国道をゆく

歴史・考古学・城郭・旅をテーマに綴ります。

一乗谷朝倉氏遺跡

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 山形行き報告の6回目。
 
 中途で立ち寄った福井一乗谷の記事も今回が最後(になると思います。)。
 
 朝倉氏当主の館跡から背後の山へ若干登ったところに、国の名勝にも指定されている「湯殿跡庭園」があります。
 
 
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 ↑いろいろな石が林立しております。さまざまな立石を効果的に配するのがこの庭園の特長とか。
 
 中世の庭園(詳しくは知りませんが...お許しください。)は、このような立石をいろんな動物や風景に見立てて、屋敷の中に自然を表現するようです。ほかの戦国期の庭園跡でも「鶴石」「亀石」を見たことがあります。
 
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 発掘調査等の成果のよれば、立石間の低いところには、本来水を巡らしていており、川か池のようになっていたとか。
 
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 ↑たしかこの画像であったとおもいますが、現地の案内板によれば、この画像を撮影したポイントからの視覚(つまりこの画像)が、立石の位置関係などでもっともすぐれた景観になっているということらしいです。
 
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 このような庭園のすぐれた意匠についても、朝倉氏が都の文化を積極的に受容したものの中の一つなのでしょうね。おそらく一流の造園師を都から招へいしたのでは...
 
 さて、一乗谷へ訪れたのは、この回が3度目でした。
 
 2回目の15年前当時は背後の山城まで登りました。ただし、博物館は休館(泣)。
 
 3回目の訪問では、城下の散策に加え、博物館も見学できました。博物館では、発掘調査報告書を購入。以前購入していた博物館の展示図録と合わせ、戦国期の城下町を考えるうえで、とても勉強になりました。特にこの遺跡は遺構の残りもよく、遺物の構成も豊富なので非常に参考になります。
 
 このあと、福井を後に北陸自動車道を北へ、いよいよ山形へ向けて走ります。
 
 道中の記事も紹介しながら今後もアップしていきます。
 
 また、ご意見ご感想などコメントお待ちしております。

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 山形行き報告の第5弾!
 
 中途で一乗谷朝倉氏遺跡を訪れております。
 
 朝倉氏の館跡の内部です。一乗谷では、南北に長い谷筋の東側の山麓部に当主の館跡があります。前回見たように、谷の平野部に面する館の三方が土塁と水堀で防御され、山側は空堀が掘られているといいます。館の裏側から東方に山を登って行った山頂部に詰城である山城が存在します。
 
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 館跡を南東側から見ております。館跡は発掘調査されており、検出された礎石建物の屋敷跡が復元されてあります。曲輪(くるわ)内の北東側に朝倉義景の屋敷跡が検出されたそうです。
 
 わかりにくいかもしれませんが、上の画像の中央部が大広間ともなる「常御殿」、手前が接客に使う「数寄屋」、奥が日常生活の「台所」・「御清所」・「持仏堂」などです。
 
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 上の画像の中央部分は政務をつかさど「主殿」
 
 地面に石が並んだ様子がわかると思いますが、これらの石の上に屋敷の柱が建っておりました。おそらく発掘調査で検出した土層面に盛り土をした上に、検出した同じ位置に建物礎石を配して復元してあるのでしょう。
 
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 屋敷の手前にあるのは庭園跡です。戦国大名の当主の館の構造として、表門に近いエリアは「ハレ」の部分。政務を執り行う場所や接客の場があります。一方奥のエリアは「ケ」の部分であり、当主やその家族が住む生活の場となります。
 
 このような配置を含んだ館の構造は、京都の将軍御所が祖形と考えられており、室町期の守護大名や戦国期の戦国大名は将軍の館プランを取り入れて、将軍や幕府の権威を背景に自らの地域支配を強化していたと考えられています。
 
 次回は館の南東側の山を少し登ったところにある湯殿跡庭園を訪れます。
 

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 山形行き報告Part4!
 
