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いろいろ思うこと

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撮影は咲耶子

募集チラシの最低賃金が上がっていた。
気づくと、新人バイトとパート十五年目の時給が逆転していた。
毎年、十円ずつ上がってようやく獲得した千円時給。
いっきにモチベーションが落ちた。
もはや経験と賃金は別ものだ。

時代は売り手市場となっていた。数え切れない人間が会社を通り過ぎて行った。
それでも部長に気に病む様子はない。
「辞めたい奴は引き止めない。入りたい奴は拒まない」
今日も別の店舗で人手が足りなくなった。毎日のように求人情報広告を出す。

このようにして非正規労働者は、替えのきくパーツとなった。
取り換えのきくパーツは、人間ではない。だからプライドはない。仕事への愛も無い。ゆえに会社への執着もない。

飲食業では、9割が非正規労働者である。小売店も似たようなものだ。
店を仕切るのは、残業残業でいまにも倒れそうな孤独な正社員。

バイトの教育なんかしている暇はない。店長の頭の中は売上報告と明日のシフト回しでいっぱいだ。

新人が、またひとり辞めた。朝来て、昼の休憩に出たきり戻らなかった。
本部に人材募集の要請をする。
募集の電話はめったに鳴らない。若者には魅力の無い職種なのだ。

ようやく一人やって来る。
目を覆うほど面接の態度が悪い青年だ。
だがここで落とせばシフトが埋まらない。
このパーツは不良品だが、無いよりはいい。
そして不良品がSNSで騒ぎを起こす。店長は思う。奴ならやると思った。面接でわかっていた。
パーツは人ではない。常識人にして育てる発想は店長にはない。

幹部が念書にSNSで発信した際の罰則金を取り入れた。
期待する人材は、それにサインするのを拒んで辞めた。
「正社員でもあるまいし、もっと自由な職場が見つかるし」とそいつは言った。
店長もそう思う。彼くらいの人材なら、どこでも雇ってもらえるだろう。
しかし惜しい人材を失った。大学を卒業すれば、そこそこの会社で雇われる人材だった。

そして最悪の日が来た。
教育係を担ってきたベテランパートさんが、新人の時給を知って辞めると言う。
他の店で新たに雇われたほうが、時給が高いのだから仕方ない。
会議で社長が幹部を怒った。
「なんでこんなに人件費がかかっているんだ?」



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             ある意味、人工美ではあるね。砂漠のソーラーパネルが並ぶ光景。

米学術誌「サイエンス」にこんな論文が発表された。
「砂漠化のフィードバックメカニズム」を逆転させて雨と緑を取り戻す。

砂漠化は、過度な放牧により牧草が激減して地表の反射能(入射光に対する反射光の比。アルベド)が増加し、それが降雨量を減らし、結果、緑が減少するという悪循環におちいって起こる。

その過程を逆転させるというのだ。
それも大規模なソーラー施設を使ってだ。

太陽光発電は地表の反射能を低減するので、反射能・降雨量・植生のフィードバックメカニズムが反対方向にはたらくのではないかという仮説が成り立つ。
つまり砂漠にソーラーパネルを設置すると、雨が降り緑が出来るというのだ。

数年前だろうか、太陽発電計画が次々に頓挫したというニュースを見た。
そもそも、パネルは砂漠の砂に埋もれちゃうんじゃないの? とか、砂で故障しまくりなんじゃないの?
とか、あるいは老朽化したパネルは、いずれ大量の産業廃棄物となるよね。とか
問題点を指摘する人は多い。

けれど、良くも悪くも貪欲な人間、そんなことで懲りてはいないのだ。
アラブでは頓挫した計画の代わりに、砂漠の電気で近辺の国の電気を賄い、また、海水を真水に変える工場を動かすという新たな計画が生まれている。
現在アフリカと中東では大規模なソーラー・風力発電のプロジェクトが多数進行中である。

結局ソーラーパネル発電計画って将来性があるの? それとも行き詰まるの? というのが凡人の聞きたいことだ。

確かに砂漠にソーラーパネルを設置したら、広大な日陰ができて、草が生え、それらを食べる生き物が発生しなんていう素敵な想像する。

逆にそんなにうまくいくわけない、と水を差す意見では、そもそも太陽光発電は良い事なのか? 砂漠を緑に変えていくことで新たな影響はないのか? 送電線から遠い国のエネルギー問題を解決するのか?
増えた発電量分の電力が地球のどこかで消費されるわけだが、環境に悪影響はないのか?と疑問を投げかけてくる。

未知の取り組みには、いつだって希望と不安が渦巻く。

だが、そんな議論をよそに、大規模太陽光発電の建設ラッシュは既成事実となっている。
NASAの公開した画像には、モンゴルと中国の間に横たわる広大な土地を覆うソーラーパネルが写る。
ゴビ砂漠で作られた電力が、電力消費の多い北京まで、すでに電力網が完備されている。

