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日本人奴隷問題

 日本とフィリピンの関係を見ていて、一つ思うのは、16世紀のスペイン、ポルトガルの東アジア進出のインパクトの大きさです。これは、日本、フィリピン共に、現代にまで引き続く影響を残しています。といっても私は歴史が苦手で、大学入試は地理と政経でとっていました。日本とフィリピンの関係を掘り下げて見ていくうえで日本の歴史も世界史も読まざるを得ない羽目に陥っています。

 まず、ウィキペディアからの引用をします。それは、世界の奴隷貿易についての記述の一部です。

::::::::::引用開始:::::::::::::::::::::::::::

日本人奴隷の貿易 [編集]

16世紀から17世紀にかけての日本はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジアにおける戦略拠点として重視されていた。様々な物資が植民地獲得と維持のために東南アジア各地に輸出されていた。主な輸出品は武器弾薬、鉄や木材などの資源、食料、薬品、そして奴隷である。

古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取ったヨーロッパ商人や中国人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。[8]

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。


1587年(天正15年)、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、バテレン追放令を発布して、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。[9]

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[10]

やがて日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。

しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされている。
:::::::::::::::::引用終わり:::::::::::::::::::

 こうして、豊臣秀吉がキリスト教を禁止し、外国人の布教活動や商業活動を制限し、それはさらに徳川家康にも引き継がれていて、長い間の鎖国政策につながります。後に日本が開国して欧米の文化や技術を吸収していく150年余りの期間を経てもなお、日本社会にはいまだに鎖国時代の名残があります。

 他方、フィリピンは、ご存知のように、スペインの宣教師と軍隊によって、当時のダトゥと呼ばれる首長たちが、個別につぶされています。あるいは、ダトゥ間の反目や対立を煽られてスペインが漁夫の利を得る、というような形で、フィリピンが植民地化されていきます。

 ここで伺い知れるのは、スペインやポルトガルが、戦国大名たちの勢力争いに乗じて、武器を売ったり日本人奴隷を買ったりして利益を得、影響力を強めていたことです。それを秀吉が止めて、外国勢力を排除して日本の統一の基礎を作った、というように捉えることができます。ただし、その際に、抑え切れない西国大名たちを朝鮮半島に派遣し、朝鮮人を奴隷として連れてきたり、略奪品を持ち帰ったり、ということが補完政策として行われたのではないか、とも思います。

 そもそも、人類が奴隷を持つようになった前史には、野生動物の家畜化の歴史があったのだろうと思います。牛や馬などを農耕や交通手段として手なずけていった数千年の歴史を経て生産力を飛躍的に高めた人類は、言葉の通じない他部族を、動物家畜化のノウハウを使ってアメとムチで奴隷化していったのではないか、と想像します。徳川幕府は、「百姓は生かさぬように殺さぬように」と、その支配のコツを端的に語っています。その一方で、幕府は、農民たちに、牛や馬を大切に育てなければならず、万が一死なせるようなことがあれば娘を売ってでも代わりの牛馬を手に入れなければならない、というようなお触れも出しているそうです。

 以上、日本とフィリピンの関係を見る時にスペイン・ポルトガルの影響が大きいこと、その際に武器が大きな意味を持ち、勝った者が負けたほうの領民を奴隷ないし農奴として支配する、というのがゲームのルールのように存在していたのではないか、と想像します。
 
 
 

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この頃は 隷属的な考え方は グローバルスタンダードで
以後何百年も続くことになりますよね

その後ロシアや アメリカで 戦争が起きて
奴隷は 下火になりました


日本でも 江戸時代の 身分制度の 農は 言葉こそ違えども
まさしく奴隷そのもののような 気がします

2012/6/14(木) 午前 11:06 keina 返信する

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keinaさん

どうもありがとうございます。
歴史に詳しい keinaさんの講評をいただけて、心強いです。
今後もよろしくお願いします。

2012/6/14(木) 午後 0:18 [ access実験農場 ] 返信する

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大江 卓(おおえ たく、弘化4年9月25日(1847年11月2日) - 大正10年(1921年)9月21日は日本の政治家・実業家。土佐国幡多郡柏島(現在の大月町)出身)は、
高知出身ゆえに新政府内で冷遇されていたが、明治5年(1872年)に当時神奈川県令(知事)を務めていた陸奥宗光が、外交知識の豊富な大江を県参事に引き抜いた。大江は陸奥の片腕となり、明治になって間もない神奈川や横浜の街の土台づくりに奔走し、近代日本を維持するための警察制度を作り上げた。
買われた外交知識も遺憾なく発揮し、「マリア・ルス号事件」発生時に事態を重く見た外務卿副島種臣から権令(県副知事)に抜擢され、清国人奴隷232人を、自ら裁判長となって解放した。大江の尽力に対して、在日華僑の人々より感謝の気持ちを託して大旆(たいはい)が贈られた(神奈川県立公文書館所蔵)。

2013/1/6(日) 午後 9:40 [ 水・土壌汚染を学ぶ ] 返信する

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清国奴隷230+170人を解放した日本 さん

この投稿では日本人奴隷のことをテーマにしているのですが、それとは関係ないコメントだったので意図がよくわからず、すぐに返事ができませんでした。
奴隷としてヨーロッパなどに売られていったと言われている日本人のその後についてご存知でしたら文献などご紹介ください。

2013/1/7(月) 午前 9:36 [ access実験農場 ] 返信する

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マリア・ルス号事件自体は、明治維新の曙の中の結構いい話なのですが、その時日本政府は、「日本の遊郭制度も人身売買だし奴隷制度だぞ」と指摘されて、それを隠すために公娼制度(貸し座敷制度)を造るのです。制度の実態は変わらず「座敷貸すだけだから」という言い訳をした訳です。
そういうところが、日本らしいと言えばらしいですね。

2014/1/30(木) 午後 1:33 [ 河野談話を守る会 ] 返信する

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「河野談話を守る会」さん
どうもありがとうございます。

2014/1/30(木) 午後 2:17 [ access実験農場 ] 返信する

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キリスト教が伝来してから、天草辺りの争いは、人さらい合戦になり、その人質は、キリスト教宣教師を介して、奴隷として売られていった旨の記載が、八代日記に記載していると、歴史民俗資料館の人から聞きました。

2014/7/12(土) 午前 11:31 [ なんでも考えなんでも知って ] 返信する

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なんでも考えなんでも知ってさん
コメントありがとうございます。
またいろいろ教えてください。

2014/7/12(土) 午後 0:54 [ access実験農場 ] 返信する

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