谷田-虎の穴3-サッカーに一途な君ならここで育つ

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サッカーダイジェスト
小学生の時にプロを強く意識 そして・・・サッカー留学を決断
 「小さい頃からあまり手のかからない子でした」と母の広美は語る。
 1989年3月17日、香川真司は兵庫県神戸市の西端に位置する垂水区に生まれた。父・啓一は息子に野球をやらせようと密かに考えていたが、しかしJリーグか開幕した影響から、幼稚園では父の意に反してサッカーに興味を示すようになった。
 本格的にサッカーを始めたのは小学校1年生の時だった。小学校にはサッカー部がなく、垂水区を拠点とするマリノFCに入団。そして5年生の秋に、知り合いのスタッフが在籍していた神戸NKサッカークラブヘと移るのだが、この選択か香川の運命を変える発端となった。
 レベルの高い選手が多く在籍していた神戸NKSCは、神戸市内でも指折りの強さを誇った。当時、監督を務めていた大木宏之(現センアーノ神戸JY監督)は、「最初に見たのは、真司が4年生で、神戸トレセンの練習に参加していた時でした。ターンの時にピタッと止まってから、トップスピートになっても身体の軸がブレない。線は細かったけど、バランスのいい子だな、というのか第一印象です」と語る。
 チームの方針は『ファーストタッチで前を向け』『前を向いてどんどん勝負を仕番けろ』『止まった状態でボールを受けるな』というもの。まさに現在の香川のプレースタイルに通じるものがあり、香川もメキメキと成長していった。
 大木は当時をこう振り返る。
 「トレセンでは『ポールを持ち過ぎだ』と、よく怒られていたみたいですね。ただ、ウチのチームで怒ったことはない。むしろ、『さっきの場面は前を向いてドリブルできたんじゃないか』『あの場面はなぜ勝負しなかったんだ』と言うことのほうが多かったし、簡単にボールを下げさせずに勝負させました」
 ピッチ外もサッカー一色だった。当時、神戸市に住む子どもはヴイッセル神戸の試合を無料で観戦でき、時間が空くとチームメイトたちと「試合を観に行こう!」と、スタジアムまで足を運んだ。「サッカーのビデオもよく見ていた。カズ(三浦知良)の厳選プレー集を貸したけど、まだ返ってきていない」と、大木は懐かしそうに笑う。
 現在のベースとなる繊細なボールタッチは、フットサルのボールよりひと周り小さいサロンフットボール用のボールを使った、週1日の体育館での練習で養われた。主にFWやトップ下でプレーしていたが、6年生の夏頃には、一度ボールを持つと簡単には奪われないほど技術が向上していたという。「空間認識能力が高くて、相手の頭の上ヘボールを通して抜くようなことも、試合で普通にやっていた」と語る大木が、なかでも感心したのが回転技だった。「マルセイユルーレットなどの回松技を試合でよくやっていて、クルクルクルクル回っていた(笑)。アウトサイドを使って回ったり、相手に背中を見せて回ったり。その回転の速さとタイミングが絶妙で、回ることに関して言えば、フィギュアスケートをやったほうかいいと思うぐらいでしたよ」
 神戸市選抜に選出されるようになり、プロヘの道を真剣に模索し始めていた香川は、中学進学を前に「自分でもよく選択したと思う。あそこへ行っていなければ、今の自分は絶対にない」という大きな決断を下す。
 それは、住み慣れた神戸、そして親元を離れ、宮城県仙台市を拠点とする街クラブのFCみやぎバルセロナヘの、いわば”サッカー留学”。チーム同士の繋がりがあり、5年生の時に一度、練習に参加していた。
 「個性を仲ばす指導をしていたチームで、自分に合っている気がした」
 そう語る香川の意思が強いことを見てとった両親は、一抹の不安を感じながらも、本人の思いを尊重した。
 兵庫県にはJクラブのヴィッセル神戸があったものの、選択肢にはなかったという。「Jクラブの下部組織に入ると、そこだけになると思った。街クラブに入って、いろいろなところからオファーをもらえるように」と、香川は考えていた。
個性を生かす徹底指導のもと秘められた攻撃センスが開花
