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週二断食 No23 3月20日(木)

午後、彼岸の墓参で緑茶。
夕方、はっさく1ヶ。
夜、リンゴ1ヶ、豆乳。
入浴後、野菜ジュース1合、水素水1合。

BMI 20.2 57.2kg
就寝後、3時間にて目覚める。

印度首相マンモハン・シン博士の衆議院演説を
マスゴミが無視したのは
演説内容の

「◎インドが賠償を放棄したこと→ゆすりやかりの某国と違いが際立つ
◎パル判事の名前が出ていること→「東京偽裁判」がまやかしであった
◎ネルーが日本に学ぼうとしたこと→日本がアジアの手本であったことがバレる
◎岸信介に感謝していること→意図的に岸の功績を貶めていたことがバレる
◎日印防衛協力に言及→某国の逆鱗に触る
が都合が悪いというのは明白です。

他にも、二言目には友好友好と言いながら
非友好的なことしかしないあの国の顔色を伺ってういるんですね」


草莽崛起ーPRIDE OF JAPANブログ:
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-728.html
より引用

福島香織・北京趣聞博客 (ぺきんこねたぶろぐ)
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/518432/#tback
に、支那中共によるチベット侵略史の概観があり、解り易いので
一部を引用致す。
TBは最新虐殺状況の報告頁。

■中国共産党はチベットを完全に手にいれるまで、3度戦争をやっている。
一回目はチャムド(昌都)作戦(1950年10月7日)。国共内戦にようやっと勝利した中国共産党は、休む間もなく朝鮮戦争に介入。このとき、外国の干渉を警戒して、チベット政府に中国との関係を受け入れるように呼びかけた。

■この時、交渉勧告団をラサに何回も派遣したが、青海交渉勧告団団長は中国側にとらわれの身であったダライ・ラマ14世の実のお兄さん、クンブム僧院院長・タクツェル・リンポチェ。お兄さんは弟の法王を中国に従うように説得する役割を担って、説得が成功しなければ、オマエが法王を殺せ、みたいなことを中国側に言い含められているのが映画「クンドゥン」であったな。チベット側が妥協せずにいたら、解放軍第2野戦軍が、チベット東部チャムドに侵攻。

■チベット軍8000人が応戦したが抗日ゲリラ戦で鍛えた中国軍の敵ではなかった。これを中国語でいうと昌都解放。チベット側からみれば侵略。実はこの作戦の成功は、この地のチベット族カムパ(カムの人々)の協力があったことが大きいといわれている。カムの人々は当時のチベット政府の役人と兵隊の横暴をきらって、解放軍の通訳や補給を支援したそうだ。このころのチベットは僧侶を頂点とする身分階級制だったから、チベット帝国支配をきらう人もいたわけだ。

■これをみて、チベット側は妥協せざるをえなくなって政府代表団を北京に派遣、軍事力を背景に一方的にチベットに中国の一部であることを認めさせる17条協定をつきつけられ、調印。これをたてに、1951年10月26日に解放軍2万がラサ進駐。いわゆる「チベット解放」、チベット側からみれば武力侵略が完了した。このときダライ・ラマ14世は16歳にしてチベットの命運をその両肩に背負わせていた。

■2回目の戦争は、1956年〜62年のチベット族民族蜂起、中国側からいうと反乱鎮圧。中国共産党は、チャムド作戦を成功させまんまとチベットを手にいれたはいいが、チベット文化・宗教というものを分かっていなかった。社会主義改造として、僧院を含む封建勢力を打倒し、農民にその財産を分配しようとしたのだが、尊敬の対象の僧侶を虐めて逆に農民から恨みを買った。一方、集団農場、政治学習会、宗教行事の禁止など、上からの改革の押しつけ、漢族幹部の横暴と差別に、もともと 自由奔放、性格も激しいチベット族の抵抗がはじまる。

■このセブン・イヤーズ・イン・チベットのピークが1959年3月10日におこったのがいわゆるチベット動乱、ラサ市民武装決起の日。今回の騒乱の発端であったデプン寺僧侶デモが制圧されたのも同じ日だった。

■中国共産党のチベット動乱鎮圧は拙速で苛烈を極めた。貴族、僧侶ら支配層を残虐な方法で公衆の面前で処刑した。ダライ・ラマ法王は3月17日、インドへ脱出したのだった。ダライ・ラマ法王脱出後、チベットは阿鼻叫喚の混乱におそわれ、民族浄化にも似た苛烈な政策がとられ、今にいたるまで癒えることのない傷をチベット族の心に残した。このあたりを詳しく公の場でいうと、「反国家分裂法」に牴触しそうなので控えるが、この歴史を詳しく知ると、チベット族に同情的になる人が多い。

