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2011年11月23日(水)は、久方ぶりに講義の無い休日ということで、10時頃から相応院での行事に出かけた。おかげでこの日は、一日中地域について考える日となった。
既にそれ以前から、町を歩く企画をしていたらしく、相応院に着いたときには、続々と人が寺に集まって来ていた。茶筅塚の横を通って本堂に着くと、天井から大きな曼荼羅が掛っていた。まずは抹茶を飲んで一服した。茶菓子は不老園特製の茶筅形の黄緑色の菓子だった。
やがて後藤真一(敬称略)が「相応院お亀の方とその周辺」と題する講演を行った。聴衆は比較的高齢の方を中心に50人程であろうか。残念ながらレジュメが足りず、私はもらえなかった。相応院は尾張藩初代義直の生母に当たるお亀の方の菩提寺であり、この報告は彼女をめぐる縁戚関係を整理する報告であった。その内容をまとめるなら(以下は私のメモによる)、第一にお亀の方は石清水八幡宮関係者の志水宗清の娘であり、竹腰家の後家である。義直は父家康の画像に「源家正嫡武門棟梁」という讃を、母相応院の画像に「菅家苗裔」という讃を入れ(これらは松花堂での展示に出展した)、自身の出自の確かさを誇ったが、実際には志水氏は身分の低い出自であったらしい(「志水加賀守菅原宗清は元来洛陽石清水八幡宮の神職の修験者也」『柳営婦女伝系』)。第二に、お亀の方の姉は、市辺、中西、神原氏に嫁いでいるが、これらの家は淀川交通路沿いの勢力であった。また、志水宗清の妹は竹中重房の妻であり、彼もまた石清水八幡宮周辺の勢力であった。第三に、お亀の方の兄忠宗は、尾張藩に仕え、別格扱いを受けた。その娘婦宇は、亀の養女として成瀬氏正嫡の妻となり、婦宇の死後には竹腰氏の娘が後妻に入っている。第四に、尾張高岳院は家康と亀の子(義直兄)仙千代(慶長4年5歳で死亡)の菩提寺であり、相応院の葬儀もここで行われ、亀の前夫竹腰正時関連の寺もある。相応寺は寛永12年創建で、義直もここで供養された。正法寺は京石清水八幡宮付近にある志水氏菩提寺であり、元和7年創建である。この頃徳川家は後水尾天皇と揉めており、幕府は反抗的な京の寺への対策として、宗派別に宗教政策を進め、京とは別に本山を創ったり、紫衣の許可に介入したりしていた。第五に、山城国の伝承では、茶屋の美女お亀に因んだお亀谷村という地名があり、彼女の寺のある地名を五郎太というが、これは相応院お亀の方の子義直の幼名からとった地名であるという。
この講演の後、質疑応答では亀の出自についての質問があった。亀は石清水八幡宮の社家の出自であるが、社家とは神官から出入りの商人まで含まれる曖昧な語であること、亀の出自の低さは幕府側史料に堂々と出ている事実であること、いずれにせよ尾張家は御三家筆頭の家柄であり、後には貴族院議員になっていることが返答された。
次いで、相応院住職によって曼荼羅の説明がなされた。これは大きすぎて、松花堂では上部3分の2のみがガラス越しに展示されただけであり、全体を生で公開したのは今回が初めてであるという。これは浄土曼荼羅の内、当麻曼荼羅に当たり、観無量寿経によることから、観経曼荼羅とも言う。当麻寺の国宝の曼荼羅を同サイズで模写したもので、相応院の三回忌に義直が当時最高の絵の具で作らせたため、緑色が今も生きている。もともとの当麻曼荼羅は、763年母を慕って出家した藤原の姫が、阿弥陀と観音の化身である尼と共に蓮の茎を井戸で洗って刺繍したものであると言われる。曼荼羅は左・右・下をそれぞれじょぶんぎ11絵画、じょうぜんぎ13絵画、さんぜんぎ9絵画+縁起で囲まれている。じょぶんぎによれば、ビンバシャラ王が釈迦のいとこである悪友ダイバダッタに唆されて政治の革新を掲げる息子アジャセに幽閉され、イダイケ夫人が食物を隠してビンバシャラ王に会いに来る。しかしイダイケ夫人が釈迦とその弟子目レン、フルナと会っている所をアジャセが目撃し、イダイケ夫人も幽閉される。そこを訪れた釈迦がイダイケ夫人に乞われて西方浄土を見せる。他方、じょうぜんぎは浄土を感じる(観じる?)