あなたの知らない視点で語りたい〜フォト 詩 小説 エッセイ

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               池の中は油絵のよう  撮影は咲耶子

ときどき、クラシックの聴き比べを楽しむことがある。
私は個人的にピアノ曲が好きだが、同じ曲でもピアニストの解釈によって全然違って聴こえる。

好みの合わないピアニストだと、大好きな曲自体も色褪せて聴こえる。
好みが合わないとは、上手い下手と言うより、テンポや世界観が自分に近いか遠いかということ。
自分の世界観を他者が代弁してくれるわけだ。よくよく考えると不思議なものだ。

今回は聴き比べではなくて、翻訳の読み比べだ。
十年ほど前にブログにあげて好評だったもの。

三つの翻訳をのせた。
スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」のなかの、物悲しくも、とても美しい場面だ。

たった七〜八行の描写であるが、これほど雰囲気が変わるのである。
さて、あなたの世界観を代弁するものはあるだろうか?

たとえば「畳まれたシャツが広がる様子」に注目してみたい。

    A「宙を泳ぎながらその折り目を開き」
    B「投げだされるがままにひろがって」
    C「投げられるとほどけて」

驚くほど印象が変わる。
さらに一貫して描かれた文体が、作品全体の色合い、品格を大きく左右している。

  (A)青空文庫からの訳

ギャツビーはワイシャツの山を取りだし、1枚1枚、ぼくらの目の前に投げ出しはじめた。
地味な麻のシャツ、厚いシルクのシャツ、見事なフランネルのシャツが、
宙を泳ぎながらその折り目を開き、彩り豊かにテーブルの表面を飾っていく。
感嘆しているぼくらを尻目にギャツビーは次々とシャツを投げ、
柔らかで贅沢な山はさらに高く伸びる――縞模様や渦巻き模様や格子模様が珊瑚色やら青林檎色やら薄紫色やら淡橙色やらで入り、インディアン・ブルーの糸でイニシャルが刺繍してある。
とつぜん、耐えかねたような声をあげたデイジーは、シャツの山に顔を埋め、堰を切ったように泣きはじめた。
「こんなに綺麗なワイシャツなんて」としゃくりあげるデイジーの声はひどくくぐもっていた。
「見てると悲しくなってくる。だってわたし、こんな――こんな綺麗なワイシャツ、見たことないんだもの」

  (B)野崎孝からの訳

彼はワイシャツの一束をとりだすと、一枚一枚ぼくたちの眼前に投げてよこした。
薄麻のワイシャツ、厚手の絹のワイシャツ、目のつんだフランネルの
ワイシャツ―それらが投げだされるがままにひろがって、テーブル一面に入り乱れた
色とりどりの色彩を展開した。僕たちが感嘆の言葉をはくと、彼はさらに多くをとりだしてくる。
柔らかい豪奢な山がますます高くなっていく。さんご色や、淡緑、藤色に淡い橙、縞あり、
雲形あり格子縞あり、それらにイニシアルの組み合わせが濃紺色ではいっているのまである。
突然感きわまったような声をたてて、ディズィは、ワイシャツの山に顔を埋めると、激しく泣きだした。
 「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中からこもって聞えた。
「なんだか悲しくなっちまう、こんなに―こんなにきれいなワイシャツって見たことないんだもの」
  
  (C)村上春樹からの訳

ギャツビーは一山のシャツを手にとって、それを僕らの前にひとつひとつ投げていった。
薄いリネンのシャツ、分厚いシルクのシャツ、細やかなフランネルのシャツ、きれいに畳まれていたそれらのシャツは、投げられるとほどけて、テーブルの上に色とりどりに乱れた。
僕らがその光景に見とれていると、彼は更にたくさんのシャツを放出し、その柔らかく豊かな堆積は、
どんどん高さを増していった。縞のシャツ、渦巻き模様のシャツ、格子柄のシャツ。
珊瑚色の、アップル・グリーンの、ラヴェンダーの、淡いオレンジのシャツ。
どれにもインディアン・ブルーのモノグラムがついている。出し抜けに感きわまったような声を発して、デイジーは身をかがめ、そのシャツの中に顔を埋めると、身も世もなく泣きじゃくった。
 「なんて美しいシャツでしょう」と彼女は涙ながらに言った。その声は厚く重なった布地の中でくぐもっていた。「だって私―こんなにも素敵なシャツを、今まで一度も目にしたことがなかった。
それでなんだか急に悲しくなってしまったのよ」
   





