あらかん青春日記

癌闘病後、体力回復に向けて、マラソンを始めました。平成23年3月12日より1km走るごとに10円貯金をして東北に送る事にしました

癌闘病 3入院

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術後の苦労

 痛風の痛みを膝に抱えていたので、痛みが、胸、喉、下腹部、膝と

4ヶ所から襲ってくるのでとても苦痛だった。

記録を見ると、ずっと熱が38℃を超えているので、あちこちで炎症をおこしていた模様。

胸は、手術の直接の痛みだが、どちらかというと鈍痛だった。

鼻から胃液を吸い上げるためのパイプを入れていたが、これが喉と食道をこすり、

どうかすると吐き気を誘発するので苦しかった。

戻すものは何もなく、ほとんどが唾液のようなもので、少し血の混じったものが出てきていた。

看護士さん達から、「戻して窒息することがあるからおとなしくしていて下さいね。」と脅された。

下腹部は導尿パイプによる痛みで、これが一番痛かった。

痛風の痛みも含めて、痛み止めの注射を何回か受けては、

ことんと寝ることを繰り返していたと記録されている。

9/6の手術後、9/10までいっさい飲まず食わずなのに、

喉も渇かねば、空腹感もなかったので、点滴の力はすごいなぁと思った。

導尿は9/8の午後終了した。これも当然だが、この間、尿意を感じず、

かといって、いつの間にか排尿袋に尿がたまっており不思議な気がした。

導尿のパイプを外すときは、ちくっとした痛みが走った。

導尿パイプ撤去後、自力でトイレに行って排尿できたときは、我ながら感動を覚えた。

健康なときには気付かないが、食事、排泄、呼吸を自力で出来ることが

こんなにも幸せなことかと改めた思った。

導尿パイプが外れてからは、同一フロアー(5F)での散歩は許されるようになった。

廊下の一番奥にエアロバイクがあったので、1回10分のバイクを1日3回義務づけた。

大した運動量でもなく、もっとたくさんしてもよかったのだが、退屈でそれ以上は気力が持たなかった。

いろいろなチューブが獲れると、自力でいろいろなこと(いわゆるエネルギー摂取と排泄)を

自分でせねばならないのだけれど、これが大変だった。

メスの入った食道は、きずあとがもりあがり、通路を完全に塞いだ状態になっていた。

いわゆる狭窄というやつらしい。唾液を飲み込んでも、食道の入り口でたまり、

そこがパンパンに膨らんだあと、限界に来ると吐き戻すという状態が続いた。

飲水をしても、口周りがぬれるだけで、すぐに戻すので脱水症状が繰り返された。

化膿止め等の点滴にくわえて、水分補充の点滴が外せない日々が続いた。

狭窄が起きない人は、このあとの食事がスムーズに行き、体力の回復が早く心配ないと言うことだった。

逆に、この狭窄の拡張がうまくいかないと体力の回復が思うようにいかないとのことで、

勝負はここからだと言われた。

手術がうまくいったかどうかは、まだ宣言されず不安だった。

食道壁を破ることなく、厚2mmのそぎ落としには成功したが、

そのそぎ落とした2mmの粘膜の、一カ所でも癌細胞が表面から内部を貫いていたら、

体内に残された食道にガン細胞が存在することになり、

これが増殖していくので別のことを考えねばならないというのである。

どのようにしてそれを調べるのかというと、そぎ落とした粘膜を広げ、

それらをさらに2mm四方に切り分け、

ガン細胞が表面から何処までの侵入でとどまっているかを調べるという。

食道の円周を100mm、長さを200mmとすると20000平方mm。

それを4平方mmに切り分けると、5000のかけらが出来る。

それを一つ一つ徹底的に調べて結果が出るということになる。(円周、長さは一つの仮定)

