あなたの知らない視点で語りたい〜フォト 詩 小説 エッセイ

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       艶やかな紅葉も散ると、いよいよ冬の到来ですね。撮影は咲耶子

あなたは死んだ。そして今、新たに生まれ変わろうとしている。
さて、あなたには二つの選択肢がある。
神様がどちらかを選べとおっしゃる。さて、
どちらを選ぶだろう?

●原生林の中でハイキングし、夜は川沿いの開けた場所でキャンプ。翌日はカヌーで川を下り、魚を釣るため湖の畔でキャンプ。釣れなければ夕飯は無しだ。
明日は森に入り獲物を捕るため狩りをしようと決める。油断すれば猛獣に出くわす。だが他にも何かしら果物も探せるだろう。毎日がワクワクするほど真剣勝負だ。

●騒音のする金属工場は細かいチリが舞っている。やることはいつも同じだから頭は使わない。だが油断すると手を切断してしまう。ほぼ十時間働いて、夜は狭苦しいアパートで過ごす。
生産性が落ちていると工場長に怒鳴られ、次の日は十二時間働くことになる。
疲れ果てて、寝るだけのアパートに戻る。することは判で押したように決まっていて、昨日も今日も明日も考える必要はない。

どちらを選ぶほうが幸せか? それはあなたの見方による。

ちょっと意外だが、ひと昔前の工員は狩猟採集民よりも長時間、働き、肉体的にもきつく、精神的な満足も小さく、栄養のバランスも悪かった。衛生状態も悪く感染症は未開地よりはるかに頻繁に見られた。

だが、
あなたは原住民のほうが不健康で不自由で不幸せだと思っている。

確かに、産業革命以降、人類の歴史は大きく飛躍して私たちは幸せになったように見える。
けれど、それは生産性という一部の見方であり、一人の労働者の見方ではない。

国家は輝かしい国益を出す。企業は素晴らしい業績を上げる。
それはキラキラ輝いていて、いかにも幸せな光を放っている。
だが、それは底辺の労働者が放っている幸せオーラではない。

彼らにとって、輝かしい国家も素晴らしい業績を上げる企業も一種の幻影かもしれない。
なぜなら、雀の涙のような給与で休暇も取れず、睡眠時間まで削られて
ひたすら働き続けることに、どんな価値を見出せばいいのだろう?

もちろん、底辺にいようと、輝かしいピラミッドの一部だと思い込むことは出来る。
だが同じストーリーの中にいると自分を騙しても、トップは何十億という金を手に入れ、片や時間と肉体のすべてを捧げたあなたは、月給15万で昔の奴隷となんら変わらない。

この状況は、大企業が倒産してもしなくても、国が衰退してもしなくても、あるじが変わるだけで、
日々を搾取される身分は同じなのだ。

こうして現実よりも虚構を信じて生きていく。それはひとつの見方である。
未開地の人々のほうが、人生を楽しんでいる。それもひとつの見方である。
ジャングルの民は何よりも自由であり、搾取されることもない。子供たちの笑顔は都会の子供たちの笑顔より輝いて見える。それは無理やり勉強を押し付けられ、将来、組織の奴隷となる運命を背負っていないからだ。

これは個人の尊厳という、忘れられたひとつの見方である。


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        新宿にちびゴジラ現る! 撮影は咲耶子

借金のある人なら、こんな妄想をしたことはないだろうか?
社会が崩壊したら、借金も返さなくてすむのに!
なぜ、そう思うのか? 簡単だ。あなたの借金を記録し、借金を徴収していた組織が消えるからだ。

まだ書面記録の出来なかった時代、税の徴収も、借金も、人々の頭の中だけであった。
金を取り立てる人間の記憶力次第というわけだ。
誰が、どのくらいの負債があるか? あと、どのくらい残っているか? 
負債者が数十人なら覚えているだろう。しかし、それが数百人ならもうお手上げだ。