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    この岩の壁の先には何がある? 青くきらめく美しい人工湖があるんです。 撮影は咲耶子

「今の時代に生まれるって、かなりラッキーなんじゃない?」
と聞いたら、あなたはどう思うだろうか?

「ラッキーだって? 頭、お花畑だね」と顔をしかめる?
それとも「うん、ほんとラッキーだよね」と大きくうなずく?

どうして同じ世界にいるのに、正反対に考える人がいるのだろう?
それは、世界に意味付けしているのが「あなた」だからだ。

出来事は、ただ起こっているだけだ。

たとえば「雨が降る」というのは、単に出来事である。
ある人は「うっとしい雨だな。気分が暗くなるよ」と雨を暗い気分にさせる
ものと思う。

ある人は「恵みの雨だ。花も農作物も生き生きしてる!」と雨を天からの
贈り物だと思う。

単純に「雨の音が大好き!気分が落ち着くわ」と、
雨を癒しと思う人もいるだろう。

こんなふうに、すべては「思考」によって「意味付け」されていく。

もし、あなたがロボットなら何が起ころうと、それはただの出来事と受け取り一喜一憂とは無縁だろう。

さて、人間の寿命は、たったの九十年ほどだ。
長生きしたい? 残念! 壮大な時間軸からみれば、悲しいほど一瞬だ。出来事だけで観れば「あちゃーちゃちゃちゃ!」
(ケンシロウいわく)「すでにあなたは死んでいる」となる。

「今の時代に生まれるって、かなりラッキーなんじゃない?」と言った人は、自分の人生にどんな意味付けをしたのだろう?
――気の遠くなるような時間軸において、今に生まれることは奇蹟という意味付け――

「時」を俯瞰(ふかん)したことがあるだろうか?
うん十年前とか、うん十年後とかではなく、人類誕生からの時間軸だ。
現生人類が地球上に登場して25万年だ。私たち人類は、この25万年のほとんどを原始人で過ごしてきた。

ようやく進化と言える文明が現れたのは、わずか1万年前のことである。
小学生のように、この時間軸を棒線を引いて表わしてみると、その長さの違いがわかる。
さらに、その一万年から「あなたの九十年」に赤のマーキングをしてみればいい。

もしこの時間軸のマーキングがほんの一ミリでもずれたら、あなたは原始人として生まれていた。
文明も秩序も食べ物もなく、ゆえに平均寿命が25歳だった過酷な時代にだ。

では、もう少し慎重にマーキングしてみよう。
おっと、みた目ではほとんど違いがわからないが、わずかにずれていたに違いない。
どうやら、食事をするより簡単に隣人と殺し合いをする中世に生まれてしまったようだ。
じつは、古代、中世の人間から見れば、大量虐殺である現代の戦争さえ紳士的に見えるのだ。
戦争には一応、大義名分があるが、それ以前の古代、中世ではわけもわからず理不尽に、しかも日常的に人は殺し合っていた。

そんな時代に生まれるのはマズイ。
こいつは、かなり正確にマーキングが必要だ。それでも数十年のずれを正すのは、そうとう困難だ。今をチョイスしたのは奇跡的だ。

もちろん、現代でも私たちは殺し殺されている。
とはいえ、この濃密な時代の流れの中で、無念の死への恨みは、驚くほど激減している。
激減を感じられないのは、世界中あまねく、いきわたる情報のせいだ。

ならば「わたしがこの人生において、誰かに殺されて恨みつつ死ぬ確率はほとんどない」
と、あなたは時代に感謝するだろうか?

