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偏向について

 先ほどアマゾン社のレビューに対するコメントに対して、反論のコメントを書いたのですが、一応ここに再掲載しておく方が良いと思うので、重複しますが以下に掲載します。

 最近他人に対して安易に偏向というレッテルをはる人間が増えている。むろん、私もたとえば原発問題に関するメディアの報道などにいろいろ違和感を感じる場合が多いから、世の中に「偏向」が溢れていることは事実だと思うし、メディアリテラシーの教育も重要だとは思う。しかし、その場合に考えなければならないことは、では他人の「偏向」を批判する自分自身は本当に「偏向」していないと言えるのか、「公正中立な」立場とはありうるのか、あるとすればそれはどのような基準に基づくのか、といった点である。この点をきちんと考えずに、ただ他人の「偏向」を非難すれば自動的に自分が「公正中立」な立場に立てるかのように考えている人間が、どうも最近多いように感じるのだ。
 私自身の主張は、これまで実は何度も述べてきたのだが、以下の通りである。
・メディアリテラシーとは、メディアにけちをつけることではなく、メディアへの批判を手段として、自身がなるべく「公正中立」に判断できるよう、さまざまな論点に想像力を働かせることを指す。したがって、それは情報の流し手への批判よりも受け手の受け止め方の方に重点のあるものである。
・「公正中立」とはただの多様な観点の羅列を意味しない。いくら多様な観点を羅列しても、必ず見逃している論点は残るし、単に結論をぼかすだけの主張では無意味である。公正中立とはそれゆえ厳密な意味では存在しないが、あえてそれに近づこうとするならば、それらの観点を相互に吟味したうえで、それらの間の「軽重」を問い「意義づけ」をして、自分なりの観点を探る事を指すだろう。その際、自分がいかなるスタンス(価値観)によりそれらの軽重をつけたかを明示すること、いかなる「事実」に基づきその吟味を行ったか明示すること、できる限り「首尾一貫した論理」でそれらの見方を根拠づけることが、最低限求められることである。
・この場合スタンス(価値観)とは、「国民として誇りの持てる歴史」のような、何かを正当化することを目的とした「党派性」のことではなく、個別の論点に即して自分がいかなる理由でそれに賛成ないし反対するかを考え、相手が正しいと分かった場合には自分の意見を修正するという「当座の立場」のことを指す。
・事実についても、ある問題を考える際に決定的な要因とそうでない要因が一応見分けられる必要がある。また、その事実そのものがどれだけ確実に実証されているかも確認する必要がある。決定的な要因とそうでない要因、ほぼ確実に実証されている定説と根拠薄弱な説を、同列に並べること自体が「偏向」である。
・確実な情報と不確実な情報をいかにして見分けるかは、厳密にいえば難しい。但し、一応の目安を述べておけば、第一に「現場」の意見を最も重視すべきである。たとえば特定地域のことに関しては、その地域で日々生活する住民の主張を、他の地域の住民の主張以上に重視すべきである。また、特定の時代のことを知りたいのであれば、その当時の人々の残した「一次史料」をきちんと踏まえ、それに後世の分析以上の価値を置くべきである。むろん、自分に都合のよい特定の意見のみを重視するのではなく、できるだけ多くの資料に当たり、多くの証言の間の整合性をつけることが望ましい。
・できるだけ多くの一次史料に当たると言っても、現実にはなかなか時間的制約などがあり難しい。したがって、第二に重視すべきは「専門家」の主張である。専門家にもピンからキリまでいるが、専門家は私たち以上の時間をかけて資料を調べ、また学会での議論を通じて自己の主張を絶えず検討しているわけであるから、その意見を鵜呑みにする必要はないにせよ、最低限その定説は押えておく必要がある。また特定の論点において、どのような理由でどのように意見が分かれているのかを、きちんと押える必要がある(賛否両論の並列は、多様な意見を二分法の枠組みにおしこめている点で、実は中立とは言い難いことに注意)。こうした地道な研究史整理を押えずに、ただ自分の思い込みだけで他人をぼろくそに罵っても意味はない。また、「俺以外は皆バカ」という思い込みの強い人間でなければ、通常は学界の定説を微修正した範囲に議論はとどまる。近年「専門家よりも素人の判断の方があてになる」と勘違いしている人が多いが、単に批判して終わるのではなく、今後の対策を考えて行く上では、専門家の意見は傾聴に値する。実際、専門家の意見だから正しいということは誤りであるが、素人考えが正しいと実証されたわけでもない。
・論理的一貫性とは当然、史実のもつ多様性を安易に無視して、現実離れしすぎた一貫性を捏造することではない。むろん、意見をまとめる際には、ある程度の抽象化は必要であるのだが、一貫性ばかり重視すると、政治的な裁断で自分の思い込みに基づく像を創り上げかねない。ここで史実と論理のバランス(多様な史実の軽重をきちんと位置付け、統一的な歴史像を慎重に練り上げて行く作業)が求められるのである。
・このような事実や論理的一貫性の検証のためには、検証する側に最低限の「常識」が必要である。非現実的な想定や、恥知らずな前提から導き出される結論は、それ自体非現実的で恥知らずである。「北朝鮮に何人拉致されようが私の知ったことではない」とか「朝鮮に過去に日本がしたことを考えれば、わずかな拉致くらい大したことはない」とか「北朝鮮が拉致被害者をこれまで成長させてやったのだから、北朝鮮に彼らの生活費を補償すべきだ」などという立場の人に、拉致問題に関する真剣な議論を期待できないことを考えれば、私がここで述べていることの意味がわかるであろう。どうも最近、たとえば「過去に現在の常識を持ち込むな」というような言い方で、自分自身の非常識さを棚に上げた主張が目につくようになった。
・同様に、真実を冷静に探求するのではなく、最初から相手をやりこめることを目的として他人をぼろくそに罵るだけの主張も、最近増えている。私などは、左右を問わず多様な本を読み、安易な裁断より本の内容紹介によって論点を明示することを目指し、たとえ自分の意見と異なっても、上記のような最低限の手続きを踏んでいる場合には、それなりにその本を評価する。私のアマゾン社のレビュー記事の種類、内容、星の数を見れば、そのことはすぐに分かるはずである(もっとも、ひどすぎる本はレビューを書かずに放りだすが)。そのため、私はさまざまな他人の意見をそのまま鵜呑みにしていると勘違いされたことすらあるのだが、私自身は慎重に多様な意見を分析し、自分の中で軽重をつけながらそれを位置付けてきたつもりである。他方、本の内容を殆ど踏まえずに、自分の思い込みをレビューに書き連ねて批判したつもりになっている、政治的裁断のようなレビューが、特に近現代史に関して多いことにもあきれている。こうしたレビューは数がいくら多くても、「手続き上」尊重に値しないのであるから、私は遠慮なく批判し、きちんと本を読むように言う。
・民主主義を多数派の支配と勘違いしている人が多いことにも注意が必要で、本来それは修正可能性ということを中核として考えねばならないのだが、別記したのでここでは繰り返さない。また、私はかつて民主主義を素人支配と考えたが、近年では上記のような意味で、現場の意見という意味も含めた「専門家」の意義づけを考える必要があると思っている。したがって、自分に専門的な知識がないまま、本をきちんと読まずに専門家の意見(特に定説)を安易に否定するのは、相手に対して失礼であり、「自分の感覚中心に専門家の人生を否定している」点で私は誤りであると考える。これは「専門家風を吹かせて偉ぶっている」わけではない。素人だからという理由で何を言っても許されるわけではないということである。事実、私は反原発派であるが、理系の知識がないまま専門家の意見を批判するのは失礼かと思ったため、まずは現場の労働者の本から原発の実態を学び、また情報公開の不足など、自分で責任のもてる形での批判にとどめている(これらはレビューに書いた)。
 下手な「偏向」批判は、批判する側の人格がむしろ問われるのである。