まだ「書く」ことが発明されていない時代には、多くの人間から取り立てることは不可能だった。
口約束では「払った。払わない」と、もめてしまう。

それが大きく変わったのは、書面に記録できるようになってからだ。
書面は絶大な力を持つ。
その絶大さは借金証書を破ればわかる。現実には金を返してなくても、紙ぺらが無くなっただけでチャラになる。
それゆえ冒頭で妄想したように、社会が崩壊して紙ぺらが燃えることを夢見るのだ。(もっとも、電子機器時代では記録媒体は紙ぺらだけではないので、電子機器が崩壊する妄想となる

こうして書面は絶大な信用力を持つようになった。
笑い話のようだが、人は現実よりも書面を信用している。

大飢饉を招き、膨大な死者を出した毛沢東もその一人だ。
毛沢東は超大国を夢見て、農業生産を一気に二倍三倍に増やすように命じた。
役人の制裁を恐れた村長は、不可能を可能にするため出来高を誤魔化した。地方の小役人もまた上からの叱責を恐れて、数字にひとつ多くマルを書いた。さらに行政官が、官僚がと、出来高はネットワークの中で上増しされ、書面が誤魔化されていく。

そしてそれを信じた毛沢東は大豊作を鵜呑みにし、外国に余った作物(実際は余っていないが)を武器や重機と引き換えに、国民の米すべて売ってしまった。

現代でもそうだが、役人や政治家は現場を見ずに、書面の数字を信じてしまう。

やがて記録媒体は紙から電子機器に保存されていく。
だからといって、誤魔化せなくなったかと言えばそうでもないようだ。
道具が進化しても、所詮、人間の手で行うことだ。
ゴーン氏を見ての通り、巨額な金すら誤魔化している人はたくさんいる。

庶民から吸い上げられた金はどこにいくのか?
富裕層の巨大金庫はパンパンになって、壊れんばかりか?
札束はエベレストのように積みあがっているのか?
そうではない。電子機器の数字に変換されているのだ。
そして皆、その数字を固く信じて生きている。




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             着実に何か作られている。 撮影は咲耶子

我々の地球と口にするとき、そこに野生動物らは登場しない。
我々とは人間のことだと考えて差し支えない。
あまり知られていないが、今日、地球上の大型動物の9割が家畜かペット(人間たちに奉仕させる)である。

ところが人類が家畜化に成功した哺乳類と鳥類はたったの20種以下である。つまりそれ以外の多種類の野生動物たちは確実に絶滅しつつある。
まさに地球は人間に乗っ取られた惑星なのだ。

人間がこれほどの支配力をこの地球上で獲得したのは、何故だろう?
二つのことが言われている。

一つは人間の類まれな知能。
もう一つは道具を作ること。

確かに知能と道具が、宇宙船を作るほどの文明をもたらした。
だがこれらは決定的要因ではない。

百万年前、人間は現在の人間と変わりないほど知能があった。
しかし、この百万年という気の遠くなるような期間、他の動物に影響を与えるほどの存在ではなかった。
槍を手にしたのは、わずか二万年前に過ぎない。

もっとも肝心なのは、組織力である。

百万年間、人間は組織力を持たない、ただの小賢しい動物だった。
じつは人間は、オオカミから協力関係を学んだと言われている。
やがて協力関係は組織力へと進化していく。

あなたがどんなに頭が良かろうと、一人ではロケットは作れない。
あなたがどんなに野心があろうと、一人では独裁者にはなれない。
他者と協力しなければ、あなたは野生動物と変わりない。

動物と人間の関係を、政権に置き換えてみよう。

チャウシェスク政権やエジプトのムバラク政権は、人々に長きに渡って苦しみを強いてきた。
広場で演説を聞く民衆が、たった一人の独裁者を殺すのは容易い。
しかし、民衆は動物たちのようにおとなしかった。
それが独裁者の長期支配を可能した。

ようやく奇蹟的に、その支配のタガが外れ独裁者が倒されたとき、民衆は幸せになったか?
いいや、
エジプトの春は一瞬で終わった。なぜなら民衆が組織力を持てなかったからだ。
独裁者追放後、民衆は組織力のあった軍に支配権を奪われしまった。