それとも「わたしが殺されなくとも、少なくとも誰かが殺されているのは事実だ」
と、あなたは今という時代を憂うるだろうか?

言えることは、出来事は、出来事でしかない。
意味付けをして、この世界をどう見るかは、あなた次第ということだ。

そして、その意味付けによって、あなたの人生は独特の色を帯びる。
無個性な世界が、あなたによって個性的な世界へと表現されていく。



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          渋柿も変わるよ。干し柿食べた? 撮影は咲耶子

SNSで「電線を渡るサルの群れ」が話題になっている。
それはそれで、癒されるし、ほほえましい動画である。
けれどこれをテレビがバラエティではなく、ニュースで取り上げていたのにはいささか驚いた。そして悲しくなった。

芸能人のスキャンダルも、よく取り上げられているが、これは大衆紙に
まかせておけばいい。

そして「10秒SNSびっくり動画」のようなコピペニュース。
これは
YouTubeに任せておけばいい。
流行りの店や美味しい料理は、ニュースの時間ではなくて、別枠の企画番組でいい。
そもそも行きたいときは、食べログ的なもので調べられる。

つまるところ、こんな疑問が浮かび上がる。
メディアって、そんな偶然撮ってアップしたような、素人でも出来るような
仕事でいいの? メディアの役割って!なに?

私たちは、
独自の取材力とか、裏取りのある正確性とか、事実のみを語る公平性とかプロの仕事をみたいのだ。

朝、そして夕方、夜と「ほんの数時間しかない」ニュースの時間。
そのわずかな時間に、放送出来る記事は「数えるほど」しかない。
何が言いたいかというと、
つまりテレビのニュース枠はとても貴重だということ。

私たちがニュース番組にチャンネルを合わせるとき、世界で本当は、何が起きているかを知りたいのだ。
あえて言うが、それは今、話題の人物の一挙手一投足でもなく、刺激的映像でもなく、例外的出来事で不安を煽ることでもない。

ニュース番組には、もっともっと問題提起を投げかけてほしいのだ。
日々静かに進行している、私たちが考えるべき出来事を伝えてほしいのだ。
視聴率という縛りがあるのは承知しているが、視聴率はドラマやバラエティに任せておけばいい。愉快さもそれら番組にまかせておけばいい。
ドラマやバラエティー番組をみるとき、私たちはそこに演出が入っていると承知して観ているのだから。
しかしニュースと恣意的な演出は、もっとも相性が悪いのだから。

報道は淡々と事実をのべることが信頼性につながる。信用できない報道はすでに報道ではない。
問題提起すべき事柄は、世界中に星の数ほどある。
私たちはそれらに関わりあいたいし、議論したいし、解決策を提案していきたいのだ。

視聴者は馬鹿ではない。
報道のありかたにうんざりしているという事実はそういうことだ。

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        硬い岩からでも花は咲いて皆を癒すよ!  撮影は咲耶子

こんな世の中を変えたいとニュースを見る度に思う。
とはいえ憂うるばかりで、なにも出来ない。
アプローチを変えてみては? 私の魂がそう囁いた。

どういうこと?
あなたは他者を変えようとばかりしている。そうではなくてまずは自分を変えるの。
つまり、他者に向かっていた意識を自分へと向けてみるの。
急がば回れ!
なるほど自分から変われということか。なんかカタツムリの歩みみたいだ。
ちがうよ。意識の向上はあなたが思っているよりパワフルなんだよ。

※「パワーかフォースか」D・R・フォーキンズ著に書いてあるでしょう。
意識のレベルのことだね?
この宇宙には「意識のレベル」がある。

意識には1000から1までの幅がある。たとえば、
キリストやブッタなど霊的指導者の意識のレベルは600を超えたところにある。
比率で言えば、500以上のレベルの人は人類の4%しかいない。540以上となると人類のたった0.4%だ。

だが、たった一人のキリストやブッタが、途方もない数の人々の考えに影響を与えたのは事実だ。

どうして多くの人間に影響を与えられるのか?
言いかえれば、その数少ない一人の存在から、どうして多者が向上されるのか?