画像を見れば一目瞭然、地球上の他の砂漠でもパネルの面積が急速に広がっているのを私たちは目撃する。
太陽光発電は他の発電方法に比べ、建設期間が短いため、短期間で発電所を完成させて稼働できてしまうからだ。

心配性の人間がSNSで呟いても、現実のパワーにはかなわない。
この人間の行動力は素晴らしいが、危ういとも言える。

そこでスパコンのシミュレーションの出番となる。シミュレーションとは模擬実験の事だ。
模擬実験で、大規模な建設による気候への影響や、凡人の心配する複雑な関係性を次々と計算させることが可能となった。

まず仮想現実の世界でそれを行ってみる。

バタフライ効果※は侮れない。(※初期条件の僅わずかな差が、その結果に大きな違いを生むこと)
原発のように作ってしまったあとに、想定外の事故とか、廃炉の問題とかでうろたえることもない。


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                 静寂を保つ木々の向こうには澄んだ青空〜撮影は咲耶子

自分には友達がいない」とその人は言った。
半ば自虐的な物言いだった。

つまり「友達がいない」というのは、恥ずかしいことだと考えているのだ。

「友達がいない」と言っても、こうして私という友達がいるではないか?
私は心の中で、そう反論した。

いや、正確に言うなら「友達が非常に少ない」と言うことなのだろう。
それなら私も同様である。

だが、子供の頃から、友達が少ないことで寂しく思ったことはない。
それは、付き合う人間を「自ら選別して」いるからだ。
私の場合、一対一の付き合いが、もっとも性に合っている。

友達が複数になると、自分の意思を出すことが難しくなると感じる。
グループが大きければ大きいほど、自分の存在が消えていくような気がするのだ。

ちょっと面白いと思うのだが、逆に「友達の多い」人たちは、その感覚が真逆である。

グループが大きければ大きいほど、自分の存在が強まる=自分の価値が上がった、ように感じるようだ。
まあ、大半の人間が「友達が多い」=「人間的魅力にあふれている」とイメージするなら、当然だろう。

ということは、冒頭の自虐的な物言いの友達は、出来るなら「たくさんの友達」が欲しいわけだ。

私のように納得して、友達を減らしている、わけではないのである。

よくよく話を聞くと、規律ある集団生活が大好きだと言う。実際そういう集団組織で仕事をしていた。
そんな人が現在「友達がいない」と嘆くのには、もちろん理由があるのだ。

その理由については、ここでは書かないが、私から見ればそんな理由で離れていく友達って本当に友達と呼べるのか? と、突っ込みたくなるのだが。

もちろん私も離れていった友達と同じ思いを、この人にさせられた。
けれど、
それは突き詰めれば「損得」の話なのだ。

自分にとって、その相手と付き合うことが「損」だと考えれば、離れるのが正しいのだろう。
だから、友達らはこの人から離れていった。

答えに窮して「私も友達いないよ」と、慰めにもならない言葉をかけてみたが、だからこそ私は「ビジネスライクな友人関係」でない私たちの関係は素晴らしいよね、とは伝えなかった。

私たちには、奪うものも取り返すものもない。
だから、
互いに、取り繕うことも無い。

自分が、あるがままでいられる「たった一人の友達」は、忖度をしなければならない友達百人よりずっと希少だ。

「あなたは、親よりも気を使わない」
この人は、時々私に対してそう言う。私には最高の誉め言葉である。

けれど私は願う。
この人には、いつか「たくさんの友達」が戻ってきてほしいと。

何故なら、
この人は「孤独を愛する」という意味は、わからないだろう。

今年も自殺した友人の最後となった場所に出かけた。
湖の周りは、枯れた木々ばかりで閑散としていた。ここは、いつも人がいない。

「死んでも、たくさんの人が思い出してくれたらいいな」と、この人は言う。
私は私を思い出す人がいなくても全然かまわない。そう返したら友人は目を丸くした。

友達とは結束であり、言い換えれば縛りである。
私は「自由」を愛する。

では、失っても
多くの友を求める、この人は何を愛しているのだろう?

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千葉の習志野駐屯地には、エリートと呼ばれる部隊、第一空挺団があることで有名だ。
陸自に入ったなら空挺団に選ばれるのは名誉であり、つまるところ彼らは隊員たちの憧れである。