チャウシェスクが倒れたときも同じだ。
共産党員同士には強力な組織力が残っていた。だが民衆にはそれがなかった。
政権崩壊の騒ぎに乗じて共産党員らは互いに助け合い、私腹を肥やした。民衆は右往左往するだけで、わずかなおこぼれしかもらえず、実際、現在のルーマニアは元共産党員という新たなエリート層に牛耳られている。

結局、民衆は独裁者を葬ったが、組織的な協力が欠けていたばかりに、理想の世に出来なかった。

研究が進んで、動物がこれまで思われていたより知能があると理解され始めている。
だが、動物には独裁国の民衆と同じように組織する発想がない。
ちなみに、アリやハチは組織力があるが、柔軟性がないので地球を支配するまでに至らない。

もし、そんな動物らが組織力を持つとどうなるか? 
映画「猿の惑星」がその発想から作られているのは言うまでもない。

もし現在に不満のある人がいるなら言いたい。
世の中を変えるには「不満」を呟くことではなく変わり目に支配力を持てる「組織力」を育てることなのだ。




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  見たいところだけ見て、撮っても! もちろんこれは観覧車と呼ぶけど    撮影は咲耶子

こんなことを妄想したことはないだろうか?
全宇宙の中で意識があるのは「私だけ」なのではないだろうかと。

「蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めた。
だがふと思う。本当に自分が夢で蝶となったのか、はたして蝶が夢見て
今自分になっているのか?
」これは荘子の有名な胡蝶の夢の説話だ。

かつて大ヒットした映画「マトリックス」では、人類が現実だと思っている世界が実はコンピュータによりプログラムされた仮想世界であったというもの。

まだ完璧ではないものの現代では、仮想現実を味わうことが出来る。
ゴーグル型のデバイスを頭部に装着するVRゲームを体験したことがある人は、そのリアル感に驚愕する。
最近、そのVRデバイスを装着した状態で48時間を過ごした男性のパフォーマンスが注目を浴びた。

専門家は、2026年には多くの人々が長時間を仮想現実の中で過ごしているだろうと予想している。
そうなれば10年後には、ながらスマホならぬ「ながらVR」が日常の光景になるだろう。

こうした技術が可能になるにつれ、現実とはいったい何なのか? 認識とは、意識とは、いったい何なのか? 多くの疑問がわいてくる。

「AIつまり人工知能が、もし心を持ったら」という話はよく聞くが、逆に考えてみると、私は自分に心がある。意識があると主張しているが、根拠は何なのか? たんに自己報告しているだけではないか?

さらに言えば、自分以外の人に心があるのか? これも推定しているだけで、証明はできていない。

そして妄想が始まる。
ひょっとしたら、全宇宙の中で何かを感じる生き物は「唯一私だけ」で、ことによると、
私は完璧な夢を見ており、出会う人はみな夢に出てくる人物に過ぎないのか?

夢とはヴァーチャルに閉じ込められている世界のことで、すべてはシュミレーションではないか?

これを「数学」で考えたとき、現実の世界は一つしかない。それに対してバーチャルな世界は事実上無限数となる。そうなれば、私たちが唯一の現実の世界に暮している確認率はゼロに近くなる。

どうやら世界なんてものを信じるより、疑うほうがたやすいようだ。

現実世界を疑うのには、他にも理由がある。
現在の科学によれば、私の経験することはどれも、脳の中の電気的活動の結果であるとわかっている。

たとえば世界は色で出来ている(と私たちは信じている)だが現実には、色自体が存在するのではない。
色はただの光の波長に過ぎない。

色を創作しているのは脳だ。身内の色盲者がかつて言ったことが忘れられない。「俺は薔薇の中では赤が好きだね」なんとも不思議な想いだった。
彼が見る赤と私の見る赤は、同じ赤なのか? 違うだろう。

