あなたの知らない視点で語りたい〜フォト 詩 小説 エッセイ

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哲学・心理学であそぶ♪

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                                撮影は咲耶子


昔、ハムスターを飼っていた。
あるとき、ちょっとした不注意で、恐い思いをさせてしまった。
すると、その子は石のように固まったのだ。硬直は一分ほども続き、こちらは、死んだのかとうろたえた。

このように、小動物は恐怖のあまり、催眠状態になる。
子供の頃、小動物を催眠状態にして遊んだ経験を持つものもいるだろう。

あらゆる動物が過度の恐怖に接すると「麻痺」を起こす。
とくに弱い動物が死んだように動かなくなる。これは
捕食者から命を守るための最終手段として生き残り遺伝子に組み込まれたものだ。

このように凍り付くのは、人間も同じである。
アフリカでライオンに襲われたイギリス人は、凍り付いたときの体験を語っている。

「私はライオンに振り回されている間、痛みも恐怖もない、まるで夢を見ているような感じを味わっていました。
意識はしっかりあったのです。
しかし身体は完全に麻痺していました」

ライオンは病気や腐敗した獲物を避ける。餌食になる動物がマヒ状態になるのは、進化で獲得した最後のチャンスなのだ。
他に逃げ道がないときには、理にかなった戦略となる。

レイプ事件では、しばしば被害者が抵抗しなかったという理由で「合意の上である」かのように扱われることがある。
だが動物学者や心理学者ならそれが「非常に特殊な目的にかなう麻痺」であると知っている。

レイプの被害者は、自分のとった反応が生物学的反応で、「賢明」だったかもしれないことに気づいていない。
だから、抵抗しなかった自分に対して、ひどい自責の念を持つ。
実際、レイプ被害者の40パーセントが、一種の行動停止におちいる。
さらに10パーセントの人は、文字通り「凍り付く」。

「麻痺」はあらゆる状況で起きる。
銃撃戦に居合わせた群衆を観てみよう。

まず、少数が逃げ出す。
それ以外の人々は、地面にしゃがみ込む。一種の行動停止状態である。
さらに驚くべきことがわかっている。
危険が遠のいたにも関わらず、一時間たっても多くの人が、まだそこにいたのである。
ケガをしていたわけではないのに、凍り付いたように動かなかったのだ。

フェリーの沈没事故でも、同じことが目撃されている。
驚くほど多くの乗客が、まさに何もしなかった。
「船はダンスも困難なほど傾いてきていました。
けれど人々は事実を無視するかのように、笑ったり歌をうたったしていました」
「一部の人たちは何が起こったのか認識していないようでした。
まったく何の関心も示さず、ただそこに座っていただけでした」
どのグループも動けなくなっているように思えた。意識はあったが、反応していなかった。
船が大きく傾くと、まわりの海には未着用の救命胴衣が一面に浮かんでいました。
この狂乱のさなかに、なおも彫刻のように、じっと立っているグループがいました。
「彼らは、ただただ水浸しになっていました。彼らに救命胴衣を投げたのですが、反応がありませんでした。
救命ボートに乗った人たちもいましたが、そのボートを水面に降ろそうという努力をまったくしないのです」

生存者のひとりは、こう言っている。
ある時点で、動くのをやめたいという抵抗しがたい衝動を覚えました。けれど、愛する人たち、とりわけ子供たちのことを考えて、このマヒ状態から抜け出したのです

これらの麻痺反応は、動物王国では適切な生存反応として動物を脅威から守っていた。
だが、科学技術が進歩した結果、もう適応性がなくなってしまった反応と言える。


生き残れる判断、生き残れない行動アマンダ・リプリー著より抜粋


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Found on marthastewart.com

もし、あなたが潜在意識テストで「人種差別をしています」と指摘されたら、どう感じますか?