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7Uq22J4K
初めまして。
いきなりですが、真剣に悩んでるんです。
主人と結婚して5年ほどになりますが、不倫願望が止まりません。
不倫経験は1度だけですが・・・こんな私っておかしいでしょうか?
tp://05TnJ0Pf.k.brak.me/05TnJ0Pf/

2011/11/28(月) 午前 8:07 [ 不倫願望が・・・ ]

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本人補足:言うまでもなく、学問とは明確な根拠づけにより「社会常識」を問い直すものである。とくにメディアリテラシーにおいては、「常識」という名の安易な思い込みこそが問題とされるのは明らかである。しかし言うまでもなく、「常識」の問い直しとは「常識の全否定」ではなく、「暗黙の常識的な判断」に基づきながら「特定の常識の根拠」を問うことを意味する。だからこそ「非常識な前提」や「恥知らずな前提」から出発してはならないと言っているのである。また、自分の思い込みに基づく考えを安易に「常識」として、それを前提に議論を進めることも同じ意味で問題であり、そうした自分の「常識」をこそ明確に基礎づける必要があるのである。あえてこれをここで書くのは、私自身はこれを自明のことだと思っていたのだが、どうも最近の学生はこうした根本的なことからきちんと教える必要があるようなので、あえてここで断わっておく次第である。

2011/12/2(金) 午前 0:34 [ a99*90*d ]

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本人補足:何度も述べてきたことだが、私は研究者は特定分野の専門家であり、他の分野に関しては素人だと思っている。私自身、専門外の本を多々読んでいる関係で、それを強く実感しているのである。他方、たとえば畳屋は畳の専門家であるし、ビーズ屋はビーズの専門家なのであるから、どのような仕事に就いている人であれ、なんらかの専門家ではあると思っている。だからこそ、私は地域委員会や裁判員制度を肯定するのである。ちなみに、私も以前は学生であったが、今は教員のはしくれとして学生と利害が異なっているし、今と昔で学生の状況も変化しているであろうから、学生が「学生生活の専門家」として自治会を組織すること自体を私は支持するのだが、最近はそれが機能していないようなので、さびしいことだと思っている。

2011/12/2(金) 午前 0:41 [ a99*90*d ]

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