ぞっとする話だが、自分にはどうすることも出来ず、「わかりました」という意外に道はなかった。

体中、チューブだらけ

 あさ、痛みで目が覚めた。

鼻からチューブが胃袋に通されていて、今回の癌を作った胃液が吸い上げられる仕組みになっていた。

このパイプが喉をこすって、そのたびに嘔吐感が襲った。

それが胃袋と止血していない食道を刺激し、口に鼻血を出したときのような臭いがこみ上げてきた。

もちろん血も。

そのチューブと一緒に口と鼻を透明のお椀で覆われていた。

酸素吸入器だ。

点滴と、導尿の管とで、都合5本のチューブが体につながっていた。(点滴が2本有ったような記憶がある。)

どう見ても重病人に見える状態だった。

このまま、ベッドに寝ていて、足が弱っていったらどうしようという不安が一度に襲ってきた。

ブザーを押して看護士さんに「起き上がって良いですか?」と尋ねると、

「自分がどのような手術をしたか考えて下さい。そんな状況じゃないのですよ。許可が出るまでベッドに寝て置いて下さい。まぁ、そのくらい元気があるのはいいのですが・・・」と怒られた。

手術後の胸の痛み、鼻からのパイプによる喉の痛み、

導尿のパイプが泌尿器と膀胱に走らせる痛みで往生した。

朝一で、女房がやってきた。

嬉しかった。

僕と結婚せねば、こんな嫌な思いをせんですんだろうにと、すまない気持ちがした。

手術当日

9/2〜9/5まで、外食ばかりをした。手術への不安を紛らわせるかのように外出許可をもらった。

医者も、「手術後は食べられなくなりますから、今のうちに食べたいものを食べた方がよい」と言ってくれた。

外食のついでに、ビスコ大ぐらいの小さなウォークマンを購入した。

かぐや姫、陽水、たくろう、赤い鳥 や 落語 漫才のCDを片っ端から病院でウォークマンに落とし込んだ。

「聴きたい音楽やお笑いを聴くことは免疫力を高める」と言う話を信じての作業だった。

この作業が、気を紛らわせてくれた。

手術の前日は、意外に淡々と過ごすことが出来た。

「神業」的な手術への不安は重くのしかかるが、どうしようもなかった。

「今のうちに、女房と旅行にでも行って、思い出作りでもした方が良いのではあるまいか?」と真剣に思った。

人間、結局運命の流れのような物からなかなか外には飛び出せないのだなぁと、つくづく思った。


手術の日は、緊張のためか午前3時に目が覚めてしまった。

ウォークマンを聴きながら夜明けを待った。

朝の起床を促す放送が館内に流れてからがあわただしかった。

女房と下の娘が病院に着いた頃にはもう手術気に着替えさせられていた。

ばたばたしていたので、ゆっくり話すことも出来なかったが、これが返ってよかったような気がする。

午前11時、看護士さんが「がんばっていきましょう」といって、僕を車いすに乗せ、病室を出た。

予定より早く進んだために、上の娘は間に合わなかった。

上の娘の顔を見ないまま手術室に入るのは少し心残りがあったがどうしようもなかった。

手術室にはいると、七色に光るランプの着いた内視鏡がせわしく点滅していて、不安を煽った。

臆病者の僕には忍びがたい状況だったが、耐えるしかなかった。

点滴のチューブの横から麻酔薬のような物を入れられた。

頭の中がぼーっとしてきた。

「このまま目が覚めないと言うことが他界なのだろうか。」

「このまま何処に行くのだろうか。」

「体はなくなっても、意識は家族を見守ることが出来るのだろうか。」

癌と言われて以来、何度も何度も考えてきたことが再び頭の中を駆けめぐりながら記憶が薄れた。

再び、お医者さんや看護士さんの声が耳の中に飛び込んできた。

あとから看護士さん聞いたことだが夕方19時頃のことだ。

麻酔が切れた模様で、再度処置をされ、ぼーっとなった。

次に目が覚めたときは病室だった。

真っ暗な6人部屋のベッドの上だった。

他の患者さんは就寝しており、僕の枕元のランプだけが小さくついていた。

右手を女房が握っていた。

女房から「目が覚めたのね。うまくいったんですって。看護士さんに連絡してくるはね。」と言うので、時間を聞くと23時前だった。

病室を出て、ちょうど12時間。

「いきていた。よかった。」と叫びたい心境だった。