たとえば、アメリカでは、長いあいだ、黒人と白人のあいだに確実に差別がありました。
けれど今では「個人的にも社会的にも、自分は決して差別などしていない」と9割の人たちが思っています。

これは建前ではありません。
人種差別への明確な拒否反応を示す一方、本気で自分は差別などしていないと思っているのです。

ところが、書面でのアンケートで本気でそう答えたはずが、実際に彼らの行動を調べた結果、大半の人が「自分すら気づかぬ」うちに人種差別をしていたことが明らかになったのです。

もちろん、その差別行動は、ひと昔前のような、あからさまな差別とは違います。
消極的差別が大半です。
つまり、差別している相手に力を貸さない、援助しないなど、消極的態度を示すことによって、隠れた差別を行っているのです。

この消極的差別は、恐ろしいほど、あらゆる状況に蔓延しているので、だれもそれとは気づきません。

それは学生時代の成績だったり、仕事での面接だったり、病気や怪我への最新治療だったり、内輪同士のお得なアドバイスだったり、まさにあらゆる場面なのです。

これを逆に「特権」という言葉で言い換えてもいいでしょう。白人は白人ならではの特権がある、というようにです。
でもアメリカ人はオバマを大統領に選んだじゃないか? いいえ、人種で言うなら、白人はたったの12パーセントしか彼を選んでいないのです。

さて、白人、黒人間の差別は我々日本人とは縁がないからどうでもいい、そう思われたと思います。
こんなこと我々には関係ない、と思うのはちょっと待ってください。
差別には、たくさんの種類があることを忘れてはなりません。

たとえば、日本は単一民族だから差別がない、と考えますか?
無いとは言えないが、少なくとも「自分」にはない、と思っていませんか?
それは「有り得ない」のです。

――「差別」は脳の機能、グループ分けから始まる――

脳の基本的機能からすれば、自分の属しているカテゴリーに入らない集団は、すべて差別の対象となっている可能性があります。

たとえばあなたが男なら女は差別の対象です。高学歴なら低学歴が対象です。日本人なら他のアジア人、痩せているなら太っている人、若者なら高齢者への差別。

――どんどん潜在化する「差別」、ゆえに本人すら差別に気づかない――

現代では、私たちが、あからさまな差別をすることはありません。
なぜなら今では、差別する人間は「最低の人間」と、周りから見られることを知っているからです

けれど、世間から隠された自分の偏見、いいえ、もっと言うならば、現代ではさらに差別は洗練され「自分すらも騙している」潜在的偏見をあなたは持っているのです。

この偏見は、どうやってあなたに浸入するのでしょう?
社会に潜んだ偏見の空気によって作られるのです。親や社会の情報によってです。

どんなに自分は公平な人間だと自負していも、実際のところ、社会に潜む潜在的差別は私たちを知らぬあいだに毒しているのです。

では一番身近な男女差別について取り上げてみます。

女性はどうして尊敬される仕事や立場で、圧倒的に少ないのでしょう? 肉体的にも脳の機能でも男性より劣っているのでしょうか?

女性は男性より能力や才能において劣っている。とはっきり口にする人は現代では白い目で見られます。
いいや劣っているなど、つゆほど考えてはいない、とあなたは言うかもしれません。

では、オーケストラの楽団員の仕事を得るのは、男性が多いのは偏見でしょうか?
今よりさらに、より良い楽団員を集めるために「偏見」を排した面接を行っているオーケストラがあります。

とても簡単な方法です。ただ面接で布一枚の仕切りを作って、採用を実地したのです。つまり純粋に演奏だけを聞いたわけです。
すると男女比に、ほとんど差がなくなったのです。

――女性は数学の才能で劣るという社会のレッテル――

実はレッテルが貼られた瞬間、本人すらそのレッテルどおりに自分を作り上げていきます。
女性が苦手と言われている数学の成績を上げるのは実に簡単です。
女性で活躍する数学者を先生に雇うのです。これだけで成績で男女比が無くなるのです。

