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思い出の人々(二) 林田芳徳
一九四九年の夏、私は、日本共産党中央の主催する学校に参加しました。
東京代々木八幡にあった朝鮮総連所有の建物を借用した校舎でしたが、共産党中央委員候補の「ボクオンテツ」さんが管理されていました。
校舎の周りには畑があり、赤と緑のとうがらしが沢山植えられており、生徒の中に生で旨そうにかぶりつく者も居りました。
昼は、二人組でパンフ、書籍販売をやり、夜は党幹部の講義を聞くという日課でした。
私の連れは、東京出身の朝鮮人の青年で地理にも詳しく、効果ある販売先もよく知っており、連日売り上げをあげていました。
ところが、ある日電車の中で売ろうと言うことになり、私たちは、上野に向かったのです。
駅には東北行きのお客さんが長い列をつくっており、これ幸いとばかりパンフ片手に大声で訴え紹介したのです。
ところが聞きつけた鉄道公安官が二人来て両腕を抱えられ公安室に連れ込まれたのです。
朝鮮の仲間はトイレに行っていた合間のことで、私は一人で不当逮捕だと抗議したのです。
公安官は、無許可の販売で営業法違犯だという、私は商売ではない政治活動だと主張し、即時釈放、駅長との面会を求めて抗議しました。
そのうち仲間が捜し回ったあげく、公安室にいることを知り、駆けつけてくれたのでした。二人は共同して厳重に抗議したためついに拘束はとかれ釈放されました。
朝鮮人青年の名前はすっかり忘れましたが青春時代の得がたい思い出の一つとなりました。
ここでひとつ説明しておかなければなりませんが、戦後間もない日本共産党は、コミンテルンの影響が残っており、外国人でも党籍を持つことができたのです。したがって、党中央にも朝鮮人の役員がおり、地方には朝鮮人の党員が存在したのです。
その後、党規約が改正され、外国人の入党は禁止され、党籍を持つことはできなくなり、日本国籍者だけで構成されることになったのです。
日本共産党は、一九六二年(昭和三七)年の第八回党大会を経て自主独立の路線を確立することによって、不死鳥のように蘇り、新たな前進を開始したのです。
こうしたなかで日朝親善協会が設立され、新たな国際交流と友好親善運動が展開されるようになりました。
設立当初から丸山嘉兵衛さんと奥さんの二人三脚による献身的な取り組みが始まり、学者、文化人はじめ、県民各層の中に会員と組織が広がりました。
この時期、「チンリュウウン」さんが、朝鮮総連の県本部委員長で親しい交際を交わすことになりました。
公けの集会にはお互い積極的に参加しあい、其の都度、社会、政治談議を交わしたものでした。
潮江天神町にあった焼肉店、国際亭で会食などして交流したのです。
また、チンさんは、住まいが北のほうで私は南だったので出勤時に追手門の内側でよく顔をあわす機会があり、ちょっとした立ち話でいろんな情報交換をしたものでした。
チンさんの話で印象深いのは「日本の方は我々のことを鮮人というが、これは全く朝鮮民族を蔑視したさげすみの言葉だ、日本帝国主義の植民地政策の名残で許せない。日本の皆さんはポンジン(日本の下をとって本人)と呼ばれて納得するのか」というのです。
支配者は支配される者の苦しみや痛みが分らない、その支配されている国民自身が支配階級の考えに従わされて、抑圧されている民族そのものを軽蔑する。
許されないことだが日本と朝鮮との間には、日韓併合以来支配したものと、されたものという筆舌に尽くし難い屈辱の歴史があることを知らなければならないと痛感します。
現在、日本と韓国の間は国交が成立していますが、北朝鮮との間は、ピョンヤン宣言による国交正常化の努力が始まったばかりです。
日本の為政者は、東北アジアひいては世界の平和につながる重要な国際関係を、過去の歴史の冷厳な事実にもとづいて平和憲法を持つ国にふさわしい対応で成功させるよう切に望むものです。 (完)
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