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最近の日本の右傾化について
最近の日本の右傾化については、感覚的なものであって思想的なものではないから違うとか、かつての軍国主義とは違うとかいう理由で否定する人が多いようだが、それは結局定義の問題であり、思想的であろうがなかろうが、周囲の影響を受けて安易に「愛国」に走ればそれは右傾化であろうし、それが政治的には軍国主義やファシズムにつながってもおかしくはない。むしろ現実にナチズムは民主主義的手段によって独裁に走ったし、その際に国民は彼のイデオロギーを真に受けたというよりは、その断片的なスローガンや他人への憎悪をあおる形でアピールされた「実行力」に惹かれたことが、明らかである。どのみち右傾化が危険なことは、それが対外的な摩擦を強め、戦争=殺し合いのリスクを高めることからも明らかである。そしてそれが安易なほど、修正がきかないものである。
現在の日本でも、そうした右傾化の危険は言うまでもない。それは歴史認識問題として表れている。もともと歴史学では理論ではなく実証が重視されるために、すぱっと裁断できるようなものではなく、具体的な史料の突き合わせに基づく具体的な史実の検証を地道に行うものであるが、当然そのためには専門的な知識が重視される。つまり、どのような史料があり、それらを突き合わせたときそれぞれがどの程度正しいのか、そしてその結果どのような歴史像が描けるか、という知識が必要なのだが、逆に言えば、それらがいいかげんでも、歴史小説のように「歴史像」は描けるのであり、つまりは世間で普及する「歴史」は玉石混淆なのである。もっとも、それはいくら気を付けようと、歴史研究者でもなかなかすべての史料を網羅することは難しいから、程度の問題と言われればそうだ。だからこそ、歴史研究者は史料の出所や学界の動向に敏感で、他人の研究なども参考にしながら、学界全体という単位で歴史像を形成し、その都度修正も加えているのであり、この「程度の差」はなかなか大きいのだが、この辺りを理解せずに、一方的に「学者が閉鎖的に自分たちの問題関心に固執している」と勘違いしている人も多いようだ。
現在の右傾化の中でしばしばみられる傾向としては、他人の史料についてはけちつけに近い形で罵倒するだけで「史料批判」をしたと思い込む一方、自分の史料的根拠についてはいいかげんであること、その結果上記の学界動向を無視し、学界自体をまとめて「自虐的」だとレッテルばりし、他人を人格攻撃する傾向である。たとえば、「中国による洗脳」などを出所の怪しい史料から「実証」したと思い込み、実際には研究者が日本側の史料からも実証した史実であっても、安易にそれを罵倒する。その際の挙げる事例もマニアックなものが多く、どこまで事実か史料批判を通じてきちんと検証していないものが多い。たとえば、旧日本軍による情報操作はその機密文書からも、一次史料と公式戦記のズレからも、大本営発表のウソからも明らかになっているが(帝国国防方針などの史料からは、旧陸軍の侵略計画も分かる。もっとも、それを策定したところで、その時点では実行に移すかどうかは別問題だが)、そうした事実を軽視して、旧日本軍に不都合なことは全て他国の陰謀だと決めつける人が多い。以前にもあげたように、スターリンがやったという一次史料は無いにもかかわらず、また日本側がやったという一次史料が山のようにあるにもかかわらず、張作霖爆殺を一方的に中ソの陰謀に仕立て上げる本が、賞をとってしまう国である。そうした思い込みで他人を見るから、後は「あいつは金をもらってどこぞの手先になっている」などという人格攻撃が平気で行われる。ヘイトスピーチですら野放しな国であるから、その程度のことはいくらでも行われ、それを周囲が平気で黙認する。反論したところで相手側は思い込みでののしるだけなので(自分に不利になると論点をすり替えだして問題を拡げる)、議論になるはずもない。