそうしたエ姓を嫌う因習が残っていたらしく、これは立派な証拠になる。&lt;br&gt;
いかにこうした徳川史観の偏見がひどかったかという一例であろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;ＯＭＡＮの語源は政子&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて普通は「一つの民族は一宗教……」ということに地球上どこの国でも決まっている。ところがである。不思議なことに日本だけは違う。&lt;br&gt;
まず神信心（甲）と仏信仰（乙）とあり、その他に、蘇（素）民将来（丙）というのがある。日本列島へ移住してきた順序は、丙が一番古い。俗に、&lt;br&gt;
「えびす、大黒、弁天」等といった七福神をもって守護神となし「素民」として太古は栄えていた民族である。&lt;br&gt;
　今日でも愛知県の渥美半島などは、全地域がいまだに、七福神の神域となっているし、牛にビール飲ませて育てるという、「和田金」の伊勢の本店の前の自宅の門には、&lt;br&gt;
「蘇民将来開運之守」という御札がはってある。この部族は、弁天さまで名高いエノシマ、エダジマでも判るように、&lt;br&gt;
　「エ衆」とよばれていたので、エ横列（エケセテネ）の発音を上につけ、この方則ではエ姓であるが、&lt;br&gt;
次々の弾圧によって今は僅かしか、その姓を名のっていない。その代り、現代でも、この横列姓を上につけている人は、風雪千五百年以上たたかれてきているだけあって、芯が強いのが特徴である。&lt;br&gt;
反逆児的な要素は遺伝であって、明治時代は、「王将」で名高い坂田三吉をやっつけた「関根金次郎名人」のように、独立独行型が多い。&lt;br&gt;
　今日でいえば「自由職業型」か、サラリーマンでも教育屋か演劇屋、学校屋に多い筈である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　もちろん維新まで、この部族は決して百姓なんかはしていない。殆ど山中にあって動物を友としたり、鉱山を掘っていたようである。&lt;br&gt;
　もちろん里へでてきた連中は、拝み屋や医者や鍛冶屋、いかけやなどもしていた。&lt;br&gt;
　さて、この素（蘇）民系の人々の祖先は徹底的に、イ列、ウ列姓に、苛め抜かれ通しできたものであって、&lt;br&gt;
&amp;lt;日本後紀&amp;gt;などには「衣多」という文字を当てられ、こわもてしているがなにしろ捕虜である。&lt;br&gt;
「われこそはミナモトの氏の何某なり」と全国二千有余の捕虜収容所から蜂起してきた原住民を名のる白旗武者が、馬の尻を叩いて天下を奪ったのが「文治革命」のとき。&lt;br&gt;
　今では、当て字を棒よみして「源氏」というが、この連中に与騎したり郎党になった者で今日、戦記ものに名が残っている蘇民系は、&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&amp;lt;源平盛衰記&amp;gt;に「江田の基弘」&lt;br&gt;
&amp;lt;吾妻鏡&amp;gt;には「江田の小次郎」&lt;br&gt;
&amp;lt;平家物語&amp;gt;では「江田の源三」&lt;br&gt;
&amp;lt;太平記&amp;gt;のは「江田源八」&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　とあるけれど、このほかに、女人の政子、ちなみにまさこと読むのは後年の読み違いで、秀吉の頃まで、政所とかいて「まんどころ」といっている。&lt;br&gt;
つまりＭＡＮＫＯが正しい。それが証拠には関東地方では、ア姓エ姓オ姓の男性どもは、令和の今日でも謹んでオの敬語をつけて、これを女性名詞として呼んでいるほどで、&lt;br&gt;
如何に政子は勢力があったか、この言葉一つでも、しみじみ口ずさむと、よく判るというものであり、男の側からすると政子を良妻賢母にするのは誤りでしかない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて、その政子が頼朝の死後、鎌倉幕府を里方の北条氏にわたしてしまった時、源の未亡人なのに「平政子」として死んでゆくような彼女だけに、&lt;br&gt;
「梶原景季」以下の主だった源の実力者をみな殺しにしただけでなく、江田姓を名のる土着系にも徹底的な弾圧を加えたらしい。&lt;br&gt;
