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差別と寛容
未だに、日本は多神教だから寛容、欧米は一神教だから不寛容、などという安易な文化論的比較が、一部で根強く残っているようだ。研究者の意見が社会でストレートに受け入れられなければならない、などというのは幻想であろうけれども、歴史を研究する者としては、こうした安易な意見を聞かされるのは苦痛以外の何物でもない。実際、この手の意見は一神教への差別(本人は差別であることすら自覚していないことが多い)や、安易な日本ナショナリズムを強化する機能があるので、慎重すぎるに越したことはない。
そもそも欧米や日本の歴史を見る限り、教義が多くの一般庶民にも正確に理解された上で信じられた時代というのは決して長くなく、一神教と多神教が歴史上曖昧になることもしばしばあったことは、これまでこのブログでも書いてきた。「多神教は寛容だから、皆が多神教であるべきだ」などと言うことは、それ自体多神教の押し付けであるから、多神教であっても不寛容になる。そこまで言わなくとも、一神教と不寛容を直結させることは、現在平和的に一神教を信仰している多くの信者を犯罪者予備軍扱いするようなもので失礼であり、世界的に見て多数派である一神教徒に対して実効的な影響を与えるとは思えないのみならず、特に日本では少数派への差別でしかない。宗教の教義の比較研究は重要かもしれないが、宗教の教義で社会の比較を行うのは、明らかに暴論である。
なお、一神教批判とユダヤ陰謀論が結びついて現れる場合もある。ユダヤ人の定義は中世と近代で異なっており、大まかに宗教基準から血統基準への転換が見られるし、また民衆レベルでは異教徒との共存の時代も長い。ユダヤ教からの改宗者も多いのである。この事実を無視して、「ユダヤ人は古代から差別され続けた」と言うのは、かえってユダヤ人差別を「宿命」と見なしかねない。差別の原因さがしは、差別の正当化と裏腹の関係にあり、それが社会科学の怖さでもある。また、そのようなことが通るなら、古代倭国の朝鮮出兵、秀吉の朝鮮出兵、近代の日韓併合を理由に「日本は一貫して朝鮮への侵略者である」と言うのとほぼ同様であるが、それで日本の「民族性」を語られて良いのか?ユダヤ陰謀論についても、世界の指導的人物の全てがユダヤ人であるわけではなく、またユダヤ人の中にも貧乏人もいれば金持ちもいる。この当然の常識を無視して、例えばソロスのような特殊事例でユダヤ人全体を語るのは問題がある。そのソロスにしても、グローバリゼーション自体が彼個人の創作物であるわけではない。グローバリゼーションは資本主義の流れの中で説明しうるのであり、彼はそれにうまく乗って影響力を行使しているにすぎない。彼個人のユダヤ的信条がどうあれ(彼個人の言動を知るには役立つかもしれないが)、それで彼をユダヤ人代表のように語るのは問題である。無論、イスラエルの問題性は問題性で重要な論点だが、それはアウシュヴィッツとは切り離して論じなければならないし、そもそもパレスティナ問題はイギリス帝国主義の三枚舌外交に起源があるのは言うまでもない。結局ユダヤ陰謀論は、強引な関連付けによってユダヤ人をスケープゴートにする意味で、ユダヤ人迫害と直結する。
要するに、一神教だからとか多神教だからという要素では、社会全体を語るにはあまりにも役不足なのであり、むしろ社会背景がいかに宗教史に反映されているかが重要なのである。そして寛容・不寛容は教義よりも独善性に強く関わる(原理主義というのはただ原理に則った生活を営むということで、個人レベルでも成り立つようであるから、テロや教義の押し付けのような独善とは区別されるようだ)。
専門家以外にも分かりやすく語ることは重要なことだと思うが、それにはそれなりの準備が必要であり(いい加減な意見なら、思いつきでいくらでも言える)、決して安易な意見をばらまけば良いわけではない。自分が分からないことでも、知らなければまずいことなど、世の中にいくらでもあるし、逆に性急に判断を下さずにじっくり考えるべき問題も多い。差別はデリケートな問題なのであり、安易な意見は差別の助長にしかつながらない。差別を一般的に論じても、しょせん差別は無くならないという結論にしかならず、結局「何をやっても無駄」などという、それ自体差別を野放しにする無責任な行為につながるのが関の山である。現実には「現実」の全体像など分からないにもかかわらず(自分の身の回りの現実のみが現実なのではない)、自分は現実が分かっていると思い込む人が、こうした実際には「現実的」でない「現実論」に陥りがちである。なお、これまでの歴史で戦争や差別が数多く起こってきたことを考えれば、「世間一般の基準」が正しいという保証もどこにもない。むしろ差別の具体的なケースを見ることによって、いかなる状況で差別が悪化するかを見、一つ一つの要因への対策によって、差別に歯止めをかけるという、多様で地道な取り組みの必要が分かるのであり、一般論で分かったつもりになる態度よりも、よほど傲慢でない。特に差別というものが、日常の些細な事件において顕在化することが多いこと、またそれゆえに当事者がそれを重大な差別問題であると気づきにくいことも、こうした研究の重要性を裏付ける。
