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名言 江戸以降 二宮金次郎(尊徳) 世間の人はとかく小さい事を嫌がって大きな事をしたがるが、本来大は小が積もったものだ。だから小を積んでいけば必ず大を成すのだ。(積小為大) 我が道は至誠の実行のみ 大事を成し遂げようと思う者は、まず小さな事を怠らず努めるがよい。それは、小を積んで大となるからである。大体、普通、世間の人は事をしようとして、小事を怠り、出来難い事に頭を悩ましているが、出来易い事を努めない。それで大きな事も出来ない。大は小を積んで、大となる事を知らぬからである。 昔の木の実が今の大木になり、今の木の実が後世の大木になることを、良く理解して、大きい事を羨ましがらず、小さい事でも辱かしがらずに、速効性だけを求めず、日夜怠らずに少しずつでも、継続して行動する事が肝心である。 善因には、善果が有り、悪因には、悪果を結ぶ事は、世間一般の人が皆良く知っている事であるが、今日蒔く種の結果は、すぐには芽を出さず、結果もすぐには現れない。しかし、この世の事は、全てその原因があって結果がある。 人は自分の植えたものを収穫するのである。 穀無きにあらず、耕さざるが故なり。 鳥獣は譲るという事を知らない。人はそうではなく、今日のものを明日に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道がある。 道徳を忘れた経済は、罪悪である。 経済を忘れた道徳は、寝言である。 因果にも応報にも早い遅いがある事を忘れてはいけない。 人が事を成し遂げた後に、うまくいかなくなってしまうのは、それを特別な事と思わずに、よくある事だと勘違いしてしまい、それを基準にして日々の行動をしてしまうからである。それは最初は僅かの違いだが、やがては大きな差となって現れる。 天理・天道とは、日々変わらずに永遠に続く天然自然の定理である。 一方、人道は日夜努力し人力を尽くして、保護をしてようやく保たれる。美食・美服を抑え節約し余裕を生じさせて他人に譲り、将来に譲る。これを人道という。 世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。私はこういう人を半人前という。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好む事この上なしではないか。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前という事が出来よう。 大事を成そうと思うなら、小事を怠るな。小事が積もって大と成るのだ。大事を望んで小事を怠り、出来そうにない難しい事を望んで、やれば出来る易しい事を疎かにするから、結局大事をし遂げる事が出来ないのだ。 すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。 売りて喜び、買いて喜ばざるは道にあらず。 貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。 遠い将来にも目を向けて、良く考えて行動する人は豊かになり、目前の事だけしか考えずに行動する人は、貧しさから抜け出せない。 ケチのための倹約を勧めているのではない。倹約を勧めているのは、異変に備えるためである。 また、蓄財を勧めているのではなく、世の中を救い、世の中の人々の心を豊かにするために、そう勧めているのである。これがケチと倹約の違いである。 私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。目的があるのが倹約である。 節約によって無駄な費用を省き、余分を生じて、仲間を救い、善行を実践し、悪事をせず、まじめに勤めればどんな貧村も必ず富むことが出来る。 運は偶然の産物と勘違いされるが、運が現れるのは、いずれかの時点での行動がもととなって、現在に現れているのである。既に何らかの種が、蒔かれていたのである。 この世に、過ちを犯さない人はいない。ただし、過ちだったと知れば、自らを反省するとともに、速やかに改める努力をする。これが人の道である。 愚人でも悪人でもよく教えるが良い。聞かないからと言って捨てる事無く何度でも教えるが良い。教えてもその通りにしないと言って憤慨してはいけない。 人道は勤めるのを尊しとし、自然に任せるのを尊ばない。勤めるという事は私欲に克つという事である。 人道は一日怠れば、たちまち廃れる。 人は皆長所があり、短所があるのは仕方がない。だから人の長所を友として、短所を友としてはいけない。その人の短所を捨てて、その人の長所を友とするのがよい。 誠実にして、はじめて禍を福に変える事が出来る。術策は役に立たない。 両方が得をして、両方が喜べるような間柄を作ることに、知恵を働かせるのがよい。 財貨は海の様なものだ。貧富、苦楽は、水を渡る術を知っているか、いないかにある。泳ぎの上手な者は水を得て楽しむし、泳ぎのへたな者は、水のために苦しんで溺れる。勤勉な者は財を得て富むし、勤勉に出来ない者は財のために苦しんで貧乏する。 入るのは出たものが返るということ、来るのは譲ったものが入ることである。