つまりこれまでの歴史では、源氏と北条氏を一つの血の流れの同族のように思いこんでいるから間違われるが、&lt;br&gt;
大化の改新で追われた蘇我の民である蘇民と騎馬民族系の源民とはまったく相反するもので、このため、&lt;br&gt;
&amp;lt;北条五代記&amp;gt;から、&amp;lt;南北朝争乱記&amp;gt;には、もはや、このエ姓は現われてこないのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　次の足利時代となると、これは明国と安保条約みたいなものを結んで、向うの銭を貰って日本で通用させていたような世相だから、表むきの治政上、足利将軍は源姓を使っていたが、実際は、「白旗党」として原住系を圧迫していた。&lt;br&gt;
　エケセの蘇民系もだからしてやはり&amp;lt;今昔物語&amp;gt;にでてくるような「餌取り」という代名詞のもとに虐待されていた。やがて、彼らが息を吹き返すのは戦国期から徳川初期の間である。&lt;br&gt;
　当時の有名人は、千の利休、仙石権兵衛、関一政、江村専斎、美濃の遠藤一族、江戸城主の江戸通政といったところであろう。&lt;br&gt;
　しかし、この部族は苛められるのだから次々と殺されたり処分され、その後も元禄期の徹底的な弾圧をうける。そこで改姓したり深山へ逃げたり、&lt;br&gt;
または神仏混合になったから宗教家になって世を忍ぶことになる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot; style=&quot;background-color:rgb(255, 255, 0);&quot;&gt;エ列の女性に要注意&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　ところが不思議な事に終戦を境に、もはや絶滅されたかと見られた、この部族が百花繚乱と突如としてマスコミに現われてくる。&lt;br&gt;
　もちろん宗教家としては、海老名弾正、江部鴨村。風俗作家としての『山の民』の江馬修、プロ作家の江口渙は早くから知られていたが、&lt;br&gt;
河原乞食とかつては侮称されたジャンルにも、喜劇王と謂われた榎本健一のような人材も顔をだす。&lt;br&gt;
　社会党の江田三郎もいるが、作家としては、山にこもるかわりにパリで過ごしてきた芹沢光治良。&lt;br&gt;
カトリックの作家遠藤周作や評論家の江藤淳（本名江頭淳夫）。財界では江戸英雄。賑やかなところでは、「オレはテレビの河原乞食だ」と自称する永六韜や、&lt;br&gt;
「せむし芝居の次は、ゲイボーイの芝居を」という寺山修司。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そうかと思うと「マンガ」の手塚治虫。「これこそ華道だ」の勅使河原蒼風。&lt;br&gt;
　「おれの原稿を三十代の編集者が判るのだろうか」と憤まんを書いた故徳山秋声の女婿にあたるワセダ反主流派の寺崎佶。&lt;br&gt;
　女流では、小田仁二郎をして泣かせしめた女豪の、瀬戸内晴美女史(若い頃多くの男と浮き化を流し、今や97歳で尚元気な尼さんになっている瀬戸内寂聴)。&lt;br&gt;
そして、&lt;br&gt;
「文学界」の九月号に「秘密」と題して、堂々と「ちょうすけ」の軍部に徴兵忌避の主人公を書き、&lt;br&gt;
「武士は死んだらいけんよ。銭をたんともってないかんよ」と「武者とは、なるべく死なずに、現金か証文で、首の落し前に話をつけて助かるのが常識である……」&lt;br&gt;
を昭和二十年代の時点において見事に描写し「反逆精神の大作家」と認められている「丸谷才一」こと本姓根付先生。二年間「貝殻一平」として才筆をふるった評論も巧い国学院大学の教授。&lt;br&gt;
　それにお料理のテレビの江上トミ女史と昭和になって多士済々の様相を呈したものである。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
日本の総人口の内で、このエケセテネの横エ姓は、わずか0.02パーセントもいない筈なのに、よくも、まあ反骨揃いの連中がパレードみたいに現われてきたものであると感ぜざるをえない。&lt;br&gt;
　まるで西暦三世紀から四世紀の時点に逆流したような活発な趣きである。&lt;br&gt;
　この人たちは前述したように、宗教的アトモスフィアが濃厚で、その上、十数世紀の生活環境からして、人間よりは動物と仲が良い。&lt;br&gt;
