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谷田-虎の穴4-サッカーに一途な君ならここで育つ
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創業三百八十余年、金沢を代表する老舗和菓子店「森八」は、十六年前、六十億円という負債が発覚した。自己破産を勧められるも、「最後の一日まで頑張る」という社長の意思で和議を申請。この逆境にあって女将となり、社長を支え、奇跡の復活へと導いたのが中宮紀伊子さんだ。どん底を味わい、そこから回復の軌跡を辿った中宮さんが語る、「老舗企業における生気湧出の方法」とは?
 
中宮紀伊子 なかみや・きいこ一昭和26年岩手県生まれ。幼い頃に家族とともに東京へ。偶然の出会いから中宮嘉裕氏(現社長・森八18代当主)と結婚し、金沢へ。平成7年に60億円の負債を抱えて、森八は和議を申請。同時に取締役となり、社長である夫とともに再建への道を歩む。16年3月には和議を終結し、再建を完了。著書に『あなた、私も闘います』(叢文社)『この人生をありがとう』(時鐘舎)がある。
 
三百八十年の老舗
まさかの負債六十億円
 
――森八さんは三百八十余年の歴史を誇る金沢の老舗和菓子店として、全国に知られています。
中宮 加賀藩主・前田家にはお抱えの和菓子屋が三つあったそうですが、いまも残っているのは私ども森八だけです。ですから「金沢の伝統的なお菓子といえば森八」とご指名くださる方も多くいらっしやいます。特にいまお中元の時期ですから、繁忙期で店頭もお客様で賑やかでしょう。
――従業員の接客指導は女将さんが担当されているのですか。
中宮 接客の係は女性が主体ですし、うちには接客マニュアルがありませんので、気づいた時に指導しているんです。「どうしてそうしたの? あなただったら、どうされたい?」と。
 私自身、十六年前に突然女将として店頭に立たざるを得なくなりましたので、接客の際は「私ならどうされたいか」という基準で動いていました。
――突然店に立たざるを得なかった、というと?
中宮 そういう家の人と結婚するからには、金沢へ嫁いだら義母の指導の下、私は店で働くのだろうと思っていました。しかし都会育ちで割とはっきりした物言いの私は、古くからいる幹部社員に疎んじられました。だから、「奥さんは働いてくれるな」と。
 しかし一九九〇年代半ば、会社が経営不振ということで、ある取引先の方に株を持っていただき、持ち株が多いことから会長職に就いていただきました。その方が「どうして紀伊子さんはお店に出ないの?」と。理由を話すと「それはダメだ。出るべき人が接客したほうがいい」と言われ、四十代半ばにして初めて本店で働くことにな
ったんです。
 そして、それから三か月後のことでした。夕方五時五十五分、もうすぐ一日の営業が終わるという時、社長室で夫と二人でいたところに銀行の支店長と担当者が、「何しているんですか、手形が不渡りになりますより‥」と飛び込んできました。私と夫は「ええっ‥」と……。
――ご主人も知らなかった?
中宮 実は主人は、義父が突然病に倒れ、経営を知らないまま三十一歳の若さで社長に就任しました。古くからいる幹部たちは「外に出て行くのが社長の仕事だ。中のことは俺たちに任せてくれればいい」と、主人を対外的な仕事に向かわせ、彼は青年会議所やロータリー、菓子業界の役職などを歴任していました。もちろん報告は受けていたのですが、その報告自体が粉飾だったのです。その手形も社長である主人がまったく知らないところで切られていたものでした。
 その日の売り上げはもちろん、家にあるお金もすべてかき集めてなんとか不渡りを防ぎました。そうして明るみになった負債総額は約六十億円でした。
――そんなに……。
中宮 弁護士さんたちには「自己破産したほうがいい」と勧められましたが、主人は嫌だと。「最後の一日まで頑張る」と言うのです。
 そうして、一九九五年の六月七日に和議を申請。たくさんのマスコミに「森八、事実上の倒産」と書かれました。地元では名前が知れていますから、まだ小学生だった次女は影響がないように私の実家や海外に避難させたりして、一家離散のような状態が続きました。
 