商売もまた同じである。自分の利益だけを追い求め、買う人のためになることを考えずにむさぼり取るようでは、その店の衰退は目前に迫ってくる。だから譲こそが大事なのだ。 富は人の欲しがるものだ。けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。財貨も同じ事で、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。 楽しみを見て直ちに楽しみを得んと欲するものは、盗賊鳥獣に等しい。人は勤労して後に富を得る。 名を残さず、行いを残せ。 蒔かぬ種は生えぬ。 一理を学ぶ時は一理を行うべし 学問は、学んだ事を活用してこそ意味がある。 活用しなければ、幾ら沢山の本を読んだとしても、意味はない。 凡人は小欲なり、聖人は大欲なり。 世の中の人は、聖人は無欲だと思っているが、そうではない。大欲張りであるが、但しその大は、「正大」という大である。賢人がこれに次ぐもので、君子はそのまた次だ。凡夫の如きは、小欲の最も小なるものだ。 譲りの道を実行する者は、豊かになり評判も高くなる。これを実行できない者は反対に富を失い、評判を落とすことになる。少なく譲れば少なく帰り、大きく譲れば大きく帰る。他の人に対して、歩く道も譲らなければならない。 言葉も手柄さえも譲らなければならない。 我が法は、人の嫌うものを引き受けて、人の好む処のものを与える。即ち借金を変して無借とし、荒地を変じて良田とし、衰貧を変じて富裕とするのが我が道の効用の極致である。 因と言うのは、たとえば、蒔いた種の事だ。これを耕作培養するのが縁だ。種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る、これを果と言うのだ。 よく徳に報いる者は、将来の繁栄の事はさておき、今日只今の丹精(心を込めて励むこと)を心掛けるから自然と幸福を受けて、富貴がその身を離れない。 受けた恩に報いていこうと考えて行動していけば、この世は何事もうまくいくのである。全ての恩を受けた事を考えてよく報いるときには、何事も欲する通り思い通りになる。 恩を受けてもそれに報いていないことが多いのではないか。徳に報いる事は、全ての行ないの最高位にあり、全ての善行の最初に位置するものと言うべきものである。よくその根源を追求して見極めて見るがよい。 親の養育を受けたことに報いるために子供を養育し、先生から教えを受けたことに報いるために子弟を教え、人の世話を受けたことに報いるために人の世話をする。これが人道である。 禍福も、善悪も、得失も皆一体のものである。一つのものの半分を善とすれば、残り半分が必ず悪となるのである。しかし、人は、残りの半分も悪ではない事を望む。元々無理な望みだ。禍福、善悪、得失は元来一つのものである。 世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。これが私が小さい頃から行ってきた道である。 粗食に慣れて、しかもそれを不足に思わない時には、為そうとしている事は総てが成就する。 空腹の時に飯を食べさせて下さい、そうしたら庭を清掃して差し上げますと言っても、誰も飯を食わしてはくれない。空腹を我慢して庭の掃除をすれば、飯を食わしてくれる事もあろう。これが己を捨てて人の気持ちに応えると言う事である。 いかに善を思っても、行いによって善を表さなければ、善人とは言えない。それは、悪い事を考えていると言っても、実際に悪事をしなければ悪人と言えないのと同じである。だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。従って私はどんな小さな事でも、実際に善を行う事を尊ぶ。善心が起きたら、直ぐに実行するのが良い。 自分を戒め、自分の身が修まり、家庭がきちんとしたならば、それは、自分の意見を自分の心が聞いたということだ。その時になれば、あなたの言うことを聞く人もあろう。自分の心で自分の心を戒めることができなければ、決して人に意見をしてはならない。 キュウリを植えればキュウリと別のものが収穫できると思うな。 人は自分の植えたものを収穫するのである。 政事は豆腐の箱の如し、箱歪めば豆腐歪む也 湯船のお湯をかき寄せれば、自分のほうに引き寄せられるが、その後にお湯は向こうに流れていってしまう。 反対にお湯を押し出せば、自分の前から流れて行くが、少し後にはお湯が自分の方に戻ってくる。少し押せば少し返り、大きく押せば大きく返る。奪うに益はなく、譲に益がある。 譲るに益あり、奪うに益なし 貧富の違いは、分度を守るか失うかによる 一万石の米は一粒ずつ積んだもの。1万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。高い築山(つきやま)も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。 百万石の米と雖も粒の大なるにあらず 悪い事をした、やれ間違ったと気づいても、改めなければ仕方がない。世の中の事は、実行によらなければ事は成就しない。 世の中は、知恵があっても学があっても、至誠と実行がなければ、事は成らない。 およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばロウソクに大中小とあるようなものだ。人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日の儲け、一年生きれば一生の得だ。 万事はどうなるかという先を見通して、前もって決めておくことが肝心だ。人は生まれると必ず死ぬべきものである。死ぬべきものだということを前に思い定めてかかれば、生きているだけ日々もうけものだ。これが、わが道の悟りである。 学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。 生きている時は人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。林にあるときはマツで、切ったらスギになるという木はない。だから生前から仏であって、死んで仏になり、生前から神であって、死んで神なのだ。 ただ我を取り除いて、無心に成るだけでは足りない。無心に成って、その上で次に成すべき事の一心を固めて決定し、どのような事があろうとも、少しも心を動かされない状態に至ってはじめて尊いと言える。 しっかり心を固めて、不動明王のように、たとえ背中を強火が焼こうとも、微塵も動くまいと覚悟するならば、成功は袋の中の物を探し出すよりも易しい。 祖先の恩を有り難く心得て学問をし、近郷村々の人々を教え導き、国の恩に報いるために修行に出るのであれば、誠によろしいと言えるが、そうではなく、難しい文字などを学んで、ただ世の中に誇りたいと思っての事ならば、大いに間違っている。 この仮の身を、わが身とは思わずに、生涯一途に世のため、人のためをのみを想いながら、国のため、天下のために貢献できることだけに励み、一人でも、一家でも、一村でも貧乏から抜け出て裕福になることを想い勤め、怠らないようにしているのである。これが私の覚悟である。 衣服は寒さをしのぎ、食物は飢えを凌ぐことができれば十分なものであり、その他は無用のものである。 災いは過去の因縁によって来る場合もある。名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか、今貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」と詠んだ通りだろう。決して迷ってはならない。 代々同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた村民ではないか。死ぬのを黙って見ている道理はあるまい。貧乏人の中には怠けてそうなった者もおり腹が立つだろうが、それでもなお銭一文を施し、米ひとすくいを与えるのが人情というものだ。未来の実りを信じて今こそ飢餓を救うのだ。 下方向や楽な方に比較をしてものを言う者は怠け者である。まだこんな時間か、まだ仕事や勉強ができると、上方向や困難な方に比較をしてものを言う者は勉強家、働き者である。一言を聞いても人の勤勉・怠惰は分かるものだ。 海辺に生まれた者が山林をうらやみ、山に住む者が海辺の漁業をうらやむことなど、最も愚かなことだ。海には海の利益や恩恵が、山には山の利益がある。他をうらやまずに、天命を守っていくことが大事である。 今日、このように国家の繁栄が盛大なのは、全て前の時代の聖賢君子の残した賜物であり、前の時代の人の骨折りによるものである。 君達も、骨を折れ、そして勉強せよ。 たとえ明日食べる物が無いとしても、釜を洗い、膳や椀を洗って、餓死すべきである。これは、今日まで使用してきて、命をつないできた恩があるからである。これが恩を思う道である。この心のある人は、天の意向に叶うことから、富がその人から離れない。 どれほど裕福であっても、家憲を節約倹約と定めて、贅沢に流れる事を厳しく禁止すべきである。なぜならば、贅沢を望む心が、自己の利益を貪る気持ちを増長させ、慈善の気持ちを薄くさせ、欲が深くなり、けちになり、少しずつ仕事にも不正が入り込み災いを呼び込むからである。 裕福な者は、十分という事を知らない事が多い。湯船の中に立ち、湯船が浅く膝にも満たないと、不満を言うのと同じである。これは湯船が浅いのではなく、自分が身を屈めないだけである。これを知って屈めば、湯はたちまち肩に達し、十分になる。他に何も求めるものはない。 尊い人の道も書物に書いた時は、世の中を潤すことはなく、世の中の役に立つこともない。それは、水が凍ったようなものである。この氷となった書物は、胸中の熱を使って元の水に戻さなければ役に立たない。書物を理解して実行する力を尊ぶのである。 私の仕事の本質は、人々の心の田の荒廃を直していくことである。その地で、一人でも心の田を開くことが出来れば、あと何万町歩の田があろうとも、恐れるに足りない。 私の本願は、人々の心の田の荒廃を開拓していく事である。天から授けられた善の種である仁義礼智を栽培し、善の種を収穫して、各地に蒔き返して、日本全体にその善の種を蒔き広める事である。 国家最大の損失は人心の田畠の荒れたる事也。 其の次は田畠山林の荒れたる事也。 