かつてある在日朝鮮人から言われて考え込んだ言葉がある。「日本人は民族問題に鈍感であるため、在日朝鮮人は日常的に日本人から傷つけられている。それら一つ一つは瑣末なことであるため、いちいち反論はしないが、それがつもりつもると、ある些細なきっかけで爆発することになる。そうすると、「在日朝鮮人は怒りっぽい」と言われる」。差別された者が精神的に追い詰められ、それが原因でまた差別される(『嫌韓流』などが典型)という悪循環は、おそらくこのケースに限ったことではないだろう。またこのことは、表面的な性格の善し悪しだけで人を判断することの危険性をも物語っており、その点でなぜユダヤ人が一神教を発明せざるを得なかったかという、彼らの置かれた状況を考慮せずに、ユダヤ人は一神教で不寛容だから差別されて当然などという意見を言うのは論外であろう。人は怒らざるを得ない状況に追い込まれることもあるし、怒らなければいけない状況というものもある。開放的でなければならない状況もあるが、まとまらざるをえない状況もあるのである。
したがって、寛容か不寛容かは教義では語れず、社会状況から語らねばならない。そして寛容は、基本的に自己の立場を正しいとした上で(これは現実には否定はしえない)、他者の意見をも認めるという立場であるが、その際に納得するかどうかはともかく、相手の意見を内在的に知ろうと努力することが重要である。ただ相手を偏見の目で見るだけで、ただ並存しているだけでは、寛容はすぐに破綻するであろう。無論、相互理解は限界もあり、またそれで寛容が維持されるかどうか保証はないが、歩み寄れる部分、対話のきっかけになる部分を知っておくこと自体は大事である。寛容はそうした相互理解を伴ってのみ、意義があるのであり、その点がただの日本ナショナリズムとの違いとなる。
そして、グローバリゼーションが進展し、それに対して生活圏を守ろうとする第三の道路線に注目が集まる中、こうした寛容の在り方を具体的に考えることが重要であろう。特に第三の道自体、非常に曖昧な路線で、方策も主体(地域、個人、国家、NGO、国際組織等)も多様であるから、何が有効で何が無効なのか、その見極めを慎重にしていくことが、今後は重要になろう。NGOにしても実態は玉石混交であるし、またナチス以前のドイツで、それなりにNGO的な組織が盛んであったように思えることも、NGO賛美では不足であることを示していよう。下手に本質論や「現実論」で選択肢を狭めるよりも、多様な存在(限定はあるが)を緩やかにつないでいく方策の方が、生産的である。そしてその見極めの基準となるものが、時代像であり、グローバリゼーションを過去の時代と比べてその特色や動きを明確化するという作業も、歴史学の課題であろう。そういうわけで、私が補完性原理の立場から、グローバリゼーションについていくつか文章を書いていることは、このブログを読んでもらえればわかる。
2008年7月6日(日)
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本人補足:現代では、特定個人に小国以上の富が集まり、それがグローバルな投機市場を通じて、小国の運命を左右する、という状況ができており、ソロス個人の思想信条以上にこうしたあり方こそが問題である。だからこそ、トービン税のような対策も提起される。ソロスを弁護するつもりはないが、ソロス個人を批判することは、こうした本質的な問題から目をそらしてしまう点で問題である。
2008/7/7(月) 午後 10:43 [ a99*90*d ]
本人補足:寛容といっても、怒るべきときには怒ることは必要である。寛容とうやむや化とを混同してはならない。
2008/7/7(月) 午後 10:49 [ a99*90*d ]
本人補足:寛容というと、どうしても抽象的に感じてしまうので、通常私は第三の道に関しては、補完性原理とか、多様な主体の意義と限界を見極めつつ、それらを個別問題ごとに組み合わせるとか、そういう言い方をしている。
2008/7/10(木) 午後 4:22 [ a99*90*d ]
