迷い鳥のブログ

思い出の山行、花を訪ねて、美術館巡り、仏像・古寺巡拝 など

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巡拝コース
泉涌寺⇒善能寺⇒法音院⇒教王護国寺(東寺)

洛陽三十三か所を巡る(5)/第四番 泉山泉涌寺(せんにゅうじ)


【アクセス】
京都市東山区泉涌寺山内町27。JR・京阪「東福寺駅」から徒歩20分。

【宗派/本尊(札所本尊)】 真言宗泉涌寺派(総本山)/釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏(楊貴妃観音)

【巡拝日】 2010年6月21日

【巡拝記】 
平安時代の草創と伝えられていますが、実質的な開基は鎌倉時代の月輪大師俊芿です。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。
伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したと伝えられています。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたと言われている。藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたと考えられています。
別の伝承では、開創者を空海としています。すなわち、空海が天長年間(824年−834年)、この地に草創した法輪寺が起源で、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとされています。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺となったと言われています。以上のいくつかの伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと考えらます。
鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿(しゅんじょう)に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたといいます(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していました。俊芿(1166−1227)は肥後国(熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国しましたが、彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍はすべて宋風に作られました。
泉涌寺は律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結びつきが強まり、江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られていて、このため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)」と尊称されています。(「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意。)
応仁の乱による焼失をはじめ、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建です。大日本帝国憲法施行以来日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していたそうです。(Wikipedia)
長い参道の両脇にはいくつかの塔頭が散在し、大門をくぐって、仏殿(本堂)を眺めながら緩やかな傾斜をなしている境内の坂(斜面)を下って行くのは珍しい景観でした。

泉涌寺 大門から仏殿(本堂)を見下ろす
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泉涌寺 舎利殿/左と仏殿(本堂)/右
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泉涌寺 霊明殿(左)と舎利殿(右)
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泉涌寺の御朱印
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洛陽三十三か所を巡る(6)/第二十五番 法音院(ほうおんいん)


【アクセス】
京都市東山区泉涌寺山内町30。JR・京阪「東福寺駅」から徒歩15分。

【宗派/札所本尊】 真言宗泉涌寺派/不空羂索観音

【巡拝日】 2010年6月21日

【巡拝記】 
参道の途中にある法音院(泉涌寺の塔頭寺院)に立ち寄り、拝観してきました

法音院
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法音院の御朱印
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洛陽三十三か所を巡る(7)/第十八番 善能寺(ぜんのうじ)


【アクセス】
京都市東山区泉涌寺山内町34。京都市営バス泉涌寺道バス停から徒歩10分。

【宗派/札所本尊】 真言宗泉涌寺派/聖観音

【巡拝日】 2010年6月21日

【巡拝記】 
泉涌寺に隣接する塔頭寺院の一つ。

善能寺
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善能寺の御朱印
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洛陽三十三か所を巡る(8)/第二十三番 東寺(教王護国寺)


【アクセス】
京都市南区九条町1。JR「京都駅」から徒歩15分。

【宗派/本尊(札所本尊)】 東寺真言宗(総本山)/薬師如来(十一面観音)

【巡拝日】 2010年6月21日

【巡拝記】 
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院が建立されました。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院でしたが、建立当初は寺院ではなく、東鴻臚館・西鴻臚館という外国使節を迎えた時の、入朝の式や宿泊の施設として設けられた迎賓館でした。
東寺では古くから796年を創建の年とされていますが、20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜り、この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となりました。
東寺は平安後期には一時期衰退しますが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになりました。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年 - 1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進しました。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院でした。
東寺は、文明18年(1486年)の火災など何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていませんが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままだそうです。
また、この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、宗教法人としての公称は教王護国寺とされています。ただし、東寺という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称であり、平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられています。
伽藍の中の5つの建物は国宝に指定されており、本堂にあたる金堂とその北隣に建つ講堂の仏像群は、いずれも国宝か重要文化財に指定されており、それらの仏像が埋め尽くす空間は、壮観さよりも荘厳さを感じさせる場所でした。東寺は世界遺産にも登録されていますが、文化遺産が作りだす空間の荘厳さに納得しました。
京都駅から歩いて行ける近さにあるので、京都に行く機会があれば、あの空間に静かに身を置いてみたいと思います。
さて、東寺を参拝した日はたまたま御影供の日にあたり、境内には骨董市1000店を超える露店が立ち、大変な賑わいでした。静謐な堂宇内と縁日の賑やかさが同居している不思議な寺でした。

わが国で最も高い東寺五重塔は京都のシンボル
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東寺 金堂
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東寺 講堂
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毎月21日の御影供の日(縁日)には境内に市がたちます
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東寺の御朱印
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御朱印、達筆で力強いですね。
心が込められている字に見えます。

2010/8/25(水) 午後 10:22 [ - ]

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写真だけ載せていたのですが、納経帳にいただいた御朱印と墨書も追加して掲載することにして、作業中です。何となくスタンプラリーのようで少し気になっていたのですが、最近は「よくお参り下さいました。」という言葉とともに素直な気持ちで受け取ることができるようになりました。ときどき「蒼いねこ」さんのブログも拝見してますよ。

2010/8/25(水) 午後 10:44 [ abby ]


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