再建の要は
企業から家業へ
 
――しかし何か原因でそれほどの負債を? 不動産ですか。
中宮 いや、不動産は驚くほど持っていなかったし、バブル的な投資も一切していませんでした。一番の原因は社内の荒廃です。かつてのうちの労使関係の問題は金沢ではとても有名で、私か嫁いできた頃など赤旗が立っていましたからね、店頭に。
――えっ、お店に赤旗が‥
中宮 これは私か店に立つようになった頃の話です。いま、店に静かな音楽が流れていますよね。当時は店には音楽がないのに、従業員のいるバックヤードには流れていた。「これは何のための音楽なの?」と聞くと「僕たちがリラックスして働くためです」って。もうお客様のことなんて全然考えていないのね。自分たちのために会社がある。みんなそういう考え方だったんです。
 だから何十年も、経営状況がどうであっても、「ボーナス上げろ、給料上げろ」という要求をのまされ続けてきた結果、六十億円にまで膨れ上かってしまったのです。
――対外的な負債だけでなく、社内とも闘わなければならなかったのですね。
中宮 そういう状態ですから、従業員たちに「会社のために利益を上げ、コストを削減しよう」という意識もありません。
 包装資材などの発注を見直して、私か関係業者にコストダウンをお願いしたところ、これまで担当していた従業員は「みっともない。自分は値引きしてくれなんて一度も言ったことない」と。
 店頭でも懇意にしているお客様には値引きするとか、たくさん買ってくださったお客様に羊莫を一本サービスするといったことが平気で行われていました。それでは帳簿が合うわけありませんよ。
――長い伝統が逆に「会社は絶対に潰れない」という根拠のない驕りに繋がったのですね。
中宮 しかし、長年会社にぶら下がってきた人たちは、和議申請後、さっさと辞めていきました。早く退職金をもらったほうがいいと思ったのでしょう。
 誤解のないように先に申し上げますが、あの苦しい中でも私たちはいわゆるリストラを一切行っていません。でも、結果として、彼ら古参社員が自ら進んで辞めてくれたおかげで、いち早く企業から家業へと戻れたのです。これが私たちの再建の要でしたね。
 
お金がないからこそ
閃いた知恵
 
――家業に戻ったというのは、組織がスリム化したと?
中宮 そうです。社長に現場の情報が正確に入り、逆に現場も社長の指示ですぐに動けるようになりました。
 前はピラミッド式の組織形態で、部長会議、課長会議、○○会議と、会議ばっかりやっていたんですよ。それが機能していればいいですが、逆に大きな弊害だったのです。
 例えば会議で生産計画を決めていた頃は、工場では店で売れていようがいまいが、決められた数のお菓子をつくるわけです。で、売れ残ると「営業が悪いんだ」と。
――責め合いになるのですね。
中宮 責め合っても、結果的には会社が損をしているんですからね。
 幸か不幸か、和議を申請して本当にお金がなくなりましたから、つくり置きできるほどの材料を仕入れられなくなりました。限られた材料で菓子をつくり、一個たりともムダにできません。そこで事前に箱詰めするのをやめ
たのです。
 普通は六個入り、十二個入りというパッケージをつくって、お客様が注文されたらすぐにお渡しできるように
準備していますよね。うちも昔はそうしていましたが、そんなにたくさんお菓子を用意できなかったわけです。
 だから、「いまからお詰めしますから、お掛けになってお待ちください」と言って、注文が入ってから店の奥に走って必要個数をお詰めするようにしました。
 そうしたら、案外お客様はそういうものなんだと腰掛けて待っていてくださるんです。もちろん「急いでいる」というお客様には、手の空いている従業員が駆けつけてみんなで”バー”と詰め込む。
 これはロスを最小限に止めるばかりか、サービス向上にも繋がったんですね。箱詰めは油断すると「なんやこれ、三日前の商品やないか」ということになりかねない。私だったら、せっかく買うならきょう入ってきた新しいお菓子が欲しいですからね。ギリギリに追い込まれたことで、逆にお客様に喜んでいただける状態でお出しする体勢ができました。お金がない中で「どうしようっ!」と考えて、捻り出した知恵ですよ(笑)。
 
定休日を廃止
三百六十五日休まず営業
 
――そういう知恵や改革によって、少しずつ業績が回復していった。
中宮 そうですね、まず和議申請後すぐに定休日を廃止したことも大きかったと思います。
 それまでは第二、第四水曜日が定休日だったのですが、休めばそれだけ日銭が入ってこないし、何よりそんな中途半端なことはやめようと。やるなら毎日やる、休むなら水曜日を全部休みにするほうがいいと思ったんです。
 だってお客様は「森八は今週の水曜は休みで、来週やっている」なんて覚えてくださらない。一度行って休みだったら、「水曜定休」とインプットされると思うんです。そうしたら、せっかく営業している水曜日もムダになる。
――では、お休みなしで営業を?
中宮 もちろん従業員たちは以前と変わらずローテーションで週休二日体勢ですが、定休日をなくすというと少なからず抵抗感はあるんですね(笑)。あなたたちの労働時間は絶対に変わらないからと説明してやっと納得する。人って変えること、変わることを嫌がるものなのです。
――そういう数々の改革が奏功し、負債を解消されていったのですか。

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