こどもたちは、手術の成功を見届けて病室の消灯時間と同時に帰ったとのことだった。

看護士さんがやってきて「目が覚めましたね。おしっこが出ますか。膀胱が破裂するから導尿しましょうね。」といった。

「導尿って、管を入れるんでしょう?痛そうだから、何とか自分で出してみます。」と言って排尿を試みるも、全く体に力が入らずままならなかった。

10分ぐらいしてまた看護士さんがやってきた。「出そうにないですね。導尿しますよ。」といわれた。

渋々「お願いします。お手柔らかに。」と言うとあっという間に下着を下げられ、

なにやら処置をされた。「うっ!」と下腹部に鈍痛が走った。

同時に管を通じて、排尿袋いっぱいに尿が出て、下腹部がすっきりしていった。

同時に、再び睡魔がやってきて寝入った。

 大学教授による回診があった。

 僕の手術をしてくれる先生を指導している先生だ。

この先生を先頭に、研修医や中堅の先生や看護士さんが全病室の患者の回診に当たるわけである。

パソコンもカートに乗せられて回診に着いてきた。

パソコンの画像やデータを元に、教授が患者に声をかけるのである。

そのときの様子が、細かく記録に残っている。



 病状を告げられたあと、

何度も「夢ならさめて欲しい」「どこかに逃げ出したい」という気持ちに駆られた。

しかし、それはどうしようもないことだった。

当然、家の中も暗く沈みがちになるのだが「このようなときこそ明るく!」と、自分に言い聞かせ、

関西育ちで培ったお笑い精神を発揮することに努めた。

家族も、その気持ちを酌んだようで、努めて笑いを持ち込みながら、

それぞれの日常生活のペース維持に努めていたようだ。


 3人のお医者さんが、治療に当たってくれた。

一人は、今回の病例の研究者(直接手術をしてくれる先生の指導者)。

もう一人は、直接手術に当たる先生。

もう一人が、日常的に僕のようすをチェックしてくれる先生。 

治療法は、「放射線治療」「患部切除」「全部摘出」の3つが提示された。

それぞれの一長一短の説明を受けた後、どれかを選ばなくてはならなかった。

医学の知識が乏しい中、図書館でいろいろ調べたり、友人に相談したり、

インターネットでチェックしたりに時間を費やした。

わかったことは、いずれもかなりやっかいであると言うこと。

明るい材料を探しているのに、暗い材料が次々に出て来る毎日だった。



 結局、入院後に最終的な説明を受け、患部を削ぎ取るという方法を選択することになった。

しかし、患部はあまりに広かった。

「4ミリの厚さしかない臓器の壁から、厚さ2ミリ分をきれいに削ぎ尽くす手術は、神業なんよ。」と、

医者である友人から告げられた。

何回かに分けてしてもらえないだろうかと思った。

しかし、医学書には、この手術は1回で決めねばならないことが重要注意事項として書かれており、

担当のお医者さんからも友人からも同じことが言われた。

僕は、時々、魚を3枚におろしてお刺身を作ることがある。

皮をそぎ取るとき、僕は、いつも、皮を破ったり、身を皮に残しすぎたりと苦戦する。

それを考えると、僕には信じられないようなぞっとする話だった。


 治療方法が決定したあと、内視鏡による僕の内臓写真を元に、

僕の治療に当たってくれる3人の先生が回診に来られた。

トップの先生から、「患部が非常に広い。」という内容の話と、

選択された治療方法の難しさの説明があった。

自分の顔から血の気が引くのを感じた。

しかし、どうしようもない。

頷くしかなかった。

おそらく、誰にも見られたくない情けない顔をしていたに違いない。

先生たちが病室を出て行くとき、手術を担当する先生が最後に残り、

ぼくに近づいて来て、小声で「大丈夫ですよ。しっかりやりますから、がんばりましょう。」と言った。

そのときの先生の目の光、言葉の響きは今も鮮明に思い出せる。

自分の中から、力が涌き出てくることを感じた。

「言葉には魂がこもっているから言霊と呼ばれてきたと言う話を聞いたことがある。

本当にそうだな。言葉は生きていて、力があるんだな。」と実感した。

今も耳に残るこの先生の一言は、その後も、僕を励まし続けた。



 

