|
「チルヒ」は河内遙の作品。 この人には「ケーキを買いに」というきわめてエロいマンガがあって、それもそのはず「エロティクス・エフ」に書いてたんだけど、あれは、いいなあ。 「食い物とエロス(男女問わず、勝手に自分の中に湧き上がる性的な情動であって、対象との相互の関係性の話ではないが、関係性が影響を及ぼす)と、男女(または同性間)のコミュニケーション(こっちは関係性そのもの)」というと、むかしむかしからテーマというか「風景」としては成立してて、吉行でも開高でも(って呼び捨てかよ)、名場面はあまた書かれている。 最近だと川上弘美がそこらへんがうまいよなあといつも思うが、「エロ」というには馴染まないかなという程度のほのかさがまぶしてあって、ま、そのへんも多数に受ける一因か。 「ケーキを買いに」の話はまた後日するかと思うが、「チルヒ」の方が、直接的な「エロ」表現は少ない。 もっとも、登場人物は、遊女だの陰間だの。 そういや、「湯島のかげま」って言葉が漱石の「坊っちゃん」に出てくるが、教科書にはなんと解説してあったかな、忘れたな。 こないだムスメに「坊っちゃん」読んでたときに説明したよなあ。 「ほら、天神様の周囲、あっこらへんなんかあやしいホテル街じゃん。あっこらへんは、昔は、ま、江戸時代だけど、いわゆる今でいうオカマの店がたくさんあってさ」とかなんとか・・・ ついでに不忍池のまわりの「出会い茶屋」の話とかもしたと思うが、まあ、江戸時代の話となれば、もはや「この世」でもないので、ムスメ相手にでも気楽に話せるのが不思議。 そんなわけなのかどうなのか、「遊女」という存在はNHKのドラマでも、女性マンガ(って言い方は嫌いだが、少女マンガってんでもないんで)にも多出する。 「風俗嬢」だと「この世」すぎちゃって生々しくてナンなんでしょうね。 中村うさぎの方法論は、そういう意味でも「現在」と向き合ってるよねえ。それが室井佑月になると微妙に面白くなくなるのはなぜだ?まだかっこつけてるからかな、よくわからん。 えーと、なんだっけ。 あ、そうそう「遊女」ね。 ちょっと前(って10年20年そんなもん)の扱い方は、なんか 「遊女」=かわいそう 「遊女」=社会の犠牲 とか、そんな感じもあったが、「さくらん」だの「JIN」だの持ち出すまでもなく、そういう構図はすっかりなくなりましたねえ。 いつ頃からかな、記憶だけでたどると、杉浦日向子なんかももちろん「かわいそう」だの何だのいう視線ではなかったな。 「女性セブン」だか「女性自身」だかにもちょうどいま「吉原もの」のマンガが連載されてるけど、ここには少しだけ「悲惨」の匂いがあって、ま、それもまた真実だろうからいいんだろうけど。。。 おおざっぱにいって、男が書くものには「かわいそう」「悲惨」が多いようで、(最近の)女が書くと「自立」とか「プロ」とか「職業」という文脈の色が強く出るのがこの分野だとおもうわけです。 ま、そんなこたあ、とっくのとうに、誰をかも知る人にせん高砂の、じゃなくって、誰でも知ってることだろうとは思うけどね。 近藤ようこの「水鏡綺譚」では、 第6話「水の底の紅」 で、あまりにもわかりやすく「自立」の象徴(または小道具)になってたもんで、あらためてこのことを思ったわけだ。 〜〜 「ほんとうにいくのかい」 「ああ」 「大きな宿場の遊女になるんだ 自分で自分の身を養うんだよ 自分で稼いだ金で買った 紅や白粉で飾って その宿場一番の遊女になるんだ 自分のためにそうするんだよ そしていずれは玉の輿に乗る」 〜〜 こういって、女は馬に乗って出ていくわけだ。 これ、わかりやすくてきっぱりしてて、なんだけど、実は、そこまでのストーリからみてちょっとだけ唐突感がある。 ひょっとして、作者にとって「借りてきた言葉」なのではないかなと思ったりもするのであった。 そして、その「借りてきた」ものを入れているのは、あれかなあ、世代、のせいなのかなあ、作者が何歳か良く知らないが、少なくとも20代とか30代ではないだろうし、何と言うか、時代の空気というとなんだが、世界との関わり方が昔っぽい気もする(この作品が)。 あと、最後の「玉の輿」ってのもどうなんだろうね。 言わせなきゃいいのに、と思いつつも、まあ、「現実的」という意味にとらえれば、むしろ「借り物っぽくない」といえなくもないのか、どうなのか。 