心の田畑さえ開墾が出来れば、世間の荒地を開く事難しからず 昔蒔く、木の実大木(おおき)となりにけり、いま蒔く木の実、後の大木ぞ。 おのが子を 恵む心を法とせば 学ばずとても 道にいたらん 早起きに まさる勤めぞ なかるべし 夢でこの世を 暮らしゆく身は あめつちと 君と父母との 三つの恩 忘るる時ぞ 身はせまりけり 身を捨てて ここを先途と 勤むれば 月日の数も 知らで年経ん 鳥のまさに死せんとす、その鳴くや悲し、 人のまさに死せんとす、そのいうや善し、 慎めよ小子、速やかなるを欲するなかれ、速やかなるを欲すれば、すなわち大事を乱る、 努めや小子、倦むことなかれ 余が足を開け、余が手を開け、余が書簡を見よ、余が日記を見よ、 戦々兢々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し 凡そ小人の常、大なる事を欲して小なる事を怠り、出来難き事を憂ひて出来易き事を勤めず。 意味:出来ない事を嘆くより、まずは出来る一歩から。 佐藤一斎 天は何のために自分をこの世に産み、自分に何をさせようとしているのかを考えなくてはならない。 一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うなかれ、一灯を頼め。 全ての事を成すには、必ず天のためにするという気持ちを持つべきである。人に誇示するという気持ちがあってはいけない。 春風を以て人に接し、秋霜以て自ら粛(つつし)む (人に対する時は、春風の様に穏やかに接し、 自分に対する時は、秋の霜の様に厳しい心で。) 学を為す。故に書を読む。 敬すれば即ち心清明なり。 分を知る。然る後に足るを知る。 少にして学べば壮にして為す事あり 壮にして学べば老いて衰えず 老にして学べば死して朽ちず 少年の時は正に老成の工夫を著すべし、老成の時は正に少年の志気を存すべし。 心が雑念でかき乱されるのは、外の出来事が心を乱すからである。常に心を刀のように研ぎ澄まし外の出来事を心の中に取り込まなければ、心は澄んで晴れ晴れとした気持ちになる。 志があるものはよく切れる刀のようである。どんな魔物も逃げてしまう。 志のない人は切れない刀のようで、子供ですら馬鹿にする。 しっかりと志が立っているならば、日常の平凡な事の中にも学べるものがたくさんある。志が立っていなければ、たとえ一日中読書をしたとしても、それは暇つぶしである。だからこそ志を立てるのはとても大事なのだ。 自分に厳しい人は、他人にも厳しい。他人に優しい人は、自分に甘い。厳しいも甘いも、一方に偏っているのは良くない。立派な人は自分に厳しく、人に優しい。 真に大志を抱く者は、小さな事でも一生懸命に努めるものだ。 人我に負くとも我人に負くこと勿れ 明治 <a href="http://bakumatsu.org/blog/2012/05/syoin.html" target="_self">吉田松陰</a> 夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。 草莽崛起 私は師ではない。学友だ。君達と共に学ばせて貰いたい。 人に浩然の気がなければ、どんなに才能や知識があっても 何の役にも立たない。浩然の気は、大敵を恐れず小敵を侮らず、安逸に溺れず、断固として励む事が出来る気力である。それを養うためには、清らかで清々しく、世俗の煩わしさに囚われない気持ちである 武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。 宜しく先ず一事より一日より始むべし。 (まず一つの事から、思いついた日から始めるべきである。) 妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。 利をうとんずると言う事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲すると言う事ではない。 貧富によりて少しも心を乱さないと言う事である。 小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。 自分自身を駆使して公の事に専念する者を大人と称し、その反対に、公の事を利用して自分自身の事に専心する者を小人と称する。 君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。 小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。 学問の上で大いに忌むべき事は、したり止めたりである。 したり止めたりであっては、遂に成就する事はない。 何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。 人間たる者、自分への約束を破る者が最も下らぬ。 人を信ずる事は、勿論、遥かに人を疑う事に勝っている。 過ちがない事ではなく、過ちを改める事を重んじよ。 教えるの語源は「愛しむ」。 誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てる様な事をしてはいけない。 学問とは、自分の才能をみせびらかして人を従わせるためではない。 