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献金の勧めをいうと、今ではネット社会で「牧師はお金がほしいものだから」とメチャクチャ書かれることがあります。しかし、聖書をまんべんなく教えようとすれば、牧師は当然、献金についても教えなければなりません。それは献金の教えは、聖書にも教えられてもいるし、現実として献金が無くては、教会は仕事が出来ないでしょうし、教会がなければ、あなたは救われなかったかもしれないからです。だれかが献げたから、あなたが救われたと言っても過言ではないでしょう。
日本人の献金の感覚は、教会のことを知らない人の場合は、初詣で神社で投げるお賽銭の感覚ではないでしょうか。今は初詣にいくら投げるのかわかりませんが、「投げる」というのですから、今でも圧倒的に多いのが、コインだと思います。あの感覚で、たとえば100円玉の献金で、仮に100人集っている教会があるとしましょう。全員が100円玉の献金をして、毎週1万円、これで教会が維持出来るでしょうか?
以前、私達の教会に来ていた、ある自称クリスチャンが、その知り合いの方と礼拝に参加しました。その知り合いのかた(未信者の方です)は、礼拝に感動して、10ドルを献金しようとしました。そうしたら、それを見たその自称クリスチャンは、「そんなに出さなくてもいい。献金は1ドルでいいのです」と言って、10ドル献金しようとした方の献金を、制止したのです。その自称クリスチャンは、いつも1ドル献金をする人でした。(アメリカでは献金には領収書を出さねばならないから、匿名でない限り金額がわかります。)その自称クリスチャンは、おそらく新生の体験はなかったでしょう。しばらくして、教会にも来なくなりました。
教会が前進できるのは、日本的な「お賽銭献金」ではなく、教会の維持や、発展に欠かせない、什一献金(全収入の十分の一を献げる。そういう献金をする人。英語圏ではタイザーという。)をする人がいるからです。献金は信仰によります。日ごろの生活は、そう豊かそうではない人でも、聖霊の導きで、またその人の信仰で、ビックリするような高額の献金をなさることがあります。信仰がある方は、聖霊さまによる感動から、十分の一の献金でも、ごく普通に出来るのです。主に期待するという信仰のない人は、いくらお金持ちでも献げられません。献げる人達は、強いられてではなく、喜びをもってそうなさっているのです。全収入の十分の一は、まず主にささげ、十分の九で生活する習慣を身につけたいものです。彼らは、主にあって祝福された生活をしています。
これまで、タイス(什一献金)ができなかった方々は、クリスマスに、クリスマス献金をしてみましょう。お友達や家族に相当お金を使ってプレゼントを買うことは、悪くは無いでしょうが、それではクリスマスの主人公、イエスさまに対するお祝いは何でしょうか? 東方の博士は、黄金、乳香、没薬を持って、嬰児を拝みました。
とりあえずクリスマスに、主に対してクリスマス献金をして、礼拝するのは、適切ではありませんか?お賽銭のような、コイン献金や、1ドル献金をしていた方々は、このクリスマスの時期、思いきって、そのお賽銭献金の100倍くらいを、主イエス様に、クリスマス献金として献げてみてはどうでしょう。そうして主がいかに、あなたを祝福して下さるかに期待していただきたいのです。
しかし、重ね重ね申しますが、献金は、各人が心に決めたように、決して強いられてではなく、各人の信仰に従って、喜こびと感謝と献身の心で、献げようではありませんか。
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ささげ方で、信仰のあるなしって分かってしまうものですね。ささげるのにケチケチしたらダメですよね。「少しだけ蒔くものは少しだけ刈り取り」とありますし。
2008/12/21(日) 午後 5:04
前島先生、コメントありがとうございます。
ある時、教会の若い女性達に、「結婚相手に、絶対ケチを選ぶべきではない」と話したら、皆さんうなづいていました。別に信仰のあるなしに関わらず、ケチはだめですね。そう思います。鈴木健二アナウンサーのお書きになった、「気くばりのすすめ」にもそう書いてあります。
2008/12/21(日) 午後 5:31