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  紅葉は桜と同じくらい短い。あっという間に色が変わり落ちてしまう。撮影は咲耶子

東野圭吾の小説を原作にしたミステリー映画「人魚の眠る家」は、
篠原涼子と西島秀俊を夫婦として、突然、子供が脳死する場面から始まる。
※「人魚の眠る家」公式サイトはこちら → ningyo-movie.jp/
脳死を死として受け入れられない親が科学技術を使って、娘を生きているかのように動かす。
悲しいはずのストーリーが母親の狂気によって徐々にホラーの様相を帯びてくる。

だが私たちは彼女の愚かさを責められない。まして非難すら出来ない。
なぜなら子供を持つ親なら「自分もきっとそうする」と思うからだ。

もしもこれが他人の遺体なら冒涜である。寿命を真っ向から否定し神の仕業を行おうとする傲慢な行為となる。

では死んだ我が子に同じことをする親はどうだろう? 他人と我が子の違いは、そこに深い愛があるかどうかである。

深く愛するものを、死者の意思を無視して引き止めるのは、愛だろうか?
それとも執着だろうか? どちらとも言い難い。
とはいえ、それは一線を越えていることは確かだ。
一線を超えた行為には歪みが生じ、その不自然さはいつしか周りを不幸にしていく。

もう一つのテーマは臓器移植である。
ストーリーの中に逆の立場の親が出てくる。
つまり死亡した人から心臓提供を待つ重病の子の親だ。
心臓移植でしか我が子を助けられない親。映画では彼らに、こう言わせている。
「誓っていることがあるんです。私たちはドナーが出て欲しいと望むことはしまいと」

清い悲しい誓いである。だが、その誓いには何か違和感がある。もし、あなたが子を持つ親なら思うだろう。
他人の死を望むという罪悪感を引き受けてでも、我が子のためにドナーが出ることを心の奥で願ってしまうと。

脳死とは心臓停止による死と違って、あたらしい死の概念だ。
アメリカでは脳死を死の定義とし、年間二万件以上もの臓器提供者がいる。
だが、このような臓器移植大国でさえ、今でも死の定義が揺れている。
なぜなら奇蹟のような例外は常に存在する。
脳死状態で14年以上成長し続けている少年」など175例が挙げられるのだ。

このようにアメリカですら「脳死を人の死」とすることに対して疑問の声をあげる医師は多い。
それは脳自体、まだ未知の部分があまりにも多いからだ。
完全に機能を失った脳は考えることもないし、身体を維持することもない。
理性はその理屈を受け入れても、感情は血の通う温かい肉体を死んでいるとは受け入れられない。

父親が言う。
「あの子はいつ死んだのだろう? 私の中であの子が死んだのは心臓が止まったときなんだ」

それを受けて医師は言う。
「ならば、お子さんは今でも生きていますよ。お子さんの心臓はこの世界のどこかで今でも動いているのです」

身体の一部が主人を変えて生き続けるなら、身体全体が生き続けることは許されないのか?
私たちは進歩する科学の前で、ただ逡巡している。



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画像は広告からお借りしています。

※あらすじ
1962年に米国人として初めて地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士ジョン・グレンの功績を影で支えた、NASAの3人の黒人系女性スタッフの実話、黒人であるというだけで理不尽な境遇に立たされる彼女たちだったが・・・。

偏見というのは恐ろしいものだ。1960年代、あの頭脳集団のNASAでさえ「白人用トイレ」と「非白人用トイレ」があった。

どうやら人間は、どんなに高い知能の人々でも、感情(嫌悪感や非好意)を優先させ、合理性(無駄がなく能率的)の素晴らしさに気づかないようだ。

愚かなことに、多くのマイノリティがこの非合理的な「偏見」のために排除され、才能を発揮できなかったに違いない。
言い換えるなら、人類の進歩がこの「偏見」のために、何度も後退、足踏みをしたことは明らかである。

もしも、世界に「偏見」がなかったら、文明は想像もつかぬほど先を歩んでいただろう。
大げさなようだが、今、人類が抱える問題の多くは、とっくに解決済みであったに違いない。

