あなたの知らない視点で語りたい〜フォト 詩 小説 エッセイ

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新しい「死」のイメージの紹介

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           冬は松も枯れる。背後には散りゆく紅葉の赤が見える。撮影は昨夜子

死は、いつ訪れるかわからない。

死に近い人はいる。

不治の病を宣告された人は、健康な人よりも自分の生きられる期限を自覚する。
また、年老いた人は、若い人より死がすぐ近くにあると自覚する。

だが、病人や高齢者でなくとも「死」は私たちのすぐそばにある。

不慮の死である。

死ぬ原因は星の数ほどある。
ゆえに、あなたが一年後も生きているとは限らない。

「もしも遊び」でこんなことを聞かれたことはないだろうか?
「あと一週間で、あなたは死にます。あなたは何をしたいですか?」
 
まず、頭に浮かぶのは、あの世にお金は持っていけないという事実であろう。もはや老後の心配などいらない。
だから、生きているうちに、我慢してきた贅沢をしたいと考えるはずだ。

さて、この「もしも、あと一週間」には、ある種の「やさしさ」がある。
それは、死の旅立ちへの猶予だ。

だが、こうだと、どうだろう?

――もしも五分後に死ぬとわかったら・・・――

この「もしも」は、厳しい。

なにもやり直せない、なにも新たに出来ない。
たった五分では、どんな行動も起こせない。

プチ贅沢や小旅行どころか、愛する家族に召集をかけて、お別れする時間すらない。

だが、こちらの質問のほうが、よほど「現実的」なのだ。

では、目の前の死を知ったときに、あなたは人生の何を「後悔」するだろう? 
あのとき、ああすればよかった、こうすればよかったと思い浮かぶものは何だろう?

死に際の人が「やりなおしたい」と思うことがいくつかある。

「愛する人に感謝を伝える」

「自分の気持ちに正直になる」

「美味しいものをもっと食べる」

「自分の生きた証を残しておく」

「本当にやりたいことを後回しにしない」

「行きたい場所に行く」

「働きすぎない」

「真の友人を大切にする」

などが代表的なものだ。

これらは、死にゆく人々に寄り添った仕事をする人たちが聞いた言葉だ。

さて、あなたも、五分後に自分が死ぬと想像してみよう?

いやいや、不慮の事故や災害、突然死で死ぬ人なんて、数少ない例外だと、あなたは思うだろうか?
自分にとって死は遠いと、楽観しているだろうか?

それは、それでいい。

ただし、そういう人は、きっと一瞬一瞬を後悔なく生きているのだ。

そう、常に五分後の自分を疑えば、この一瞬に目を向けることになる。
今この瞬間の自分」というものに問いかける生き方だ。

今、あなたは「楽しく過ごしているだろうか?」「愛を分かち合っているだろうか?」「自分を偽らず正直だろうか?」

あなたにとって、本当に価値あるものを一瞬たりとも忘れないでほしい。

かく言う私のこの一瞬だが、言いたい放題で書くという、大好きなことをしている。


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撮影は咲耶子

私たちは、とても死を恐れる。

それは「死」の過程がどうみても、最大限の肉体の苦痛をともなっているように見えるからだ。

ところが、苦痛の想像は外部からの観察で得たものだ。
内部からの実体験ではない。つまり死ぬ寸前の当事者のものではない。

――死ぬ寸前の不思議な体験をした者は、案外多くいる――

アルバートハイムは地質学者で経験豊富な登山家である。

彼は若い頃に山で滑落し、死ぬ寸前の意識がどうなるかを体験した。

ハイムが落下中に体験したことは、死のイメージの「想像外」にあった。

「多くの人と同じように、その体験をする前は、死の恐怖やパニックや苦痛を想像していたのです。

だから、まさか心が明晰になり、生き残る可能性を考え、目の前を通り過ぎる人生を落ち着いて眺めることになるとは思ってもみませんでした。それもわずかな時間、岩に何度もぶつかりながら滑落して、最後に奈落に叩きつけられる短い間に」