ことが個人情報なだけに、証明のしようもないまま人格攻撃だけがされる。そしてばかばかしいので議論を途中でやめれば、議論に負けたと勝手に思い込まれる。こうして不都合な事実は全て「誰かの陰謀の産物」に勝手に貶められるから、自分の好きな史料だけで勝手な「歴史像」を構築することができる。一方的な「史料」をうのみにした「歴史像」であっても、「どうせ客観的な歴史像はない」で終わり(だとすればその他の歴史像も許容しなければいけないはずだが、彼らはその矛盾には気づかない)。こうして作り上げた自閉的な「歴史像」を勝手に史実と思い込むため、「歴史学者はみな自虐的で誰かに操られている」、「諸外国はみな日本を誤解している」(誤解は常にあるものだが、日本の右翼の「歴史観」ほどには他国は日本を「誤解」していないと思う)、「マスメディアも偏向している」ことになる。そして被害妄想でますます他人に対する人格攻撃が激しくなるため、ばかばかしくなって相手側が反論しなくなると、これで自分の正しさが証明されたと思い込む。こうして、外国人への偏見があおられるため、彼らと付き合いづらい状況が作りだされるわけで、まさしく風評被害に基づく人権侵害である。もっとも、右傾化した人間は、自分に都合のよい意見を言う外国人には寛容であるという二重基準を使うが。
いずれにせよ、これでは他国に通じないのは言うまでもないだろう。日本国内でさんざん「朝日叩き」をしているが、歴史学研究会が主張するように、もともと「河野談話」は特定の証言に基づいているわけではないため、未だに対外的には安倍政権はそれを否定できないままである(つまり、百人斬りという一つの事件の否定をもって南京事件自体をまぼろし化しようとした文春と同様、一つの証言の否定により全体を否定しようとしている以上、それは情報操作に近いものである)。第一次世界大戦の戦勝国として、ドイツ皇帝の訴追には賛成しておきながら(結局訴追できなかったが)、自分が敗戦国になると、戦争責任を裁くのは事後法だなどと言っても、周囲は納得しないだろうし、実際に現在でも東京裁判は国際法上は有効なままである。南京事件についても防衛省関係の研究者でもその問題性は認めており、それを認めないのは櫻井よしこのような歴史の素人くらいである。写真の「捏造」が問題になったが、もともと写真を根拠にして南京事件の存在を言っていたわけではないし、全部の写真が否定されているわけでもない(なお、画像の史料批判は難しく、またそれを史料として重視してきたわけでもなかったため、これまでそれほど厳密に行われてこなかった。実際、足利尊氏像なども今では否定されているが、右翼はそうしたことは無視して、「他国の陰謀」のみをあげつらう。おかげで画像を使うことに慎重になる研究者も出て来て、研究の進展にとって由々しき事態になっている)。靖国問題についても、1978年にA級戦犯を合祀したことから、国際問題化したことが明らかであるのに、「この頃にマルクス主義がうまくいかなくなり、標的を変えた」などと陰謀論的に言って憚らない人間がいまだにいるし(無宗教の国立追悼施設であれば国際問題化しないことは、武道館での毎年8月15日の式典に対する諸外国の反応からも明らかである)、1982年の教科書問題についての朝日の「誤報」問題も、家永裁判などを見る限り完全な誤報とはいいがたいことは明らかである。在日外国人の参政権問題についても、「国籍をとらせればいい」などと言いながら、現実にはそうした人が多くなれば「何かの意図をもって彼らは日本人に紛れ込もうとしている」などと陰謀論に陥る人間も出て来ている(結局国籍によって人の心を縛ることはできないのだ)。結局こうした右翼側の問題行動は問題視されず、旧日本軍が自作自演で満州を軍事占領しようが、自衛隊が情報保全隊を通じて国民の税金を無駄遣いしながら違法に個人情報を収集しようが、原発の情報隠しがこれまで自民党政権下でもさんざん明らかになっていようが、おかまいなしに、他人の些末なミスだけを針小棒大に言い募ることが、最近の右傾化では顕著である。