私たちは他者にも自分にも「レッテル」を貼ることによって、世界の可能性を非常に狭めていると言わざるを得ません。

――あなたの個人的な「差別」を知っておくこと――

以上のように差別は「レッテル」です。このレッテル貼りにより、脳は瞬時に他者を区別します。
ただ、その区別が悪意ある冷酷な区別にならないように、私たちは自分がどんなレッテルを自分に他者に張っているかを自覚しなくてはなりません。自覚することによって、積極的援助を差別者に取れるからです。

自覚の方法は以下の簡単なテストで得られます。興味ある方はぜひ、行ってみてください。

このテストの信頼性は、意図的に良い結果を出そうとして何度やっても、結局、同じ結果が出ることです。
それはあなたのコントール下にない潜在意識が答えるからです。

――潜在的連合テスト(IAT)――


意識的に他者から何かを隠していることと、意識せずにあなた自身から何かが隠されていること。
潜在的連合テスト(IAT)は、この両タイプの隠蔽を見破ることを可能にします。
IATでは、人々が報告しようとはしないか、あるいは、報告することができない 潜在的な 態度や信念を測定します。

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by咲耶子

サイコパスと聞くと、ほとんどの人は「羊たちの沈黙」の殺人鬼レクターをイメージするだろう。
そのイメージは正しい。
ただし、片手落ちのイメージでもある。

サイコパスだからといって、殺人を趣味とするわけではない。よしんば、趣味としても、現実にすべてのサイコパスが実行するわけでもない。
殺人は極端な行為であり、それは法に触れる。彼らは大概、知能が高いので、それがどういう結果をもたらすかを知っている。

確かに刑務所には、かなりのサイコパスがいる。
だが、凶悪犯すべてが、サイコパスというわけではない。
「サイコパス」と「反社会性人格障害」は別ものだ。
つまり服役者の八割は反社会性人格障害で、残りの二割がサイコパスなのである。


そして、ここからが片手落ちのイメージなのだが、じつはサイコパスの多くは社会で成功している。
成功しているどころか、国のトップがサイコパスということは多々ある。

――大統領向きの人格がサイコパス――

心理学者が興味深いデーターを取った。大統領になるような人物とは、どんな人格なのかを。
それでわかったことは、衝撃的だった。
アメリカ歴代の大統領の多くが、あのケネディとクリントンを筆頭に何人もの大統領が、サイコパス的特性を示したのだ。

サイコパス的特性とは、揺るぎない自信、逆境をものともしない性格、外向性、開放性などである。これらがカリスマ性を生むのだ。
逆にサイコパスの悪い面が出たのが犯罪者である。嘘、ごまかし、冷淡さ、傲慢さ、無責任さなどが強く現れると刑務所行きとなるわけだ。

つまりサイコパスのどの特性を生かすかが、問題なのである。
サイコパス犯罪者とサイコパス成功者の違いは「衝動性」と「無責任」がコントール出来るかだ。
出来ているものは大統領になれる。

「サイコパスが成功者?」 まだ信じられないかもしれない。

企業幹部に、サイコパシーが多いのには理由がある。
カリスマ性やプレゼンテーションのスタイル、独創性、戦略手思考、コミュニケーションスキルが一般より高いのだ。
サイコパスは地位や立場が他人に影響を与え支配し、物質的利益を手にできるような組織にいたがる。

実際、労働者を対象にしたサイコパシーテスト※の調査結果がある。

――サイコパス度が高い職業――
①企業の最高責任者(CEO)
②弁護士
③テレビ・ラジオなど報道
④セールス
⑤外科医

――サイコパス度が低い職業――
①介護士
②看護士
③療法士
④職人
⑤美容師・スタイリスト

ロバート・ヘア考案のサコパシーテストというものがある。
ほとんどの人は2点前後。サイコパスは26点以上。
あなたはたぶん、1点か2点だろう。

――サイコパスは一方でごくふつうで、みんなと変わらないが、もう一方でものすごく違う――

外科医のサイコパスのインタビューがある。なぜサイコパスが外科医向きなのかよくわかる。

「執刀する患者に思いやりなんていだかない。そんな余裕はない。
冷酷無慈悲な機械になって手にしたメスやのこぎりと一体化するんだ。オペ室では感情の出る幕はない。感情は混沌をもたらし仕事に差し支える。外科医は精鋭部隊の兵士に似ているんじゃないかな。