ための十三の方法を説明する。夕陽を見る、水の三態(静・荒・凍)を見る、宝地・宝珠・宝池・宝楼を感じる、蓮華座を感じる、仏像を創る、信心?、観音を感じる、せいし感、普感と続いて、最後に目の前に仏が迫るという。さんぜんぎでは、九品の往生が説かれる。往生が上品・中品・下品に分けられ、それぞれがまた上生・中生・下生に分けられる。たとえば、中品下生は世間的な善行により仏の来迎を受けること、下品上生は飲酒などをしたが、念仏を唱えて仏の来迎を受ける往生、下品下生は盗みより重い重罪を犯したが、念仏を唱えて往生したことを指すらしい。こうして曼荼羅本体の解釈が可能になる。曼荼羅上部には天女が飛び交い、中央には阿弥陀と観音せいしが36菩薩と共に立っている。阿弥陀は一人でも救われない人間がいるならば、自分は阿弥陀仏にならないと誓ったとされ、それが阿弥陀仏48願の内の18願=本願である。これが「他力本願」「十八番」の語源である。曼荼羅の下部には極楽の金の池が描かれ、白い亡者が見られる。上品上生の人々は、阿弥陀の付近に場を占める一方、下品下生の人々は池の蓮の蕾の中に閉じ込められている。池のほとりの台では、菩薩と共に天上界の童子と人間界の童子が集まり、生まれに関係なく接している。以上がこの曼荼羅の意味であるという。
その後、今後の予定が話され(以上の企画は地域委員会とは無関係だが、地域委員会予算から助成金が出ているという)、昼食のための休憩時間となった。
覚王山商店街で地域調査の原稿チェックの交渉を済ませ、昼食をとろうと思ったが、食堂に人が並んでいたため、あきらめて食糧を買って相応寺に戻った。
13時30分からは、地域委員会の調査報告会が開かれた。相応寺本堂入口では女性が「田代学区歴史的建造物活用検討報告書概要版」(カラーA4版4枚両面刷り)、式次第、佐藤レジュメ(カラーA4版2枚両面刷り)、まちづくりトークレジュメ(カラーA3版4枚片面刷り)、身近な歴史的建造物の「登録」「認定」制度のチラシ、鉛筆とアンケート用紙を配布していた。なぜか参加した地域委員は一人だけであり、報告は大学教員とその弟子たちによって行われた。聴衆は大学生の多さゆえに「若返った」が、人数は数十人程であろうか。司会は椙山大学の橋本雅好が担当した。まず名古屋市立大学の鈴木賢一が「田代学区歴史的建造物活用調査報告会」と題する報告を行った。平成22年度田代学区地域委員会モデル事業のテーマは「歴史的建造物を活かしたまちづくり」であり、その調査委員会は住民アンケートの実施、歴史的建造物の概要・現況調査、所有者の意向調査、課題の整理、今後の取組や体制の展望の提起に取り組んだ。住民アンケートでは、11000世帯の内536の回答を得た。残ってほしい歴史的建造物は1位東山給水塔、2位昭和塾堂、使ってみたい歴史的建造物は1位揚輝荘、2位昭和塾堂、3位給水塔、4位日泰寺、5位末森城址、取り組んでほしいことは調査、案内板設置、イベント、維持管理、案内ガイド、PR、景観の向上、公開であったという。その上で、田代学区の概要が述べられ(道路、市街地化、石川栄燿によるイギリスをモデルとした放射状の区画整理とカバ像、諸団体(商店街振興組合、千種郷土史研究会、城山・覚王山に親しむ会、揚輝荘の会、み・ちくさ案内人、ちくさ文化の里づくり、山崎川に親しむ会))、今回の調査対象として景観に関わりが深い建物、寺社などを選び、給水塔、昭和塾堂、7つの寺社、2つの屋敷が選ばれ、揚輝荘はそれらの調査の参考にとどめたという。こうして、昭和塾堂・養心殿、東山給水塔、相応寺、野口邸、西原邸などを例にその概要、現在の利用状況、所有者の意向などが述べられた後、課題として建造物間に住民の認知度の偏りがあること、触れる機会の少なさ、劣化修復の資金の欠如などのサポート体制の不備が挙げられ、対策として広報と学習での活用、散策ルート設定とマップ作製・ガイド雇用、既存制度(身近な歴史的建造物の登録・認定制度など)の活用と新たな仕組みづくりが提言された。
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