しかしながら、彼らの意見が研究や教育において主流になることは、たぶんないだろう。現在の歴史学界の動向についていうと、戦前の日本の行動を合理的に説明しようとする傾向が強まっているが、それは「外部からの視点ではなく内部からの視点で物事を解釈する」文化人類学的な視点からの研究なのであり、当然「地域史を国家史ではなく地域の視点から見る」歴史像や、「朝鮮や中国の発展を、朝鮮人や中国人自身の視点から見る」研究とパラレルであり、要は補完性原理(これはあくまでも私の視点の問題であり、戦前の日本で補完性原理を実現しようとするものではないのだが、この辺りを右翼は聞く気が無い)を支持する私が主張してきた「現場の視点で物事を考える」ことと別に矛盾しない。当然、旧日本軍の行動の一定の合理性が分かったとしても、それが「他の視点からの合理性と矛盾しないかどうか」(侵略と敗戦に至ったのだから、当然矛盾するのだが)、「当時の中国人や朝鮮人の視点と突き合わせたとき、どう位置づけるべきか」(侵略と見なされても仕方がない)という視点から再検討された上で、歴史的に位置付けられることは当然である。植民地化の近代化作用についても(実はマルクスが既に言っており、それが早くから研究者の批判の対象ともされてきたが)、近代化が現地の民族自身の手によっては本当に不可能だったのかどうかとか、近代化自体が良いことと無条件に言ってよいのかといった視点と並んで、そもそも近代化の「恩恵」が一様にいきわたったのかどうか、植民地住民にとってどの程度恩恵になったのかという視点こそが重要であるのだが、そうした検証をしないまま、ただ植民地化の正当化のためだけに抽象的に言われる傾向がある。結局、現在の歴史学の主流は「愛国」ではなく、「現場の視点」であることを忘れてはならない。
以上から、現在巷ではにわか愛国者の右傾化傾向が顕著であるが、歴史像自体は国家史から離れ、国内の地域や集団の多様性の歴史や跨境史に向かう傾向が顕著である。他国が東京裁判を否定する動きをしているわけでもなく(日本に配慮してことさら取り上げないことや、無関心から気にしないはあるが)、内閣の私的言動はともかく、国家の公的政策としては未だ対外的に侵略を認めることしかできないのが現状であり、この状況で権力づくで研究・教育現場のみに圧力をかける方が問題であろう。いずれにせよ、必要なのはレッテルばりではなく、地道な史料批判に基づく研究なのであり、それを居丈高にののしるより、冷静な議論によって誤りがあれば直しつつ、一歩一歩進むことでしかない。安易な陰謀論と他人の蔑視より、他人と手を組めるところで手を組み、試行錯誤しながら、個人、地域、国家、国際社会などの相互の役割分担と協調をいかに実現するかを考えるべきなのだが、こう言ってもなかなか陰謀論者には通じないのが現状である。私自身はその都度の状況の中で試行錯誤しながら物事を考えてきたつもりであるし、相手に合わせて言い方を変えた部分もあるのだが、どうもそれも通じないばかりか私の立場の一貫性の方が疑われるようなので、こうして言うべきことを適度に言っていくだけにしようと思っている。
2014年12月29日(月)
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本人補足:最近は日本が植民地支配でいいこともしたなどという言説がよくとびかうが、そもそも植民地化の過程で自作自演を行って侵略をし、植民地支配の下でも明らかに現地の民との間に格差をつけてその成果の分配を行なったりすれば、恨まれても仕方がない。しかも、それを根拠にして従軍慰安婦問題など、他の具体的な問題まで正当化しようとするのは明らかに行き過ぎであり、それで当該民族を嘘つきなどと罵倒するのは民族差別といってよい。
2015/6/1(月) 午後 4:57 [ a99*90*d ]