頭部を狙って銃撃する際の一ミリの誤差と、メスの刃先で重要な二本の血管を傷つけないように進む時の一ミリの誤差の違いは何か。
どちらも自分が生死を握っていて、死か栄光かの決断をくださなくてはならないってことだ」


さらに、はっきりサイコパスとわかるのが、こちらの弁護士の言葉。冷徹無慈悲だとわかる。

「法廷で文字通り、証人たちをやりこめてやった。さらし者にしてやったんだ。レイプの被害者の女が泣き崩れようと、いっこうにかまわない。なぜだかわかるか? それは私の仕事(弁護士)だからだ。仕事が終わればかつらとガウンを取って、妻とレストランへ行き、被害者の女の人生を破滅させたかなんて、いっさい考えもしない」

(私のサイコ友もよく「やりこめてやった」と自慢げに語る。理路整然と相手の心の弱点を突くのだ。相手が泣きだすまでやめないという。驚いたのは人生の先輩のような、初老の元刑事を泣かせたときの話だ)

彼らには感情的共感はない。しかし他人が何をどうしたら動揺しているかは十分理解するのだ。

有名な命題がある。

トロッコが制御できなくなって暴走し、五人が縛られているほうへ向かっている。あなたは橋の上で、とても大柄な知らない男の後ろに立っている。五人を救う唯一の方法は、知らない男を突き落とすことだ。男は確実に死ぬだろう。それでも大きな身体がトロッコを止めるはずだ。あなたは男を突き落とすべきだろうか?

これは感情的モラルのジレンマと呼ばれている。

サイコパスなら、この問題にかなりの短い時間で結論を出す。スキャンすると脳の「感情の領域」は真っ暗なままなのだ。

あるサイコパスは答えた。
「どこが問題なのかはわかるさ。だけど単に数字の遊びなら、楽勝じゃないか。そいつを殺して、ほかの五人を救うんだ。
しゃれた言い方をすれば功利主義ってやつさ。大事なのは考えすぎないことさ。ひとりの命と引き換えに、五人の家族の朗報だ。
もうけものだと思うが

もしかしてあいつもサイコパス? あなたもそういう知り合いが、ふいに思い浮かんだかもしれない。
ネットには簡単な「サイコパステスト」というものがある。きっと高い得点が出るに違いないとあなたは思うだろう。

だが結果はあなたの期待を裏切るものだ。彼らは一般の人と同じ答えを言うだろう。
サイコパスは狡猾に笑う「俺は正気じゃないかもしれないが、ばかじゃないぜ」彼らは自分の正体をそう簡単には明かさない。

正体を明かさないなら、こちらから探るしかない。

そもそも「サイコパス」とはどんな人物だろう?

彼らはまず知的である。また感情の乏しさ、恥ずかしいという感覚の欠如、自己中心性もあげられる。
他にも表面的な魅力、罪悪感のなさ、不安のなさ、罰を免れること、予測がつかないこと、無責任、他人を操ること、人間関係が長続きしないことなどがある。

(私のサイコ友だちは、非常に人好きな明るい人物に見える。なにしろ話が面白く、人を手なずけるのが上手い。面接で落ちたことがない。友は言う「面接官の目をじっと見て、犬コロのように尻尾を振るのさ。ご主人様に忠誠を誓いますってね」

上司に取りいるテクニックは天才的だ。
「途中入社は分が悪い。さっさと昇進したけりゃ、裏工作が必要さ。専務がふと具合が悪いと漏らしたら、すかさず言うんだ。朝いらしたときからいつもと違うので心配してました。真っ赤な嘘だけど朝からっていうのがミソなんだ。そして糖尿病の人のための食事のレシピをネットで検索して渡す。どんなに長くても印刷でなく、手書きというのがミソなんだ。感激度が違うからね。とたんに目をかけられるようになるね」

