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撮影は咲耶子
Aがふと目覚めると、そこは自分の部屋ではなかった。
辺りは眩しいほどの光が満ちていた。 「あれ?俺は死んだのでは?」 と、思った瞬間、頭の中で誰かが答えた。 「はい、あなたは死んでいます」 「では、ここは天国なのかな? 話しかけているのは、いわゆる神様かな?」 すると、視界に入ってきたのは、見たこともない生き物だった。 彼らは横たわる自分をぐるっと囲んで、興味深そうに眺めていた。 「私たちは、地球外生物です。あなた方の地球が核戦争で滅んだようなので、聞き取り調査にやってきました」 「ああ、とうとうやっちまったか」 地球外生物がさらに話しかけてきた。 「私たちは、肉体でなく、あなたの持つ情報とコンタクトが出来るのです。インタビューに答えてもらえますか?」 「何が知りたいんだ?」 地球外生物は忙しげに作業を始めた。どうやらAの話すことを記録するようだ。 「核戦争の予兆はありましたか?」 「あったと言えば、あったかもな。 俺はあまり関心なかったけど」 「あなたのご遺体からの情報によりますと、あなたには不安やストレスが出す残留物が見当たりません。 恐怖を感じていなかったのですか?」 「周りで起きる悲劇なんて他人事だと思ってたからね。平凡ながら充実した日々だった。 つまり、働いて、遊んで、食って寝てさ」 「不穏な社会を憂うことは、ありませんでしたか?」 「ぜんぜん!人間いつかは死ぬんだぜ!核攻撃で死んでも、交通事故で死んでも、脳卒中で死んでも。教えてくれ。何が違うんだ?」 「核は全人類が死にますが」 「死んだら、他人のことはわからん。無だからな」 「人生を後悔してますか?」 「まさか!充分楽しい人生だったぜ。長生きは出来なかったけどな。まあ俺のモットーは、死ぬ時まで生きるだけ」 「同時進行でBさんにもお答えいただいているのですが、あなたのような方を平和ボケと非難されておられますが?」 「平和ボケでなにが悪い? 崖っプチを見るのが好きなあいつらはイライラするだろうが、心地良くお花畑で過ごせるんだぜ。 未来の破滅を心配して、わざわざ崖ぷちの道を歩いて、さあ、いつ落石が来るかとゾッとして、鬱になれってか?」 「心配しないと戦争を防げないのでは?」 「Bとやらが朝に夕に心配してくれたんだろ? だが結果、やつも死んだ。で、生き方を後悔しているのはどっちだ? 俺か? Bか?」 「ご自分は自分勝手で無責任だと思いますか?」 「おいおい!自己責任て言葉が流行ったんだぜ。他のやつの人生まで責任持てないさ。 やつらに俺を非難する暇があるなら、自分のやりたいようにやればよかったのさ。少なくとも後悔だけはしないぜ」 「インタビューありがとうございました」 Bがふと目覚めると、そこは自分の部屋ではなかった。 辺りは眩しいほどの光が満ちていた。 Bは怯えた。 「うわあああ!核爆弾の光を浴びてるぞ!」 誰かがBの頭の中で答えた。 「安心してください。核戦争はもう終わってます。あなたも、すでに死んでいます」 「インタビューに答えてくださいますか?」 「くそお、もっと早く平和ボケの奴らが俺の話を聞くべきだったんだ」 「核戦争への兆候はありましたか?」 「お前らバカか? いつだって敵は危険だったんだよ!だからこそ、それに対処する方法を・・・」 「あなたのご遺体はストレスと怒り、不安の化学物質で満たされていたことがわかってます」 「当たり前だろ! 毎日ニュースに一喜一憂してたさ。敵はすぐそこにいるのに、ボンクラばかりで誰も深刻に思わない!」 「そういう方のインタビューを、同時進行で取っております」 「自分勝手の平和ボケのバカか? あいつら、こうなって初めて後悔してただろ?」 「そうでもありません。人生楽しかったったとお答えをいただきました」 「はあ? 死んでもバカは治らないんだな。俺は後悔だらけだね。敵から家族や我が国を守れなかったことにさ」 「皆さんを守りたかった?」 「それが愛国心だろ」 「攻撃に怯えていた?」 「ニュースをみるたびにヤキモキしたさ。水爆で破壊される都市や灰となる人間たちを想像した」 「そしてついに、その場面を現実で見ることになったわけですね? 想像どおりの惨状でしたか?」 「想像もなにも・・・その瞬間は崩れた会社の天井しか見ていない。 何が起こったのか、いつものニュースで知りたかったな。 だけど俺、死んでたから無理だったんだ。いや、ニュースキャスターも死んでたか」 「あなたにとって人生とは?」
