全体表示

[ リスト ]

パリのテロについて

 2月11日付け朝日新聞によれば、『シャルリー・エブド』等に載った諷刺画をまとめた本が昨日出版されたのだそうだ。もっとも、同書では「同紙の諷刺画は明らかなヘイト表現。日本でも嫌中憎韓本などが出回っていて、事件が起きたフランスの状況に通じるものがある。どこまでが許される表現なのか議論する材料を提供したかった」と言う立場で、批判的な前書きを付し、ムハンマドの顔にはモザイクをかけたという。近所の小書店に見に行ったが、やはり本日にはまだ届いていないようだ。表題からすれば、イスラムに関するもの限定のようであるが、私としては以前にも書いたように、むしろ同紙の全体の論調の方が知りたかった。イスラム関係のみならず、極右に対していかなる諷刺をしているのか、諷刺画のみならず論説などはどうか、などだが、同書にそこまで書かれているのかどうかは定かではない。
 ところで、朝日新聞の記事には、それに対する賛否の意見が書かれている。まず、出版社側の主張と、知ることの権利に理解を示す学生の声がある。他方、やはり在日ムスリム組織は出版に抗議している。「イスラム教徒の中に憎しみが生まれてしまう」という意見だ。小売書店の対応も、「立場が違う本を同時に置く」ことを重視して店頭に置く書店、注文販売のみする書店、「お客様に何かあってはいけない」からそれすらしない書店と分かれているという。なお、森達也は悩んだすえに、どの絵を載せるか分からないし、モザイクも安易に使用すべきではないとして、論説の掲載を拒否したと言うが、これなどは安易な賛否とは一線を画する、しかし結論を先延ばしした立場であろう。同書を見た上での反応が気になる。
ところで、注意すべきは、「『イスラム国』は日本人を標的にすると言っている。関わりたくない」という意見の存在である。これは安倍政権の対応だけではなく、今回の件もイスラム国によるテロを誘発しないかという危惧である点で注意を要するが、基本的には問題自体を忌避する姿勢である。これは上記の注文販売すらしない書店の対応とも通じるところがあるが、私にはそうした自粛自体が気になる。というのも、個人的に関わりたくない気持ちはよく分かるものの、この立場では自分自身を超えて、出版自体に否定的であることになりはしないかと思うのである。
 私の立場は以前に別の箇所で述べた通りである。私自身はシャルリー・エブドの諷刺画は行き過ぎていると思う。しかし、それを一出版社がいろいろな諷刺画の一部として出版することには反対はしない。イスラムは今や世界第二位の信者数を誇る大宗教であり、それが諷刺の対象から除外されるのがいいことか否かは難しい(それなら『ダ・ヴィンチ・コード』も上映すべきではないだろう)。今回の件も、ムスリムを殺そうと言う主張ではなく、個人攻撃をするようなものでもない点で、ヘイトスピーチとは一線を画する。モスクや自宅、誰かのブログに個別にはりつけたわけでもなく、実際には日本のヘイトスピーチの方がはるかに問題である。しかも、ビンラーディンのテロやフランスの移民暴動は諷刺画とは無関係に起こっているし、今回のパリのテロの実行犯もそれ以前から無関係な犯罪を犯している。諷刺画のみを規制しても意味はなく、イスラムを取り巻く状況自体の改善が問題だ。それでもムスリムがこれだけ怒っているのであれば、規制ないし自粛すべきだというのであれば、諷刺画の是非、表現の自由の是非のみに論点を矮小化しないためにも、お互いに議論をすべきだ。今回の記事にも、「きちんと立場や動機が分かるように説明し、誠意を示すことが大事だ」という、多分にムスリムと思われる人物の発言が掲載されている。その点では、テロを恐れているのか、出版社がイスラム団体との面会を拒否していることは問題含みである。
ところで、以上の私の主張は、意外に思われるかもしれないが、もともと上記のような嫌中憎韓本の横行が念頭にあって出された結論である。というのも、私はヘイトスピーチやそうした下品な本の横行に辟易しているのだが、それらを「一律発禁」にするかどうかには疑問を抱いてきたからだ。『マルコポーロ』廃刊の際にも、私は例の論文を掲載した編集者の資質が問われるのは当然だと考えたが、廃刊までは行き過ぎだと思ったし、むしろそうした判断を行った出版社側の覚悟のなさを憂えたものだった(これで批判した側が非道なように主張する勢力も出ている)。実際、ヘイトスピーチを行う在特会などが政権とも近しいと言われる中、日本では一出版社どころか、公人までもがヘイトスピーチに寛容なのではないかと思われる節が多々ある。だからこそ、この問題を切り口にそうした本の規制にまで踏み込むべきだという主張も分からないではないが、私としては「殺害予告でもなく、個人攻撃でもない、私人による一般的な諷刺」をどこまで規制対象にすべきか、疑問に感じるところが多々ある。それとも、日本でも在日外国人がテロを起こせば、ヘイトスピーチの規制や自粛に踏み込むというのであろうか?
 そうした意味では、私はシャルリー・エブドの諷刺画の出版自体にはある程度肯定的であるし、それは日本でヘイトスピーチを規制すべきだという主張とも矛盾はしないと考えている(逆に、日本のヘイトスピーチを問題にせずに、パリの例だけ問題視するのは誤りだ)。ムスリムが嫌がるのであれば、そうした事情をきちんと話すべきであるし、そこから彼らの置かれた立場と彼らの思想を理解するべきであり、ただ安易な自粛ではかえって「ムスリムは怖い」というイメージを強化するだけだ。そうした表面的な「腫物扱い」がいかに当座しのぎかは、日中韓関係を考えれば明らかだ。侵略肯定発言を公人がしては、意見を撤回しもせず「世間を騒がせた」という理屈で辞職することを繰り返した挙句、結局「いつまで謝れば気がすむのか」となる。その間、南京事件であれ従軍慰安婦問題であれ、歴史学界では研究が進んでいるのに、それも結局教育現場で教えることを検定で妨害したために、基本的なそれらの知識すら根付かないまま、既に否定されていた「吉田証言」一つの否定をもとに、従軍慰安婦問題を全否定する論調や、南京事件の定義自体のずれが理解されないまま、「南京の人口は20万以下だった」(実際にはそれは城内の人口にすぎない)などという理屈で南京事件自体が捏造であるかのような論調が横行するようになっている。
 最後に、表現の自由とは、誰でも認めるような意見を述べる権利ではない。賛否が分かれる意見であっても、主張できる権利である。したがって、それは「表現の自由には限界もある」という抽象論ではけりがつかない。議論の中で、個別のケースに即して規制の是非が問われるべきものである。「腫物扱い」や「面倒事に関わらせるな」では、そうした議論自体が抑制される危険性がある。そして、そうした腫物扱いは結局は「テロを起こすような危険な勢力」には関わらないでおこう、という偏見を助長するのである。