つまり、サイコパスは表面的には、思いやりがあって親切なのだ。いや親切を完璧に演じられるのだ。

(私のサイコ友は、街中や電車で気分が悪くなっている人を見逃さない。電光石火で近づき声をかける。周囲の賞賛の目や自慢話にもってこいなのだ。友はナルシズムを満たしてくれる行為が大好きでもある)

――つまり、サイコパスは自己中心的ではあるが、不親切だとは限らない――

こんな実験がある。

道に迷った人間が道をたずねる。案の定、サイコパスは、そうでない人よりも相手の力になろうとしなかった。
だが、通りすがりの人が多量の書類を落としたときは、サイコパスでない人と同じくらい手をかした。

そして驚くべきは、骨折した人が飲み物のボトルを開けようと奮闘、業務日誌に名前を記入しようと奮闘しているなどに、サイコパスでない人よりも、より手助けをしたのだ。

理由は、ナルシズムを満たし、善い人を演じることによって人を操れるからだ。

このようなサイコパスがいるから、真の利他的行為などというものは存在しないと、言われることになる。
どの美徳の実践にも快楽が潜んでいると、サマセット・モームは書いた。

最後にサイコパスの度胸について書いておきたい。

(私のサイコ友は以前、生死を分ける非常に危険な仕事についていた。恐くないの?と聞いたことがある。
友は言った。緊張はするさ。むしろ、そいつは心地よいね。でも恐怖ではない。)

――たった今に集中する。恐怖を感じないサイコパス――

あなたは拷問にかけられているとしよう。
寝かされた顔のあなたの目ぎりぎりに、ナイフがぶら下がっている。細い糸が切れて、いつ落ちるかは誰にもわからない。
たいていの人間は恐怖して、眠ることは出来ないだろう。
だがサイコパシーは、ぐっすり眠るのだ。

「こう考えるんだ。実際なにも起きていないじゃないか皆が震えあがるのは自身の想像によるものだ。起こりうる災難を次から次へと思い浮かべているんだよ。でも実際は何も起きていない。だろ?」

特殊部隊にいるサイコパスは多い。その多大なる勇気で人質を奪還したり、敵の陣地へ乗り込むのだと私たちは思いこむ。
だがそれは少し違う。

あるサイコパスの兵士は言った。
「皆、勇気を出せってよく言うが、勇気ってなんだ?っていつも思う。第一、俺は恐いと思ったことがない。まあ、恐がっているやつには勇気っていう勢いが必要なんだろうな」


――サイコパス的特質――
ナルシズム・衝動性・良心の欠如・他人を操る・病的な嘘・冷淡、冷静。恐怖心の欠如・精神の強靭さ・功利主義・精力的・独創性・執着のなさ。


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by咲耶子

〜わが子を救うために、母親が一枚しかない毛布にくるみみずからは凍え死んだとしても、母親の行為は道徳的に善くはない。彼女は、子供のことを「思って」毛布をかけたからである。自分が助かるより、子供が助かることを願うのは彼女の欲望だからであり自己愛からである。自己犠牲的行為においてこそ、ますます自己愛は赤々と燃えさかるのだ。それらは、感動的な行為であり、愛すべき行為であるが道徳的に善い行為ではない。道徳的善さを求めるかぎり、他人に親切にする場合、その動機として自己愛の片鱗も有すべきではない。「悪」について             〜中島義道著より


ひとりのブロガーさんが↑の文章を送ってきました。そして『自己愛でない道徳的な良い行為』の答えが欲しいと書いてこられました。
皆さまなら、どうお考えになるでしょう?