 仙台へと移った最初の半年間は、FCみやぎの父兄の元でホームステイをしながら、八乙女中学に通い、練習に参加していた。半年も過ぎた頃、可愛い孫のためにと、祖母・英子が仙台へと移り、一緒に住み始めた。「年齢も年齢なのに、僕のためにわざわざ来てくれた」と、香川は今でも祖母に深く感謝している。
 個性を生かすFCみやぎバルセロナJrユースは、香川の思い描いていたとおりのチームだった。
 「やっぱり組織力重視のJクラブとは違う。中学1年生の時には「パス禁止令」が出たり、『全部1対1で仕掛けろ』と言われることもあった。個人で局面を打開する指導だった。
 中学生の時は主に攻撃的なボランチとしてプレーし、中学1年の時には3年に交じって、中学2年になるとユース年代に交じって練習していた。当然、身体能力では先輩たちに分かある。自ずと、フィジカルに劣るなかでいかに自分の良さを出すかを学んでいった。当時コーチを務めていた柴田充は、香川の向上心の強さに舌を巻いたという。
 「とにかくこだわりが凄かった。足下に出すパスひとつとっても、今の回転じやダメだと言うほどで、特に攻撃面は強く意識していた。
 黒川高校へ進学すると、クラブの寮に住み始めた。寮から学校までの距離は約15km。自転車で1時間近くかけて通い、学校が終われば、練習のためにすぐとんぼ返り。1日30kmの自転車通学は、図らずも足腰のトレーニングになっていた。
 クラプ寮で香川の面倒を見ていた寮長の内田桂太郎は、懐かしそうに当時を振り返る。
 「大人しかったけど、卓球大会なんかでは、負けず嫌いな一面か出た。勝負に、勝つには勝つんです。でも、ちょっと相手に追い込まれただけで、圧倒的に勝つまでやっていた。
 他にも負けず嫌いのエピソードがおる。プリンスリーグの東北高戦。相手が自陣へと引き、ドリブルを主体とする白分たちのスタイルを出せずにいたが、チームはパスを駆使して得点を量産。しかし、ハーフタイムに普段は滅多に声を荒げない香川か、ものすごい形相でチームメイトを怒鳴り散らしたという。大量リードを奪っていたにもかかわらず、だ。
 「こんなんじやダメだろ!俺らのサッカーはこんなんじゃない!」香川はまだ2年生だったが、3年生にも躊躇なく怒りをぶつけた。そこには、自分たちのスタイルに対する確固たる自信かあった。
 「1対1の局面で、簡単にボールを後ろに下げるようなことはしたくない。パスを回せばキレイに見えるけど、自分の中では、『後ろにポールを下げる=逃げる』という認識でいる。常に前へ仕掛けていく姿勢は、FCみやぎ時代に学んだし、それが今に繋がっている。
 05年の仙台カップでは、香川は高校2年生ながら、東北代表として選出された。当時、東北代表を率いていた清水秀彦(元横浜M、福岡、京都、仙台監督)は「直前のセレクションで初めて見た時に、「こいつは面白い」と思った。ドリブルの緩急の巧さ、ボールタッチの柔らかさが際立っていた」という。
 ただ、「線が細く、小さくて当たりに弱い」と、周囲の評価はそう高いものではなかった。しかし清水は「僕はフラットな眼で見て、このポテンシャルならば、プロでもモノになると確信した」と東北代表に選出。さらにボランチだっだ香川を、ひとつ前の攻撃的MFで起用すると、これか見事に的中する。
 それまで東北代表が外国の代表チームから得点を挙げたことはなかったのだが、クロアチア戦では1ゴールを記録。さらに、後にU−20ワールドカップでともに戦う内田篤人、柏木陽介、安田理大らで構成されたU−18日本代表を5−2で破るなど、攻撃センスを遺憾なく発揮した。
 仙台カップでの活躍もあり、複数のJクラブが獲得を画策するなか、地元・神戸に近く若手育成に力を入れていたC大阪と、高校2年生にしてプロ契約を結ぶに至った。
 「主人は真司に『辛いぶんはサッカーにぶつけろ』とよく言っていた。サッカーだけではなく、人間性も成長させてもらえる土壌があったからこそ今がある」と母・広美は語る。
 多感な時期に親元を離れ、神戸から仙台ヘサッカー留学−。
「両親、祖母、仙台の人たちに感謝している。みんなが僕を支えてくれたし、僕ひとりの力じゃない。仙台にいた頃の初心を大切にしたい」
 特異なプレースタイルの根底には、FCみやぎバルセロナ時代の”初心”が流れている。

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