「誰もどうにかしないバカばっかに付き合ってきた人生だな、なんで、あんなやつらの為に気をもんでたんだろ? 俺の人生を返せ!バカ!」 「人類が滅んだことは、どう思います?」 「嘆かわしいね。まったく恥ずべきことだ。まあ、恥知らずの、やつらのせいだが」 「インタビューにお答えいただいて、ありがとうございました」 インタビューが終わって、AもBもただの死体、つまり無に返った。
人類の記憶は人類の手から離れ、地球外生物のものとなった。 「いやあ、まるきり正反対でしたね」
記録をまとめながら、地球外生物がつぶやく。 「たしかに。個人の幸福度の違いが興味深かったね。この結果からなにか見えたかね?」
「個人が現状に満足だと人類の生存が危うくなり、個人が現状に不満だと多少人類が生き延びる確率が増すのでは?」 「まあ、生き延びることが、人類の幸福というなら、そうだろうね」 「では、ストレス過多のBの遺伝子を残して、新しい地球に種を巻きますか?」 「うーん、ちょっと待て。人類の生存のために個人のキャラが不満分子だらけでも、誰も生まれて来たくないのでは?」 「そうですね。人生は苦なり、なんて不満タラタラの人生になりますね。それで死に際に後悔されてもなあ」 「失敗はこれで三度目ですしね」 「神を恨んでます、なんて言われるプロジェクトは虚しいしな。もう人類を付け加えるのはよそうか」 「そうですねえ。人類になりそうな遺伝子は除去して、動物たちだけでいいでしょう」 彼らは最終レポートを仕上げると、地球から去っていった。
終わり
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一分ショートストーリー
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あるとき彼が言った。
自衛隊の銃と警察官の銃は目的が違うんだ。警官の銃は威嚇や護身のためにある。けれど自衛隊の銃はそうじゃない。
はっきりとした目的がある。それは「人を殺す」という目的だ。それ以外にはない。 「話をしていた相手に、へえ、自衛隊の方なんですか。すごいですねえ」と言われたから、こう答えたよ「俺たちはただの人殺しですよ」ってね。相手はどう答えていいかわからないらしく、困惑してたね。
彼は空挺出身だ。空挺はエリート部隊と呼ばれている。ほんの一握りの優秀な隊員しかなれない。レンジャー資格者は空挺がほとんどだ。自衛隊員の中でも空挺は雲の上の人たちで、普通部隊の連中は駐屯地内で彼らと出会えば自然と道をあける。尊敬の念もあるが、本音は関わりたくないということだろう。
そんなエリート部隊から、彼はあるごく少数の部隊に引き抜かれる。当時、この部隊はまだ公式ではなく、実験的な位置にあった。彼はその部隊の連中のことを「口は固いが陰気な連中」と言った。
彼の人生はそこで狂う。今でも「あいつはすごく優秀だった」と言われているが、それは過去形である。 自衛隊員は23万人いるが、空挺は約2千人、そんな狭い集団の中ですら、任務中に起きた出来事は口外出来ない。
当時、イラクやアフガニスタンに行った隊員がいる。死亡したり大怪我をしたり、帰国後自殺をはかったりする隊員がいた。それでも、その詳細は本人しかわからない。 お互い、自分の経験から相手の経験を推し量るしかない。 海外派遣されるのは特殊な技能を要しているか、もしくはレンジャー経験者などだ。
一般的には、世間では、海外派遣は平和的になんの問題もなく遂行されているように思われている。
これは海外派遣に縁のない一般隊員すら、ほぼ、そう思っているに違いない。 現場であったトラブルを吹聴する隊員はいない。遠い異国で死者が出ても、同じ所属部隊ですら、その原因を知る仲間はほとんどいない。
そして彼は海外で九死に一生を得て帰ってきた。帰国後、何ヶ月も入院し手術を受けた。
退院してきたとき、部隊内では、彼の怪我は駐屯地内で、しかも自由時間中に自分の不注意でした、というストーリーが出来上がっていた。
好奇心旺盛な仲間の1人が、そのストーリーに納得せず、怪我の原因を聞きたがったが、彼は作り話に調子を合わせた。
真実を推し量れる者はいるが、これはタブーで誰も口にはしない。
「死」は彼らにとって日常茶飯事であり、死亡報告は頻繁だ。いじめで死のうと、ウツで死のうと、事故で死のうと、訓練で死のうと、なにも変わりはない。いずれは自分もその中のひとりになるのだ。