 一乗谷朝倉氏遺跡の町屋エリアから、朝倉氏の館跡へと歩みを進めます。
 
 そも朝倉氏は、室町時代に越前国守護職の斯波氏の守護代として、当国に勢力を持っていました。かの応仁の乱においても、斯波氏のもとで軍の主力として働きを見せています。
 
 応仁の乱後の都が荒廃する中で、都文化の地方伝播が活発になりますが、ここ一乗谷においても朝倉氏は都の文化を積極的に取り入れたと言われ、ここに日本有数の戦国城下町の繁栄をみるに至ります。
 
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 ここは武家屋敷であったのでしょうか。侍烏帽子を被った二人が将棋に興じているところを復元してあります。
 
 畳が敷いてありますね。グレードの高い屋敷なのでしょうか。
 
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 ここは、朝倉氏の館跡です。遊歩道の向こうに堀があり、その向こうは館を防御する土塁が築かれてあります。その向こう側に朝倉氏の屋敷が建っていたのです。
 
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 館を防御する水堀と土塁の様子です。館跡の全体の形状は四角形をしており、画像右手の土塁が高くなっているところが角の部分にあたります。この高まりは櫓台であったかもしれませんね。
 
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 館の門です。この門は後世の建築であり当時のものではありません。
 この館は朝倉氏の最後の当主である朝倉義景の館であるとされ、織田信長に擁立される直前の足利義昭はここにかくまわれていたといいます。
 
 次回はこの内部を散策していきます。

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 山形行き報告の3回目。途中に立ち寄った福井市の一乗谷です。
 戦国城下町が復元されてある史跡公園で、町屋エリアを散策しております。
 
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 町屋エリアの建物復元の内部に入って見ました。大きな甕が置いてあります。染物屋を復元してあるようです。
今でも藍染をされているところに窺うと、染料を貯蔵してある大甕が地中に埋設してあるのを見ますが、まさにその状況が復元されてあります。
 
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 戦国期の寺院跡である滋賀県多賀町の敏満寺遺跡(名神高速道路多賀SA一帯)などでは、このような大甕の埋設遺構が検出されており、戦国時代の町屋ではよくある風景であったのでしょう。遺跡では、これらの大甕の破片とともに、大甕がしつらえてあった大きい穴が隣り合わせでいくつも検出されるようなことになります。
 
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 染物屋さんの外観です。
 
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 何やら商売をしているところを復元してあるようですねぇ。何屋さんかわ忘れてしまいました(汗)。
 次回あたりは、町屋エリアをもう少し散策した後、朝倉氏の館跡へ散策した模様をお伝えします。

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 右馬助の勝手気ままな歴史紀行ブログでございます。
 
 ブログの標題にもありますように、わたくし旅をするときはもっぱら”地道”派です。高速道路も走っていて楽しいですが、高架や「土手」の上を走る分、やはり訪れる地域とのある種「隔絶感」は否めませんね。やはり国道、しかもいわゆる3ケタ国道を走る方がその地域に深くもぐることができるように思われます。
 
 そんな趣旨がありまして、しかも司馬遼太郎さんの『街道をゆく』にもあやかろうという訳です(笑)。
 
 そんなこんなで山形行きの2回目報告。一乗谷の戦国城下町を訪れています。
 
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 前回も紹介した、武家屋敷の門と築地塀です。向こう側は屋敷内で、発掘調査によって検出できた建物跡が、地表面表示されてあります。
 
 画像では、2段程度の石積みの上に板葺の屋根をもつ塀が復元されてあります。
 
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 これは、町屋内にある井戸です。四角形の石組み井戸と思われます。
 
 画像では井桁が設置されてあります。 よく中世の遺跡でも井戸跡は発見されますが、遺跡ではこの石組み部分から下が検出されるわけですね。
 
 すべてとはいいませんが、ほとんどは上の画像のように井桁のような構造物が設置されているものと思われます。
 
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 これは厠(かわや)です。いわゆるトイレですが、建物を除去すると、下の構造は井戸とそれほど変わらないのでは...
 
イメージ 4
 
 町屋エリアの建物復元です。戦国時代はまだ掘立柱建物も多かった時代ですが、画像の建物は礎石建の建物です。向こう側の建物との間には、石組みの小さい溝がありますが、このような溝が屋敷区画を隔てる溝として集落遺跡で検出されるのです。
 
 次回も一乗谷の城下町を巡っていきます。

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