21世紀に持ち越された、あらゆる偏見に絶望的な思いがする。
ただ、この映画の語らんとするところは少し違う。

その偏見という深い闇に、一筋の光を見出している。

60年前のアメリカで、黒人として、しかも女性として生まれることは、スタートからハンディキャップである。
だが、才能すら無視される偏見社会に、彼女たちは果敢に立ち向かう。

彼女たちの戦いぶりは、自信を失いかけている私たちに勇気をくれる。状況は自分で変えていくしかない。

この実話が救いになるとすれば、ひどい状況の中にすら、出口は見出せるのだという事実にある。

アメリカの黒人差別は、日本人には理解出来ぬほど根が深い。それは現在も幅を利かすKKKを、一国の大統領が擁護する態度を見ればわかる。

だが、天才は一部の人種のみに生まれるわけではない。偉大な指導者は一部の国のみに生まれるわけではない。

あなたの基準(偏見による)に属さない人種を分断し排除すれば、気分はすっきりするかもしれない。
だが、人類の進歩は協力と共感でしか生まれない。これは気分の問題ではない。

これは合理性の問題だ。そして皮肉なことにAIの得意分野でもある。


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            映画の広告からお借りしてます。

映画「僕のワンダフル・ライフ」のストーリーは、簡単に言えば少年に命を救われたゴールデンレトリバーが、少年を愛し続け、転生を繰り返しながら再び少年に、たどり着き、そこで初めて自分の使命に気付く物語である。

解説によると、もともと愛犬を亡くした恋人を癒す目的で原作が書かれたらしい。

なるほど、だからあんなにも、ほっこりと心が温まるのだ。
ペットを飼い、ペットにお別れをした経験のある人なら号泣するだろう。
もちろん、ペットを飼ったことのない人も、不思議な涙を流す自分を体験するだろう。

それは、犬の健気(けなげ)な一生のみならず、人としてのほろ苦い人生もさりげなく描き出しているからだ。

犬のベリーの愛する少年も、夏の光のように輝かしい少年時代を過ごす。
子供時代、私たちは、周りで起きている少し不穏な空気(作中ではアル中気味の父親)をものともせず、純粋に今という瞬間を楽しむことを知っている。
麦畑を駆け抜ける少年と犬の関係は、まさにそれを体現するものだ。

だが、いつしか少年は青年になり、青年の見る家族への目線も、もっと冷めたものとなっていく。

青年は人生のクライマックスのような恋をするが、
もちろん、長い人生には光だけでなく闇も訪れる。
夏は終わり、厳しい冬が突然やってくる。

長く生きた人なら、このような人生の浮き沈みを少なからず体験しているだろう。
人生とは、ほろ苦いものである。

そして青年は中年となり、訳知り顔で、孤独と慣れあう人生を選ぶ。

だが、犬のベイリーは違う。人間の数倍速で一生を送り、何度も生まれ変わる。
めげている時間など無い。

犬と人間の違いは、今を生きているか、いないかだ。

この映画のテーマである『ただ 
今を生きる 今を一緒に生きる』は、私たちに人生への付き合い方を示してくれる。

純粋に「一緒に今を生きる」ことの大切を、私たちは心の奥底で痛いほどわかっているからこそ、この映画で熱い涙を流すのだ。

さて、疑問だが、私たちは何故、これほどペットを求めるのか?

ペットには打算の愛がない。だからペットは飼い主が、どんな状況でも裏切らない。
ペットは今という瞬間を楽しむ。しかも飼い主と今を共有することだけを望む。

人はペットの中に「無償の愛」と、「今を共に生きたいという健気さ」を見る。

じつは、この本質こそ、こうありたいと願う、本来の私たちの姿なのだ。

私たちはペットの中に、自分が欲する「最高の理想の自分」を見るのだ。
もし、私たちが家族や周りの人たちに、見返りを求めず、一緒に生きる瞬間を楽しむことが出来たなら、この世の中は、もっとキラキラした世界になっているだろう。