人を教育して、一緒に善き人になろうとする事である。 賢者は議論よりも行動を重んじる。 士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。 <a href="http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html" target="_self">高杉晋作</a> 人としての努力をする事もなく、ただ死に向かうのは人の道ではない。 戦いは一日早ければ一日の利益がある。 まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。 気を養えば、人間あとは行動に移すのみだ。 負けて退く人を弱しと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。 (自分を制御し、身を引ける人は知性が強い証拠) 人は人 吾は吾なり 山の奥に 棲みてこそ知れ 世の浮沈 面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり 勝海舟 世間は活きている。理屈は死んでいる。 事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。 何でも大胆にかからねばならぬ。 難しかろうが、易しかろうが、そんな事は考えずに、いわゆる無我の境に入って断行するに限る。 自分の価値は自分で決める事さ。 辛くて貧乏でも自分で自分を殺す事だけはしちゃいけねぇよ。 世に処するには、どんな難事に出逢っても臆病ではいけない。 「さあ、何ほどでも来い。俺の身体がねじれるならばねじってみろ」という料簡で事をさばいてゆく時は、難時が到来すればするほど面白味がついてきて、物事は造作もなく落着してしまうものだ。 生死を度外視する決心が固まれば、目前の勢いを捉える事が出来る。 難局に必要な事はこの決心だけだ。 行いは己のもの。批判は他人のもの。知った事ではない。 世の中に無神経ほど強いものはない。 人には余裕というものが無くては、とても大事はできないよ。 外国へ行く者が、よく事情を知らぬから知らぬからと言うが、知って行こうというのが良くない。 何も用意しないでフイと行って、不用意に見て来なければならぬ。 その人がどれだけの人かは、人生に日が当たってない時にどのように過ごしているかで図れる。 日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。 人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。 そんなときには何もやらぬのが一番いい。 ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。 急いでも仕方がない。 寝ころんで待つのが第一だと思っています。 功名を成そうという者には、とても功名は出来ない。 戦いに勝とうという者には、とても勝ち戦は出来ない。 何事をするにも、無我の境に入らなければいけないよ。 生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ。 もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、けっして間断があってはいけない。 世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまうから大事ができないのだ。 学者になる学問は容易なるも、無学になる学問は困難なり。 世人は、首を回す事は知っている。 回して周囲に何があるか、時勢はどうかを見分ける事は出来る。 だが、もう少し首を上に伸ばし、前途を見る事を覚えないといけない。 近藤勇 人の道 忘れてはならぬものは恩義 捨ててならぬものは義理 人に与えるものは人情 繰返してならぬものは過失 通してならぬものは我意 笑ってならぬものは人の失敗 聞いてならぬものは人の秘密 お金で買えぬものは信用 孤軍助け絶えて俘囚(ふしゅう)となる 顧みて君恩をおもえば涙更に流る 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 快く受けん電光三尺の剣 只将に一死君恩に報いん。 土方歳三 皆、自分の道をゆこう。 未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある。 男の一生は、美しさをつくるためのものだ。俺はそう信じている。 世に生き飽きた者だけ、ついて来い。 たとえ身は 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらむ <a href="http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-9.html" target="_self">西郷隆永(仮名 吉之助)(父名 隆盛)</a> 敬天愛人(天を敬い、人を愛する) 人を相手にせず、天を相手にせよ、 己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。 