撮影は咲耶子
私たちは、とても死を恐れる。
それは「死」の過程がどうみても、最大限の肉体の苦痛をともなっているように見えるからだ。
ところが、苦痛の想像は外部からの観察で得たものだ。
内部からの実体験ではない。つまり死ぬ寸前の当事者のものではない。
――死ぬ寸前の不思議な体験をした者は、案外多くいる――
アルバートハイムは地質学者で経験豊富な登山家である。
彼は若い頃に山で滑落し、死ぬ寸前の意識がどうなるかを体験した。
ハイムが落下中に体験したことは、死のイメージの「想像外」にあった。
「多くの人と同じように、その体験をする前は、死の恐怖やパニックや苦痛を想像していたのです。
だから、まさか心が明晰になり、生き残る可能性を考え、目の前を通り過ぎる人生を落ち着いて眺めることになるとは思ってもみませんでした。それもわずかな時間、岩に何度もぶつかりながら滑落して、最後に奈落に叩きつけられる短い間に」
ハイムは落ちたことをすぐに認識した。身体がドスンドスンと重く鈍い音をたて、何度も岩に叩きつけられるのを感じた。
だが、痛みはなかったという。
あなたにも、もしかしたら、経験があるのではないだろうか?
ひどい怪我をした瞬間は、痛みを感じないのだ。
痛みは、時間差でジワジワとやってくるようだ。
とはいえ、ハイムが経験したのは、この無痛だけではない。
なんと死の恐怖やパニックすら、その瞬間には存在していなかったのだ。
「私はむしろ冷静で明晰で、落ちている間、破片が目に刺さるといけないし、メガネは外したほうがいいのだがと考え、けれどそんな余裕は身体に無いこともわかり、そうだ、それより落ちた私を目撃した仲間はショックを受けているはずだと想像し、地面に転がったら、すぐに「私は大丈夫だ!」と彼らに叫ぼう、とか考えました」
「こんなふうに、落ち始めるとすぐに「考えの洪水」が始まりました。
もうじきぶつかる岩のこと、その先の急な斜面、もし雪だまりがあれば生きて帰れるだろうこと。
雪だまりがなければ、死は免れられぬだろうこと。私の死の知らせはどのようにもたらされるのか、愛する者たちに心の中で慰めの言葉をかけていました」
ハイムはさらに不思議な体験をする。
「そんなこんなと、さまざまな考えが、わずか数十秒の中で行われるのです。超高速で思考が流れていました。
さらに驚いたのは、今までの自分の人生がパノラマ絵のように現れたことです。
子供時代の楽しかった場面、愛する者たちのとの触れ合い。それらが一瞬にして立ち現れました」
結局、彼は九死に一生を得るのだが、この強烈な体験は、あまりにも明晰で忘れることは出来なかった。
そこで彼は、自分と同じように命に関わる体験をし、生き残った人々の話を聞いたり集めるようになった。
同じように滑落した登山家のみならず、高い建物から落ちた職人、過酷な事故の生存者、溺死しかかった漁師などその証言には、あらゆる人々が含まれていた。
――人は死の瞬間に、なにを体験するのか?――
もちろん何も覚えていない人もいたが、覚えている人は、恐れも、後悔も、苦痛もなく、客観的な明晰さを持って、その出来事とその結果を眺めていた。つまり私たちが持っている死の瞬間の苦痛のイメージとは真逆だった。
もうひとつの意外な証言が「時間感覚」だ。
時間は止まったかのようになり、思考の動きは通常の千倍もの速さになったと体験者は語った。
そして、しばしば、自分の全過去が突然蘇ったと語る者がいた。
それと同時に自分の死がもたらす結果だ。
ほとんどの場合、その人のいちばん大切な人、親しい人が悲しむ場面が含まれていた。
――「死」とは自分自身のことではあるが、それに関わる人々のことである――
ハイムが講演で話した「死」というものの他者への影響がある。
彼は登山家で自分の滑落のみならず、仲間の滑落にも多く遭遇している。
「自分が落ちるよりも他人が落ちるのを見るほうが、その瞬間の感情やその後の回想は比較にならないほど苦しいのです」
「私は他人が落下するのを数回見たが、だれも死には至らなかった。
だが、そのときのことを思い出すと、いまでも恐ろしくなるのです。
だが自分自身の不運な出来事は、実際に体験したとおり、身体の痛みも、心の痛みも感じない楽しい変容として記憶に刻み込まれていることを、ここで申しあげます」
むしろ「目撃者」が、すくむような恐怖心と心身の震えで身動きが出来なくなり、その体験からいつまでもトラウマを抱えることが多い。
それに対して、落ちるのを見られた人は、重傷でもなければ、その体験から恐れや苦しみを抱えることはない。
もちろん反応としては激痛や疲労が起こることは避けられないが。
このことは、他の人々の無数の体験談で証明されている。
――なぜ、人生のパノラマ映像に「万事よし」という安らかな感情が伴うのか?――
幻覚と解釈するには、疑問が残る。
幻覚が記憶から作り上げられるなら、痛み、悲しみ、不安はどこへ行ったのか?
なぜ脳は楽しく美しい映像だけを見せようとするのか?
エンドルフィンの大量放出のメカニズムは、もっともらしいが、これとて疑問が残る。
このような劇的な脳の化学的変化が生じるとしたら、なぜパノラマ記憶を死の生還者すべてが体験していないのか?
このミステリーにはいつか解決されるかもしれないし、スピリチュアルな領域として据え置かれるかもしれない。
いずれにせよ「死」は、この生命世界の命あるものすべてに訪れる「平等な体験」であり、なおかつ、「非常に考慮された思いやり」を含む結末だと言えるだろう。
もし神が「命」という奇跡を吹き込んだとしたら、死の体験の奇跡もまた「当然の体験」なのだろう。
――最後に証言者の言葉から一部抜粋して終わる――
「どんなにがんばってもダメだとわかった瞬間から、完璧な冷静さが、それまで激しく動揺していた気持ちを凌駕したのです。
もはや溺れ死ぬということが不幸とは思えなくなりました」
「身体的な苦痛は感じませんでした。疲れて眠くなる前の、あのけだるいが満ち足りた気分を含んでいました。
精神の活動は活発で、考えが次から次への連続して浮かび上がるのです。
起きたばかりの出来事、その原因を作った自分、私の死が愛する者達に与えるであろう影響、すべてを考えていました。けれど溺れて窒息していた時間は実際にはほんの二分ほどだと知りました」