この中島義道さんという方は哲学者のようです。私はこの方の著書を読んだことがないので、この短い文章からしか、この方の真意を探るしかありません。


さて、一読して最初に思ったことは、「道徳的」「自己愛」「自己犠牲」「善い」の定義がわからな〜いでした。^^;
少し調べた結果、どうやら「カント」さんの道徳的哲学を踏まえた文章だとわかりました。


たとえば、よく「お母さんは、お前のために〜してやっているのだよ」と言う母親がいます。
これはいっけん愛のようですが、子どもがプレッシャーを感じているなら、これは取引と言えます。

これに照らし合わせると、恩着せがましい母親となり――私はがまんして、あなたに毛布をかけてあげたのよ。どう?善い母親でしょう私は!だから、あなたも私の理想どおりの子どもでいなさい――と受け取れます。
これはエゴイステックな動機からの行為なので道徳的に善くないということでしょうか。

うーん、それはそうなんですが、例えている話が的を射てない気がします。

どちらかが凍え死ぬような場面で、母親になんらかの不純な気持ちがあるのかな?

私なら単純に寒いだろうから温かくしてやりたいという「思いやり」の気持ちでしますね。
たしかに、それは自分の罪悪感を取り除くためなのかもしれなませんが。

でも自分が「いい気持ち」になることが善くないと、この文章は言っている気がします。
「快」をエゴのエサだと言っているわけです。
つまり母の行為は自分の中に「快」を得るためで、善ではなく偽善だというわけです。


うーん、この場面での「快」は、いけないでしょうか? 

逆に考えて、母の心にどうしても不純な動機が芽生えるので、子どもに毛布を与えることは「してはいけない」と思うなら、それは自分の中の善を守ろうとする動機となり、それもまた自己愛ですよね? 結果、母は自分の完璧な善を追い求め、子どもの死を容認する。というような。


さて、実際の場面で母親がそこまで深い善について哲学するだろうか?
たぶん、毛布をかける行為はもっと衝動的に行われるのではないか? 子が寒がっている。温めてやりたい。
意識はそこにあって、自分は別に死にたいわけではなく、つまり犠牲的な気分なわけではなく、ただ生理学的に寒さに耐えられず母は凍え死ぬのではないでしょうか。


これは愛ではなく子への執着心でしょうか? そうとは思えません。

川でどこかの子どもが溺れている。電車のホームに見知らぬ女性が落ちた。
そんな場面を見て、すぐさま飛び込む人がいます。結果、助けようとした本人は死んでしまうという事件がときどき起こります。

この行為は思考より先に衝動があります。身体が勝手に動くわけです。

それは人間の中にある善?愛?に突き動かされて飛びこむのだと思うのです。

このような行為は、この文章でいうところの自己愛的な自己犠牲ではありません。なぜなら彼らは自分が死ぬなどとは、少しも思う間もなく飛びこむからです。

さて、皆さまはどう思われましたか?


――道徳とは?――

「道徳」は他者へ向けた社会規範である。
他者へ向けたとあるとおり、相手があってのことです。自分ひとりの世界なら社会もないわけで規範もいりません。
また老子は「道徳」とは「人」の道であると言っています。
人の道とは永遠不変でない道ということです。(天の道と比較しています)つまり道徳も常識もしょせん人が作ったもので、時代や場所で変化する。
変化するものなのだから、あまり固執するなと言っているのです。

――自己犠牲とは?――

自己犠牲の精神を突き詰めると「〜をしてやった」だから「あなたから見返り」を期待している、という想いが見え隠れします。
自分が犠牲になっているという自覚があればですが。見返りが得られず、相手を恨みに思うなら自己犠牲はエゴになります。

――自己愛とは?――

自己愛とはまさに自分自身を愛することですね。
ちなみに「自己愛」と「ナルシシズム」はまったく別ものと定義出来ます。
自己愛は、自分のことも含めて、他者を愛することができる能動的な能力です。
これに対してナルシシズムは、自分のことにしか関心がありません。
つまり、自己愛は自然な感情であり、すべての動物はこの自己愛のために自己保存に留意するようになるのです。
と、なると、中島氏の言う「自己愛」とは「利己愛」のことかもしれませんね。
利己愛は、社会の中で生まれる相対的で人為的な感情です。
それぞれの個人は、この感情のために自分をほかの誰よりも尊重するようになるからです。