ハイムは落ちたことをすぐに認識した。身体がドスンドスンと重く鈍い音をたて、何度も岩に叩きつけられるのを感じた。
だが、痛みはなかったという。

あなたにも、もしかしたら、経験があるのではないだろうか?
ひどい怪我をした瞬間は、痛みを感じないのだ。
痛みは、時間差でジワジワとやってくるようだ。

とはいえ、ハイムが経験したのは、この無痛だけではない。
なんと死の恐怖やパニックすら、その瞬間には存在していなかったのだ。

「私はむしろ冷静で明晰で、落ちている間、破片が目に刺さるといけないし、メガネは外したほうがいいのだがと考え、けれどそんな余裕は身体に無いこともわかり、そうだ、それより落ちた私を目撃した仲間はショックを受けているはずだと想像し、地面に転がったら、すぐに「私は大丈夫だ!」と彼らに叫ぼう、とか考えました」

「こんなふうに、落ち始めるとすぐに「考えの洪水」が始まりました。
もうじきぶつかる岩のこと、その先の急な斜面、もし雪だまりがあれば生きて帰れるだろうこと。
雪だまりがなければ、死は免れられぬだろうこと。私の死の知らせはどのようにもたらされるのか、愛する者たちに心の中で慰めの言葉をかけていました」

ハイムはさらに不思議な体験をする。

「そんなこんなと、さまざまな考えが、わずか数十秒の中で行われるのです。超高速で思考が流れていました。
さらに驚いたのは、今までの自分の人生がパノラマ絵のように現れたことです。
子供時代の楽しかった場面、愛する者たちのとの触れ合い。それらが一瞬にして立ち現れました」

結局、彼は九死に一生を得るのだが、この強烈な体験は、あまりにも明晰で忘れることは出来なかった。

そこで彼は、自分と同じように命に関わる体験をし、生き残った人々の話を聞いたり集めるようになった。

同じように滑落した登山家のみならず、高い建物から落ちた職人、過酷な事故の生存者、溺死しかかった漁師などその証言には、あらゆる人々が含まれていた。

――人は死の瞬間に、なにを体験するのか?――

もちろん何も覚えていない人もいたが、覚えている人は、恐れも、後悔も、苦痛もなく、客観的な明晰さを持って、その出来事とその結果を眺めていた。つまり私たちが持っている死の瞬間の苦痛のイメージとは真逆だった。

もうひとつの意外な証言が「時間感覚」だ。

時間は止まったかのようになり、思考の動きは通常の千倍もの速さになったと体験者は語った。
そして、しばしば、自分の全過去が突然蘇ったと語る者がいた。

それと同時に自分の死がもたらす結果だ。
ほとんどの場合、その人のいちばん大切な人、親しい人が悲しむ場面が含まれていた。

――「死」とは自分自身のことではあるが、それに関わる人々のことである――

ハイムが講演で話した「死」というものの他者への影響がある。
彼は登山家で自分の滑落のみならず、仲間の滑落にも多く遭遇している。

「自分が落ちるよりも他人が落ちるのを見るほうが、その瞬間の感情やその後の回想は比較にならないほど苦しいのです

「私は他人が落下するのを数回見たが、だれも死には至らなかった。
だが、そのときのことを思い出すと、いまでも恐ろしくなるのです。
だが自分自身の不運な出来事は、実際に体験したとおり、身体の痛みも、心の痛みも感じない楽しい変容として記憶に刻み込まれていることを、ここで申しあげます」

むしろ「目撃者」が、すくむような恐怖心と心身の震えで身動きが出来なくなり、その体験からいつまでもトラウマを抱えることが多い。

それに対して、落ちるのを見られた人は、重傷でもなければ、その体験から恐れや苦しみを抱えることはない。

もちろん反応としては激痛や疲労が起こることは避けられないが。
このことは、他の人々の無数の体験談で証明されている。

――なぜ、人生のパノラマ映像に「万事よし」という安らかな感情が伴うのか?――

幻覚と解釈するには、疑問が残る。
幻覚が記憶から作り上げられるなら、痛み、悲しみ、不安はどこへ行ったのか?
なぜ脳は楽しく美しい映像だけを見せようとするのか?

エンドルフィンの大量放出のメカニズムは、もっともらしいが、これとて疑問が残る。
このような劇的な脳の化学的変化が生じるとしたら、なぜパノラマ記憶を死の生還者すべてが体験していないのか?