まさに犬のベイリーはひたすら、それを願って生まれ変わっているのだから。




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彼の演技はいいね! ほんと藤原竜也くんを載せたかったなあー フォトは咲耶子

今週末、暇な休日を持て余しているあなたに、充実した時間を過ごせる、おすすめの一本だ。
藤原竜也のエキセントリックなポスターや、伊藤英明の存在感ある刑事役の予告編で
この映画がロードショー中なのはご存じだろう。
ちょっと内容に興味を惹かれるが、1800円払って観に行くほどかな? という迷いは無用。
むしろ、ポスターの衝撃度は、本編の真の意味での衝撃度をなんら語っていない。
だが、安心してほしい。残酷という意味での衝撃とは違うから女性や気の弱い人でも大丈夫。
もちろん、連続殺人であるから、殺人シーンが頻繁に出てくる。
とはいえ、印象として、ずいぶん観客に配慮していると感じた。別にトラウマになるほどではない。
私的感想だが、この殺害方法で、人はこんなにキレイに死んでいかない、
故にリアル感で、気分の悪くなるような人はいないだろう。
さて本題に戻ろう。
この映画の肝は、時効の連続殺人犯が本を出版するために「私が殺人犯です」と名乗り出る前代未聞の行為にある。
だがこの前代未聞は、このストーリーの序章に過ぎない。
前代未聞のことを起こしたら、その影響の連鎖は? その連鎖の行きつく先は?
そうなのだ。
すべての過程が前代未聞となる。
つまり、場面の流れで起こるすべてが前代未聞。
その意味するところは、あなたの中に芽生える、絶え間ない「緊張感」である。
あなたは、もはや観客でなくなり、信じがたい展開への一目撃者となっていく。
この映画で味わえるのは、この「連続した緊迫感」だ。
この映画が終わったとき、あなたは心地よい緊迫感からの解放を味わうだろう。
最後にひとつ。この緊迫感を味わいたいなら「無知」であるほうがいい。
そう、この映画の前知識に触れるのは出来るだけ避けよう。
まったく知らないで観るべきだ。もちろん、推理マニアや感の良い人は多少、先が読めるかもしれないが、
それでも、ネタばれは絶対禁止の映画である。
ぜひ緊迫感を味わって!

 

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2009年1月15日の「奇跡」を覚えているだろうか?
155人を乗せた旅客機が、全エンジン停止により、ハドソン川に不時着した事故である。

奇跡と呼ばれたのは、155人全員が無事だったからである。

単純に飛行機に無知な私たちは、運良く助かって良かったね、と思う。
マスコミも機長を国民的英雄扱いだ。

だが、専門家たちの考えは「真反対」だった。

――実直な機長に起きた奇跡の生還劇の光と影――

機長に待っていたのは、眩しいほどの世間の評価だけではなかった。
世間の英雄扱いとはまったく違う、闇に引きずり込まれるような評価だ。
映画で描かれるのは、この裏の部分。

マスコミに派手に持ち上げられる最中、当事者の機長は国家運輸安全委員会の厳しい追及も受けていた。

委員会での機長は「誤った判断で乗客を無用な危険にさらした」という疑惑。
つまり英雄扱いではなくて、犯罪者扱いであった。

無知な素人考えで言えば、エンジンが止まってしまったのだから、広い川に不時着も致し方ないのでは?と思う。
だから、単純に、調査委員達は、ほんと疑り深くて、意地悪だなあという印象であった。

――専門家達の見方は、深刻で、素人のような楽観さでは、見ていなかった――

どうして深刻に受け止めていたのか?あまり映画では詳しく描かれていないので、少し取り上げてみたい。

たとえば、つねに冷静でなければならないはずの管制官が、「不時着水」に、ひどく取り乱すが、それには理由がある。

管制官が、機長とのやりとりで、不時着水の判断を知った時だ。
交信が途絶えたとき、管制官は「全員が死亡したと確信していた」一途の希望も寄せずにだ。

それは不時着水という、飛行機の専門家なら、ありえない判断がされたからだ。

――水に着水するというのは、考えうる限り最悪の選択肢――

水は一見柔らかそうだが、じつは非常に強い表面張力が働いている。つまり超速度での接触では水の硬度はコンクリートの比ではない。
ゆえにジェット機の速度を考えれば、この状態で水面への接触は最悪の結果を招くと考えるのが常識。