 結局、内視鏡で食道全体の粘膜をすべてに渡ってそぎ取ることになった。

食道の粘膜の厚さは4mm。そのうちの2mmをそぎ取るわけである。

医者のガイドラインとしては、全周そぎ取るのは危険で、

この症状なら全体摘出と言うことらしかったが、お医者さんの話の様子から

(こちらから随分探りを入れた。「あくまでも患者さんが決めることですから」と、

なかなか情報が出てこなかったが、内視鏡による手術の第一人者であるから、

この先生を頼ってこの病院に来た原点を大切にした。

後日談だが、先生は内視鏡で治療してみせるという自信があったそうである。

もちろん、全摘でも治療は可能だが、体へのダメージが大きくなるということだった。

また、内視鏡によると、そぎ残した部分に癌が入り込んでいたら

リスクが大きくなると言う問題点もはらんでいた。)


 この日(9/1)、先生からの話は、女房と、上の娘も一緒に聴いた。

上の娘がいろいろな質問をするので、「しっかりしてきたな。」と

最悪の状況に対しての妙な心強さを覚えた。

手術は、前処置からあと処置まで含めて、最低6時間はかかると告げられた。

この日は外泊許可をもらい、夕食は、女房と上の娘と3人で寿司屋さんに行った。

下の娘は大学の試験の関係で返ってくることが出来なかった。


 翌日は(9/2)、朝から庭の草むしりをせっせと行った。

入院前に取って行ったのに、随分伸びていた。

その生命力に改めて感心した。

そのあと、実家の両親の顔を見に行った。

両親には「検査入院」とだけ伝えた。

父も痛風で苦労していたので、冷やすための湿布やアイスノンなどを求めて買い物用事を済ませた。

母親がトマトが好きだったので、甘いトマトを作っている農家まで出かけて

とびきり甘いやつを箱で買った。

もっと、日常的に親孝行をしておくべきだったと後悔をした。


 用事を済ませて、女房と二人で家にもどり、市民図書館で落語のCDをたくさん借りた。

(病院で、暇さえ有るとこれを聴いた。若い頃から、落語は話術を盗むためによく聴いていた。

 相手を引き込む語りのコツを学べたので、仕事にも役に立った。

 私が、落語に詳しかったので女房が「ここまで詳しいとは知らなかった」と驚いた。

 何年か前に、家族でわざわざ大阪まで寄席を見るためだけに旅行に出かけたことを思い出した。

 もし元気になったら、今度は東京の寄席に行きたいと思った。)


 病院に戻る前に、女房と二人で、近所の高さ248mの低い山に登に行った。

二人でそろって山に登るようになって3年。

次に山に登るのはいつだろうかと思った。

女房が、「退院したら、湯布院に行って、久住にのぼろう」と言ったので、

それを目標にすることにした。

この日は、「めしや」というのにふさわしい大衆食堂で女房と食事した。

食べ過ぎた。

手術日9/6まであと4日。

この日、若い人がよく使っている音楽のスティックを買った。

病院で、パソコンを使って、せっせと音楽や落語を録音した。

日記を見ると、自分が選択した治療法がベストなのかどうかの不安を抱えながら、

あれこれ忙しく数日間を過ごしていることが細かく記録されている。

日記は、家族への手紙をのようなものだったに違いない。


 翌日(9/3)は心臓のチェックがあった。

そのあと、女房と外出をした。この日も、ドライブに出かけた。

おいしいと評判の焼き肉屋さんで、

いつもは頼まないような特上のものを頼んでたらふく食べたことが記録されているから笑ってしまう。


 この日の帰りに「かぐや姫」などのCDを購入した。

レコードは持っていたが、病院で聴くのに手軽なので、いくつか見繕った。

病院に戻って、せっせとスティックに録音した。

音楽を聴きながら学生時代の頃のことに思いを馳せた。

どうしても「あの頃からこの運命のレールは引かれていたのか、

それとも、その後の生活の問題なのか」と考えてしまうようだった。

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