このミステリーにはいつか解決されるかもしれないし、スピリチュアルな領域として据え置かれるかもしれない。

いずれにせよ「死」は、この生命世界の命あるものすべてに訪れる「平等な体験」であり、なおかつ、「非常に考慮された思いやり」を含む結末だと言えるだろう。

もし神が「命」という奇跡を吹き込んだとしたら、死の体験の奇跡もまた「当然の体験」なのだろう。

――最後に証言者の言葉から一部抜粋して終わる――

「どんなにがんばってもダメだとわかった瞬間から、完璧な冷静さが、それまで激しく動揺していた気持ちを凌駕したのです。
もはや溺れ死ぬということが不幸とは思えなくなりました

身体的な苦痛は感じませんでした。疲れて眠くなる前の、あのけだるいが満ち足りた気分を含んでいました。
精神の活動は活発で、考えが次から次への連続して浮かび上がるのです。
起きたばかりの出来事、その原因を作った自分、私の死が愛する者達に与えるであろう影響、すべてを考えていました。けれど溺れて窒息していた時間は実際にはほんの二分ほどだと知りました」





この世界は思考というエネルギーが現実化(物質化)したところです。
死後の世界も例外ではありません。神が創造主であるのと同じように、神の子である私たちもまた創造する力を与えられました。
死後、天国を創り出すのも、地獄を創り出すのも、また死後を信じていないもののために完全な無や暗黒を創り出すのも思考です。
この世は時間という制約があるので、思考はすぐには現実化しません。とはいえ、今の現実は過去のあなたの強い思念(恐れや希望)が実体化した世界です。
しかしあの世は時間および肉体に依存する五感の制約がはずれるので、あなたの思った世界がただちに現実化します。不安や恐怖があればそのような世界が実体化します。
――あなたのリクエストに応えてくれる案内人と死後の儀式

ゆえに肉体を去った後は信念や進化の度合いによって、混乱が生じる場合とそうでない場合があります。
かつて抱いていた死後の現実についての概念に飛びつくため、当人が困難に直面することになるのです。
人によっては、あくまでも死がすべての終わりであるという確信があまりに強いため、その結果として 忘却を生じさせます。

よって死者の態度にさまざまなバリエーションが現われますが、そのどれもが当人の文化的背景や知識や習慣に 起因しています。 思考や感情が物理的現実を創り出すのと同様に死後の体験をも形づくります。

「三途の川を渡る」というのもその一例です。死にゆく人は多かれ少なかれ死後に混乱なく先へ進める ように特定の手順に導かれることを期待しています。 死後のそのような案内図が三途の川の幻影をありありと引きおこすのです。 その時点で亡くなっている親族や友人もその通過儀礼に参加しますが、現在では通常それほど用いられる ことがなくなりました。

キリスト教では天国や地獄などが信じられていますが、そういった場合はまた別の 通過儀礼を呼び起こします。そこで案内人たちは、死者が生前に信仰していたキリスト教の聖者や英雄の姿をまといます。
つまり何世紀にもわたり多数の信者を抱えてきた宗教は人が死後に従うべき手順を示すという目的を 果たしてきたことになります。〜セスは語るより

このように死後の世界が当人のイメージによって創られるなら、そのバリエーションはさまざまであり、ユニークな様相を帯びてきます。人間の思考はそう単純ではありません。天国へ行きたいと願っていても、罪の意識が強いなら救われる願いより、さらに深い心の奥底、本音では罰を受けるべきだと願っていて地獄を選んでも不思議ではないのです。
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                                  ※フォトは咲耶子
ひとつ大変面白いエピソードをご紹介しましょう。
人間の信念の複雑さがよくわかります。この一筋縄ではいかないリクエストに合わせて案内人は死後の過程を創り出すわけです。
「セスは語る」より抜粋させていただきます。
高級霊のセスがかつて案内人という仕事で関わった、ひとりのアラブ人の例です。実に複雑に死後を創り出す様子が語られています。
このアラブ人は十字軍によるひどい殺されかたで一生を終えます。
そして自分の信じる神の名を叫びながら絶命します。ところがことはそう単純ではありませんでした。
さて、肉体を離れた彼のたましいは、どのような死後を創り出したのでしょうか。

あるとき、私(セス)自身もそうした案内役の務めを担っていました。
案内人の立場では最大級の心理的思慮分別を行使しなければならないため、状況はなかなか油断がなりません。
十字軍の時代でした。ひとりの大変ユニークなアラブ人の死者の案内役をしたときのことです。