※「色」とは光にはなく、個々の脳の中にある。

他の五感についても語ろう。
足裏に触れた床は固い(と私たちは信じている)のは、原子間には引力と斥力が働いていて、その隙間には他の原子が入り込めないからだ。
物体を作る原子と原子の距離は恐ろしいほどスカスカである。床と足は接触していないし、むしろ浮かんでいるようなものだ。

つまり硬いという感覚は、脳に送られた電気信号に過ぎない。
このように五感のすべてが脳の創作なのだ。
自分の目に見える範囲すら怪しいのに、自分の視野の届かない範囲が現実にあるのかどうか、これは疑いだしたらキリがない。

おまけに
脳は常に「取捨選択」している。
私たちの認識ほど曖昧なものはない。見たいものだけ見るし、見たくないものは見ない。
聞きたいものだけが聞こえ、聞きたくないものは聞こえない。これは当たり前だ。
周りのすべてが見えたり、聴こえたりすれば、それはカオスとなり、脳は混乱に陥ってしまう。

世界で起こる出来事をニュースや人伝え、映像は日々流している。
だが、それらは出来事の数パーセントしか伝えていない。その数パーセントから、さらに私は自分の関心のある出来事だけを拾い上げる。

つまり私という脳は、好き勝手な個人使用の世界をプログラミングしている。

長い歴史の中、物質主義者は「幽霊なんて存在しない。ニセ心霊写真なぞいくらでも作れる」と主張した。
ならば逆に科学が向かう先では「物質なんて存在しない。脳内世界なんていくらでも作れる」
と主張する日が来るかもしれない。

私の脳はこうして妄想している。そう、近い未来、世界観が大逆転する日が来るのは面白いじゃないかと。



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     どんな小さな花も私たちを癒してくれる。花は愛で出来ている? 撮影は咲耶子

愛の反対は何だろう?
愛の反対は無関心
という有名な言葉もあれば、愛の反対は憎しみという広く知られた考えもある。
どちらも間違いではないと思う。

そんな中で知った、ドナルドニール氏の面白い定義がある。愛の反対は恐れというもの。
なるほど、人は恐れによって何かを憎んだり、攻撃したり、排除したりする。
差別なども無関心で起こるわけではなく、理解出来ない相手への恐れが、少しずつ憎しみを生んでいくのではと思う。

そんなわけで、いつしか私の中では「愛の反対は恐れ」が忘れられない言葉になった。
正直に言えば、私自身は愛溢れる人間とは言い難い。
けれど、この言葉を知ってから、ひとつ心掛けていることがある。

人に愛を与えることは難しいけど、人に不安を与える愚行だけはしないようにと。

愛と反対のことを禁止すれば、少しは愛ある人間に近づけるかなと、単純な私は思ったのだ。
具体的には、自分自身もそうだが、どの人にも、どの事柄にもこれを当てはめてみるようになったのだ。
この考えの素晴らしいところは、いかなる場合でも、言動で「恐怖」を煽ることは、愛と正反対のことだと明解にわかる。

宗教でも政治でも個人的意見でも、それらに接した人たちが世の中や人生は恐いものだと怯えるようなものは、愛から生まれたものではないと、驚くほどはっきりわかる。

たとえば、保険は癌になるぞと脅して加入させる。そして安心を買わせる。
人は金銭、健康、人間関係を失うことの恐れや、失敗して他人から嘲りを受けることに恐怖する。
そんな私たちの持つ「恐れの芽」に肥料を与えて大きくして、思い通りにコントロールしようとする手段がある。
恐怖で支配する。これは愛だろうか? 

なんか面白いほど、わかりやすいと思うのだ。
人を不安や恐怖に陥れる言葉や行動は、究極の愛からはかけ離れてしまうということ。
人を希望や安らぎや癒しで包む言葉や行動こそが、真実の愛を持つということではないかと。

それって母の胸に抱かれるような気持ちに違いない。
そんな命を慈しむ愛を思い起こす「愛の反対は恐れ」を私の魔法の言葉としている。




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