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3.11以降、防災に関する意識が一応高まっているようなのだが、どうもそれが知識先行になっているのではないかと最近しばしば感じている。というのも、災害の際には他人にかまっていると逃げ遅れるから、さっさと逃げろということが、教育現場でも家庭でもあまりにも安易に強調されすぎていると思うのである。むろん、実際に災害に遭遇したときに、なかなか他人のことまで配慮できないのは分かるし、それを責めるつもりもないが、平時の防災という観点から考えたときに、むしろそうであるからこそ、事前に高齢者や障碍者をいかにして災害から守るかということは、もっと議論されていいことだと思うのである。さもなくば、災害の際には高齢者や障碍者は見捨てていけばよいと、現時点で言っているようなものであり、そもそも防災の意味自体が疑われてしまう。そもそもある程度災害の状況が予測できるのであれば、他人を助けるためにどれだけ余裕があるかもある程度推測できると思うのだが、そうしたことを考えない人も多いようだ。
こうした傾向は、災害について未だ実感をもって理解できていないことの表れでもあろうが、同時に近年の日本における露悪趣味の横行ともかかわっているように思う。どうも最近、おかしな陰謀論者が増えたせいか、偽善に対して過敏になりすぎて、少しでも自分と異なる意見には、安易に「きれいごとだ」「現実を知らない」などというレッテルがはられる傾向がある。実際には上記のように、彼らの言っていることは現実的なのではなく、ただの独善と思考停止に過ぎないと思うのだが、それを自覚できないまま、ただ人権を無視したことを言えばそれが現実的だと言う勘違いが広まっているように思う。
しかもこうしたことの反面として、他人はあてにならない、頼れるのは公的支援だけだという、安易な国家依存も身うけられる。実際には戦争中に国家が国民をだましたり見捨てたりした事例も多いのだが、それも現在の歴史認識問題に見られるように、うやむやにしたり他人のせいにしたりしてごまかして、安心する傾向がある。現実を踏まえ、多様な対策を考慮してこそ、初めて防災になるのだということを、改めて確認したい。
2015年1月7日水曜
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