高圧水が厚い金属をカットするのに使われているのはご存知のとおりだ。

――飛行機は出来るだけ軽く飛ぶために、イメージ以上に「脆いつくり」になっている――

水の表面には、つねに波が起きている。もし波が強かったりすれば、そこは平らではない。

もし着水時、機体が左右に少しでも傾いたりしていれば、どちらかの主翼の先端が先に水に触れる。
触れた瞬間、主翼の先端にすさまじい抵抗が発生し、接触した側に機首が持っていかれるだろう。
そうなれば機体は、水面に叩きつけられ、ひっくり返りバラバラになる。

他にも、接触の瞬間の角度が重要であり、後のシミュレーションでは、11度前後でないと、浅すぎても深すぎても機体がバラバラになっていただろう、ことがわかっている。

実際、不時着水で過去に不幸な事故が起きている。

――双方のエンジンが同時に故障するというのは、きわめて稀なケース――

エンジンが止まったのは「バードストライク」が原因だが、委員会は両エンジンが一度に破損するなんて確率の低い現象を信じていなかった。

旅客機は、片方のエンジンが破損しても飛行できるように設計されている。
少しでもエンジンが出力していれば、近くの飛行場に着陸するのが安全で正しい判断だ。

――極寒の真冬、凍りつくような水に飛び込むという無謀――

ハドソン川の水温はこの時期、2度前後だった。
この水温の場合、全身が浸かった状態で人間が生存できるのは、せいぜい数分程度。

機体の損傷が激しければ、すぐに沈んだだろう。
負傷者が数人いたと報告されているが、凍傷の可能性が高い。

つまり、専門家から見れば、近くの飛行場に戻る選択をしなかった機長の行為は、乗客の命を賭けた「犯罪行為」にも近いものだった。

――さて、そう考えると、機長はほんとうに英雄だったのか? それとも・・・――

こういった背景を踏まえると、融通のきかない専門家の意地悪どころの騒ぎではない。
この映画が、俄然ミステリーじみてくる。

じっさい、冷静に対処したと自負する機長自身すら、自分の判断は正しかったのかと、逡巡する。

結果は映画のラストで示される。

素人でも納得する、明快な答えが示される。これほどすっきりする結論は、そうそう出ないだろう。

いや、逆なのかもしれない。シュミレーターの再現力は凄い。
もちろん、適切にボイスレコーダーと人的配慮を取り入れた場合だが。

――結論、やはりこれは違った意味で「奇跡」なのだと、改めて思う――

「奇跡」とは155人、全員無事という数字にあるのではないか。

155という数字は、あらゆる場面の数字、つまり事故やテロや災害で無くなる人を表す数字と同じ、単なる「記号」である。

私たちは10万人の死も6600人の死も、155人の死も、ピンと来ているわけではない。

だが、その中に愛する人がたった一人でもいたなら、それは想像の「数字」から現実の「喪失」に変わる。

つまり当事者にとっては、一人の死こそが現実なのだ。

――機長に伝えられた「生存者は155人です」という数字ほど、「人の命」の重さを実感した場面はない――

濡れた制服を着替えもせず、ヤキモキしながら、待機するホテルで待つ機長の一番の関心は数字だった。

「154」でなく「155」でなければ、いけなかった。

154は死亡が一人出たことを意味するからだ。

「155人」と聞いた時の、あの機長の深い安堵の表情こそが、この事故の奇跡の意味だろうと感じた。

トム・ハンクスは当時の機長に成りきった。トムの想いがストレートに伝わり、こちらも喜びに号泣。 「命」って尊い!

また、嬉しい誤算であるが、副機長役の俳優の演技が強く印象に残った。

さて、この題材を、澄みきった視点で淡々と映画にしたのは「クリンスト・イーストウッド」監督だ。

今、もっともリスペクトする監督である。




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