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どうも皆さんお久しぶりですね
今回の屋久島島内巡りは屋久島の歴史と屋久島徳洲会病院というわけで屋久島の歴史と屋久島徳洲会病院について話します

屋久島が初めて文献に出現するのは、中国の隋の書「隋書」で、「夷邪久(いやく)」として登場する。

『続日本紀』には、種子島とともに多禰国との記述がある。また同書の大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記述がある。このとき、種子島は大和朝廷の支配下にはいる。

多禰国からの税収はとても小さかったが、南島(奄美・沖縄方面)との交流、隼人の平定、遣唐使の派遣のため中国として扱われていた。実際、753年、鑑真、大伴古麻呂、吉備真備らを乗せた遣唐使船第二船、第三船が屋久島に寄港している。

しかし、島民を兵として徴用しても動員が難しく、年貢として取り立ても少ないことから、天長元年(824年)10月1日に多禰島司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。

1203年に鎌倉幕府から種子島氏に種子島を初めとした南西諸島が与えられ、屋久島も種子島氏の支配下に置かれることになる。1542年、大隅の禰寝氏が種子島氏の悪政を正すとの名目で屋久島に襲来し、島を占拠。宮之浦に城ケ平城を築城。1544年に種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める。禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる。このとき初めて火縄銃が実戦で使用されたと伝えられている[20]。織豊時代の1595年、種子島久時のとき、太閤検地に伴う所替えで薩摩国知覧に移され、屋久島は島津家の直轄地となる。また豊臣秀吉が京都方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、島津家にも用材の献上を命じられている。一説にはウィルソン株はその時に切り出された屋久杉の切り株ともいわれている。

江戸時代は薩摩藩の支配下に置かれる。島津光久に招かれ薩摩藩に使えていた僧侶であり儒学者でもあり、屋久島の安房の生まれであった泊如竹は、島民の困窮を目にし、島民のため屋久杉伐採を藩に願い出る。また屋久杉伐採の指導などを行い島の経済復興に尽力した。このため屋久聖人と呼ばれている。今でも泊如竹の命日である旧暦の5月25日に如竹踊りが如竹神社で行われている[21]。

米作、畑作に不向きな屋久島の年貢は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった。男子は年一人当り平木六束(一束は百枚で600枚)を収めることとなっていた[22]。

1708年にキリスト教布教のため、鎖国下の日本に潜入しようとしたジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが、屋久島に上陸している。

明治時代に入り、地租改正により、島の山林のほとんどが国有地に編入された。以後その帰属をめぐって政府と島民との長い争いが生じた


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屋久島徳洲会病院の歴史とかもあるんですか 削除

2012/4/25(水) 午後 0:28 [ 1111 ] 返信する

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鑑真ら遣唐使船が屋久島に寄港する

753年の12月7日、日本の政治・文化に大きな影響を与えた鑑真・大伴古麻呂・吉備真備を乗せた遣唐使船第二船、第三船が屋久島に寄港する。

着岸した地は記録にはないが、屋久島の12月の気候は、北西の季節風の強い時期であり、激しい風雨を避け、緊急避難的に寄港したとすれば屋久島南部であろうと推測される。また、原・尾之間には、今もそれを類推するような伝承地名などが残されている。

その後、鑑真は鹿児島県坊津へ、吉備真備は和歌山県太地に漂着した。

2012/12/9(日) 午前 8:03 [ 水・土壌汚染を学ぶ ] 返信する

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