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復活信仰 1コリント 15:12-15
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
十字架でお死にになった、イエス・キリストは、三日目に墓を打ち破って、死人のうちより復活なさったのです。このステイトメントは、ある人々には非常に奇妙に聞こえますが、正真正銘の事実です。キリストの復活を信じることが大切なのは、希望的な方向の意味と、悲観的な方向の意味があります。しかし、まず何と言っても、復活が事実であったということから確認していただきたいと思います。ヨセフスという歴史家がおりました。この方は、大体AD37−100 位にいた方です。ユダヤ人ですが、ローマとの戦いで、ローマに投降して、ローマ側で「ユダヤ戦記」というような、歴史書を書きました。別にクリスチャンではありません。しかし、こういうクリスチャンでない方でも、キリストが十字架に架けられたということは、歴史の事実だという風に書いています。キリストの十字架の事実は、この国に、ジョージ・ワシントンはいなかったとか、日本に聖徳太子はいなかったというように、無茶な話なのです。
さて、十字架の事実は認めるとしても、ある人たちが、「キリストは復活しなかった」という理由を挙げるとするなら、・・・・・ キリストは十字架で、死んではいなかったのではないか?気絶していただけではなかったか? だから「三日目に復活する」などと言った手前、生きていたので、どこかに逃げ出してしまった・・・という説。
これはおかしな話です。まずキリストが十字架に架かったことを認めるなら、どれ位架かっていたか・・・・ですが、朝の九時から三時まで、六時間から両手両足を釘付けされたのです。生きていられると、お思いですか? 十字架から下ろす時、とどめと刺す意味で、足を折る習慣がありましたが、ローマの兵隊がチェックしてみると、イエス様はすでに死んでおられたので、足を折らず、代わりに槍でわき腹を刺されているのです。つまり両手、両足、そしてわき腹に、重症を負っておられるのです。
それにも関わらず、「気絶しただけで、本当は生きていた」と言う人たちは、彼のそれらの傷を考えてください。また墓に入れられたときは、この地方の習慣で、遺体は、布で巻かれるのです。そういう重症の状態で、どうやってその布を振りほどくことができましょう。
サンホゼにエジプト博物館があります。あそこに布で巻かれたミイラが何体かあります。あんな感じで巻かれていたのでしょうか? それだけ重症のイエス様が、その布を取り除けることができたでしょうか? 無理です。
更にお考えください。あの地方の墓は横穴で、そこには、石で蓋がしてあったのです。釘付けられ半日もさらされていて、ローマの兵隊も確かに死んだと確認したイエスさま・・・仮に気絶しておられただけであっても、布で巻かれ、その傷は重症であったはずです。そのイエス様が、痛み、苦しみをもものとせず、布を振りほどいて、大きな石の蓋をどけて、抜き足指し足で、ローマの兵隊にみつからないように逃げる、などということが可能でしょうか? 無理です。
弟子が、盗んだという説。
まずお弟子さんたちは、あの「死んだとしても、あなたにお従いします」と言ったのに逃げ出したペテロのケースでも分かるように、みんな臆病だったのです。そういうリスクを負うでしょうか?特に、律法学者や祭司達は、弟子たちが盗みに来ることを予想していました。それで、その墓の前には、弟子たちが盗んだことで、「復活した」などという噂が立たないようにと、ローマの兵隊を見張りに立たせていたのです。そんなローマの兵隊が見張りをしているところに、ビクビクしていたお弟子さんたちが、遺体を盗みに来られるでしょうか? 無理です。
更に、百歩譲って、弟子たちが首尾よく遺体を盗めたとします。しかしそれなら、キリストは復活したのではないことになります。弟子たちが、どこか別のところに葬って、自分達は「復活した」と騒いだのでしょうか。と言うことは、復活はもともとデタラメということになります。人は、デタラメのことに命を賭けることができるでしょうか?人は真理のためには、命を失ったとして悔いを残しませんが、デタラメのことのためには悔いが残るでしょう。それと、そういうデタラメのことは、普通はキリストの復活の真理のように、世代をこえて続くことはありません。それは無理です。
キリストは、聖書の言うように、確かに復活なさったのです。
次に、この復活を信じる信仰の希望的方向の意味です。 パウロは、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)」と、キリストにある者は、死んだ者も、その時キリストにある者も、復活することを告げています。また、「いつまでも主とともにいることになります」と言います。
私達がキリスト教信仰をもつのは、ここにあるのです。「いつまでも主とともにいることになります」とは、いつまでも生きるということです。キリスト教は、「生きる」人のための宗教です。 次に悲観的な意味を知っていただくことも、キリストの復活を信じる信仰が何故大切かがよくわかります。
次のみ言葉を知ってください。人は死ねば、みな同じだと思うかもしれませんが、そうではありません。ヨハネ5:29 は、「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」と言います。ここには、キリストを信じなかった者も、一応よみがると書いてあります、「裁き」のために。この裁きというのは、永遠の裁きと言って、非常に厳しいのです。なぜそれが分かるといいますと、死んで黄泉を経験なさって復活なさった主の言葉として、黙示録では「また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録20:6-8」とあるのです。
この世で、主のみこころを行わず、また人々にも迷惑をかけっぱなしでやりたい放題をやる者、復活なさった神なるイエス様に無礼をしっ放しの者と、神と人とに仕え、主にあって敬虔に過ごした者が、同じであるわけがありません。
確かに、もし「キリストが復活なさらなかったら」、キリスト者は大ばか者のペテン師で、多くの人々をだまし、たぶらかしているだけの輩です。まさに、「私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです」とある通りです。 ところが、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」
信じる者には、復活の命があるのです。永遠の命があるのです。
ですから、あなたも、ぜひ、キリストの復活を信じで、キリスト者として、あなたもまたやがて復活し、主と永遠に生きる者となってください。 祈りましょう。
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