人間がその知恵を働かせるという事は、国家や社会のためである。 だがそこには人間としての「道」がなければならない。 電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういう事は、確かに耳目を驚かせる。 しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、徒に開発のための開発に追い込まわされる事になる。 まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具に至るまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。 それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。 人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる。 命も要らず名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。 己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ。 小人は、己を利する事を欲し、君子は、民を利する事を欲する。 天は人も我も同一に愛し給ふゆえ 我を愛する心をもって人を愛するなり。 幾度か辛酸を経て、志、初めて堅し。丈夫は、玉砕に及んで、瓦全を愧じる。 事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず。 我が家の遺法、人知るや否や、 児孫のために美田を買はず。 急速は事を破り、寧耐は事を成す。 大事に望みては、機会は是非、引き起こさざるべからず。 およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。 事に当たり、思慮の乏しきを憂うる事勿れ。 正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論(へきろん)である。 功立ち名顕るるに従い、いつしか自らを愛する心起こり、恐懼戒慎の意、緩み、驕矜の気、しばらく長じ、その成し得たる事業をたのみ、賤しくも我が事をし遂げんと拙き仕事に陥り、終に敗るるものにて、みな自ら招くなり。 ゆえに己に勝ちて、見ず聞かざるところに戒慎するものなり。 過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それで良い。 その事をさっぱり思い捨てて、すぐ一歩前進する事だ。 過去の過ちを悔しく思い、あれこれと取りつくろおと心配するのは、たとえば茶碗を割ってそのかけらを集めてみるのと同様何の役にも立たぬ事である。 道は決して多端なものでない。まことに簡単なものである。ただ白と黒の区別があるだけである。 心慮りて白と思えば決然として行う。しばらくも猶予すべからず。心慮りて黒と思えば断然これを行わない事である。 道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。 功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ。 (税制は)上を損じて下を虐(しい)たげぬもの也。 租税を薄くして、民を裕(ゆたか)にするは、即ち国力を養成する也。 徳に勤むる者は、これを求めずして、財自(おのず)から生ず 万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒(いまし)め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。 然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業はは遂げられ間敷也。 天の道を行う者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕らない。 世上の毀誉軽きこと塵に似たり。 思い切ってやりなさい。責任は私がとる。 このへんでよか 番外 聖徳太子 和を以て貴しと為す。上和らぎて下睦ぶ。 悪を懲らしめて善を勧めるのは、古くからの良い仕来たりである。 そこで人の善行は隠す事なく広め、悪行を見たら必ず正しなさい。 諂い欺く者は、国家を覆す効果ある武器であり、人民を滅ぼす鋭い剣である。 また媚び諂う者は、上役の者に好んで下の者の過失を言いつけ、下役の者と会うと上の者の過失を誹謗するものだ。 これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳も持っていない。 これは国家の大きな乱れの元となる。 真心は人の道の根本である。 何事にも真心がなければいけない。 真心があるならば、何事も達成出来るだろう。 群臣に真心がないなら、どんな事もみな失敗するだろう。 政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本に持ちなさい。 