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土佐のアリラン峠
アリラン峠は高知では山好きの登山者なら知っている。
高知県にあるアリラン峠は三嶺(さんれい・みうね)の西の鞍部、矢筈峠の事です。
今日では地図にまで記載されているアリラン峠ですが日本にアリラン峠があることと、それがまた強制連行の歴史から戦前の命名と思われるのかもしれないのですが、実は戦後に名付けられた経過が注目されます。
何故なら、戦後賠償という考え方にもふれる戦後も又、在日朝鮮人にとって苦難の出来事が継続をしていたからです。
アリラン峠の向こう側はもう徳島県で、高知県物部村最北の境界、物部村は間もなく強引な平成の大合併で消えていく村です。共産党がこの4月、村会議員選挙で25%近い得票を得たのも合併への憤りが強かったからです
この村にあるお神楽は歴史的に百済系ともいわれている貴重なもので、使われていた仮面は朝鮮のものに良く似ています。
そのときから1000年の時を経て、朝鮮人が足跡を記したのはどのような神の引き合わせでしょうか。
望郷、見果てぬ夢、事をなす前の障壁と、「アリラン」に込められた意味は「恨」として異境の地を今も彷徨い歩いているのは次のようないわれからです。
日本の敗戦後、光復した祖国へと続々帰国を急ぐ朝鮮人がいる中で、韓国の混乱等で生活の見込みがたたない事など、何らかの理由で祖国へ帰りそびれた朝鮮人達が多くは都会に集まりましたが、四国の山々で山林伐採事業や砕石、道路改良事業に従事して日々の糧を得る朝鮮人もいました。
後に林業に導入された伐採用チエンソー使用で指が労災にあたる白蝋病になった朝鮮人も四国の山にいたのです。
そのため、多くの朝鮮人を診ていた高知市の四国勤労クリニックには記念の名前が入った朝鮮人労働者寄贈の大時計が今でも時を刻んでいます。
ここ、物部村において戦後間もない頃に矢筈峠の改良工事に携わっていた朝鮮人達が峠下の飯場できつい労働の後に慰安の為、酒を酌み交わし、夜な夜な朝鮮民謡「アリラン」を歌っていたことから段々に地元民が矢筈峠を「アリラン峠」と呼ぶようになり、やがて登山者にも伝わって地図やガイドブックにも掲載されたものが現在の「アリラン峠」命名のいきさつと思われます。
1985年頃の高知の民主的な文芸同人誌「大平洋文学」にもアリラン峠の記載がみられました。
2005年6月に共産党を除名された作家の萩原遼氏はこの物部村出身、高知市の城北中から小津高校中退、外語大を出て朝鮮語が堪能なことから70年代に赤旗平壌特派員になりましたが、その後は日朝友好の運動からそれて、2002年の日朝両国政府が合意にいたった日朝共同平壌宣言を否定する行動にいたり、共産党の考えばかりか日朝善隣友好の運動と相いれなくなったものです。
(この項、下司孝之)
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