三鷹をベースに北海道やチェンマイでシニア暮らし

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北方領土

北方領土について纏めてみました。
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以下、纏めましたが、疑問点が二つあります
1.1951年のサン・フランシスコ平和条約で何故千島列島全てを放棄したのか?
ウルップ島以北の島々は平和裏に日ソで決めた日本の領土です。放棄する必要はなかった筈ですね。
2、サン・フランシスコ平和条約締結後、10月の衆議院で外務省条約局長が「国後・択捉は日本が放棄した千島列島に含まれる」と答弁したのは何故か? (注:歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に含まれない,が当時の日本政府の説明)
米ソに気兼ねか?圧力あったのか?
どなたか お教え下さいな!
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一昨日の朝日新聞にわかり易い地図表示がありましたので、これを利用します。コメントは(北海道総務部北方領土対策本部)
 
(北方領土の歴史)
1855年の日露通好条約
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1855年(安政元年)、伊豆下田において「日魯通好条約」が調印されました。
 この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決められ、 択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。
 また、樺太は今までどおり国境を決めず、両国民の混住の地と定められました。
1875年の樺太千島交換条約
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1875年(明治8年)、日本は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました
この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、 列挙されている島は得撫島以北の18の島々であって、択捉島以南の北方四島は含まれていません。
1905年日露ポーツマス条約
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1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され
北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました
 
1951年サンフランシスコ平和条約
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1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。
この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました(ソ連はサンフランシスコ条約を批准していない)。
放棄した千島列島の範囲は明記されていない が、日本は
「北方四島は放棄した島には含まず」と言う立場。
 しかし、1951年10月の衆議院で、西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれるとの答弁を行っております。(注意:歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり千島に含まれない、が当時の日本政府の説明。)
 
(北方領土問題)
■北方領土問題は、昭和20年8月9日ソ連が日ソ中立条約を無視して対日参戦
ソ連軍は、昭和20年8月15日の無条件降伏後の8月18日から9月5日にかけて、我が国固有の領土である択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を不法に占拠したことにはじまります。
択捉島は8月28日に占領、国後島・色丹島は9月1日に占領した。歯舞群島は9月3日に作戦を開始し、9月5日夜に捕虜を国後島に移送した。
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■昭和31年の日ソ共同宣言により国交が回復しました。
本宣言では、平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する旨規定され、両国の国会・最高会議で批准されました。 

■「日ソ共同宣言」締結後、東西冷戦が続くなか、昭和36年9月、ソ連のフルシチョフ首相が「北方領土問題は解決済み」と言明。
■平成3年4月には、ゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初めて来日し、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが確認され、平和条約締結作業を加速することの重要性が強調されました。
■平成4年4月からビザなし交流制度が作られ相互訪問が行われています。
■平成5年10月にはエリツィン大統領が来日し、『東京宣言』が署名され
「①領土問題を、北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題であると位置づけ、②領土問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決して、平和条約を早期に締結する。」
との明確な交渉指針が示されました。 
■政府は、2000年の早い時期で首脳会談を行うよう取り組んでいましたが、平成11年12月31日にエリツィン大統領が辞任し、プーチン首相が大統領代行となり、平成12年3月26日には、ロシア大統領選挙が行われ、プーチン大統領代行が当選しました。
■平成12年4月森・プーチン大統領首脳会談
■平成151月、小泉総理プーチン大統領首脳会談
■平成196月 安倍総理プーチン大統領首脳会談
 
(日ロ通好条約前後の千島・樺太状況)
1615年松前藩の記録である「新羅之記録」によると、東方地方に住んでいたアイヌの人たちがラッコの皮を松前藩主に貢物として送り、松前藩はこれを徳川幕府に献上したと記録されています。
1644年 幕府は、諸藩に国(藩)ごとの地図の作成を命じたが、
松前藩が提出した地図(正保御国絵図)には、知床半島と納沙布岬の東北に大小39の島々がかかれており、そのうち、34の島には、「くなしり」、「えとほろ」、「うるふ」などの名前がつけられていました。
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■ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査し、ラッコの捕獲などを行ったが、択捉島のすぐ北の得撫島を越えて、南下してきたことは、一度もなかった。
 これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります
■1754(宝暦4年) 松前藩が国後場所を開設。
■1786 最上徳内、択捉島に渡り、ロシアの南下の様子を調査
■1798幕府は、択捉島に近藤重蔵らを派遣。近藤らは、同島丹根萌に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建立
■1800 高田屋嘉兵衛、択捉島に17ヶ所の漁場を開く
■1811年(文化8年)千島近海測量の途中、国後島に立ち寄ったロシアのゴローニン船長らが南部藩に捕らえられ、松前に護送された。
一方、翌年、高田屋嘉兵衛も国後島付近で、ロシア船に捕らえられ、これを契機に、1813年(文化10年)日ロ両国の間で、国境を決める交渉が始まりました。
■交渉は難行したが1855年(安政元年)に、「日魯通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決まりました。
これにより、択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国の混住の地と定められました。
■政府は、樺太におけるロシアの南下に十分対応することができず、1875年(明治8年)「樺太千島交換条約」を結び、それまで、ロシア領であった得撫島以北の18島を譲り受けました。
■1923年には、北方領土にも町村制が施行され、各島に村役場が置かれました。
歯舞群島は歯舞村に属し、得撫島以北の島々は町村制が施行されず、根室支庁の直轄となっていました。
昭和5年時点で、国後島で約8,300人、択捉島で約6,300人が住んでおりました
 

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