なぜならランクの数値は、10を底とする常用対数で表わされるからだ。
つまりレベル540(喜び、ワンネス、完成、静穏、神、変身)は、レベル20(恥、嫌悪、悲惨、屈辱、排除)の
10の520乗倍のパワーを持つ。

もし自分の意識レベルが300になれば、(200より下はネガティブなエネルギーと言われ、200が破滅か進歩かの臨界点になる)どういうことになるか?

意識レベル300のたった一人が、200レベル以下の9万人もの個人を支え、ネガティブとポジティブのバランスを取ることになる。

つまり自分の意識のレベルを上げることで、いつの間にか、世界に蔓延している負の思考(怒り・恨み・恐れなど)を相殺するのだ。意識が環境を創造するのは周知の事実である。

なるほど、他者が変わるのを期待するより、自分を変えるほうがはるかに合理的だ。
人類の意識改革は数ではなく、意識エネルギーの強さによる。

ところで、普通の人々って意識レベルはどのくらい?
個人個人はまったく違う。しかし全体意識のレベルがある。
1980年代以前の人類の全体意識はたった190だった。言いかえると、他者に無関心で自分の要求ばかり、プライドだけは高くて人を軽蔑し敵対心ばかりの生きかたをしていた。

つい最近、ようやく207でボーダーラインを超えた。
つまり私たちに未来を良くするのは実現可能なんだ、と肯定する勇気が出てきたのだ。

まだまだ、意識レベルが75なんていう、とても低い場所もあるとは言え、他の国の模範になる国も存在するからレベルが引き上げられたのだ。

でもね、いきなり聖人君子にはなれないよ。それに私はボランティアに精を出すキャラでもない。
わかっている。もっと気楽に考えていいんだ。
そんなに目標を高く設定しないで、たった今から出来ることを教えよう。

「神との対話」N・D・ウオルシュ著を覚えている?
あの本には、ただ、自分の思考を見張るだけでいいと書かれていたよね?

自分の思考とは、頭の中でダラダラと続く独り言のこと。
頭の中のお喋りには、ネガティブなものがたくさんあるよね?
そうそう、
つい嫌なことを考えてしまうの。
それを見張るだけでいい。

もし良くない考えを発見したら直ちに、その考えから離れる。

もちろんポジティブな考えに置き換えられれば、もっといいけど。
けれど、急にハードルを上げる必要はない。ただ、ネガティブな考えから離れることだけを意識してみる。

それは、意識レベルを上げる、とても有効な方法となる。なぜなら思考は感情を作りだすので、ネガティブなことを考えると、必然的に「怒りや恨み、不安」が生まれてくる。
感情が生まれれば、それは行動になり、言葉に現れる。

それが意識200以下の魂の在り様である。ボーダーラインはレベル200を忘れずに。
なるほど。200より落ちないように、300なら9万人を相殺できる。

こいつはすごいな。ところで300ってどんな感じ?
簡単さ。希望、意欲、楽観、信頼、ゆるし、そんな感じだよ。


レベル   
1000〜
700  大いなる自己  存在そのもの 悟り 表現不可能 純粋な意識
600    存在する全て  完全    平和   至福   啓蒙
540   ひとつに統合  完成    喜び   静穏    変身
500    愛のある   恩恵    愛    崇敬    啓示
400    賢い     意義    理性   理解    描像
350    慈悲深い   円満    受容   許し    超越
310   霊感を与える  希望    意欲   楽天的   意図
250   権能を与える  満足    中立   信頼    解放
200    許認    実行可能   勇気   肯定    能力
175    無関心    要求   プライド 嘲笑     得意
150    執念     敵対    怒り   憎しみ   攻撃
125    否定     失望    欲望   切望  奴隷状態
100    刑罰    怯える    恐怖   心配  引っ込み
75     軽蔑    悲劇   深い悲しみ  後悔   落胆
50     非難    絶望    無感動   絶望感  放棄
30    復讐心    悪     罪悪感  非難    破壊
20    嫌悪     悲惨    恥     屈辱   排除

