詩吟・新興吟詠会

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秋色の信濃路

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 晩秋、彩り鮮やかな紅葉は、青空とアルプスの白銀に映えていました。歴史と平和を訪ね、漢詩に思いを寄せる旅でもありました。(●^o^●)

 二つの美術館

 始めて無言館へ。なぜかコンクリートの建物の前には、大きなパレットに名前が刻まれており、中へ入ると風景、家族、自画像、裸婦、彫刻など比較的明るい色彩で描かれていました。しかし、各展示品の説明で二十歳代の青年の出兵前に作成した思いが伝わり、胸が締め付けられてゆきました。
とくに昭和十七年ニューギニアで戦死した青年の絵の前にくぎ付けに。この年に私が生まれ、叔父がこの年末に同じ地で戦死しているからです。そしていまは亡き父が、この前の年に再度ビルマへ。その時「国有忠臣世太平 家在孝子親安楽 昭和十六年晩秋再出兵記念 道佳学人」と書を残して。父は決して戦地のことは話しませんでした。
 ある風景画の前「このパレットの絵具がなくなるまで絵を描き続けたいと兄はいいながら筆を運びませんでした」と書いてありました。みな同じ思いを込め、パレットを握りしめていたのだと。そして戦地へ。こうして展示品をたどるうちに、この建物全体が十字架の形をしていることに気が付きハットして外へ出ました。(@_@;)
 
 青天の下、真っ白に化粧した雄大な穂高連峰に圧倒されながら安曇野ちひろ美術館へ。あの懐かしい色彩のタッチ。なんとも言えない幼な子の瞳。そこには、軍靴の音が迫るなかで少女時代を過ごし、戦争の最中に青春を生きたちひろの「世界中の子ども みんなに平和としあわせを」との願いが描かれていました。ちひろは、終戦の翌年に一九四六年長野県で日本共産党へ。この歴史の年表をジッと見つめる若者や戦争世代の人々の瞳が、あの少年のように、ちひろの心と響きあっているように感じられました。

文人も宿泊した旅館と農民のたたかいが建立した山宣の碑

 別所温泉街で最も奥の静かな場所、真田幸村ゆかりの石湯の隣りに臨泉楼柏屋別荘があり宿泊。この旅館は、明治四三年創立以来、文人墨客の長期滞在、清遊が相次ぎ、有島武郎、川端康成、舟橋聖一、北原白秋、斉藤茂吉、西条八十氏さらには森繁久彌氏、先代千代の富士などの色紙が数多く見ることもでき、その歴史の深さが心にしみわたりました。(^^♪

 そこの先々代の斎藤房雄さんが、山本宣治の碑を旅館の庭先に埋めて官憲の取り壊しを免れたということでした。 
 八〇余歳の先代の斎藤さんご夫妻は、その歴史を。昭和四年、大恐慌の中、山宣はこの地に結成された農民組合主催の講演会の講師として招かれ、その四日後に治安維持法改悪反対の運動の中右翼によって暗殺。これに抗議の意を秘めて碑が建立され、三八年間斎藤房雄さんが守りとおされたと、話されました。
翌朝、山宣の碑がある慈覚大師が八二六年に草創した安楽寺を尋ねると、ラテン語で座右の銘、「生命は短し、科学は長し」が刻まれていました。まじまじと見ながら私は京都の山宣の墓のことを。日中友好に尽力された中国の著名な文学者・郭沫若氏が、墓前で詠んだ五言律詩「紅旗勞捍衛 孤壘信非孤」(首聯)「義同生永在萬古姓名朱」(尾聯)を思い出しました。

戦国時代からの悠久の歴史(*^_^*)

 善男善女が祈る善光寺から、武田信玄が信濃の拠点とした松本城へ、天守閣への登りは堅固でした。川中島では「千曲の川霧、犀川の雨、松籟吹きすさぶ妻女山」と、雌雄決す信玄、謙信を詠む漢詩を呻吟。さらに妻籠では、江戸時代にタイムスリップした街道を歩み、「通行手形」をもらい宿本陣へ。御料理所、奥の間と足を運ぶ中、代々、本陣を務めた島崎家の系譜があり、そこには藤村の名も。さらに奥へ行くと木曽和紙の着物など代々受け継がれた貴重な品の中に、表装された漢詩・李白作「早発白帝城」、杜朴作「江南春」があり、懐かしく訓じ、私も旅路を作詞しました。
 
