迷い鳥のブログ

思い出の山行、花を訪ねて、美術館巡り、仏像・古寺巡拝 など

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ブログの更新について

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7月3日に88歳どうしで戸建住宅に二人暮らしだった母親が肺炎で緊急入院してしまい、認知症の父親の面倒をみていた家族介護の状況が一挙に破綻し、一人っ子である迷い鳥が実家に泊まり込んで、父親の面倒を見ることになりました。
母親の入院のショックか、徘徊も始まることになり、調子の悪い時には、息子の顔も分からなくなります。
想像を超えた介護が降りかかり、本人たちのためにもと「ケア付き有料老人ホーム」への入所を決めましたが、これが完了するまでの1か月半は非常事態でブログへのアップも訪問もままなりません。
ブログ仲間の皆様、失礼のほどご容赦ください。

坂本の寺社散策ァ寝光山 西教寺

多くの古寺社のある近江の国は、興味の尽きない地域です。木曽駒高原での恒例の大学ワンゲルOB会の後、比叡山の入口・門前に当たる坂本の寺社と街並みを散策してみました。
【拝観日】 2014年6月25日
【巡拝コース】 盛安寺⇒公人屋敷(旧岡本邸)⇒生源寺⇒日吉大社⇒西教寺⇒滋賀院門跡⇒聖衆来迎寺⇒近松寺
【アクセス】 滋賀県大津市坂本5-13-1。
【宗派/本尊】 天台真盛宗(総本山)/阿弥陀如来(重文)
【拝観記】
西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えるようになったが、それ以前の歴史は必ずしも明らかでない。草創については、『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇26年(618年)、聖徳太子の開基とする説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。
真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した『真盛上人往生伝記』によれば、西教寺は比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、その弟子で『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)が伽藍を整えたという。良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物である。西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、その後鎌倉時代末頃までの歴史も判然としないが、比叡山と関係の深い一寺院として平安時代中期頃に草創されたものと推定される。
鎌倉時代末期の正中2年(1325年)、円観が西教寺を再興したことは史実と認められる。円観(恵鎮、慈威和尚とも称する)は後醍醐天皇の帰依を受けた天台僧であり、この頃から西教寺は円戒道場(天台宗の戒律を授ける場)として知られるようになる。
西教寺が歴史の表面に現れてくるのは、前述のように室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖である真盛が入寺してからのことである。真盛は嘉吉3年(1443年)、伊勢国一志郡に生まれ、地元の寺に入って出家した後、19歳で比叡山に上り、その後20年以上も山を下りることなく修行と学業に専念した。比叡山において真盛は徐々に頭角を現わし、僧階は権大僧都に至るが、文明15年(1483年)、名利を捨てて比叡山のもっとも奥に位置する黒谷青龍寺に隠棲した。このことは真盛の母の死がきっかけだったともいう。それから2年後の文明17年(1485年)、真盛はようやく山を下り、その年の12月、宮中で源信の『往生要集』を講義した。真盛は説法の名手として当時評判が高く、宮中での講義には多くの皇族、公卿らが臨席したことが、当時の公卿の日記などに見える。真盛は晩年の10年を西教寺の復興と布教に努め、明応4年(1495年)、旅先の伊賀(三重県)で死去した。53歳であった。
天台系の本山寺院のうち、延暦寺や園城寺(三井寺)が密教色が濃いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏を重視するなど、浄土教的色彩が濃いが、これは中興の祖である真盛の思想によるところが大きい。真盛によって始められた天台真盛宗の宗風は、「戒称二門」「円戒念仏」等と表現される。「戒称」の「戒」は戒律、「称」は「称名念仏」、つまり阿弥陀仏の名を一心に称えることを言う。「円戒」は「円頓戒」の略であり(「円」は「円満な」すなわち「完全な」の意、「頓」は「速い」の意)、天台宗の僧侶や信者が守るべき戒律(正しい生活を送るために守るべき規範)を指す。具体的には、「梵網経」に説かれる十重四十八軽戒という、10の重い戒と48の軽い戒のすべてを守ることである。つまり、真盛の思想は、「戒律」と「念仏」の両方を重視する点に特色があり、この点が、同じ念仏でも法然の唱えた「専修念仏」、親鸞の唱えた「悪人正機」の教えとは異なる点である。
元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。本堂は焼失の3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市あたり)の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されているが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明である。また、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟である。
信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔が立っている。
(出典:Wikipedia)

西教寺本堂(重文)
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鐘楼(大津市指定文化財)
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勅使門
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小堀遠州作の客殿庭園
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明智光秀の供養塔
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西教寺の御朱印
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坂本の寺社散策ぁ親吉大社

多くの古寺社のある近江の国は、興味の尽きない地域です。木曽駒高原での恒例の大学ワンゲルOB会の後、比叡山の入口 門前に当たる坂本の寺社と街並みを散策してみました。
【拝観日】 2014年6月24日
【巡拝コース】 盛安寺⇒公人屋敷(旧岡本邸)⇒生源寺⇒日吉大社⇒西教寺⇒滋賀院門跡⇒聖衆来迎寺⇒近松寺
【アクセス】
滋賀県大津市坂本5丁目1-1。
【拝観記】
日吉大社は、文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神 大山咋神について記したものである。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に、日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社 三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
西本宮の祭神 大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け 災難除けの社として崇敬されるようになった。神階としては、元慶4年、西本宮の祭神が、寿永2年、東本宮の祭神が、それぞれ正一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列格し、さらに長暦3年、二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗 延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請 創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年から再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社 大神神社に格下げした。明治4年、官幣大社となった。昭和3年、東本宮 西本宮ともに官幣大社となり、元の形に復した。(出典:Wikipedia)