そんな彼らが死を語るとき、それはジョークとなり極端に軽く扱う。
だが心に刻まれた死は、深淵の闇をその記憶に落とす。 「自衛隊はコントラストの強い世界なんだね」と言ったとき
「いいや、むしろ真っ暗闇さ。闇も闇、底知れぬ闇だね」と彼は訂正した。 それは彼独自の体験から生まれた闇であろう。ごく一部の者が味わう闇だ。
私と彼の「真実の共有」には絶妙なタイミングがあった。
なぜ、部外者の私がそれを知ることになったのか、彼もまた口が固く、仲間すら彼に起きた出来事を知っているものは限られている。そんな彼があっさりと打ち明けたのは、彼がその当時、死を覚悟していたからだ。 精神を打ちのめされ、なにもかもうまくいかず、すっかり投げやりになっていた。仲間らは不可解な自殺をし、彼は同じように自分もまた、他者に殺されるか、自分で自分を殺すか、その二つの選択肢しか思いつかなかったのだ。 「自分のしたことを、誰かを通してこの世に残して起きたかった」
その当時の心境を彼はそう語る。
だが今になって、この告白を後悔したのだろうか。 今の彼はそれを無かったように語らない。むしろこう言ったのだ。「秘密を話す者がいたら、親しい者でも殺すしかないよね」
これは冗談ではなく、本気であると私は確信している。
なぜなら彼には、それを実行する素養が備わっているからだ。
それはもともとの彼の人格でもあり、その後の実体験でもあり、それを正当化する兵士という職種がそうさせているとも言える。 つまり、彼をある任務に引き抜いた上官の判断は的確だったと言えよう。
自衛隊には二種類の人間がいる。
公務員として安定した仕事を求めて入った者。彼らは人道支援や人命救助くらいならOKなのだ。
そしてもう一種類の人間、彼らはまさに人間兵器となることを厭わない。 そして彼はそういった後者の種類の人間である。
空挺を基盤とした特殊作戦群が出来てからすでに10年以上経つ。
海外派遣には実践訓練の意味もあると理解する者は、ほんの少数の人間だけだろう。 彼は言う。
「俺たちの誇りは、自分の命より仲間の命を守ることだ。なぜなら後方支援がないと生き残れないからね」 そしてはっきりこう言った。
「俺たちは人殺しだし、銃を撃つのは人を殺すためだ」
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友人は離婚してからは、独りで一軒家に住んでいる。
その家にときおり行くことがあるが、長くいると、体が重くなりひどく疲れるのが通例だった。
じつは私はその家を夢で、たびたび見ている。 夢に出てくるその家には、何人もの素性の知れない同居人がいた。浮浪者のような様子の彼らは、自分の家のように図々しく振舞っていた。 そして家に来た私に気づくと、罵り、追い出そうとした。 彼らがどこの誰で、何故、そこにいるのかはわからない。
とは言え、これは単なる夢の話だ。
だが、ある日のことである。
明け方、車で遠出するために、深夜にこの友人の家に来た。
わずかな時間だが仮眠を取っていたときだった。 すぐ近くで誰かの寝息がする。
目が覚めた。
彼ではない、彼は二階で寝ている。そしてわたしは一階のソファで眠っていた。
目を閉じたままじっと耳をそばだてた。やはり寝息に違いない。
だが私以外、誰もいない。 半分夢のように、その寝息をしばらく聞いていたが、再び眠りに落ちた。 ちなみに彼は独りが恐いという。
乖離(かいり)するからだと言う。 朝、起きると缶詰やお菓子が散らかっているのだ。だが自分では食べた記憶がない。
はたして彼は自宅だけでなく、身体すら他人に乗っ取られているのだろうか。それとも、この寝息は、彼自身が生霊となり、うろついているのだろうか。
以前、彼の夢を見たときに、彼にダブるように、見知らぬ男が見えたことがある。
この男は素性の知れない同居人と同一人物だった。 そんなある日、彼が富士の樹海に行きたいと言い出した。
富士の樹海。 自殺者のメッカだ。 どうしても行きたいと言ったが私は「絶対ダメ!」と叫んだ。 普通の人はともかく、波動が低くなっている人間は、簡単にひっぱられるからだ。 「死ぬ気はないよ」と笑う。
だが「自殺しようとするひとに出くわさないかな」とも言う。 一度目は断ったが、独りで行く勢いだったので、結局ついて行くことにした。
彼は樹海を懐かしいと言う。
空挺の訓練で延々と歩くのだと言う。 「臭いでわかるんだ。すぐ近くに遺体があるってね。