本人補足:私は基本的に無神論者なので、私の宗教研究も基本的に世俗の視点から行われることになる。宗教も一つの社会思想である以上、当然学術的な批判にさらされてしかるべきであり、きちんとした教義の比較研究ならば(すなわちそれぞれの意義と限界を踏まえた上ならば)、むしろ相互理解のために不可欠ですらある。しかし、宗教が基本的には現世を超越したものに関する理解を含むことから考えて、結局のところ最終的にはその是非を実証しがたいこと、したがって安易な宗教批判は、ただの神学論争につながるだけに終わりかねないことは、銘記しておいた方が良い。また、宗教が個人の生き方の核心に関連することも、安易な批判の危険性を物語る。
2008/7/24(木) 午後 6:48 [ a99*90*d ]
本人補足:また、宗教の教義で社会の比較を行うことは、宗教の社会的な意義を過大評価しすぎているという意味で、原理主義者の発想の裏返しにすぎない。実際には宗教が社会全体を覆い尽くすことなどほとんどないし、宗教戦争にしても、宗教(イデオロギー)よりは政治的要因の方が本質的である。教義分析に基づくヴェーバーのプロ倫にしても、「プロテスタンティズムが近代資本主義をつくった」のではなく、「近代資本主義とプロテスタンティズムの倫理の選択的親和関係」を説いたものとしてしか、現在は認められていない。ましてや、一神教か多神教かなどという、粗雑過ぎる規定で社会が語れるわけがない。
2008/7/24(木) 午後 6:57 [ a99*90*d ]
本人補足:靖国神社は遺族の合意を得ないまま、多数の祭神を祀っているが、一度祀るとそれらの魂は融合して、分祀できなくなるらしい。これは一神教なのか、多神教なのか。
2008/7/26(土) 午前 9:04 [ a99*90*d ]
本人補足:私は寛容という、どちらかと言えば静態的な言葉よりも、衝突と妥協による公共性の創出、という動態的な言葉の方に、魅力を感じる。
2008/7/26(土) 午前 9:06 [ a99*90*d ]
本人補足:現在、地域の全住民を強制動員することは難しく、基本的には町おこしも有志によって行われ、それゆえに地域もNGO化している。また、地方分権が進めば、地方自体も国家に類似する機能を持つことになるため、一種の強制機関化する側面を持つ。したがって、役割分担が重要になるのである。
2008/7/26(土) 午前 9:10 [ a99*90*d ]
本人補足:寛容が基本的に自己の立場を正しいとした上でのことであるのは否定できないが、それはそうした自身の偏りを自覚するために強調しているのであり、開き直るための強調ではない。開き直ったとき、寛容は容易に偏見に転化する。
2008/7/26(土) 午前 9:13 [ a99*90*d ]
本人補足:宗教的寛容は、少なくとも原理主義者にとっては、自身の信仰への侵害行為である。
2008/7/26(土) 午前 9:14 [ a99*90*d ]
本人補足:本来複雑な社会背景から考えねばならない事柄を、特定の集団の責任に帰して、「分かりやすく」自己の精神的安定を図る(当然実際の問題は解決されず放置される)ことを、スケープゴートと言う。研究者もこの弊から免れないことに注意。
2008/8/4(月) 午後 0:30 [ a99*90*d ]
本人補足:創作活動への干渉は、最小限に控えた方が良いが、しばしば歴史に関わる小説・漫画・ドラマ・バラエティ等で事実に反することが平気で垂れ流されているのは、研究者としては憂慮すべき事態である。そうしたメディアを通じて知識を得た人間が、それをもとにして現実社会についてのイメージを持ってしまうためである。現実と空想の産物の区別がつかないのは、オタクに限ったことではない。むしろオタクの方が、両者の区別をつけている場合も多い。
2008/8/11(月) 午後 1:42 [ a99*90*d ]
本人補足:たとえばマルクスのような個人の思想を分析する際に、そのユダヤ人としての属性とのかかわりを問題にするのは、思想分析の方法として正当であることを、私は全く否定したことがない。ここで問題にしているのはその先なのである。以前にイデオロギー暴露とイデオロギー批判の差異を論じたが、マルクスの思想を深く理解する際にそのユダヤ性を問題にし、それで新たな側面が見えるのであれば、それはイデオロギー批判としての正当な評価である。しかし、マルクスのユダヤ性を問題にする論者の中には、「だからマルクス主義者は伝統や民族を重んじない、社会を乱す人間なのだ」的に、レッテルを貼って貶めることを目的とする人間がいる。これがイデオロギー暴露というもので、マルクス主義における伝統や民族に関する議論を正当に評価しない点で、非学問的な議論である。これをやってしまうと、必ず人間は何らかの立場からものを言っているのだから、お互いにレッテルの張り合いになって終わるのである。