人民を治める基本は、必ず礼にある。 上が礼法にかなっていないときは下の秩序は乱れ、下の者が礼法にかなわなければ、必ず罪を犯す者が出る。 群臣たちに礼法が保たれているときは社会の秩序も乱れず、庶民たちに礼があれば国全体として自然に治まるものだ。 物事はひとりで判断してはいけない。 必ずみんなで論議して判断しなさい。些細なことは、必ずしもみんなで論議しなくてもよい。 ただ重大な事柄を論議するときは、判断を誤ることもあるかもしれない。 そのときみんなで検討すれば、道理に適う結論が得られるだろう。 和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。 人は徒党を組みたがり、悟りきった人格者は少ない。 それだから、君主や父親の言うことに従わなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。 しかし、上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、自然とものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。 世の中には、生まれながらに全てを知り尽くしている人は稀で、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。 事柄の大小に拘らず、適任の人を得られれば必ず治まる。 時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かに伸びやかな世の中になる。 これによって国家は長く命脈を保ち、危うくならない。 だから、古の聖王は官職に適した人を求めるが、人の為に官職を設けたりはしなかった。 人にはそれぞれの任務がある。 それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を濫用してはならない。 賢明な人物が任にあるときは褒める声がおこる。 邪な者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。 功績・過失をよく見て、それに見合う賞罰を必ず行いなさい。 近頃の褒賞は必ずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。 指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確に行うべきである。 嫉妬の気持ちを持ってはならない。 自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。 嫉妬の憂いは果てしない。 だから、自分より英知が優れている人が居ると喜ばず、才能が勝って居ると思えば嫉妬する。 それでは500年経っても賢者に会う事は出来ず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待する事すら困難である。 聖人・賢者と言われる優れた人材がなくては国を治める事は出来ない。 心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、他の人が自分と異なった事をしても怒ってはならない。 人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。 相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。 自分はかならず聖人で、相手が必ず愚かだと言う訳ではない。 皆ともに凡人なのだ。 目の前に倒れている人間を放っておくような男に、国は救えない。 この世は虚仮であり、ただ仏のみが真実である。 <a href="http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/yositune.htm" target="_self">源 義経(幼名 牛若、遮那王)(改名 義經、義行、義顕)(別名 九郎、判官、廷尉、豫州)</a> 迅速こそ、勝利である。 千丈の崖も己の心の持ち様一つ 道なくば岩をよじ、山を貫いてゆくまでよ。 鹿も四つ足、馬も四つ足、者ども続け 必勝の戦法は敵を包囲するにあり、そのためにはいかに兵力僅少でも、二手に分けなければならぬ。 勝つという事は味方に勝つ事である。 味方に勝つというのは我に勝つ事だ。 我に勝つというのは、気をもって体に勝つ事である。 人よりも百倍臆病であるとすれば、百倍勇気を奮い立たせればいいではないか。 後の世も また後の世も廻り会へ 染む紫の雲の上まで <a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0" target="_self">田中正造</a> 真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず村を破らず 人を殺さざるべし 人間は終局を思う様な事では仕事は出来ん。 「道は俺が開いてやる。開けるだけ開いてやる。