なんであれ、この登場人物にとっての(次の世界のさらに先への)exitという意味の発言だから、筆者の意図や価値観をあれこれしてもしょうがないけど、ちと「ぬるく」感じてしまうところもなきにしも。 そうねえ、この旅立ちのシーンがもっと発作的で感覚的だと、河内遙とかと地続きなかんじになるんだけど、やはり近藤ようこという人は、「言葉」の人で、「肉体」の人じゃない気がする、マンガ家として。 そういえばね、「男目線」で「風俗の女」を書いた作品としては、 佐野眞一の「東電OL殺人事件」 なんか、典型だなと思うけど、「文学」に寄っちゃうんだよねえ。 あれ、なんでかねえ、ま、自分が女じゃないから、肉体的に書くのは難しいし、 「男として肉体的に」書いちゃうと 客かよ ってなっちゃうんで、書けないんだろうけどね。 あの本は面白く読みましたけど、SMに関する記述に(作者がわざとかまととぶってるわけでもなかろうが)間違いがあったりね、微妙なとこもけっこうあって、そこらの「ぬるさ」は気になったんだけど、 で、「東電OL」でも「文学」しつつも、どうも対象(東電OL)をモンスター(は言いすぎかなあ)っぽく書いてる気がしてたんだけど、ま、そりゃ作者は女じゃないし東電OL本人というわけじゃないから「他者」としてはしょうがないんだけど、うーん、なんか途中から「ゴビンダ(容疑者にされてる人)」の方に寄って行くのも、それ以上「東電OL」に入り込むのが不可能になったからかなあ(んで、思わず桐野夏生が「グロテスク」書いた?とか?)。 「商品」 になるには命がけの飛躍がいるとかなんとか言ったのはマルクスだったか忘れたが、「風俗嬢」でも「遊女」でもいいんだけど、男が書こうとするとどうしても「商品」として対象を書くことになってしまうのだろう。 これは、「だから男はだめなんだ」「男は汚い」とかなんとかそういう話ではなく、「風俗嬢」「遊女」という存在がそういう制度の中にあるからで、いたしかたないわけだ(いいとか悪いとかの議論ではない)。 一方で女が書くと「命がけ」をする側、つまりは、命のある「人」の側なわけで、それゆえに、「自立」とか「自尊」とか「自己確認」という、「人間が普通に仕事を語る文脈」でこの世界を描くことになるわけだ。 なので、しょうがないといえばしょうがない。 何がしょうがないのかというと、おおむねこの手のものは女が書いた作品の方が面白い。対象(風俗嬢、遊女)が「商品(モノ)」じゃなくて「商品(ヒト)」として描かれるからだろうね。 ま、吉行淳之介なんかのは面白いと思うけどねえ、例外的に。 しかしさ、遊女の話はともかく、たいていの男も仕事というものをしていれば、そこでは自分が「商品」として扱われていることは自覚できるはずなんだろうけど、なんなんでしょうね、たいていの自覚のなさは。 「命がけ」で商品化してないのかな。 ま、たいていの仕事は「生命の危険」ないもんね(警官や軍人やを除く)。 なんか、男文脈で「命がけの仕事」とかいうとさ、山崎豊子とか城山三郎とか(司馬遼太郎・・・って入れていいか迷い中)の小説の人物みたいに、なんかー、「商品になるための命がけ」とか「労働者として自分を切り売りしてるという意味での命がけ」とかそういうのじゃなくて 「自己実現」 だの 「成功」 だの 「地位」 だのといった、仕事の副産物とか 「世界征服」 とか 「世直し」 とか 「復讐」 とか 「正義」 とか、そういう個人的な妄想とか のために命がけになってるのが多くて、自分は鼻白むなあ。 いや、そういう小説が面白ければそれはそれでいいんだけど、そんな職業観だけかよ、とか思っちゃうんだよね。 だから、山崎豊子苦手なんだよなあ。 ええ、ええ。 どうせアタクシは肩の力の抜けた軽い人間でございますよ。 野望も大志もござんせんって。 毎日ふざけた事ばかり思って言い散らして、それで幸せなんでございますよ。 あ、ふざけたついでに・・・ 「東電BL殺人事件」 ってどうでしょう? ・・・いや、「どうでしょう」って言われても困るでしょうけど。 では、良いお年をお迎えください(なんじゃそりゃ)。
|
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
「水鏡綺譚」は単行本の発行は2004年。 |
|