閉じる コメント(3)

顔アイコン

本人補足:デンマークでも類似のテロが起こったり、宮崎監督の発言もあったりしたが、上記の私の立場に変わりはない。デンマークでもパリでも、諷刺画とは無関係にユダヤ人が襲われていることにも注意が必要である。

2015/2/18(水) 午後 11:20 [ a99*90*d ]

顔アイコン

本人補足:ムスリムがムハンマドを描かれたくない気持ちは理解できるし、私はしない。しかし、自分の信者以外にそれを強制するのは良くないと私は思うし、むしろ偉大なる神はそうした人間を地獄に落とすだろうという考えの方が私は正しいと思う。

2015/2/18(水) 午後 11:22 [ a99*90*d ]

顔アイコン

本人補足:私が議論を重視するのは、「ムスリムとシャルリー・エブドとの間」というより、「ムスリムと一般社会との間」である。仮に後者で議論と相互理解が進み、「シャルリー・エブドは下品だよね、でもまあ言論の自由もあるから、あれはほっておこうよ、どうせアッラーが天罰を下してくれるさ。それより、私たちは実のある交流をしようじゃないか」という形で合意ができれば、諷刺画程度のことは笑って済ませられるのである。だからこそ、諷刺画の是非より、スカーフ規制等の方が問題なのである。その反面、現在の日本のヘイトスピーチのように、「〜は日本から出て行け」「〜を殺せ」などというスピーチが平気で行われたり、特定の人間の私的空間を脅かすような執拗な個人攻撃については、容赦してはいけないのであり、この両者の区別ができないことが、日本のヘイトスピーチ問題の最大の問題点である。

2015/6/8(月) 午後 1:39 [ a99*90*d ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事