■3度目の戦争は1962年10月の中印国境紛争。インドがダライ・ラマ法王とチベット難民を受け入れたことで、中印の対立も先鋭化し、国境問題が浮上、両軍が衝突。毛沢東の大躍進の失敗による激しい飢餓の中で勃発したこの戦争で、劉伯承率いる中国軍は、ヒマラヤ各地のインド軍を分断、カシミールの東アクサイチンを抑え、ヒマラヤ南麓アルナチャル・プラデシまで進出、アクサイチンを保持し、アルナチャプル・プラデシを放棄して、この国境が暗黙の了解ということになった。

■この3度の戦争で、中国軍もかなり血を流した。なにせ、標高4000辰箸6000辰離魯ぅ薀鵐匹任寮鐺である。チベットを手に入れるのはすごく苦労したのだ。というわけで、漢族にとってチベットは、漢族の血であがなって勝ち取った領土、ということになる。だから、チベット族に対しても心の底には被占領地民、といった差別意識があるかもしれない。漢族文化の洗礼を受けず、社会主義市場経済に適応できず、中華民族の大家庭に入ろうとしないチベット人は、犬と同じ、くらいに思っているかもしれない。

■チベットはウラニウム、金はじめ稀少鉱物の宝庫であり、水資源の源(中国だけでなく全アジアの)であり、対インドなどの軍事的要衝であり、最高の観光資源であり、世界で一番宇宙に近い世界の屋根である。というわけで、こんなおいしい土地をなぜ、活用の仕方も知らないような坊さんや蛮族のチベット族にやらねばならないのか、と思っているかもしれない。実際、中国がしっかりおさえておかないと、他の国が干渉しそうな、実においしい土地なのである。

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東アジア黙示録(http://dogma.at.webry.info/200803/article_7.html)より
一部引用

「胡錦濤は政策提案の中で、軍の出動準備と出動命令の権限を自分に与えてくれるよう党中央に求めた。文民職の党書記が党中央に対して、軍に対する命令権を求めるなど、前代未聞のことだった」(楊中美著『胡錦濤-21世紀中国の支配者』130-131頁)

胡錦濤の異例の要請は受け入れられ、そして、ラサは修羅の棲む地と化した。

【群衆に発砲…血に染まったラサ】

1989年3月5日。モンラムが禁止されたジョカン寺に多数の僧侶と市民が参集した。2008年3月14日に装甲車が群衆の中に突入し、チベット人を轢き殺したのも、このジョカン寺の周囲だった。
▼89年虐殺時のジョカン寺前



彼らはチベット民謡「雪国の理想」などを歌いながら街頭に繰り出す。中には雪山獅子旗を手に持ち、チベット独立を訴える者もあったという。平和的な行進の参加者は次第に膨れ上がり、ラサの街は熱気を帯びた。しかし、そこで胡錦濤は非情の決断を下す。

「午後1時40分、胡錦濤は前述した党中央から送付された『チベット情勢と取るべき対策』に従って武装警察を主体とした武力鎮圧を発動した。

 チベット人の歓声は銃弾の中に消え、代わりに負傷者のうめき声、泣き叫ぶ声、恐怖のあまり逃げまどう人々の叫び声などが響いた。ラサの街は一瞬のうちに血と涙で覆われてしまった」(前掲書131-132頁)
▼境内で僧侶を襲撃する中共部隊(89年3月)



19年後の3月に行なわれた虐殺も、この時と同じような惨状だったに違いない。ジョカン寺に人々が集まり、膨れ上がるのを待って襲撃を仕掛けたのだ。

これまでの情報を総合すると、今回のジェノサイドは89年以上に苛烈であった可能性が高い。

【チベット人犠牲者は約800人にも…】

治安部隊の大量投入による徹底した弾圧、無差別殺戮は3月7日まで続いた。89年のラサ弾圧を撮影した映像が残っているが、それは恐らく、この「悪夢の3日間」であると推定される。

寺院内に入り込んだ武装警官らが僧侶に激しい暴行を加える瞬間、市民を殴りつけて拘束する模様、拘束した僧侶をトラックに押し込む様子などがカメラに捕らえられている。世界に衝撃を与えた映像だ。

この時は、事前に海外メディアの記者が緊迫化したラサに入っていたのである。」

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