このアラブ人は生前、ユダヤ人を忌み嫌っていたにもかかわらず、どういうわけかみずからの神(アッラー)よりも ユダヤの英雄モーゼのほうが強いという思いに取り憑かれていました。
そしてそのことを良心に巣くう、やましさとして長年自分だけの秘密にしていたのです。

ある日彼は捕らえられ非常に残忍なやり方で処刑されました。まず処刑の皮切りとして彼は口をこじ開けられ、 なかに灼熱の石炭を詰めこまれたのです。
彼はアッラーに助命を嘆願しますが、極度の絶望のなか、さらなるうえはモーゼにすがろうとしたその瞬間、彼の 意識は肉体を離れました。

したがってそこで彼を出迎えたのはモーゼだったのです。
彼は深い部分でアッラーよりもモーゼを信仰していたのでした。
それで案内役のわたしは最後まで自分がどのような姿をまとうべきかわかりませんでした。

彼はこの状況においてさえ、つまり暴力行為によって殺されたにも関わらず、権力の名の下に行使される暴力を 是認するという考えから抜けきれませんでした。つまり彼はなんらかの戦闘行為を経ずして平和や安堵を受け入れる など納得できなかったのです。

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※フォトは咲耶子

わたしはヤハウェ(旧約聖書の唯一神)を呼び出しましたが、それは徒労に終わりました。 そのアラブの男はヤハウェを知らなかったのです。彼が知っていたのは唯一モーゼだけでした。

そこにアッラーが剣を持って現われました。アラブ人はアッラーとモーゼさらに彼のうち誰かが滅ぼされなければならぬと 思い込んでいました。
彼はたぶん滅ぼされるのは自分であろうと非常な恐怖を感じていました。

わたしは「汝殺す無かれ」と刻まれた銘板を手にして、アッラーは剣を手にしていました。
アッラーは背後に信捧者たちの一団を従え、わたしつまりモーゼも信捧者たちの一団を従えていました。
アッラーは剣を引き抜き、わたしはそれを炎で包み込みました。対峙した私たちは徐々に近づき、アラブ人は泣き叫び ました。

そこでついに対峙したわたしとアッラーはお互いに手にしたものを交換しあいました。 わたしたちは一緒になり太陽のイメージを形づくりました。真っ向からにらみ合っていた二つの対立概念は融合する 必要があったのです。さもなくばこの男に平穏が訪れることはありませんでした。
わたしはその儀式ののち、ようやく彼の置かれた状況を彼本人に説明することが出来たのです。

死ぬ瞬間とは、存在が消失することを意識する瞬間。
つまりは自分という存在を強く意識する瞬間。
人生を否応なく振り返る瞬間。

一生でしてきたこと。
それは単純に言えば生まれて死ぬまでの一連の体験。単にそれだけである。

そしてその体験は自ら選んだもの。
他者や環境に縛られていた?
いいや、それは勇気がないばかりの言い訳。

もしもその状況がほんとうに手に負えないものなら、後悔するはずがない。
すべて不可抗力なら人生に責任がないからだ。

けれど人は後悔する。

もっとこうすればよかった。
もっとああすればよかった。
つまりはこういうことだ。
 
自分の人生をもっと自分で決定すればよかった。
これは自分の一生だった。
誰にも振り回されず、何にも動ぜず、のんびりと、あるがままに。

そう他ならぬ自分のために。
 
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※フォトは咲耶子
 

ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5
http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20120206/Pouch_53534.html
 
1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
「他人に望まれるように」ではなく、「自分らしく生きれば良かった」という後悔。Ware さんによると、これがもっとも多いそうです。人生の終わりに、達成できなかった夢がたくさんあったことに患者たちは気づくのだそう。ああしておけばよかった、という気持ちを抱えたまま世を去らなければならないことに、人は強く無念を感じるようです。
 
2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
男性の多くがこの後悔をするとのこと。仕事に時間を費やしすぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かった、と感じるのだそうです。
 
3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
世間でうまくやっていくために感情を殺していた結果、可もなく不可もない存在で終わってしまった、という無念が最後に訪れるようです。
 