　男は、きわめて反逆精神にもえ、喧嘩っ早いが、自嘲的なオトボケ要素もある。しかし長年の圧迫生活に堪えてきた伝統で、根性はもっている。&lt;br&gt;
つまり家庭的な夫としては、最高の存在であろう。しかし日本全国で恐らく未婚の男性は、残念ながら算えるほどもいまい。&lt;br&gt;
希少価値をもつ国宝的記念男性であろう。「マンハントするなら、こういうのを見つけなさいよ、これぞ女にとってはダイヤ以上であろう」と、太鼓判を押し推薦する由縁である。&lt;br&gt;
　が、その反面「エケセテのイニシアルのつく女の人？」となると、これは、また問題が違ってくるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「貴男がマゾヒズムなら別だが、そうでなかったら……千何百年も苛め抜かれてきた民族の女性が如何に強いか……体験者を探して聞いてください」としか、それは、書けない。&lt;br&gt;
　つまり女の立場からすれば、このエ姓の男性は、願ってもない夫の素質をもっているけれど、男の立場としては、この姓をもつ女性を妻にすることは、&lt;br&gt;
　「山の神のいけにえ」になるようなものだ、ということを敢えて忠告しておくしか、この場合、他にないようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　さて、この希少部族は昔から人口がすくないので、エケセテネの同姓列では相手が見つがらぬ関係上、その一字下のオ姓、&lt;br&gt;
つまり、「オ、コ、ソ、卜、ノ、ホ、モ、ヨ」を上につけている異性が、おおむねやられている。&lt;br&gt;
　だから前述の有名人の生母は恐らく、&lt;br&gt;
　小川、岡田、追山、小山田、尾崎。後藤、小島、近藤、小林。曾根、左右田。戸田、殿山、遠山、&lt;br&gt;
富剛。野村、能田。星野、堀田、細川、穗瑞。望月、森出、持山、茂木。吉田、吉崎、横田、横川、の中の旧姓を、もっている筈である。&lt;br&gt;
ということは、上記の男性は、「エケセの女性に引っかけられやすい」&lt;br&gt;
　という警戒警報でもある。立派すぎる妻をもつことが、如何に夫としては堪えられぬところかということが判る人は、&lt;br&gt;
なるべくならば好んで火中の栗を拾うようなことはしないに限ると思うが如何であろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;このエ姓の国会議員は、衆参合わせて713人の国会議員の内、野党も含めて17人の少なさである。&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;世耕弘成&lt;br&gt;
江崎鐵磨&lt;br&gt;
江田憲司 &lt;br&gt;
江田康幸&amp;nbsp; &lt;br&gt;
枝野幸男&amp;nbsp; &lt;br&gt;
江渡聡徳&amp;nbsp; &lt;br&gt;
衛藤征士郎&amp;nbsp; &lt;br&gt;
江藤拓&amp;nbsp; &lt;br&gt;
遠藤敬&amp;nbsp; &lt;br&gt;
遠藤利明&amp;nbsp; &lt;br&gt;
玄葉光一郎&lt;br&gt;
関健一郎&amp;nbsp; &lt;br&gt;
関芳弘&lt;br&gt;
手塚仁雄&amp;nbsp; &lt;br&gt;
寺田学君&amp;nbsp; &lt;br&gt;
寺田稔君&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;br&gt;
照屋寛徳&amp;nbsp; &lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
さて、世耕大臣を例に「エケセテネ」姓の考察をしたが、韓国への輸出制限問題では、理と正義は日本に在るのだから、反骨と頑固精神を十分発揮し、&lt;br&gt;
所管大臣として安倍総理が途中で「政治的判断」をしても、首を賭けてでも日本国の為一歩も引かぬ交渉をしていただきたい。&lt;br&gt;
そして、これらの議員は、純粋日本原住民の反骨と抵抗の精神を発揮し、与野党の垣根を越えて「日本を良い国」にして戴きたいと切に願うのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35400458.html</link>
			<pubDate>Thu, 01 Aug 2019 23:29:00 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>