2008/9/27(土) 午後 7:08 [ a99*90*d ]
本人補足:また、マルクス個人のユダヤ性を強調する場合、それがなぜここまで普及したかという側面が全く抜け落ちる。その結果、「ユダヤ人が世界を支配している」的な陰謀論=妄想に陥りがちである。しかし社会科学の基礎を踏まえれば、ある思想が広まるにはそれなりの社会背景がある、つまり生活世界の側にその思想を主体的に受け入れる基盤があるはずである(当然一定の「読み換え」を含みながら)。実際に、マルクス主義の普及は、植民地支配や経済的搾取などの社会背景を考えなければ理解できない。陰謀論ではそうしたことを考えないから、世界の多くの人々が、主体性もなく、簡単にだまされることになってしまう。これは社会科学の初歩を踏まえないための、誤った社会観であると私は思っているので、上記のように厳しく批判しているのである。
2008/9/27(土) 午後 7:19 [ a99*90*d ]
本人補足:また、思想のみの分析で社会を語ると、結局民族論・文明論・道徳論に陥りがちである。民族論・文明論は、社会の実態を無視して民族と文明をすっぱり切り分けてしまう点で、「分かりやすい」がナショナリズムや「文明の衝突」論に陥りかねない。実際には文明も民族も境界が曖昧で、しかも内実は常に変化しているのだが、それはほとんど無視される(日本的経営を農耕民族論で説明していた人間は、現在日本的経営の崩壊をどう論じているのだろうか。やはり「アメリカが全部悪い」とか「ユダヤ人による日本解体の陰謀」というような排外主義で済ませているのだろうか)。道徳論にしても、結局堅苦しく図式的な抽象論を聞かされるだけであり、より実態に即した、多様な方策を見えにくくするだけである。
2008/9/27(土) 午後 7:30 [ a99*90*d ]
本人補足:なお、以前にも述べたように、私は自民党の金権体質を批判しているが、個々の自民党議員の政策の評価は、それとは切り離して行っている。無論、自民党議員は何らかの形で利権のおこぼれに与っていると私は見るので、基本的に彼らに投票しないが、評価すべき政策については評価する。
2008/9/27(土) 午後 7:33 [ a99*90*d ]
本人補足:日本のような「多神教」の国で一神教批判が行われる場合、大抵は「自分たち日本人の優位」が念頭に置かれていることに注意すべきである。その際、日本人も多くの争いをしてきたことは、都合良く無視される。またかつて一部にあった、「日本人は多神教だから、突き詰めて物事を考えず、政治面でも無責任になる」式の批判に反論できない。
2008/9/29(月) 午後 3:37 [ a99*90*d ]
本人補足:しばしばユダヤ人と国際主義との関連が指摘されるが、ユダヤ人に独自の「民族文化」が無いとは私には全く思えない(ヘブライ語、宗教的戒律など)し、またクーンのように、科学者共同体を問題にした研究者もいる。こうした点もしばしば都合よく看過されがちである。
2008/9/29(月) 午後 3:37 [ a99*90*d ]
本人補足:経済格差を背景に、ヒンドゥー至上主義がインドで過激化していることについては、2009年3月11日付け朝日新聞を参照。
2009/3/14(土) 午後 8:14 [ a99*90*d ]
イギリスの三枚舌外交をユダヤ側から見れば、バルフォア宣言でエルサレム市を含めたパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設がイギリスによって支援されると考えていた。
確かに文言では「ユダヤ民族居住地建設」となっているが、それではユダヤの悲願であるパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設は達成されない。
また、サイクス・ピコ協定ではパレスチナを国際管理すること、フサイン=マクマホン協定を結んだフサイン・イブン・アリーもエルサレム市の行政権を主張していることは、聖地エルサレムを含むパレスチナ地域での独立したユダヤ国家建設の障害になるものであった。 ただし、一番決定的なのは1939年の「マクドナルド白書」によるユダヤ人国家の否定(ユダヤ人移民の制限と、10年以内のアラブ人主導によるパレスチナ独立国の創設がうたわれていた)であり、イグルンやレヒなどの過激派が反英テロに走ることになり、ベングリオンら穏健派も、イギリスに頼ることをあきらめて自力で国家建設を目指すことになった
2016/12/17(土) 午前 6:43 [ 食品汚染がカネカ油症を生じた ]