 秋色之信濃路 上平声十一眞

   秋光歴歳信州巡
   今昔衆芳求道仁
   庶士興隆萌激変
   将迎開闢史編新

   秋光歴歳の信州巡る
   今昔より 衆芳仁を求道す
   庶士興隆し 萌す激変
   将に史編新たに開闢(かいびゃく)を迎えんとす



 歴史の流れの鳴り響きを感ずる中、私たち旅人は、夕日に向かい中山道を下りました。途中、「政治の中身を変えよう」「憲法九条を守ろう」と凌ぎを削っての立看は、新しい歴史の道を呼びかけているようでした。(●^o^●)

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 今朝、新興吟詠会の全国紙「新興の友」が着きました。創立30周年記念大会報告の140号です。新しく会長になられた加藤禮子さんのあいさつや、富阪事務局長の「30周年記念講演・平岩師と新興吟詠会」など、会員の様々な想い、また創作詩も載っていますので、ぜひご覧ください。そこに「蜀の国の歴史と漢詩」も載っていますので。あの大震災で、漢詩を少しは勉強しているものとして、どうしてもの想いをとの気持ちに誘われて書いています。

蜀の国(四川省)の歴史と漢詩

 大地震に見舞われた四川省は、長江上流、四川盆地にあり、蜀の国と言われていて、三国志に登場します。地理的にはむしろ内陸で、チベット自治区の近くに位置するところです。

紀元前五千年の世界の四大文明の黄河文明、また長江文化、そしてこれらとの交流の中で異なった独自の蜀の文化を切り開いてきたところといわれています。すぐれた農業生産、水利灌漑事業など生産力が豊かで、震源地近くで被害がひどかった都江堰はずっと機能していました。天下を治めるために蜀の地域が大変重視されてきました。
 
漢から三国時代へ

紀元前、秦の国が滅びた後、覇権を争う劉邦は、巴蜀(四川省一帯)をおさめ、隣の国の楚の項羽と戦い勝利し、前漢の初代武帝となっています。勝利した劉邦は故郷にたちより、「大風の歌」を歌い永代免租の特権を与えたといわれています。そして、敗れた項羽は、「力は山を抜き気は世を蓋う時利あらず騅逝かず」と虞美人を思って詠っています。この「垓下歌」を吟ずれば心をつんざくものを感ずることができます。
 さらに漢の国が滅びたのち、魏蜀呉の三国時代の話は有名です。蜀の丞相・諸葛孔明を劉備が三顧の礼で迎えます。孔明は「天下三分の計」を進言し、華北の曹操を倒して漢王室を再興するため四川省の草州、益州を確保することを勧めます。こうして孔明は「赤壁の戦い」で曹操を打ち破り、漢蜀国が成立し、劉備が帝位につきます。「三国志」は孔明と劉備・玄徳の物語が中心ですが、その後、曹操についてもいろいろな評価がされています。曹操の「短歌行」は「人生幾何ぞ譬えれば朝露の如し」と詠い味わいの深いものがあります。
 
 日本との交流

ちなみに当時の「魏志倭人伝」によれば卑弥呼は二三八年以降、魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられており、論語がこのころ日本に伝わってきています。 
このころからの日本と中国の交流の深さが伺われます。仏教の伝来、遣隋使、遣唐使といっそう盛んとなるなか、中国は唐の時代・漢詩が近代詩として確立、隆盛期へと向かいます。そして、それはさらに日本文化にも大きな影響を与えるものとなりました。
 
 蜀難道

蜀の国に入るには、山脈を越え越えてゆかねばなりませんでした。長安から入るには、断崖絶壁に穴をあけつくられた桟道を渡らなくてはなりません。この蜀道難を超えるときの漢詩も数多くあります。震源地の山岳地帯へは震災の時になかなか現地に行けず、人民解放軍がパラシュート部隊で救援物資を投下せざるをえませんでした。剣門山という蜀道があります。玄宗皇帝が安史の乱の中、この難所をとおり、蜀に逃れています。その時に「剣閣雲に横たわりて嶮しく」と「蜀に御幸し回りて剣門に至る」という詩を詠んでいます。
 この玄宗皇帝の執政を諷刺し、国を漂泊した李白、杜甫も蜀の国とは深い縁があります。
 