※「パワーかフォースか」D・R・フォーキンズ著より





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            刻々と変わる木々       撮影は咲耶子

子供が小学生の頃、新学期が始まるとPTA役員を決める集まりがあった。7〜8名のグループに分かれて、そのグループの中から一人役員を決める。
全員が拒否した。
このままでは解散出来ない。そこで断らねばならない理由を話すこととなった。私は長男側で役員にすでになっていたので、皆の話を黙って聞いていた。

「親の介護で」「自分は身体が弱く病気がちで」「借金を返すため働いている」「姑が酷い人で家事の手を抜くといじめられる」
などなど、それはそれぞれの不幸の告白する場のようになってしまった。

告白が終わった後の空気は、泣き出す人までいて、信じがたいほど重くなっていた。
そしてついに「私がやりますよ。辛いけど私がやれば皆さん助かる」と手を上げる人が現れた。

そのとき思ったのは「私たちは悲劇を武器にする」のだということだ。

この考えは今でも続いている。勤務先で同じことが何度もあった。
たぶん幸せは大きな声で語れば自慢になってしまうが、悲劇なら堂々と語れる。だれも非難しないし、誰もが同情してくれる。

もうひとつ悲劇には、罪悪感を薄める効果もある。
悲劇的なメロドラマは人々の感情に火を付ける。トランプは化学兵器で苦しむ幼子をメディアに登場させ、米国の攻撃を正当化した。
(そういえば、つい最近の食べ物を取れず脱水状態で死亡した難民の子はトランプは無視した)

弱い立場の子供や女性が苦しむ映像は人々に怒りの火を付ける。
確かに戦地の子供や女性を助けねばならないと叫ぶことは正しい。
だが、それを利用して偽善的満足を得るのも事実だ。
なぜなら隣人の子供の虐待や、上司の女性蔑視には無言なのだ。そんなすぐ近くの現実には、自分は関わりたくない。トラブルを避けたいと考える。

つまり日頃の潜在的罪悪感を、トランプ大統領の攻撃を賞賛することで、私たちはチャラにしたい。
自分にはまだ、正義や慈悲が残っていると確認するのだ。

おまけに見知らぬ人々への攻撃は、ひた隠しにされた残虐性をも満足させる。

これは頻繁に使われる手法で、幼児の亡骸と泣き叫ぶ母親は、正義と呼ぶものからも、悪と呼ばれるものからも利用されている。
化学兵器で殺された幼子の命は地球よりも重いわけだが、ミサイル攻撃で道連れになる幼子の命は「大義に犠牲はつきもの」と言われる。

「命は地球よりも重い」と言う反面、「大義のために死す」ことを賞賛するという矛盾によって、互いの赤ん坊の遺体を見せつけあい、さらなる
攻撃の正当化が行われる。

さらに驚くべきことだが、私たちは苦痛や悲劇から密かな快楽すら得る。
何故、私たちは危険な行為をスポーツと呼び熱狂するのか?
スカイダイビングや危険な登山で命を落とすのを何度も見ているはずなのに。
人はリスクを冒し、身体や命を危険にさらすことに快感と興奮を覚える。
それらを克服したかのような幻想は、
自らに特別な資質や価値を感じさせる。

「犠牲者のゲーム」とは何だろう?
疑問に思ったことはないだろうか?
 
なぜ人は命すら奪いかねない酷い場所から逃げ出さないのか?
ブラックな会社から、暴力を振るう相手から、いじめられる学校から。
なぜ、私たちは悲惨な洪水のあった地域に、水が引くとすぐに住み始めるのか?
火山地帯や地震断層の真上やハリケーンの通り道、崖の下やダムの下流に、悲劇が起こることを知っているにも関わらず家を建てるのか?

「犠牲」という言葉には強力な魔法がかかっている。



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