妻いわく、 「もう4年生なんだし、本当のことを知っておいた方がいいと思う」 ・・・と、出生の秘密めいた口ぶりですが、何のことはない「サンタ」の話です。 「いいや、こうなったら、とことんまで騙してやるべきだ」と私。 去年までは完璧に、その存在を信じていたムスメであるが、さすがに猜疑心とか論理的思考とかが芽生えてきたのか、遅まきながら 「サンタって、ほんとは親、なんだよね」 とおずおずと聞いてくる。 こっちは、コミュニケーション系の仕事を何十年もやってきているので、その場しのぎの対応などお手のもの。舌なんか百枚でも千枚でも繰り出しちゃる。 表情一切変えず 「おおー、どうなんだろうね。そういう説もあるよね。友達に聞いたの?」 と否定も肯定もせず、逆質問。 「うーん、そういうわけでもないけど・・・で、どうなの、ほんとは?」 と、逆質問には乗らずに正面からの質問を仕掛けてくるムスメ(偉いぞ) 「じゃ、自分で確かめてみなさい。それでしか真相究明できない」 「どうして?」 「だって、そうだろ。もし<サンタは親>なのであれば、親である私がそのことを認めるわけがない。せっかくここまでだましてきたものを自分で否定するわけがなかろう。 一方、もし、本当に<サンタはサンタであって親ではない>のだとしても、私は大人なので、その姿など見えないし、確かめようもない。なので、コドモであるあなたが自分の目で確かめるしかないのだ」(詭弁である) 「よし。じゃあ、一晩中起きてることにしよう。学校もないし」(探究心) 「お、そうだね。でもね、寝てない子供のところにはサンタは来ないらしいよ。というわけで君は永久にこのことを確かめることができないわけだ。ははは」(詭弁の上塗りである) 後日、仕事場で、「ムスメさんはサンタを信じているのか」と部下に訊かれ、上記の話をしたのだが、部下たち(20−30代)は、ほぼ 「少なくとも小学2年生までにはちゃんとわかってました」 とのこと。 うーむ。 中には 「もう、幼稚園入る前からわかってたけど、そのことはオクビにも出さず、 毎年12月に入るころには、敢えて父の前で <お父しゃん、あのねことしはねサンタしゃんに、××が欲しいってお願いするの> と言って、欲しいものをゲットしてました」 という実利派もいた。もちろん女子だ。 「毎日かあさん」のフミだかいうムスメみたいだな。 やはり、女子のコミュニケーション能力にはかなわん。こっちが何十年もその仕事してても、だ。 こういうときに、自分の性別を呪いたくなることがある・・・。 さ、そんなわけで、ムスメ対策としては、 今年は、「サンタが来た形跡」を演出してみることにしたい。 朝、窓が少し開いてる とか、 獣(トナカイ)の毛が落ちてる とか・・・ ま、うちのムスメも既にウラもオモテもわかっていて、敢えて上記のような会話をしかけてきているのかもしれんが、ま、それならそれでいいとして、だが。
|
|
ほんとのタイトル表記は ■「坂の上の雲」と日本人 だ。 あとがきでも書かれているように、筆者には ■司馬遼太郎の「かたち」 という著書があって、それも以前に読んだはずだが、内容はあまりよく覚えてはいない。 なにごともかように忘却の海底に沈んで錆びて朽ち果てていくのだ、俺の記憶よ、俺の知識よ、俺の過去よ。 ・・・と呼びかけても、どうにもならん。 ならんもんはしょうがない。 さて、この本 関川氏が文春の編集者たちに何回かにわたって行ったレクチャーを元にして「文芸界」に連載したもの。面白い手法を取ったものだ。 関川氏と言えばやはり明治ものという気がするが、「ありふれた愛に関する調査」という探偵ものの小説も書いてたりして。それを奥田瑛二が主人公役で映画になってたりして、あの映画の奥田瑛二のしょぼい感じがいいよなあ。ああいう役をもっとやればいいのに。 明治ものでは、例の谷口ジローのマンガの原作での「坊っちゃんの時代」の4部作。 あれは、好きで俺は何度も読み返したなあ。 明治歴女に育ちつつあるムスメにもそろそろ読まそうかなあ、でも、あの平塚らいてうと森田草平のねちっこいキスシーンとか、啄木の安女郎屋通いの話とか、親としては、ちと躊躇するところではあるなあ。まあ、ムスメには樋口一葉にからんでだったか、芝居(助六か?忘れた)かなんかにからんでだったか、江戸東京博物館の展示を見ながらだったか、「江戸時代の吉原というところはね」という話はすでに伝聞知識として伝えたので、まあいいんだけどねえ。 それに、啓●舎の待合室というか図書室には堂々とあれ置いてあったしなあ、別にいいのか、ま、ちょっと考え中、ムスメの母親の意見もあろうし。 司馬氏の意見であり、この本でも何度も引用・展開される世代論がある。 