4. 「友人関係を続けていれば良かった」
人生最後の数週間に、人は友人の本当のありがたさに気がつくのだそうです。そして、連絡が途絶えてしまったかつての友達に想いを馳せるのだとか。もっと友達との関係を大切にしておくべきだった、という後悔を覚えるようです。
 
5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」
「幸福は自分で選ぶもの」だと気づいていない人がとても多い、と Ware さんは指摘します。旧習やパターンに絡めとられた人生を「快適」と思ってしまったこと。変化を無意識に恐れ「選択」を避けていた人生に気づき、悔いを抱えたまま世を去っていく人が多いようです。
 
 

長生きしたいか? という問いに65パーセントの人が「はい」と答えていた。
さらに長生きしたくないという人の理由も「実は長生きしたいけど、家族に迷惑をかける」
「身体が元気なうちがいい」という理由だ。
この条件付きの人たちを合わせると、実に八割以上の人が長生きを望んでいる。
要するに家族に迷惑をかけず、病気をしなければ、そりゃあもちろん長生きのほうがよい、というわけである。

多少、意外な気がする。
新聞や雑誌で年間自死三万人などと書かれているのは、ほんの少数の死生観を持つ人の行為だったのだろうか?
それでは「長生きすること」は、重要なことなのだろうか?
つまり、時間があればあるほど、人生で何か得をするというのだろうか?
よく言われるのは「いろいろな経験が出来る」ということだ。

確かに経験は豊富になる。だが、そこに日々の過ごし方を考える人がどれほどいるのか?
人生問われるべきは「質」ではないだろうか?
だらだらと本能に流されて過ごす、もしくは不平不満をまき散らして過ごす。
そうやって百歳まで生きたとして、果たして自分や他者の贈り物になっているのだろうか?
百年間のその希有な経験が、自分や他者の役に立つようにと、配慮してきたのだろうか?

「生きていれば良いことがある」厭世感を持つ人に対して、誰もがこう呼びかける。
とりあえず特効薬だ。
はずみで、取り返しのつかない行為をすることは、多少なりとも止められるので良い方法だ。

しかし逆に不治の病になった人には、なんと言えばよいのだろう。
「生きていれば良いことがある」なら、「生きたくても生きられない人」は、大変な損をしたような気にならないだろうか?
死は大変な不運でありジョーカーを引いたようなものである。そのような否定的なイメージに支配されている。

では、事故で逝ってしまった人は、自分の置かれた状況さえ理解できぬまま連れ去られた、不運の犠牲者なのだろうか?
いったい、寿命の価値というものを「長い」「短い」だけにおくことが、幸せな発想なのか?
究極、生まれてすぐ天に戻される、発展途上国の子供たちの運命には、いったいどんな意味があるのだろうか?

私たちは、この「限定された人生」に何を求めているのだろう? 
百年も生きていれば、何か希有な体験が出来るのだろうか?
たとえば希有な体験をしたとして、それは「自分という存在の理想」を描く機会として利用出来ただろうか?

誰もが「明日は必ず来る」という不確かな幻想をいだいて生きている。
だからといって未来へエネルギーを向けているか? そのような人は15パーセントもいない。
むしろ誰もが過去を引きずって生きている。
それも良き思い出なら救われるが、おぞましい記憶を手放せない人は80パーセントを超えるという。
ましてたった今この現在に、エネルギーを注ぐ人は5パーセントもいない。

死を考えることは、生を確かめることでもあるのではないか?
すぐ隣にある死と、いずれは手をつなぐと誰もが知っているならば、たった今、その冷たい手を差し出されたとして、私たちは何に対して未練を感じるのだろう?
それはいつも先延ばしにしている、私たちの感じる大切な何かであり、死に少しでも真摯であるならば
常に誇り高く生きているという、誤魔化しのない自分への証明を成せないとういう事実にである。

ではさきほどの途上国の子供たちは、何を成したのだろうか?
子供たちは「死そのもの」となり、私たちへ「生きているという奇跡」に気づきを与えている。
それは無力どころか、大変な影響あるメッセージをもたらしている。
かれらの死にゆく様を見て、命ある者という存在の、唯一無二に気づかぬものはないだろう。
意味のない死はないし、すべての死に意味がある。人にとってそれは、たった一度だけの貴重なメッセージである。
そのメッセージを使って、あなたは自分という存在の何を、周囲に示す用意が出来ているだろうか?

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