2009年1月15日の「奇跡」を覚えているだろうか?
155人を乗せた旅客機が、全エンジン停止により、ハドソン川に不時着した事故である。
奇跡と呼ばれたのは、155人全員が無事だったからである。
単純に飛行機に無知な私たちは、運良く助かって良かったね、と思う。
マスコミも機長を国民的英雄扱いだ。
だが、専門家たちの考えは「真反対」だった。
――実直な機長に起きた奇跡の生還劇の光と影――
機長に待っていたのは、眩しいほどの世間の評価だけではなかった。
世間の英雄扱いとはまったく違う、闇に引きずり込まれるような評価だ。
映画で描かれるのは、この裏の部分。
マスコミに派手に持ち上げられる最中、当事者の機長は国家運輸安全委員会の厳しい追及も受けていた。
委員会での機長は「誤った判断で乗客を無用な危険にさらした」という疑惑。
つまり英雄扱いではなくて、犯罪者扱いであった。
無知な素人考えで言えば、エンジンが止まってしまったのだから、広い川に不時着も致し方ないのでは?と思う。
だから、単純に、調査委員達は、ほんと疑り深くて、意地悪だなあという印象であった。
――専門家達の見方は、深刻で、素人のような楽観さでは、見ていなかった――
どうして深刻に受け止めていたのか?あまり映画では詳しく描かれていないので、少し取り上げてみたい。
たとえば、つねに冷静でなければならないはずの管制官が、「不時着水」に、ひどく取り乱すが、それには理由がある。
管制官が、機長とのやりとりで、不時着水の判断を知った時だ。
交信が途絶えたとき、管制官は「全員が死亡したと確信していた」一途の希望も寄せずにだ。
それは不時着水という、飛行機の専門家なら、ありえない判断がされたからだ。
――水に着水するというのは、考えうる限り最悪の選択肢――
水は一見柔らかそうだが、じつは非常に強い表面張力が働いている。つまり超速度での接触では水の硬度はコンクリートの比ではない。
ゆえにジェット機の速度を考えれば、この状態で水面への接触は最悪の結果を招くと考えるのが常識。
高圧水が厚い金属をカットするのに使われているのはご存知のとおりだ。
――飛行機は出来るだけ軽く飛ぶために、イメージ以上に「脆いつくり」になっている――
水の表面には、つねに波が起きている。もし波が強かったりすれば、そこは平らではない。
もし着水時、機体が左右に少しでも傾いたりしていれば、どちらかの主翼の先端が先に水に触れる。
触れた瞬間、主翼の先端にすさまじい抵抗が発生し、接触した側に機首が持っていかれるだろう。
そうなれば機体は、水面に叩きつけられ、ひっくり返りバラバラになる。
他にも、接触の瞬間の角度が重要であり、後のシミュレーションでは、11度前後でないと、浅すぎても深すぎても機体がバラバラになっていただろう、ことがわかっている。
実際、不時着水で過去に不幸な事故が起きている。
――双方のエンジンが同時に故障するというのは、きわめて稀なケース――
エンジンが止まったのは「バードストライク」が原因だが、委員会は両エンジンが一度に破損するなんて確率の低い現象を信じていなかった。
旅客機は、片方のエンジンが破損しても飛行できるように設計されている。
少しでもエンジンが出力していれば、近くの飛行場に着陸するのが安全で正しい判断だ。
――極寒の真冬、凍りつくような水に飛び込むという無謀――
ハドソン川の水温はこの時期、2度前後だった。
この水温の場合、全身が浸かった状態で人間が生存できるのは、せいぜい数分程度。
機体の損傷が激しければ、すぐに沈んだだろう。
負傷者が数人いたと報告されているが、凍傷の可能性が高い。
つまり、専門家から見れば、近くの飛行場に戻る選択をしなかった機長の行為は、乗客の命を賭けた「犯罪行為」にも近いものだった。
――さて、そう考えると、機長はほんとうに英雄だったのか? それとも・・・――
こういった背景を踏まえると、融通のきかない専門家の意地悪どころの騒ぎではない。
この映画が、俄然ミステリーじみてくる。
じっさい、冷静に対処したと自負する機長自身すら、自分の判断は正しかったのかと、逡巡する。
結果は映画のラストで示される。
素人でも納得する、明快な答えが示される。これほどすっきりする結論は、そうそう出ないだろう。
いや、逆なのかもしれない。シュミレーターの再現力は凄い。
もちろん、適切にボイスレコーダーと人的配慮を取り入れた場合だが。
――結論、やはりこれは違った意味で「奇跡」なのだと、改めて思う――
「奇跡」とは155人、全員無事という数字にあるのではないか。
155という数字は、あらゆる場面の数字、つまり事故やテロや災害で無くなる人を表す数字と同じ、単なる「記号」である。
私たちは10万人の死も6600人の死も、155人の死も、ピンと来ているわけではない。
だが、その中に愛する人がたった一人でもいたなら、それは想像の「数字」から現実の「喪失」に変わる。
つまり当事者にとっては、一人の死こそが現実なのだ。
――機長に伝えられた「生存者は155人です」という数字ほど、「人の命」の重さを実感した場面はない――
濡れた制服を着替えもせず、ヤキモキしながら、待機するホテルで待つ機長の一番の関心は数字だった。
「154」でなく「155」でなければ、いけなかった。
154は死亡が一人出たことを意味するからだ。
「155人」と聞いた時の、あの機長の深い安堵の表情こそが、この事故の奇跡の意味だろうと感じた。
トム・ハンクスは当時の機長に成りきった。トムの想いがストレートに伝わり、こちらも喜びに号泣。 「命」って尊い!
また、嬉しい誤算であるが、副機長役の俳優の演技が強く印象に残った。
さて、この題材を、澄みきった視点で淡々と映画にしたのは「クリンスト・イーストウッド」監督だ。
今、もっともリスペクトする監督である。