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≪大学教授の情報公開本人訴訟≫
神戸大学院の法学研究科の馬場健一教授が日本裁判官ネットワークのサイトに『情報公開本人訴訟始末記』を書いている。http://www.j-j-n.com/
司法改革などに熱心に取り組んでいる学者で司法の現場から物事を見ている、数少ない、研究者の一人である。その結果、実務に携わる弁護士や裁判官に役立つ改革論を展開しておられる。実務家も教えられる点が多い。
研究論文もそのようなテーマーが多い。
http://kuid.ofc.kobe-u.ac.jp/InfoSearch/Detail.do?dbid=1&recordnumber=C6AaFom78fDO%2BIBQ3mbe3w%3D%3D
その学者が何を思ったか、情報公開訴訟を1人で提訴して、勝訴している。
日本の大学における法学部の学者の大半は、法律、判例の解釈業が仕事。
それを学生に教え、本を出す。その理論の精緻さで「勝負する」社会。
ところが、実際はその法律の具体化である判例がどのようにして形成されるかは殆ど知らない。
裁判は、相対立する当事者が、混沌とした現実の中から有為と思われる事実を、あれこれ主張し、その裏付けとなる証拠を探し、それを法廷に出し、その結果、判決は、最後にできた、言わば「上澄み液」のようなもの。
「上澄み液」からは、裁判官の心証形成に大きな影響を与えたであろう背景事実などが判決書には表れない場合も多い。
日本の法律学者は、そのような事実を捨象し、判決書から見える理論から判決を論評する。それはそれで価値があるが、現実から遊離した法解釈論の場合も多い。
大学教授の研究テーマ―で、鑑定、意見書などで実際の裁判に関与する学者はいることはいるが、そのような研究者は比較的すくない。
大学教授が原告になる例などは例外中の例外。
まして弁護士に依頼せず、本人訴訟で裁判の当事者になることなどは、聞いたことがない。
その苦労話が上記エッセイに書かれている。一読の価値あり。
日本の法学部の研究者の中には、何か現実の裁判などは「下々の者が行う」ものという風土があるのでないかと思うほど実際の裁判には関与しない。
書斎で抽象的なテーマーで研究し、外国の学説、論文を延々と解説することなどが「高尚」と思われているような印象を持つ。
他方では、大学で学生には「権利の上に眠っていてはならない」などと教えている。
このような大学社会の中で馬場教授が弁護士に依頼せず、本人訴訟をされたことだけでも「革命的」なこと。しかも勝訴しているのだから、なおさらである。
これからの若い大学の研究者達は、馬場教授のように、一生に1回は、本人訴訟をされることをお勧めする。裁判の在り方などに関する内外の文献を100冊読むより、1回の裁判で生きた実例で研究される方が、学ぶことが多いはず。
そして、実務の中から、研究者としての論文などを書いて欲しい。それを次の学生、法科大学院生におしえてほしい。
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