けれど、その華々しさは光の部分である。
多くの殉職は闇の部分だ。

戦争へ参加しない自衛隊だからと言って「死と隣り合わせでない」ということには、ならない。
訓練や事故、諸々の事案で亡くなる人数は、驚く程多い。民間の比ではない。

「人って簡単に死ぬんだと思っていた」

彼は自衛隊にいた頃の感覚をそう答えた。

同僚が不意に亡くなるというのは、民間ではそう度々あることではない。
だが彼らは毎週、全国の仲間の殉職の報告を聞き、顔見知りなら幾度も葬列に参加する。

悲しさや悔しさは、そのうち「シニカル」なものになる。

そして感情よりも事象を語るようになる。それは不本意な死に相対したものだけが知る闇の部分だ。

「中身のほとんどない柩の時もある。担ぐとわかるんだ」

そこには映画やアニメで語られる兵士の死のヒロイズムは見当たらない。

彼の可愛がっていた後輩は、装甲車の横転事故で亡くなった。
「演習場に空いた弾の窪みに落ちたら、もうその装甲車を持ち上げることは不可能だ」

「残骸を拾うしかない」
彼はその後輩の無残な死に様を、そういうふうに表現した。

もうひとりの後輩はヘリからの降下時、落下傘の紐が首に回って宙吊りになって亡くなった。

「首ってね、驚く程、伸びるんだよ」

習志野駐屯地には、慰霊碑がある。
彼は写真を見せてくれた。

「殉職すると、ここに名前が刻まれる。殉職の理由もね。少なくとも八名は、知り合いだったよ」

そんな話を持ち出すときは、凍った荒地を思わせる遠く沈んだ目をしている。

「○○と○○は後輩だけど。他のやつも皆、大きな家族みたいなものだから、ほとんど顔を知っている。だから、ああ、あの人、亡くなったんだって感じ」
彼はそういう話を喜々として語る。

「いつかね、死ぬときは仲間の元に戻る。やっぱり土の上で死にたい」

彼は、つまり、そういうふうに自分も慰霊碑に名前を刻まれたいと願っているのだ。

ふと考える。
厳しい訓練は肉体を鍛え、よって精神を鍛える。

では健全な肉体に宿るという、健全な精神とは何だろう? 
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         ラジコンヘリコプター♪ 飛ばしてます。 ドローンじゃないよお!^^ 撮影は咲耶子

あなたがアフリカ救済の寄付を募ることになったとしてどうしたらたくさんの寄付を募れるだろう?

①アフリカの危機を統計を用いて皆にアピールした。
②マサラという七歳の女の子を紹介して皆に寄付を募った。
③「女の子」と「統計」の両方を使って寄付を呼びかけた。


皆さんは、③がもっとも効果的だと思うだろう。
ところが、想像に反してそうではない。

私たちが「助けたい」ともっとも感情を動かされたのは、②の呼びかけである。
③は、何故か数が衝動を妨害したかのように、②を超えられなかった。

が真剣に関心を寄せるのは個人にまつわる話だけである。


つまり死の専門家スターリンが言ったように「一人の人間の死は悲劇だが、何百万人の死は統計値」となるのである。

もちろん大きな数字は、強い印象を与えることが出来る。
しかし、大きな数字は「大きさだけで強い印象を与える」のであり、残念ながら「人間」と結びついてはいない。
所詮、感情の味方ではなく、ただの無機的な数字なのだ。

慈善団体がずっと前に気づいたことがある。
それは一人の顔の見える人物を助けるために訴える力が、困窮する多数の人に言及するより、ずっと説得力があるということである。
一人の死が悲惨なものであれば、千人の死は千倍悲惨であるはずだが、感情はそういう具合に働かない。

そして人間は「感情」によって初めて「寄付」という行動を起こすのだ。理性で「寄付」をするのは税金対策者くらいだろう。

日本でも困窮者がたくさんいる。だがそのような人々が15万人もいると伝えられても「ピンとこない」だろう。
それよりも、身近な知人が生活苦で亡くなったと聞くことのほうが、ショックは大きい。

大抵の人は「苦しむ人々」と関わらない生活をしている。顔の無い人々の苦しみは、私たちの、どうにかしたいという感情に訴えてこないだから現場に行くことが大切なのだ。

この記事を書いている矢先、元自衛官という異色の経歴を持つ俳優・今井雅之氏が他界された。
彼は東日本大震災の被災地・宮城県仙台市でヘドロのかき出しなどのボランティア活動を行いインタビューでこう答えている。
「国会議員全員が視察ではなくヘドロのかき出しをやるべき」→ http://www.cinematoday.jp/page/N0032641


まさにそのとおりだと思う。
政治家が1週間でも、その地で活動すれば、その地の人々の顔を見、名を個人的に知ることになる。親しくなった、それらの人々の復興に力を注がないはずがないだろう。

現在、安保法制の審議が国会でされているが、その前に国会議員は1週間でも海外派遣についていけばいい。
いつ弾が飛んでくるかわからない緊張を体験すれば、少しは政治家の人間的な感情も芽生えるに違いない。

最悪、たとえ、派遣が必要となったとしても、任務をさせっぱなしで隊員を自殺に追い込むのではなく、その後の心の手厚いケアや怪我や病の保証などについて、深く考えるようにはなるだろう。

まさに今、国のリーダーに訴えたいのは「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!」というドラマの名言である。



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