 李白、杜甫と蜀の国

李白は五歳の時に一家は蜀の国にきたともいわれており、二五歳の時に李白は故郷蜀を出ています。
「戴天山の道士を訪うて遭わず」は、まさに今回の地震の震源地まじかの山での詩です。一八歳の時、道士を訪ねていくが満たされない気持を「愁えて倚る両三松」と詠っています。四川省最大の都市成都では、二〇歳の時に「春感」で、都会の風物には心をひかれず「却って憶う青山の上」と春の感慨を詠います。そして李白はこの詩により赴任していた政府高官に称賛されました。そして李白は蜀の国をでます。舟で長江を下るとき「蛾眉山月歌」で「君を思えども見えず渝州に下る」と決意と郷愁を詠いあげています。そしてさらに下り「早発白帝城」を詠み新たな旅立ちに一層の決意を固めています。そして楚の国、さらに長安を目指します。
杜甫は、四七歳の時長安から左遷されました。安史の乱が続くなか、庶民が戦乱で苦しんでいる様子を詠い「石壕吏」など「三吏三別」の六首を創っています。そして、四九歳の時杜甫一家は蜀の成都を目指してゆきます。やっとたどり着き、浣花草堂にかやぶきの家を建て住み落ち着きを取り戻します。「居を卜す」はその時の気持ちを詩に託しました。さらに「蜀相」では「「長しえに英雄をして涙襟に満たしむ」と諸葛孔明への敬慕の情を詠いあげています。この中には唐王朝の末期、揺るがす乱世に孔明を渇望する気持ちがあふれています。また思わぬ風雨の災害に見舞われ「茅屋秋風の破るところと為るの歌」も作詞しています。 
しかし、この成都も戦乱に巻き込まれ、また吐蕃軍の侵入の中、蜀中を転々としています。そして五四歳の時に成都をでて長江をくだり、「白帝城最高楼」を詠んでいます。これは諸葛孔明、劉備、さらには李白をも想い創ったとも言われています。
こうして歴史の荒波の中、蜀の国、いや四川省は歴史を歩んできました。いま未曾有の自然災害との闘いの中で、「加油(jiayouがんばろう)」と声を掛け合っていると聞きます。

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今日も明日へ向かう刻となった。自然、社会、政治は大変激しく動いている。大震災、大水害、政治は後期高齢者医療制度を軸足に。今日サンデーープロジェクトでは、「資本主義に限界」と田原総一郎さんが、志位さんに聞いていた。私は今日は新興吟詠会の会合。春を送る漢詩を吟じた。「雨中春を送る」は清時代の袁枚の作。「春を送るは客を送るが如し、満山の花草啼痕有り」と自然にも人の世の送別にも涙を流す。会員の創作吟は「吟魂好し、是惜春の情」と春を惜しみその風情に心を打たれている。同じ春を送るでも対比的であった。詩吟の模範吟は「過零丁洋」。南宋の文天祥が不幸乱世のなか「心をもって歴史を照らさん」と死への危険な中で信念をも貫いた詩を、先生が信条込め、累々と吟じられた。「あゆみ歴史」は明日も歴史の歩みの中で、ともに人生を送らん。

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 今日は、ある会合で杜甫の「春望」を吟じた。「国破れて山河あり」「城春にして草木深し」は、唐時代、玄宗皇帝の乱れた政治に乗じての安史の乱が平定されたと聞き、杜甫が成都から長安へ行くときに捕虜となり、長安で詠った詩。その成都の近郊が震源地とした大地震で大きな被害。もともと四川省は山間地で、歴史上は要塞とされていたところ。救援もままならぬのでは。被災者が一刻も早く救援されんことをと願わざるを得ない。杜甫のきっとそう願っていることだろう。

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 「富士山」「静御前」「太田道灌」「近江百景」「沖縄」「嗚呼平和憲法」などが高く吟じられました。新興吟詠会30周年記念大会は、憲法を守らんと決意あふれる大会となりました。とくに30周年を振り返り、今後の旺盛な詩吟、漢詩作りのなかで、新しい日本を目指すため、大いに研さんしていこうと盛り上がりました。そして、昇給昇格試験では、上級、師範等多くの昇段者がありました。

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