気づいたら、俺たちはなるべくそちらには近づかない。 もし見つけてしまったら、警察に連絡しなくてはならないし、そうしたら訓練が中断するからね」 そんな話を嬉々として語る。彼の会話には、死者の話がたびたび出てくる。
樹海は他の森にはない独特の空気を持っている。
鳥もセミも鳴かず、風だけが木々のてっぺんで葉をゆする。 公衆電話には自殺防止のチラシがあった。 彼はそれにひどく興味を持ち、カメラに納める。 「ねえ、さっき行きどまりの脇道に車を止めていたひと」
「ああ、何故か車のそばで、ひげを剃っていたよね。あんなところから通勤するのかな?」
「服見た? 泥だらけだったよ」
「えーそうだった?」
「うん、絶対あやしいね」
彼が妙なテンションで笑う。 数日後、連絡を取ると、なぜか無口だ。
樹海に行った夜、タブレットがなにもしないのに割れて壊れたという。 「大丈夫?」なにか様子がおかしい。
「疲れた……」
「どうしたの?」
「久しぶりに死にたい気分」
私はずっと胸騒ぎがしていた。やはり彼には、あの場所はよくなかった。
――臨 兵 闘 者 皆 陳 烈 在 前 ――
りん びょう とう しゃ かい ちん れつ ざい ぜん すぐさまネットで調べて、私はなれぬ手つきで九字を切る。
何故だろう? 関心すらなかった九字が頭に浮かんだのだ。 「百回殺しても生きかえるよ」
彼は何を思ったのか、そう言った。 いや、もしかしたら彼以外の誰かかもしれない。
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夜明けの富士が無性に撮りたくなった。
だから私たちは真夜中のハイウエイを飛ばして湖まできた。
周囲はまだ闇の中にあり穏やかな静けさに包まれている。
明けまでには少し時間があった。
湖の反対側で富士が見下ろしているはずだが、今は輪郭の影もない。 私たちは駐車場に車を止めると、少し早い朝食を取った。
君はチキンをはさんだパンにかぶりつきながら、小さな液晶に画像を映しだす。 薄暗い車内に蒼白い灯りが広がって、自己愛的で派手な軍服に身を包んだひとりの男が浮かびあがる。
――三島由紀夫――
そう言えば、以前見せられた映画は「硫黄島」だった。
どちらも若い君には「アナクロ」であるはずなのだ。 この軍隊と呼ぶことをはばかられる防衛組織は、それでも連綿と哀しい思想を若者に譲り渡してゆく。
まるでブラックホールに吸い込まれるように、若者たちはその自己犠牲という思想に吸い込まれてゆく。
君もまた、とうの昔に民間人に戻ることを選んだはずなのに、靖国やら軍歌やら日本国やらにいまだ嬉々とする。 もしかしたら君の背後には、何千という運命の濁流に流されていった永遠の若者が控えているのかもしれない。
だが、彼らは語ることを赦されない消えゆく亡霊なのだ。 君は闇の中、屋根のハッチを開け、小さな三脚のついたカメラを取り付ける。
頭上には明快な光を反射する月が昇っている。
遠くでは稲光が閃光を放っている。 そして湖の向こうでは、山頂に向かう人びとの灯りが瞬いている。 暗黒は瞬くものを浮かび上がらせる。
私は座席に顔を伏せ、三島の迷宮のような言葉を片耳で聞きながら、今ここにある静寂の音を拾う。
君は精力的に撮影の準備をしている。
そして、ときおり思い出したように三島を絶賛し、ときおり煙草を吸い、ときおり笑いかける。 夜は予告もなく去ってゆく。
世界は黒墨色から藍に染まり、青をグラデーションにして、あぶり出すように富士を浮かびあがらせた。
――三島のクーデターは隊員らの怒号にかき消され、彼の演説は10分ほどで打ち切られた――
私はカメラを取りだすと車を降りた。
振り返ると車体の天井から頭を出す君のシルエットが見えた。 周囲はまだ暗いのだ。
ありがたいことに富士は鮮明に姿を見せてくれた。
何度もシャッターを切り、気持ちを切り替えると、レンズを替えるため車へ戻る。 君が声をかける。
「ねえ!ここが一番いい場面なんだ」
――三島が腹を切る――
私は三島の苦悩に満ちた顔をチラと見た。
彼の演説をまともに聞いた自衛隊員はいなかったという。
だが、あの演説が死出の旅への最後の言葉とわかっていたら、彼らを静粛にさせただろうと幹部は後に語っている。 「あっ、ほら!富士山が薔薇色になってきたよ!」
私の叫びに、映像から目を離した君が笑う。
「ああ、ほんとだね!」
君は立ち上がり夢中になってシャッターを切り始める。
私もまたレンズを取り変えると、この一瞬の幸運な明けを撮りに車のドアに手をかける。
三島の映画は置き去りにされ、再びそちらへ目を向けたとき場面はエンドロールであった。
