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尖閣列島が話題になってますね。
かねてから興味ありで、若干纏めてみました。(ウイキペディアとそのリンクからの抜粋です)
尖閣諸島の位置
尖閣諸島は沖縄県石垣市に属し、八重山列島からは北北西に約150Km、台湾からは東北東に約170Km離れている。 主要な島の状態
魚釣島(うおつりじま、中国名:釣魚台、釣魚嶼など):
面積は 3.82 K ㎡。島南側に海抜 200 - 250 mの急峻な崖が東西に横断している。最高部は標高362 m。
(中国名を入れたのは後述の古文書参照の為だけです) 北小島(きたこじま、中国名:北小島、薛坡蘭、黄茅嶼など): 面積は 0.31 K ㎡。 南小島(みなみこじま、中国名:南小島、薛坡蘭、黄茅嶼など): 面積は 0.40 K ㎡ 久場島(くばじま、中国名:黄尾嶼、黄麻嶼、黄毛山など): 面積は 0.91 K ㎡。
大正島(たいしょうじま、中国名:赤尾嶼、赤坎嶼など): 面積は 0.06 K ㎡。
領有権問題 尖閣諸島の領有権問題は昭和44・45年(1969、1970年)に尖閣諸島近辺に大量の石油の埋蔵が発表されるとにわかに注目されたもので、それまでは尖閣諸島を日本の領土としていた中国と台湾が突然、「尖閣諸島は我が固有の領土だ」と主張し始めた。
外務省の基本見解
尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行 ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入 することとしたものです。
1895年5月 発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれてい ません。 従って、1951年9月8日のサン・フランシスコ平和条約においても、 尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)により
我国に施政権が返還された地域の中に含まれています。
旧ソビエト政府機関作成の沖縄の1967年の地図
USSRは1951年9月8日の調印当事国ではありませんが、連合国側のソビエトが、
Senkaku guntoは(Jap)と表記されており、日本が放棄した台湾に含まれていると認識していません。
国際法上の領有権
現代における領有権問題の基本をなす国際法は、1928年4月4日 に常設仲裁裁判所で下されたパルマス島の判例において明確に
発見だけの領有権原に制限を課している。(パルマス島の領有権をアメリカとオランダが争ったもの)
国際法は明確に領有権を「発見=領有権の発生」というかつての国際法を制限し、継続的かつ平和的な権原の行使が優越する としているのである。 日本の「継続的かつ平和的な権原の行使」の写真
明治40年代には古賀辰四郎が経営する鰹節工場があり200人程が居住していた。
魚釣島島民(1910年頃) 鰹節作業(1910年頃)
船着場(1910年頃)と(2000年頃) 1中国の歴史書に釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼という中国名で尖閣諸島の島々が記述されている。
①1534年の陳侃(チン・カン)の『使琉球録』
中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使・陳侃の『使琉球録』に尖閣の記載がある。
それによれば、使節一行の乗船は、1534年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎ、那覇へ向かったという。
しかし
尖閣諸島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』の中でこれをあきらかにしている。
『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へ至る路程について知識を有する者がいたことを誌している。 その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からであると、鄭舜功自身が述べている。
明の冊封使が琉球へ赴いた回数は約500年間で合計23回、これに比し琉球船は陳侃までの時代に、既に281回中国へ赴いていた。
琉球人が既に、この航路を熟知しており陳侃らにこの航路を教えた事は明らかである。
②『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(1562年刊)
同書の巻一「沿海山沙図」福七、福八には、福建省羅源県・寧徳県の沿海の島々が描かれ、それには、?籠山、彭化山、釣魚嶼、化瓶山、黄毛山、橄欖山、赤嶼など、尖閣諸島に連なる島嶼が含まれている、というのである。
しかし
同じ『籌海図編』でも、巻四の中の「福建沿海総図」には、尖閣諸島はおろか、台湾や基隆嶼、彭佳嶼すら描かれていない。
よって「沿海山沙図」に尖閣諸島が描かれた意図は、これらの島嶼が、倭寇が襲来する際の進路にあたり、本土防衛上注意すべき区域であることを示すにとどまる、との考えが日本側の主張である。 以上の様な各歴史書を基に中国は次のように主張している。
「この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆(キールン)とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。 その台湾の付属の小島が釣魚嶼である と、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島が中国領であることは、これによってもまったく明確である。」 しかし
明王朝(1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から着手され、60年の歳月を費やして1739年に完成、刊行した勅撰歴史であるが、
『明史』は「鶏龍国(=台湾)」は「日本に属す」と外国の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記している。 清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、「日本に属する」と公的に記録されている。例えば、乾隆版『大清一統志』には、「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。 2、大陸棚論
中国の主張に「尖閣諸島は中国の大陸棚に在る」との大陸棚論がある。尖閣諸島は地質的には琉球列島には属さず、中国の大陸棚上に在る事は事実である。
しかし、「大陸棚に在る」だけで自国領とは言えません。
国連海洋法での「大陸棚条約」は「国の管轄権の及ぶ境界外の海底及びその下並びにその資源に関する規定である」とあり、
領土や領海を定める規定でなく、その「境界外の海底」の権利を規定したものです。
中国はフィリピンやベトナム、マレーシアなどと南沙諸島を巡って領有権争いをしているが、南沙諸島は、地質的にはこれら東南アジア諸国の大陸棚上にあり、中国とは連なっていない。
中国の主張はダブルスタンダードですね。
結論
1.中国、台湾は1970年までは自国領土とは認識していなかった。
国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は、1969年5月に尖閣諸島のある東シナ海から黄海について、石油天然ガスの海底資源が豊かに存在する可能性を指摘した。
そのすぐ後、台湾は1970年に、中国政府は、1971年12月30日領有権を公式に主張した。
更に、1951年9月8日のサン・フランシスコ平和条約第3条で尖閣諸島はアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日沖縄返還協定により尖閣諸島は我国に施政権が返還されたが、これを不法と主張するようになったのは、1970年代に入ってからである。 戦後の25年間も、尖閣諸島については領有権を主張することはなかった。 2.1920年中華民国駐長崎領事の感謝状、 1953年1月8日付の中国「人民日報」など中国が尖閣諸島は日本領と認識していた資料は有名。
1920年中華民国駐長崎領事の感謝状
1920年に中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐らに感謝状が贈られる。
それには尖閣諸島のことが「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていた。
1953年1月8日付の中国「人民日報」
中国共産党機関紙「人民日報」は、「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」と題して、米軍軍政下の沖縄での日本人民の闘争を報道し、そのなかで、「琉球群島は、わが国台湾の東北および日本九州島の西南の間の海上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、吐か喇(とから)諸島、大隅諸島など7つの島嶼からなっている」と、「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していた。
以上で結論は明白でしょう!
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