――善いとは?――

見返りを求めない無条件の行為。



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                                     撮影は咲耶子                          
ニュースは大抵、良くないことを伝える。
そのほうが視聴者の欲求に即しているからだ。
つまり他人の不幸を私たちは求めている。「ひどい話だ」と眉をひそめつつ、私たちは、結局そのニュースに飛びつく。

ニュースを見、秩序のみだれに、多くのひとが「社会のルールを守らないやつは排除すればいい」という考えに対して魅力を感じる。

だが、ここに大きな矛盾が生まれる。
もしも、完璧に秩序だった社会が生まれたら、ニュースはいらない。なぜならニュースは秩序外のことを伝えるためにあるからだ。
「○○さんが結婚しました」ばかりのニュースなら「ああ、そう」で終わる。
「○○さんが不倫しました」という秩序を破るニュースのように刺激的ではない。

このように、意外性のない世界を「面白いか?」と問えば、つまらないと感じるのは明白だ。
子どもの頃「台風が来る」と聞くとドキドキした経験があるだろう。
近所で「火事が起きた」とわかれば、大人でさえドキドキするものだ。そのドキドキは多少の不安を含んでいるが、それ以上に「面白い」のである。
人は危険にスリルを感じ、面白がるのである。


万引きなどはスリルを求める犯罪だが、殺人にすらスリルを求める人間がいる。あなたは眉をひそめ、そんなやつは死刑にしろとつぶやく。
こうして、殺人事件が起こるとニュースになり、人々は「ワッと」飛びつく。
なぜこれほど強い関心を持つのだろう? 私たちの深層には殺人代替えの心理がある。自分は出来ないが、だれかがやってくれたわけだ。
つまり、極端な非日常性を心の奥底で求めていたのだ。
だからワッと飛びつく。

だが、自分の悪意は巧妙に隠される。代わりに行動した相手を徹底的に叩く。死刑にしろと罵る。
ここに隠れた暴力性を垣間見ることが出来る。正義が「排除」の形をしているなら、それは攻撃性を含んでいると言えよう。
私たちは正直に「偽善者」であることを認めなけれならない。秩序も無秩序も単なる状況だ。だがそれを特別なこととして取り上げるとき、それに関心が向いているということだ。
さて、あなたはどんなニュースに関心が向いているだろうか?



以下↓「理論物理学」より抜粋

たとえば、あなたの友人たちは皆同じことをしたら、人生は単調で無意味なものになる。世界の歴史は一定の法則に従い、終わりのない平和が永遠に続き、何の変化も起こらない。歴史は本当に退屈なものとなり、だれも語るものはいないだろう。途切れも無く同じ状態を記録するものなどいないからだ。

とは言え、友人のだれもが、でたらめに行動したら、これもまた期待することは出来ず、人生は無意味なものになる。過去の記録は完全にでたらめであり、記録する必要はなくなる。

面白くなるのは臨界点に近づいたときである。この世界はあらゆる大きさの集団で占められるようになり、それらは絶えず離合集散し、完全に規則的でも完全にでたらめでもない状態になる。

しばしば思いがけず世界全体を蹂躙するようになる。歴史はまったく別な方向に動き出す。秩序さとでたらめさが、複雑だが魅力的な形で混じり合っている。

自分の行動が世界に大きな影響を与える可能性がある。他人の行動があなたに深い影響を与えていることに気づく。我々は必然でない出来ごとにとりわけ心を動かされる。

この世界ではあらゆるささいな出来ごとが記録され、それらは影響力を持ち、そしてその影響は世界を変えうる。これは自己組織化である。〜「歴史は『べき乗則』で動く」著・マーク・ブキャナンより〜


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