富士に来るたびに君は昔の君とすれ違う。
それが君にとってどんな意味を持つのか私にはわからない。 君は簡易椅子を持ち出し、朝焼けの中で満足そうに煙草をふかす。
ふと思う。
むしろ三島も、思い出話も、トラウマも、君にはたいした違いはないのかもしれない。
都環咲耶子
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翻弄されるような危険な恋もした。
肉体の享受に限定される関係もあった。 恋にも愛にもいたらず消え去った出会いもあった。
長い友情が一つの結び目にもなった。 それらは何故いま、記憶という言葉で語られるのだろう。
いまだからわかる。
いずれにせよ、欠けていたものがあり、そのはめられぬ切片こそが
わたしにとってもっとも重要な愛の定義だったのだ。 早朝の渚を歩く。
ブルーグレーただ一色の砂浜。
私はもうずっと口を閉ざしたままだ。 いや、それは正確ではない。
「水が冷たいな」とか「ああ空気が澄んでる」とかつぶやいている。
だがそれは自分の耳にすら聞こえない程度の、そんな音量である。 彼はすぐ隣にいるが、そしてときおり互いの腕が触れたりするが、
たぶん私のつぶやきは聞こえていないだろう。
私たちを取りまく音。そう、くり返し寄せる波の音のほうが格段に高い。
つまり彼にとっては、隣の女は口を閉ざしたままだということになる。
ときおり私の指先と彼の指先がからみ合う。
どちらが意識してそうなるのかは、明確ではない。
ただお互いの間にそうなることの要求と期待が、そういう状態をつくり出すのだ。 そしてそういう状態は、あるひとときを持ってしても「束縛」とは無縁である。
その指の交差は、波の力によって砂と砂が干渉しあい、波紋を作り、壊し、形を変えるのと似ている。
世界は耐えず音を立てている。
まだ人の声は無い。 この男もまた口を閉ざしたままだ。
ああ、と感慨がよぎる。私たちは初めて出会ったときから、そうだった。 沈黙と微笑み。
だが記憶に接触し、誰かに語るほどではない。
それはよくある出会いの、ひとつのパターンであり、たいしたものではない。 足の裏に貝の形を感じる。
黒い貝だろうか? それとも桜色の貝だろうか? 足の裏にある貝は手に取るまでわからない。こういったことの、どこまでが一期一会なのだろう。 踏みしめたまま、そう、二度と正体を知らないままで終わることもある。 たくさんの出会いがあった。
うんざりするほどの「会話」をした。 なにからなにまで、さらけ出すような、なにかからなにまで聞き出すような、へたをすると互いの弱みを探り出し容赦なく自分のものにするような、それらは、そんな緊張したやり取りだった。
「会話」は未知であり、時間を忘れるほど楽しかったが、何故か必ず一抹の虚しさを心に残した。
どんなに相手を知ったとしても、どんなに自分を知られたとしても
それは所詮ひとつの限定されたストーリーでしかない。 外側のストーリー。
言わば、語られないもの、語ることの出来ないもの。
それこそが自分自身であると誰もがわかっているものは、そこにはない。
だからこそ、ときおりは互いになにも聞かず、肉体の反応だけを楽しむのだ。
それらは愛にならなかった恋の記憶だ。
彼らになにを求めていたのか、何を求められていたのか、そのときはわからなかった。 そうやって私を知る「年月」は淡々と脳内に収まり、粛々と「記憶」というものに変化していった。
「座ろうか?」
始めて彼が口を開いた。 わたしはちょっと微笑むと頷いた。
私たちは追ってくる波から足を遠ざけ、浜に残された大木の切り株に座った。
しばらく波の歌に合せて、風も歌った。
海の表面が細かく震えた。 「海が光っている」
「ああ、いま風が来て、光を振りまいたね」
「柔らかいわ」
「うん。頬に感じる」
わたしたちは生まれた瞬間から、欠けたピースを探していた。
いいや切片ではない。分身である。 私という存在を映す鏡。 それは同じ海を見る相手。同じ風を追い続ける想い。
つまりは世界を共有するたましいだ。 「空、落ちてゆくほど高いね」
どちらともなく、今日の晴天を約束する青い空間を
見上げた。 そして、わたしたちは同時にその空間に飛び込んでいた。
細い指先が太い指先におさまり、ひとつの安息の形を生み出していた。 沈黙という間合い。
どちらが呼応したのだろう。
「ほんとうに……」
作・都環咲耶子
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