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イタリアオペラコンクール審査員会議なるものが先日パドヴァで行われた。
旦那は特別名誉審査員として列席し、運良く私も著名な審査員御仁がつばを飛ばしながらの激しい議論を目の当たりにすることができた。
いまさら始まった話題じゃなけれど、イタリア側には常に問題点となるらしく「アジア人ファイナル追放案」についてまず激しい討論が始まった。
旦那は妻が日本人とあってか?推薦派。(アジア人と限らず国籍に関係なく良いものは認定し、賞賛しようという意見)
でも残念なことに劇場総監督や演出家あたりはほとんどこぞってアジア滅亡計画。
ここで、腑に落ちない旦那は自前のカセットテープ(4国籍の歌手が出演しているオペラ)をみなの前で披露した。
「みなさん、声だけ聞いて国籍が当てられますか?」
私は日本人韓国人独特の色、東欧諸国の声色ってあると思うけど・・・・
びっくりなことに会場にいた60名ちかくのうちすべてを当てた人は一人も居なかった。(国籍でなく6大陸でも)
つまりは「声」というよりも外見、舞台上の動きなのか?
もちろん単純にイタリア国内のイタリア国籍を持つイタリア人歌手を育てたいという前提だとしてもである。
むかしスカラ座の研修所の御仁たちにオーデイションを受けたことがあるが、第一次は面接でイタリア語と容姿。
コレに通ったものが初めて声を聞いてもらえた。
また最近の歌手に「大物が出ない」というのも耳にたこができるほど聞かされていることだが。それもそのはず本来なら歌手を育てるはずの歌劇場総監督は経費節約として演目をなるべく減らし、自分の懐にポッポナイナイ・・・・・・
重いものをすぐ歌うからすぐキャリアが終わる、とかいうけれど
それもどうか?
モーツアルトやベッリーニを一生歌っていれば100歳まで歌えるのか?
ようは「どのように歌うのか?」
「どのようなコンデイションで歌うのか?」
メデイア化が進み、音楽性もかつてのような自己表現がすべてのようなものでなく、どれを聞いても同じ。省略する箇所も歌い方もこれが伝統、とされ変わったことをするとすぐ眉をしかめる。
そつなく歌う歌手が増え少々荒っぽくても荒削りでも稀な天性を感じさせる歌手が居なくなった。
いや違う。
歌手は居る。音楽家が居なくなったのだろう。
コンクールで賞をとることばかりを考え、なぜ自分は歌っているのかという目的意識もない。
歌、テクニックは自分の自己表現を助ける手段でしかないといううことを忘れてしまう。
息をする。(音楽的な)言葉を発する。(意味を理解するのでなく感じて)
これだけで80%はクリアーだとガブリエッラ・トゥッチも言っている。
この意味は80%はできているという意味でなく、これができてこそ次のステップである発声にいけるということだろう。
息をすることで体をリラックスさせ、息が循環する。言葉を発することで自然な支えが見つけられる。
この上に声がいく・・・・・
はてしなく難しい芸術である。
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