明治第一世代:明治政府・明治国家・明治社会創立世代 明治第二世代:第一世代に育ててもい欧米留学した人々→「坂の上の雲」の主人公たちだし、夏目 漱石とか・・・不平等条約改正とか日露戦争とかの「実務」に邁進。軍人と文人多し。 明治第三世代:明治15年以降の生まれ。三四郎や坊っちゃんの世代、そしてこの世代が昭和20年までの「奇胎の40年」(司馬)を担うことになる。 というやつだ。 この本の中でもこの世代論を「太平洋戦争後」にあてはめての論が何度もあるのだが、 俺は・・・昭和30年代後半生まれだから・・・ おお。 まさにこの「第三世代」じゃないか。 うーん。 「次の戦争への社会」 を担うとしたら嫌だなあ。 まあ、これ預言書(予言書)じゃないのでそういうこと気に病んでもしょうがないんだけど・・・。 とか、この辺は船曳建雄の「日本人論 再考」なる本にあれこれ書いてあるとかで、1回読んでみるかな。 以下、自分の興味のための覚え書き ・P42 明治19年ごろ、高等教育修了者が増え、士族からの横滑りでなった官員が整理される。その中に、一葉の父樋口則義、直哉の父志賀直温
・P44 1978年一六タルトのローカルCMに伊丹十三出演、伊予弁 ・山田風太郎「エドの舞踏会」(読まなきゃ) ・子規の妹正岡律、2度結婚離婚、子規の死後(今でいう)共立女子大に入学し卒業後そのまま母校の教師に ・司馬遼太郎「ひとびとの足音」(読まなきゃ、「足」の字が違うけど) ・P256 「弩級」の語源は1906年英国艦隊に投入された戦艦「ドレッドノート」 |
|
マンガを3冊続けて読んだ。 まとめてレビューを残そうと思ったが、方向性がまるで違うな、この3冊。 なので、まずは1冊。 ■「虫と歌」市川春子(講談社) この人の作品は初めて読むのだが、新刊でジャケ(じゃないねカバーと帯と惹句で)買い。 読み切り4本と描き下ろしの短いのが1本。 なんか、稲垣足穂とかさべあのまとか高野文子とかの流れにあるのかなあ、違うかな。 細い線と黒白のコントラストの強い画面で 硬質な生命 みたいなものを描く。 えーと、まあ、ありていに言えば、付喪神系 と言えなくもないんですが、百鬼夜行絵巻や手塚治虫や諸星大二郎の描くような、豊穣でぐにょぐにょでエロティックな印象の「非たんぱく質系生命」みたいのとは全く違う。 あと、「もやしもん」や「蟲師」みたいな(って一緒に扱っていいのかその2作品)、「胞子・粘菌系」でもない。 ただ、なにがしか、 「命のないものに命(というシステム)が宿って・・・」 とかそういう話ばかりで、 そこに「少年」とか、軽いロリ的なテイストが入る。 えーと、ロリ的、とかいうといまや「児童ポルノ」という(法律上の)カテゴリーにくくられて白眼視されかねないが、(被害児童の人権を踏みにじる形での)性欲の対象として見るというのではなく、鑑賞の対象・芸能の素材としての年少者、という文脈は、世阿弥「風姿花伝」の「時分の花」や戦国期のお小姓を持ち出すまでもなく、現在でも「稚児行列」とか「こども店長」とかの形で普通に生きてるわけで、そうした文脈の中での「ロリ的」というテイストなので、お間違いなく。 そして、少年であれ少女であれ、それこそ「3歳までは神のうち」ではないが、見るからに大人の時間とは異なる時間を生き、そして、大人の生殖行為(やそこから派生する人間関係、コミュニケーション、規範、文化、欲求)とは全く無縁な存在が、突然現実の中に投げ込まれるようにある、というのがおおむね所収各作品の世界観だ。 無性生殖 というべきか、あたかもそこでは、生命は、ただの「遺伝子の乗り物」としてではなく、偶発か思いつきをきっかけにした「コードの乱れ」のようにして現れそして消えていく。 それゆえに何ともいえない「いとしくはかない」存在として。 そしてまた、そんないとしくはかない存在たちと接触する「普通の人間たち」もまた同様に「線」かせいぜい「平面」のような印象で登場し、陰影も質量も感じさせない。 つまりは、世界を極力「人臭くなく」「いとしく」「はかなく」描こうとするのがこの作者なのだなというのが、読み手の受け止め方。 ま、そういう作者自身は案外「人臭い」人だったりもするんでしょうけどね、って人臭くない人なんていないか。 ははは。 残りの2冊は以下の通り。 ■「ツレがうつになりまして。」細川貂々(幻冬舎文庫)
■「水鏡綺譚」近藤ようこ(青林工藝社) |





