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洗顔後の滴る水気を気にすることなく鏡の中の自分をじっと見つめるヒョヌク。 右手で顎のラインを摩りながら眉間に皺を寄せ渋い表情をする。 自分を虜にさせる女、ソ・ユギョンの事をいくら考えても考え足りないくらいに自分の様が滑稽で仕方がない。 これまで付き合って来た女の姿を思い出してみてもユギョンに勝る人物はいない。 『私に心を開いたように他の人にも心を開いてください…。』 ヒョヌクはユギョンの言葉をふと思い出す。 誰よりも高すぎるプライドは自然に周りの人間との距離を遠ざけてしまった。 ヒョヌク自身、それを良かれと思って生活もしてきたがユギョンと出会ってそれは全て一変した。 自分には一生真似できないその姿はある意味ユギョンの1番の強みであり、自分にはないものに惹かれるもの。 ヒョヌクはふっと笑いを漏らすと汗だくでコンロ前に立つユギョンの姿を思い出した。 無様で何をさせてもトロくさくて… だけど、誰よりも料理を愛しパスタの事を考えているのは自分よりも勝っているのではないだろうか。 何よりも素直なその姿勢を前にして嘘はつけなくなるのだと。 ◇◇◇◇◇ 「ソ・ユギョン!!!まだか!!」 「すみません、シェフ…後3秒、いや、もう出ます!」 「遅いぞ!お前は冷めた料理を出して客から料金を貰うつもりでいるのか!!?ええ!!?」 「いいえ、シェフ!」 駆け寄って来たユギョンの右肩に菜箸の先が突き刺さるとともにヒョヌクの罵声が飛ぶ。 他のコック達もちらりとそんな姿を気にしながらも止まらない料理のオーダーを作り上げていた。 料理の最終チェックをするヒョヌクの視線が鋭くなる。 ユギョンはごくりと生唾を飲み込むと額の横を汗が流れた。 「合格だ!しかし、前菜は時間が勝負だ、忘れるな!」 「はい、シェフ。」 部下と上司の姿を崩すことなく淡々と調理場の1日1日は時の流れに逆らうことなく過ぎて行った。 日に日に何かを学びまた失敗を指摘される事で更なる腕前の向上になる。 誰もがそれを得る為に努力はするのだがその努力の途中で道を断つものが多いのが近年の現状だ。 料理の世界は特に下積み時代が長く日の目を浴びるまでにかなりの時間を要する。 不規則な生活。 絶対的な縦社会。 それに耐え忍び先を目指すものこそが真の料理人への道へと進めるのだが終着駅はどこにもないだろう。 今日も長い1日が終わりイタリア組、ヘルプコック達がロッカー室で着替えを済ませた。 「あぁ〜疲れた!先輩!ビールでも飲みに行きません?」 「ビールかぁ…」 ジフンが無愛想なドクに絡みつきながら懇願の眼差しを送る。 「行きましょうよ!ドク先輩…。」 「そうだな。」 「私達もご一緒しても?」 3人の会話に入り込むようにヘルプコックの若い衆が輪に混ざりあれよと話しは弾む。 入れ替わり立ち替わりしていた厨房もこれで落ち着くなと思うと3人の気持ちは浮足立つ。 そこへ下準備を終えたユギョンとウンスも姿を現せた。 「あ!お前達も一緒にお疲れ会しようぜ!!」 「お疲れ会ですか?」 「明日からは厳しいオンニ達の下で働く事になるからな!景気づけだ!」 ジフンの調子いい話にウンスが笑顔で答える。 ユギョンはジフンの意味ありげな言葉に苦笑いを見せるとヘルプコック達も?と指を指す。 「ああ!皆でだ!」 ジフンがその場を仕切るとコック達はいそいそと身支度を整えてロッカー室から出て行った。 こうして誘われる事もなかったのを思うとユギョンの頬が緩む。 そして、明日からは待ちに待ったオンニ達の出勤で一気に今日の疲れもお叱りの事も吹っ飛ぶ。 ロッカーを開け飾り散らばっているサボテンの写真達は変わらずそこでユギョンを優しく見守っていた。 他のコック達が帰って行くのを遠くに感じながらヒョヌクはデスクの上で資料を見つめていた。 自分がまだ助手だった頃にあれやこれやとメモをしたモノ。 今では頭ではなく身体がそれらを覚えていて目にするのも懐かしいくらい。 重なる資料の中に師匠の下でシゴかれていた時代の写真を眺めては苦笑いで机の上に投げつけた。 師匠の教育する姿と自分を脳内で重ねてまたふっと笑いを漏らす。 「似たくなくても似てしまうものなのか?」 ヒョヌクは不必要になってしまった資料を掻き集めるとパラパラと風を送りユギョンを思った。 辛い下積み時代…上に登りつめてみせると言う向上心を胸にここまで来た。 ユギョンとそんな自分が一切重なることはない。 そんなユギョンがどこまで登って行くのかと考えるのもまたヒョヌクの楽しみで仕方がないようだ。 ◇◇◇◇◇ 『かんぱぁぁーいッ!』 近くの居酒屋に入った8人は座敷の部屋でビールジョキを勢いよく重ね合わせた。 ウンスが嬉しそうにそれをぐぅっと口にする横でユギョンも楽しそうにビールジョキを進めていた。 ヘルプコック達がイタリア組の経歴を聞きながらあれやこれやと話しを膨らませる。 懐かしいイタリアの事を酒の肴に料理人達の話しは尽きる事を知らない。 ユギョンもそれぞれに経験した事を興味津々で話に聞き入る。 「いやぁ…それでもこうして女性コックと同じ職場で働く事はなかったから正直驚いたよ。」 1人のヘルプコックがつまみに箸を伸ばすユギョンに視線を向けて話しを続ける。 「しかもチェ・シェフの下で…よくやるね。」 「イタリアとか、他のレストランにも女性コックはいますよね?」 「いるにはいたが…辞めて行く人が多かったよ。」 少し歳の言ったヘルプコックがユギョンを見て苦笑いになる。 「女性で成功している人の話しはなかなか聞かないしね…」 「オ・セヨンは頑張った方じゃないのかな。」 ヘルプコック達がそれぞれに話しを続け、セヨンの事を口にした男がまずそうな表情に変わった。 「まあ、それでもチェ・シェフの腕は立派だが…あの調理場では持つものも持たないだろ?」 「そんな事はないです!」 「君達もよくやるね…感心するよ。」 そう言いながらイタリア組の3人を見渡してビールジョッキを飲み干した。 「他へ行きたくなったらいつでも連絡してくれ…これでも顔は広い方なんだ。 イタリア組の君達もそうだが… ソ・ユギョンさん自身もコックとしての腕前をしっかり見込んでくれる店は紹介出来るから。」 「・・・・・。」 ユギョンとも3人へとも言える口ぶりで話しを締めた。 北風が吹く路地を歩きながらもその頬は程良いアルコールを冷ますには丁度よかった。 1歩1歩、路地のタイルの上に踏み出る自分の足を見つめながら居酒屋での出来事をぼんやりと思い出す。 ニューシェフ大会に出てイタリア行きかラスフェラに残るか―― その2択しか考えていなかったが、大会を機にそれだけの実力が自分にも生まれたのかと感じる。 ユギョンは自宅マンションの雲ひとつない夜空の星を見上げてはぁっと息を吐きだすと… 〜♪♪〜 ポケットに突っ込んでいた携帯がメールの着信を知らせた。 【どこにいる?】 ぶっきらぼうなメールにユギョンは笑みを漏らすとカチカチをディスプレイをタッチして行く。 【今、帰ってます。】 そう返信をした瞬間に今度は着信音が鳴り響き“礼儀知らずのシェフ”と表示された。 「今、どこだ?」 「帰ってるところです。」 返信を待ちきれずに電話をかけてきたのか、口調が少し怒っている様にも感じる。 「どこにいた?」 「先輩達と少し飲んでいました。」 「ドク達とか?」 「はい。」 自宅の向かい側のドアを見つめながら眉間に皺を寄せるヒョヌクの手にはレシピ資料が束なる。 なんだか気に入らないヒョヌクは渋い表情を見せ自宅へ帰ろうとする。 しかしエレベーターで上がって来たユギョンとタイミングよく鉢合わさりレシピ資料を背中へと回した。 「シェフ!」 その姿に携帯をポケットに押し込むとユギョンは嬉しそうに駆け寄った。 「シェフ!こんな時間に・・・何か用でした?」 「いや、もういい。」 慌てて部屋に入ろうとするヒョヌクの背中を追いユギョンが寂しそうな表情に変わる。 「何、持ってるんですか?」 「なんでもない。」 「シェフ!なんでそんな・・・ねえ何を隠してるんですか!!?」 部屋を閉めようとするヒョヌクに対してユギョンの酒の力を借りムキになりドアをこじ開けようとする。 「おいッ!ドアが壊れるだろ!」 「シェーフ!」 ヒョヌクの声にユギョンが根負けをしてドアを手放すとバタンと音を立てて扉が閉まってしまった。 「シェ・・・フ…。」 急いでレシピ資料を放り投げたヒョヌクはユギョンの寂しそうな声に扉を開け、隙間から顔を覗かせた。 ユギョンの表情はパっと明るくなりヒョヌクも釣られそうになるのを我慢すると… 「チゲ鍋よろしく。」 そう口にしてまた扉は静かに閉まる。
ユギョンは扉越しにふくれっ面を見せながらも瞳の奥の幸せそうな感情は隠しきる事は出来ない。 まだ熱さの残る頬をひんやりとする扉に寄せると今日の終わりを感じる。 辛い事も多いけど、ほんの小さな温かさに救われる事は何度となくあったのだ。 ユギョンはしかめっ面で調理場に立つヒョヌクの姿を思い出してくすくすと1人笑うのだった。 |

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