日吉馬場にある「中ノ鳥居」
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日枝大社参道
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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参道両側に立ち並ぶ里坊群
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律院
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律院: 比叡山横川の総里坊であった松禅院があった所で、明治以降、荒廃していた当地を、1949年(昭和24年)、戦後初の千日回峰行者 叡南祖賢(えなみそけん)師が再興した。寺号は祖賢師が当時、安楽律院(大津市坂本本町)の管領を務めていたことに由来する。

石垣をスケッチする人々
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赤鳥居
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赤鳥居:この鳥居から奥が実際上の日吉大社の境内

比叡山延暦寺への登山口
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日吉三橋の一つ大宮橋(重文)を渡って
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日吉三橋: 境内にあって大宮川に架かる三つの石橋は、信長の焼き打ち後秀吉が寄進したものと伝える日本最古の石橋で、重要文化財に指定されている。

日吉三橋の一つ走井橋(重文)
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日吉大社のシンボルである山王鳥居
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山王鳥居: 山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界 金剛界と神道の合一を表しているとされ、山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。 山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰です。 独特の鳥居である事から、分霊社の中にはこの鳥居を模して建立する例も少なくありません。 (例)東京赤坂鎮座の日枝神社など
 
境内にある「神馬舎」(右)と「神猿舎」(左)
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神猿(まさる): 日吉大社の神様のお使いであるとされるのが「神猿(まさる)」です。元来、比叡山に猿が多く生息していましたが、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じるようにつけられた名前であり、縁起のよいお猿さんです。

白山姫神社への参道
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修理中の宇佐宮
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西本宮の楼門(重文)
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西本宮本殿(国宝)
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西本宮本殿(国宝):  1586年(天正14年)の建立。檜皮(ひわだ)葺きで、屋根形式は「日吉造」という、日吉大社特有のもの。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。

西本宮の御朱印
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神輿収蔵庫
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収蔵されている七基の山王神輿はいずれも重要文化財。

東本宮の楼門(重文)
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樹下神社本殿(重文)
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樹下神社本殿(重文): 床下の造りが日吉造と同じであること、向拝階段前に吹寄格子の障壁が立てられていることが特徴とされている

東本宮本殿(国宝)
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東本宮本殿(国宝): 1595年(文禄4年)の建立。建築形式は西本宮本殿に似る。昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていた。

東本宮の御朱印
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坂本の寺社散策/近江西国を巡る(6)第6番 比叡山生源寺

多くの古寺社のある近江の国は、興味の尽きない地域です。木曽駒高原での恒例の大学ワンゲルOB会の後、比叡山の入口・門前に当たる坂本の寺社と街並みを散策してみました。
【拝観日】 2014年6月24日
【巡拝コース】 盛安寺⇒公人屋敷(旧岡本邸)⇒生源寺⇒日吉大社⇒西教寺⇒滋賀院門跡⇒聖衆来迎寺⇒近松寺
【アクセス】
滋賀県大津市坂本6-1-17。
【拝観記】
生源寺は伝教大師(最澄)御誕生地とされ、比叡山延暦寺西塔の総里坊格の寺で、近世には一山の寺務総括した重要な里坊であったため、叡山文庫に多くの「生源寺記録」が残っています。
本尊は、慈覚大師作と伝える観音菩薩で、現在の本堂は1595年に詮瞬によって再建され、さらに1710年に改築されました。

城壁のような穴太積みの石垣
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山門
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伝教大師の産湯に使われたいわれる井戸
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鐘楼
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生源寺の破鐘: 元亀二年(1571年)の9月12日の早朝、信長の三万の軍勢が押し寄せるのを、日吉大社の朝参りの帰りに発見した老人が、坂本の人々に急を告げるため、生源寺の釣鐘を力の限り乱打し、異変を伝えました。あまりに強く打ち鳴らしたため、ひびが入り不思議な音色になったといわれます。
現在この破鐘は、JR湖西線「比叡山坂本駅」前の広場に移されています。

生源寺境内(本堂)
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生源寺の御朱印
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= 坂本の寺社散策◆晋人屋敷(旧岡本邸)=
多くの古寺社のある近江の国は、興味の尽きない地域です。木曽駒高原での恒例の大学ワンゲルOB会の後、比叡山の入口・門前に当たる坂本の寺社と街並みを散策してみました。
【拝観日】 2014年6月24日
【巡拝コース】 盛安寺⇒公人屋敷(旧岡本邸)⇒生源寺⇒日吉大社⇒西教寺⇒滋賀院門跡⇒聖衆来迎寺⇒近松寺
【アクセス】
滋賀県大津市坂本6-27-10。
【拝観記】
坂本は、比叡山延暦寺への物資を供給する門前町として古くから栄えていましたが、江戸時代になると、多くの里坊(比叡山で修行を積んだ僧侶たちが天台座主の許しを得て住み込む隠居坊)が坂本に造られるようになり、その中で延暦寺の僧侶でありながら妻帯と苗字帯刀を認められた「公人(くにん)」と呼ばれる人々がいました。
そうした中で、代々公人を務められた岡本家の家屋は全体に公人屋敷としての旧状をよくとどめた社寺関係大型民家の特徴を住宅して残されてきました。
平成13年に現当主から大津市に主屋、米倉、馬屋利吉が寄贈され、これらの建物はその後大津市指定文化財となっている。
「公人屋敷」の入口
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主屋内部
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主屋内部
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内庭
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米倉(左)と馬屋(右)
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離れ
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庭の薊
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