後の始末はしてくれよ」という考えでなければ、何事も出来ないよ。 民を殺すは、国家を殺すなり、 法をないがしろにするは自ら国をこぼつなり、 財用をみだり民を殺し、法を乱して、しかして亡びざる国なし、 これを如何。 潰れても、また滅びぬと思う迄に、目なき耳なき、国の成り果て。 武田双雲 僕たちが当たり前に過ごしている日常が、既に凄いんです。 洋服を普通に選べる、食料が無くならない、水道が使える、電車が時間通りに来る。 これ全部、前の世代の人間の、汗と涙の結晶な訳ですよね。 そう考えたら、 世の中につまらない場所なんてない。 そんな凄い世界に生きている事の有り難さがわかったら、前の世代に恩返しをしたくなる。 次の世代に、もっといいものを残したくなる。 どんな場所に居たって、エネルギーがどんどん湧いてくるじゃないですか。 自信があるからやるんじゃない。 やるから自信がつくんだ。 自分に合った伸ばし方さえ見つかれば、必ず伸びます。 だから、色々な伸ばし方を、 失敗してもいいから試してみてください。 どう伸ばしていくかを、常に考えてください。 皆が羨むような環境で働いているのに、すごく不満を持っている人がいる。 文句を言う人はみんな一緒なんです。 仕事がつまらない、給料が低い、上司が嫌だ。 でも中には、給料の少ない中小企業であっても、 「最高の会社だよ」と目をキラキラさせる人もいた。 工場で泥だらけになりながら、夢をもって働いている人がいた。 それでわかったんです。 自分のとらえ方次第で、感情はいくらでも変える事が出来るんだって。 人は、思い描いた通りの人生しか生きられません。 人間の差はビジョンの差です。 もって生まれた才能や環境、経験、どこの国に生まれたか、 そんなものは小さすぎて誤差にもならない。 でも、ビジョンの差は無限です。 武道館を満員にするのが夢の音楽家は、実現したらそこで終わり。 でも、歴史を変えてやるとまで強く願った音楽家は、 武道館を満員にしたぐらいじゃ満足しないはず。 何を目指して生きているか、それだけが生き方を決めるんです。 何か楽しいことをするから楽しくなるんだと思ってしまう人、多いけど、 でも、それは大きな勘違いなんです。 楽しさは自分の中にある。 だから、最初から楽しい気持ちで仕事をする。 お茶を飲むにも、美味しいお茶かどうかなんて関係ない。 美味しそうに飲めば、美味しいんです。 幸せになりたかったら、幸せだなと思いながら生きていればいい。 性格も実力も経験も関係なし。しかもタダ。 幸せになるって、実は簡単なことなんですよ。 人間には、突然火がついてしまうことがあります。 手が器用だとか、友達がたくさんいるとか、 そういう何の意味も無い様に思えた事が、 ある日いきなり、宝物の様に輝き出す。 僕の場合は、それが書道だった。 何もない平和な日が、 かけがえのない一日だと常に思える人でありたい。 他人と比較しない人は強い。 他人と比較しても明るくいられる人は、もっと強い。 独りで生き抜く覚悟があってこそ、 真のコラボレーションが実現するんだ。 迷ったら、よりかっこいいと思えるほうを選ぶ。 そしてかっこいいと思える心構えで臨む。 考えすぎてわけがわからなくなったら、 とりあえず、目の前の人を喜ばせることに専念するようにする。 僕は、何を見ても感動できる「感動めがね」をかけているんです。 だって、そのへんにあるガードレールを見ても感動できるんですから。 「すげえな、事故で命を落とさないようにって言ってる」。 コンビニなんて行ったら、もっとたいへんです。 自動ドアが、速すぎず遅すぎず、かつストレスのない距離のところで開く。 お店に入れば、靴についた土をなにげなく落としてくれるマットがおいてある。 「おい誰だこれつくった奴!」みたいな。 もう、めくるめく感動。 「どうしよう」と慌てるのではなく、 「さて、どうしようか」とニヤリとするくらいがいい。 菅原文太 政治の役割は2つあります。1つは、飢えさせない事。安全な食べ物を食べさせる事。 もう1つは…これが最も大事です。絶対に戦争をしない事。 頑張って、震災前と同じ日本が復活してはダメだ。国の根幹を揺さぶって、今までの価値観と生き方を変えないと真の復興はありえない。 国はカネがない、増税しかないと言うけど、日本人が汗水流して稼いだカネはどこへ消えたんですか、と。 何兆円と稼いだカネが雲散霧消したのなら、この国にはどんなハイエナやハゲタカが群がっているんだ。 狙われる者より、狙う者の方が強いんじゃ、そがな考えしとったら、隙ができるど。 草莽の士たちよ、地底から声を上げてくれ。異端と呼ばれ、追放された者たちも、国の中枢に戻ってくれ。時代の流れに合わず、窓際に追いやられた人たちも立ち上がってくれ。変わり者だと言われ、はじかれた落第生たちよ。今こそ君の出番だ。 弾はもう一発、残っとるがよ。 前向いても崖、後向いても崖やで。あんじょう性根を入れて歩くこっちゃな。
知らん仏より、知ってる鬼の方がましじゃけんのう。 この辺で男にならんと、もう舞台は回ってこんぞ。 死んだもんに済まんけえのお。 格好つけにゃあ、ならんですけん。 |
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